4 / 40
1巻
1-1
しおりを挟む第一章 行き遅れ巫女、駐屯地で兵を癒す
「おい、隊長だ。また行き遅れ巫女のとこに行くつもりなんじゃないのか?」
「もっと若くてかわいい巫女のとこに行けばいいのに……隊長ならどの巫女選んだって誰も文句言えないだろう」
「そうだよなぁ。髪をひっつめて、大きな眼鏡と大きなマスクで顔を隠した口うるさい行き遅れ巫女を、わざわざ選んで癒してもらいに行かなくても……」
「同情してるんじゃねぇ? モテない、彼氏もできない、結婚できずに年だけ食っちゃってさ」
君たち、聞こえてますよ。
私の名前はハナです。ハナという名前の巫女。
行き遅れなんて名前になった記憶はないんだけどな。
確か、入隊三年目のぴーちくトリオですよね。大した怪我でもないのに、いっつもユーナんとこに癒してもらいに行ってるの、知ってますよ。
まったく。怪我や病気を癒すのが巫女の仕事とはいえ、若くてかわいい巫女も大変だ。無駄に力を使わされて。
ここはキノ王国の最南端。戦争の最前線の駐屯地だ。
……まぁ、戦争といっても、隣のミーサウ王国とはほぼ睨み合ってるだけの状態で何年も経つ。だから、私たち下級巫女が配属されているテントにやって来るのは、戦争で傷ついた兵というわけではない。訓練の怪我や病気、森の獣や山賊による傷も癒している。
そんな巫女の能力は、誰もが持っているものではなく、生まれつきのものだ。
国民のすべての少女たちは、十歳になると神殿で癒しの力があるかどうかの検査をする。能力があれば、その魔力の大きさによって巫女としての立場が決まるのだ。
下級巫女、中級巫女、上級巫女、そして聖女だ。
下級巫女は、一番癒しの能力の低い者。かすり傷程度しか癒せない。
下級巫女よりも能力が高い者が中級巫女と呼ばれる。命に係わるような大病や大怪我を完治させることは難しいが、命をつなぎとめることはできる。
その上が上級巫女で、数はぐっと少なくなる。
そして、すべての巫女たちの頂点。一番魔力が大きく、一番癒しの力が強い者は聖女と呼ばれる。どんな病気や怪我も癒せるという話だ。
私は、一番力の弱い下級巫女。
十歳で見習い巫女となり、十五歳で巫女としてここに配属されて八年。二十三歳になる。
……もうすぐ二十四歳。
確かに、二十歳までには結婚して駐屯地を去る巫女がほとんどだから、行き遅れと言われても仕方がないといえば仕方がないんだけど。
だけどね、大きな眼鏡と大きなマスクにひっつめ髪は、衛生的にも治療に一番向いてるんだよ。治療に適した服装をしているという点で、褒められるならともかく、けなされるのは納得しかねますよ。
まったく。分かってないんだから。
「おいお前ら、隊長はハナ巫女が優秀だから彼女のところへ行ってるんだろ」
おや?
誰かが私のことを擁護してくれているようですよ?
長めの黒髪を後ろで結んでいる若い兵。
ああ、あれはマーティーだ。
マーティーは入隊四年目だっけ。
ふんふん、巫女をちゃんと見た目だけじゃなくて能力でも評価してくれるなんていい子だな。
「ハナ、すまないが、ちょっと足首をねんざしたみたいなんだ。癒してくれ」
駐屯地の中を歩いていると、大柄で粗野という言葉が似合う男に呼び止められる。
ぴーちくトリオの予言通り、隊長が来ました。
ただ切っただけという短い茶色の髪の毛。髭はところどころ剃り残しがある。制服もきちんと身に着けているのを見たことがない。上半身は半袖の生成りのシャツか、その上に前のボタンを留めることなく青い上着を羽織るだけ。
顔の造りはくっきりはっきりしていて、ちゃんとすればイケメンなのに……というのが皆の共通認識のようだ。
「足首をねんざしたと言いましたか?」
眼鏡の奥からガルン隊長を睨みつける。
「私、何度も言いましたよね? いくら癒しですぐに痛みが引くからって、無理はするなと。ちゃんと時間をかけて治さないと癖になりますよって……」
低い声が思わず出る。
「いやー、ははは。うっかり、そう、うっかりこの間ねんざしたの忘れて、おんなじ足でちょいっと着地を決めたら……」
「うっかり? 忘れて? ちょいっと?」
何度も言ったのに。
私の言葉、まるっきり右耳から左耳に流してるってこと? まったく、本当に、この人は……
「あ、いや、その……」
身長差三十センチ。上からがっつり見下ろされてるし、体格も三倍くらい差がある。だけど私が睨みつける……いや、睨み上げると、隊長はじりじりと後ずさった。
