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1巻

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   第一章 行き遅れ巫女、駐屯地で兵をいや


「おい、隊長だ。また行き遅れ巫女のとこに行くつもりなんじゃないのか?」
「もっと若くてかわいい巫女のとこに行けばいいのに……隊長ならどの巫女選んだって誰も文句言えないだろう」
「そうだよなぁ。髪をひっつめて、大きな眼鏡と大きなマスクで顔を隠した口うるさい行き遅れ巫女を、わざわざ選んでいやしてもらいに行かなくても……」
「同情してるんじゃねぇ? モテない、彼氏もできない、結婚できずに年だけ食っちゃってさ」

 君たち、聞こえてますよ。
 私の名前はハナです。ハナという名前の巫女。
 行き遅れなんて名前になった記憶はないんだけどな。
 確か、入隊三年目のぴーちくトリオですよね。大した怪我でもないのに、いっつもユーナんとこにいやしてもらいに行ってるの、知ってますよ。
 まったく。怪我や病気をいやすのが巫女の仕事とはいえ、若くてかわいい巫女も大変だ。無駄に力を使わされて。
 ここはキノ王国の最南端。戦争の最前線の駐屯地だ。
 ……まぁ、戦争といっても、隣のミーサウ王国とはほぼ睨み合ってるだけの状態で何年も経つ。だから、私たち下級巫女が配属されているテントにやって来るのは、戦争で傷ついた兵というわけではない。訓練の怪我や病気、森のけものや山賊による傷もいやしている。
 そんな巫女の能力は、誰もが持っているものではなく、生まれつきのものだ。
 国民のすべての少女たちは、十歳になると神殿でいやしの力があるかどうかの検査をする。能力があれば、その魔力の大きさによって巫女としての立場が決まるのだ。
 下級巫女、中級巫女、上級巫女、そして聖女だ。
 下級巫女は、一番いやしの能力の低い者。かすり傷程度しかいやせない。
 下級巫女よりも能力が高い者が中級巫女と呼ばれる。命に係わるような大病や大怪我を完治させることは難しいが、命をつなぎとめることはできる。
 その上が上級巫女で、数はぐっと少なくなる。
 そして、すべての巫女たちの頂点。一番魔力が大きく、一番いやしの力が強い者は聖女と呼ばれる。どんな病気や怪我もいやせるという話だ。
 私は、一番力の弱い下級巫女。
 十歳で見習い巫女となり、十五歳で巫女としてここに配属されて八年。二十三歳になる。
 ……もうすぐ二十四歳。
 確かに、二十歳までには結婚して駐屯地を去る巫女がほとんどだから、行き遅れと言われても仕方がないといえば仕方がないんだけど。
 だけどね、大きな眼鏡と大きなマスクにひっつめ髪は、衛生的にも治療に一番向いてるんだよ。治療に適した服装をしているという点で、褒められるならともかく、けなされるのは納得しかねますよ。
 まったく。分かってないんだから。

「おいお前ら、隊長はハナ巫女が優秀だから彼女のところへ行ってるんだろ」

 おや?
 誰かが私のことを擁護ようごしてくれているようですよ?
 長めの黒髪を後ろで結んでいる若い兵。
 ああ、あれはマーティーだ。
 マーティーは入隊四年目だっけ。
 ふんふん、巫女をちゃんと見た目だけじゃなくて能力でも評価してくれるなんていい子だな。


「ハナ、すまないが、ちょっと足首をねんざしたみたいなんだ。いやしてくれ」

 駐屯地の中を歩いていると、大柄で粗野という言葉が似合う男に呼び止められる。
 ぴーちくトリオの予言通り、隊長が来ました。
 ただ切っただけという短い茶色の髪の毛。ひげはところどころり残しがある。制服もきちんと身に着けているのを見たことがない。上半身は半袖の生成きなりのシャツか、その上に前のボタンを留めることなく青い上着を羽織るだけ。
 顔の造りはくっきりはっきりしていて、ちゃんとすればイケメンなのに……というのが皆の共通認識のようだ。

「足首をねんざしたと言いましたか?」

 眼鏡の奥からガルン隊長を睨みつける。

「私、何度も言いましたよね? いくらいやしですぐに痛みが引くからって、無理はするなと。ちゃんと時間をかけて治さないと癖になりますよって……」

 低い声が思わず出る。

「いやー、ははは。うっかり、そう、うっかりこの間ねんざしたの忘れて、おんなじ足でちょいっと着地を決めたら……」
「うっかり? 忘れて? ちょいっと?」

 何度も言ったのに。
 私の言葉、まるっきり右耳から左耳に流してるってこと? まったく、本当に、この人は……

「あ、いや、その……」

 身長差三十センチ。上からがっつり見下ろされてるし、体格も三倍くらい差がある。だけど私が睨みつける……いや、睨み上げると、隊長はじりじりと後ずさった。

「部下が教えを忘れ、指示を聞かず、命令をたがえたらどうしますか、隊長」

 私がそう言うと、隊長はさらに後ろに一歩下がる。

「ここに駐屯している兵たちの総隊長……一番の上司は確かにガルン隊長かもしれませんけど、怪我や病気や体調管理に関しては、治療を行う私たち巫女がいわば上司のようなものだと思ってもらわないと。違いますか?」

 そうなのだ。この身なりもどこか粗野でだらしない感じのする男は、こう見えても王都から兵をまとめるために派遣されている騎士様だったりするのだ。
 しかし、騎士様と言えば花形職業なのに、なんで王都から遠く離れた隣国との国境――戦争の最前線の駐屯地に派遣されたんでしょう。断ることもできる立場だと思うんだけれど。
 我が国キノ王国と、隣国ミーサウ王国は、お互い睨み合うだけで実際は戦闘になるようなことなんて、ここ十年はない。もういっそ、戦争終結宣言して仲良くすればいいのにってくらい、平和と言えば平和。
 ここは、近くの森の熊やいのしし、時々山賊を退治する程度の、最前線という名の田舎いなか。ガルン隊長には騎士よりも似合っているというか、騎士が似合わなすぎてここに追いやられ……。まさかね。

「いや、ハナの言う通りで、面目めんぼくない」
「まったく、隊長ももう三十歳ですよね? いい加減落ち着いていろいろ部下に任せればいいんですよっ! あ、そうだ! 結婚したらちょっとは落ち着くんじゃないですか?」

 おっと、しまった。

「結婚……と言えば、ハナ、誰か紹介しようか?」

 隊長が、ふと思いついたように口を開く。
 あー、やっぱり。自分に跳ね返ってきたよ。

「ハナのようなベテラン巫女が抜けるのは痛いが、だが、その、そろそろ引き留めてもいいような歳でもないから」

 まぁ、こうして一人一人の心配をしてなんとかしてあげようという面倒見の良さが、ガルン隊長のいいところだったりするわけだけど。私のことはほっといてほしい。

「ガルン隊長、私の噂、聞いたことないですか?」
「噂って、アレ、マジなのか?」

 ガルン隊長が唖然としている間に、さっさとねんざした足首にいやしをほどこす。

「はい。いやしました。これが最後ですからね? もし同じ場所をねんざしても、次は包帯でぐるぐる巻きにしていやしませんからっ! じゃあ、私、仕事があるんで失礼します!」

 噂は聞いたことがあるんですね。だったら、なおさらほっといてくれたらいいのに。
 さぁ、仕事仕事。ガルン隊長に背を向けて、持ち場であるテントへと足を向けた。


 巫女は五つの治療テントに分かれ、二交代制で働いている。
 今の私の担当は第一治療テントだ。

「どうしよう、どうしよう……」

 第二治療テントの裏側で、一人の少女がしゃがみ込んで頭を抱えている。

「あら、ユーナどうしたの?」
「ハナ先輩……わ、私……」

 涙でぐしゃぐしゃになったユーナの顔。青ざめてひどく憔悴しょうすいしている。けれど、ここで働き始めた十五歳の時と比べてとても綺麗になった。ユーナは十八歳になったところだろうか。
 ああ、知ってる。これだけ綺麗になった子たちを、私は何度も見てきたから。