「部下が教えを忘れ、指示を聞かず、命令をたがえたらどうしますか、隊長」
私がそう言うと、隊長はさらに後ろに一歩下がる。
「ここに駐屯している兵たちの総隊長……一番の上司は確かにガルン隊長かもしれませんけど、怪我や病気や体調管理に関しては、治療を行う私たち巫女がいわば上司のようなものだと思ってもらわないと。違いますか?」
そうなのだ。この身なりもどこか粗野でだらしない感じのする男は、こう見えても王都から兵をまとめるために派遣されている騎士様だったりするのだ。
しかし、騎士様と言えば花形職業なのに、なんで王都から遠く離れた隣国との国境――戦争の最前線の駐屯地に派遣されたんでしょう。断ることもできる立場だと思うんだけれど。
我が国キノ王国と、隣国ミーサウ王国は、お互い睨み合うだけで実際は戦闘になるようなことなんて、ここ十年はない。もういっそ、戦争終結宣言して仲良くすればいいのにってくらい、平和と言えば平和。
ここは、近くの森の熊や猪、時々山賊を退治する程度の、最前線という名の田舎。ガルン隊長には騎士よりも似合っているというか、騎士が似合わなすぎてここに追いやられ……。まさかね。
「いや、ハナの言う通りで、面目ない」
「まったく、隊長ももう三十歳ですよね? いい加減落ち着いていろいろ部下に任せればいいんですよっ! あ、そうだ! 結婚したらちょっとは落ち着くんじゃないですか?」
おっと、しまった。
「結婚……と言えば、ハナ、誰か紹介しようか?」
隊長が、ふと思いついたように口を開く。
あー、やっぱり。自分に跳ね返ってきたよ。
「ハナのようなベテラン巫女が抜けるのは痛いが、だが、その、そろそろ引き留めてもいいような歳でもないから」
まぁ、こうして一人一人の心配をしてなんとかしてあげようという面倒見の良さが、ガルン隊長のいいところだったりするわけだけど。私のことはほっといてほしい。
「ガルン隊長、私の噂、聞いたことないですか?」
「噂って、アレ、マジなのか?」
ガルン隊長が唖然としている間に、さっさとねんざした足首に癒しを施す。
「はい。癒しました。これが最後ですからね? もし同じ場所をねんざしても、次は包帯でぐるぐる巻きにして癒しませんからっ! じゃあ、私、仕事があるんで失礼します!」
噂は聞いたことがあるんですね。だったら、なおさらほっといてくれたらいいのに。
さぁ、仕事仕事。ガルン隊長に背を向けて、持ち場であるテントへと足を向けた。
巫女は五つの治療テントに分かれ、二交代制で働いている。
今の私の担当は第一治療テントだ。
「どうしよう、どうしよう……」
第二治療テントの裏側で、一人の少女がしゃがみ込んで頭を抱えている。
「あら、ユーナどうしたの?」
「ハナ先輩……わ、私……」
涙でぐしゃぐしゃになったユーナの顔。青ざめてひどく憔悴している。けれど、ここで働き始めた十五歳の時と比べてとても綺麗になった。ユーナは十八歳になったところだろうか。
ああ、知ってる。これだけ綺麗になった子たちを、私は何度も見てきたから。
「恋をしたのね。好きな人と、思いが通じ合ったのでしょう?」
しゃがんで目線を合わせて尋ねると、ユーナがこくりと頷いた。
そっと、安心させるようにユーナの肩に手を置く。
「駄目だって、分かってたんです、でも、どうしても、彼と……気持ちが抑えられなくて……」
巫女の能力は好きな人と思いが通じるとなくなってしまう。具体的に言えば、キスやその先のことを経験すると――ということらしい。
「大丈夫よ。巫女が恋をして結婚して子供を生むのは、祝福されることなのだもの。だって、巫女の生む子には優秀な巫女が多いからね。それは知っているわよね?」
ユーナが頷く。
そう。かつての聖女はみな、元巫女から生まれた子たちだ。だから巫女は能力を失うことを前提に恋愛も結婚も許されていて、歓迎されている。
「だけれど、巫女を辞めることはもう少し前に報告するべきだったわね。代わりの巫女が配属されるまで、担当していた第二治療テントの怪我人への、癒しによる治療が中断してしまうのよ?」
とは言ったものの、恋する男女は時として理性を失うものだと知っているし、下級巫女で癒せる怪我や病気なんてほうっておいても治る程度なのだ。国としても、こういうことがあるのは暗黙の了解なんだろう。
そもそも、戦争の最前線に下級巫女を配属する理由は、集団見合いみたいなものなんだから。