「恋をしたのね。好きな人と、思いが通じ合ったのでしょう?」

 しゃがんで目線を合わせて尋ねると、ユーナがこくりと頷いた。
 そっと、安心させるようにユーナの肩に手を置く。

「駄目だって、分かってたんです、でも、どうしても、彼と……気持ちが抑えられなくて……」

 巫女の能力は好きな人と思いが通じるとなくなってしまう。具体的に言えば、キスやその先のことを経験すると――ということらしい。

「大丈夫よ。巫女が恋をして結婚して子供を生むのは、祝福されることなのだもの。だって、巫女の生む子には優秀な巫女が多いからね。それは知っているわよね?」

 ユーナが頷く。
 そう。かつての聖女はみな、元巫女から生まれた子たちだ。だから巫女は能力を失うことを前提に恋愛も結婚も許されていて、歓迎されている。

「だけれど、巫女を辞めることはもう少し前に報告するべきだったわね。代わりの巫女が配属されるまで、担当していた第二治療テントの怪我人への、いやしによる治療が中断してしまうのよ?」

 とは言ったものの、恋する男女は時として理性を失うものだと知っているし、下級巫女でいやせる怪我や病気なんてほうっておいても治る程度なのだ。国としても、こういうことがあるのは暗黙の了解なんだろう。
 そもそも、戦争の最前線に下級巫女を配属する理由は、集団見合いみたいなものなんだから。
 農家の嫁にするより、国のために戦う兵の嫁に巫女を……ってね。
 下級巫女は、兵たちが詰める駐屯地や訓練場などが主な職場。給料は人が一か月生活するのにギリギリな額だけれど、駐屯地ならば衣食住にまったくお金がかからないため貯金に回せる。仕送りしている子も多い。
 まぁ、少女たちも、〝あわよくば騎士様のお目に留まってたま輿こし〟を夢見て戦地に来るわけで。兵たちの傷をいやすために! なんて真面目に思っている子は少ない。
 ユーナは真面目に考えているほうだったけど、でも、恋、しちゃったんだもんね。
 こうして能力が消えてこれだけ涙を流すんだから。兵たちをいやせないことを悩んでるんだから。やっぱり、真面目だよね。

「大丈夫よ。代わりの巫女が配属されるまでは、私が第二テントの兵たちもいやすから」
「え? でも、ハナ先輩は第一テントの担当で……患者は十人いるんですよね? 魔力がとても足りないんじゃ……」

 まぁ、普通の下級巫女ならばそうでしょうね。だけど、私の場合……

「任せて。これでも巫女歴八年。行き遅れ巫女ですからね?」

 ふふっと自嘲気味に笑ってみる。
 私はもう二十三歳だが、ほとんどの巫女は、十五歳で国に仕え、二十歳までに引退していく。理由の多くは、能力を失うから。つまり、恋をして結婚をして引退する。二十歳を過ぎても巫女として働いていれば、行き遅れと揶揄やゆされても仕方がないのだ。
 巫女の力は使えば使うほど、少しずつ上がっていく。まぁ、それは微々たるものなのだが、八年も毎日休まずほぼ限界まで……時にはぶっ倒れるまで使うとかなり能力は向上する。
 正直、最近では骨折も一回のいやしで治せていると思う。……まぁ、本当に骨折しているのか、ただの打撲なのかは分からないんだけれど。

「あの、ハナ先輩は、ここを辞めないんですか? 好きな人がいなくても、その、なんであんな風に言われても続けるんですか?」

 本当の理由……。それを話したこともあったけれど……。二十歳を過ぎてからは、適当な理由を話している。

「あら、噂を知らない? 私は氷の将軍が好きなの。彼以外の人と結婚したくないのよ?」

 これが一番説得力のある……というか、質問者のその先の言葉を封じるには便利な理由なので、最近はもっぱらこう返している。

「あの噂は本当なんですか? 氷の将軍って、年に二度ほどしかここに来ないのに……。そりゃ、思いが通じれば、相手は公爵家の跡取りで、現役の将軍だから、たま輿こしですよ。年齢は二十八歳なのにまだ独身。貴族のご令嬢や王女様までが彼のハートを射止めようとアプローチしているけれど、すげなく断り続けることから、氷の将軍なんて呼ばれている、あの方を? 年に二度とはいえ、私たち巫女にはお顔を拝見するチャンスがありますし、庶民よりは近づけることもあるかもしれませんが……でも、あの、その……」

 ああ、嘘の理由なんだけど、ユーナは真剣に考え始めた。
 他の人のように、馬鹿な女だなんて頭から否定しようとしない。馬鹿にはしないけれど、ユーナは必死に私を止めようとしているんだろうな。そりゃ、現実的に考えたらそんな夢を見て婚期を逃すよりも、もっと現実を見て身の丈に合った男性と幸せになればいいのにって思うよ。そのほうが絶対幸せだろうって。
 だから、ユーナは私の幸せを考えて言葉を探しているんだよね。

「うん。さすがにね、もう二十三歳だからね。今度、氷の将軍がいらっしゃった時に一言も会話ができなかったら、あきらめようと思っているのよ」

 そして、戦地で下級巫女としての活動は引退するつもり。
 八年間の給料はほとんど手つかずで貯めてある。引退したら、しばらくゆっくりしようかな。その後、神殿で能力を測ってもらって、中級レベルに達していれば神殿に仕えようと思う。神殿巫女は、神に嫁ぐと言われてるから、結婚しなくても誰も何も言わないしね。
 ……そう、私は、一生誰とも結婚するつもりはない。
 あ、ちなみに上級巫女は王都で貴族連中相手の治療院に所属して、貴族と婚姻を結ぶことが多い。聖女が生まれると家の格が上がるので、聖女を生む可能性の高い上級巫女は人気があるらしい。
 聖女はお城住まい。主に、王族の治療にあたる。
 せっかく、高いいやしの能力があるのに、王族の治療しかできないなんて……
 私が、巫女であり続けたい理由。
 いやしの能力を失いたくない。この能力があれば、もうあんな思いをしなくて済むはずだから……

「あの、ハナ先輩っ」

 いつの間にかユーナの涙は止まっていた。少し目が赤いのは泣いたせいだろう。

「来てくださいっ」

 手首をがしっとつかまれて、巫女テントに連れて行かれる。
 この戦地に配属されている巫女は二十人いるのだけど、それぞれ五つのテントに分かれて生活している。

「私、もうここにはいられないし、荷物を持っていくのも大変なので、ハナ先輩に差し上げますっ!」

 と、ユーナが荷物箱からワンピースを取り出して私の胸に押し当てた。
 とても戦場には似つかわしくない、春の光を思わせる柔らかな黄色いワンピース。

「サイズ、合うと思うので着てみてください」
「え? いや、あの、サイズが合っても、私にこんな綺麗な色のワンピースは……」

 もう、私二十三歳だよ。行き遅れのおばさんなんだよ?

「先輩っ!」

 ユーナが怖い。
 私は言われるままワンピースに袖を通す。……胸元が、少し布が余ります。丈は問題ないかな。
 鏡を見ると、ダサいおばさんが頑張って若作りした滑稽こっけいな姿が映っている。

「座ってください!」

 ユーナの気迫に押され、私は鏡の前の椅子に座る。

「ハナ先輩はいつも髪の毛を一つに結んでお団子にしてますが、このワンピースの色にも負けない綺麗な金髪をしているんです。下ろさないと損です」

 ……髪を下ろしていても治療の邪魔になるので。
 という私の言葉は見透かされていたのか、サイドの髪をみつあみにして背中に回し、後ろの髪が前に落ちてこないようにセットしてくれた。

「この大きな眼鏡も、必要ない時は外せばいいんですよ。先輩の瞳は、朝のうっすら紫がかった空の色みたいでとても綺麗です。それにまつげも長くて大きな瞳」

 眼鏡は、何も視力を正すためではない。治療中に血や汗が目に入らないようにガードするためのもので、巫女に支給されるものだ。……眼鏡をかけていると、目がかゆくなることが少なくなって気に入っているんだけどな。

「それに、まるで貴族のように白い肌。マスクで隠しているなんてもったいないです」

 八年間もほぼテントの中で治療していて、ほとんど日に焼けていないからだ。病人のようで気持ちが悪い白さだと思う。それを隠すためにマスクをしていると言っても過言ではない。
 健康的な肌色がうらやましい。
 あ、もちろん病気がうつらないようにというのが、本来のマスクをする目的だ。
 ちなみに、うっかり誰かとキスをして巫女の能力を失わないようにという理由もあるんだけど、そもそもキスだけでは能力はなくならないという説もある。そのあたり、はっきり誰かに聞いたことがないのでよく分からない。

「ほら、ほおに少し紅を入れるだけで、とても綺麗です」

 ああ、確かに。
 ユーナがちょっと化粧をしてくれただけで、白すぎる肌も血色がよいように見える。

「この姿を見たら、ハナ先輩を行き遅れ巫女なんて言う人はいなくなると思うんです。先輩、これも、これも差し上げますから、次に氷の将軍が来る時は、絶対、ちゃんとした格好をしてくださいねっ! 約束ですよっ!」

 ユーナが、私の手に、今使った化粧道具を押し付ける。
 それからワンピースに合った黄色のリボンを髪に結んでくれた。

「ありがとう」

 氷の将軍の話は嘘だけど、ユーナの気持ちはとても嬉しくて、素直にお礼の言葉が口に出た。
 あ、そうだ。お礼に、私もなにか渡そう。
 ユーナのテントを出て、自分のテントにもらった荷物を置きに向かう。
 すると、テントを出て少し歩いたところで、一人の兵から声がかかった。

「ど、どちらに行かれるのですか? 私がご案内いたしますよ?」

 私より頭一つ分背の高い細い兵だ。細いと言っても、無駄な筋肉がついていないだけで、鍛えられた体をしている。兵にしては珍しく髪が長めで、肩に届く髪を後ろで結んでいた。目にかかりそうな黒い前髪の奥からは、切れ長の黒い瞳が見えている。
 槍使いのマーティーだ。先ほど私を擁護ようごしてくれた若い兵。

「マーティー、もう手の豆の傷は大丈夫?」

 槍の訓練を熱心に行うあまり、何度も何度も豆がつぶれて、時には化膿してひどいことになっていた。いやしで傷をふさいでもすぐにまた豆をつぶすのだ。
 訓練を繰り返すうちに、手の皮が厚くなればそんなこともなくなる。『僕はまだ未熟なのです』と言っていた姿を思い出す。あれはもう四年も前のことになるだろうか? えーっと、今は十九歳かな? 二十歳になったのかな?

「は? 手の豆? は、はい」

 マーティーが手のひらをこちらに見せてくれた。

「ああ、本当に、立派になったね」

 私はマーティーの手を取り、かつてジュクジュクだった手の豆の場所をそっと指の先で撫でる。
 硬い。硬くて分厚い皮がしっかりとした手。

「あ、あの、ぼ、僕、なんで、名前を、あっと、えーっと、あ、あなたはその」

 マーティーの手を離して、顔を見る。
 おや? 焦ったような戸惑いを含んだ表情をしている。
 ああ、四年も前の未熟だったころのことを言われても困りますよね。

「頑張ってね」

 私はぺこりと小さくお辞儀をしてテントに向かった。
 もらった化粧道具などを置くと、もう一度テントを出て、森の中へ入る。
 前線基地となっている場所の前方が敵地。
 右側には切り立った崖がそびえたち、左側には湖が広がる。背後は森。森と言っても、王都にまで通じる道が整備されているので、入ったからといって迷うことはない。
 道を三十分ほど進み、獣道けものみちに入る。
 確か、この先に綺麗な花が咲き乱れる場所があったはず。
 お礼と、恋が成就じょうじゅしたお祝いに、ユーナに花束を贈ろう。
 以前、かすかな風が花の匂いを乗せてきたので、見つけた場所だ。そろそろ花の香りが――

「え? この臭い……」

 どういうこと? これは、花の匂いじゃない。
 慌てて周りを確認する。
 この臭いは、血だ。戦場で、治療テントで働く私が間違えるわけがない。
 いったい、どこから? なぜ、この場所で血の臭いが?
 戦場は駐屯地からさらに五キロほど離れた場所だ。戦争とはいえ、敵国と兵たちが睨み合っているだけの状態でほぼ十年。
 だからこそ、巫女と兵の見合いなんてのんきな話も出ているわけで。
 怪我人が絶えないのは、訓練と、森に現れる狼などの危険な動物の駆除、盗賊などの討伐、それから時々現れる敵側のスパイとの戦闘が主な理由だ。
 こんなところで血の臭いというと……狼? 盗賊?
 と、とにかく逃げないと! 物音を立てないようにきびすを返した瞬間、小さな音が聞こえてきた。
 音のしたほうを確認すると、木々の間から馬の姿が見えた。
 花々が色とりどりに咲き乱れるその先の木々の間に、馬の姿。馬は臆病な動物だ。狼などの危険なけものがいれば逃げ出しているはず。
 ひとまず危険なけものがいるわけじゃないと分かって、ほっと胸を撫でおろす。
 でも、なぜこんな森の中に馬が? 馬の休憩のため水場を求めるような場所でもない。馬にはちゃんとくらが付けられているのが見える。野生の馬というわけでもなさそうだ。
 ……馬に、乗っていた人はどこ? じりりと手に汗が浮かぶ。馬だけなんていうことがあるはずがない。そして、血の臭い……
 あたりを用心深く探るけれど、人の姿は見当たらない。馬に視線を戻すと、何かしきりに足元を気にしているように見える。
 もしかしたら、乗っていた人が落馬して怪我でもしたのかもしれない。
 急いで馬のもとへと向かう。

「血……っ!」

 馬は私の姿に気が付くと、小さくいななき、心配そうに足元に倒れている人物に鼻先を寄せた。

「あああ……」

 すごい血だ。
 黄色い花の上に、鮮血がしずくとなって散っている。
 その中心には、男の人がうつぶせで倒れていた。周りの地面は血を吸って、土の色が赤褐色に染まっている。
 生きている?
 近づけば、背に大きな切り傷。剣で切られたであろう傷だ。
 治療テントに運ばれてくる怪我人たちに、こんなひどい怪我をした人はいなかった。

「私には無理かもしれない……完全にいやすには上級巫女でないと……ううん、出血を止めるだけでも中級巫女の力が必要だわ」

 人を呼ぼう。いや、呼びに行っても、テントには下級巫女しかいない。中級巫女が来るまでに、この傷じゃ……

「大丈夫ですか?」

 すくむ足。
 目の前で人が死ぬかもしれない。
 もう、嫌だ! 幼いころの思い出が脳裏をかすめる。
 あの日、突然、生まれ育った村をやまいが襲った。
 次々に死んでいく人たち。なすすべもなく、ただ、命が尽きていく人たちを見送ったあの時……人々があっという間に、倒れていった。巫女のいない村。巫女に助けを求める、そんな時間もなく……次々と息を引き取っていく村人たち。冷たくなっていく……。助けを求めに行くと出立の準備をしていた父も、村人を看病していた母も、母が看病していた隣の家のおばさんもおじさんも、仲が良かった幼馴染おさななじみの子も……。あの、人の冷たさは忘れられない。
 ぎゅっとこぶしを握り締める。
 違う、今の私は幼い子供じゃない。何もできなかった子供じゃない。
 私は巫女だ。いやしの力のある巫女。
 倒れている男の人に再度声をかけても返事はない。
 そっと男の人の鼻の下に指を持っていく。……呼吸は、ある。まだ、生きてる。

「止まれ……」

 私の力ではどこまでいやせるのか分からない。だけれど、せめて血を止めることができれば……
 巫女の力が上がっているという自覚はある。もしかしたら中級巫女レベルになったかもしれないと思ったのは私じゃないか。
 バクバクと高鳴る心臓。落ち着こう。
 手を傷の上にかざし、目をつむる。集中するんだ。体の中をめぐる魔力。ああ、温かくなってきた。神様、どうか、いやしの力としてこの魔力を彼に……!


「【いやし】」

 頭の中がふわりと浮くような感じ。
 何、これ、初めての感じだ。ああ、貧血のようなこの感じ……。神様、私の血が彼のいやしになるなら……
 お願い、血よ止まれ。傷口よふさがれ。
 死なないで! 生きて!


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