農家の嫁にするより、国のために戦う兵の嫁に巫女を……ってね。
下級巫女は、兵たちが詰める駐屯地や訓練場などが主な職場。給料は人が一か月生活するのにギリギリな額だけれど、駐屯地ならば衣食住にまったくお金がかからないため貯金に回せる。仕送りしている子も多い。
まぁ、少女たちも、〝あわよくば騎士様のお目に留まって玉の輿〟を夢見て戦地に来るわけで。兵たちの傷を癒すために! なんて真面目に思っている子は少ない。
ユーナは真面目に考えているほうだったけど、でも、恋、しちゃったんだもんね。
こうして能力が消えてこれだけ涙を流すんだから。兵たちを癒せないことを悩んでるんだから。やっぱり、真面目だよね。
「大丈夫よ。代わりの巫女が配属されるまでは、私が第二テントの兵たちも癒すから」
「え? でも、ハナ先輩は第一テントの担当で……患者は十人いるんですよね? 魔力がとても足りないんじゃ……」
まぁ、普通の下級巫女ならばそうでしょうね。だけど、私の場合……
「任せて。これでも巫女歴八年。行き遅れ巫女ですからね?」
ふふっと自嘲気味に笑ってみる。
私はもう二十三歳だが、ほとんどの巫女は、十五歳で国に仕え、二十歳までに引退していく。理由の多くは、能力を失うから。つまり、恋をして結婚をして引退する。二十歳を過ぎても巫女として働いていれば、行き遅れと揶揄されても仕方がないのだ。
巫女の力は使えば使うほど、少しずつ上がっていく。まぁ、それは微々たるものなのだが、八年も毎日休まずほぼ限界まで……時にはぶっ倒れるまで使うとかなり能力は向上する。
正直、最近では骨折も一回の癒しで治せていると思う。……まぁ、本当に骨折しているのか、ただの打撲なのかは分からないんだけれど。
「あの、ハナ先輩は、ここを辞めないんですか? 好きな人がいなくても、その、なんであんな風に言われても続けるんですか?」
本当の理由……。それを話したこともあったけれど……。二十歳を過ぎてからは、適当な理由を話している。
「あら、噂を知らない? 私は氷の将軍が好きなの。彼以外の人と結婚したくないのよ?」
これが一番説得力のある……というか、質問者のその先の言葉を封じるには便利な理由なので、最近はもっぱらこう返している。
「あの噂は本当なんですか? 氷の将軍って、年に二度ほどしかここに来ないのに……。そりゃ、思いが通じれば、相手は公爵家の跡取りで、現役の将軍だから、玉の輿ですよ。年齢は二十八歳なのにまだ独身。貴族のご令嬢や王女様までが彼のハートを射止めようとアプローチしているけれど、すげなく断り続けることから、氷の将軍なんて呼ばれている、あの方を? 年に二度とはいえ、私たち巫女にはお顔を拝見するチャンスがありますし、庶民よりは近づけることもあるかもしれませんが……でも、あの、その……」
ああ、嘘の理由なんだけど、ユーナは真剣に考え始めた。
他の人のように、馬鹿な女だなんて頭から否定しようとしない。馬鹿にはしないけれど、ユーナは必死に私を止めようとしているんだろうな。そりゃ、現実的に考えたらそんな夢を見て婚期を逃すよりも、もっと現実を見て身の丈に合った男性と幸せになればいいのにって思うよ。そのほうが絶対幸せだろうって。
だから、ユーナは私の幸せを考えて言葉を探しているんだよね。
「うん。さすがにね、もう二十三歳だからね。今度、氷の将軍がいらっしゃった時に一言も会話ができなかったら、あきらめようと思っているのよ」
そして、戦地で下級巫女としての活動は引退するつもり。
八年間の給料はほとんど手つかずで貯めてある。引退したら、しばらくゆっくりしようかな。その後、神殿で能力を測ってもらって、中級レベルに達していれば神殿に仕えようと思う。神殿巫女は、神に嫁ぐと言われてるから、結婚しなくても誰も何も言わないしね。
……そう、私は、一生誰とも結婚するつもりはない。
あ、ちなみに上級巫女は王都で貴族連中相手の治療院に所属して、貴族と婚姻を結ぶことが多い。聖女が生まれると家の格が上がるので、聖女を生む可能性の高い上級巫女は人気があるらしい。
聖女はお城住まい。主に、王族の治療にあたる。
せっかく、高い癒しの能力があるのに、王族の治療しかできないなんて……
私が、巫女であり続けたい理由。
癒しの能力を失いたくない。この能力があれば、もうあんな思いをしなくて済むはずだから……
「あの、ハナ先輩っ」
いつの間にかユーナの涙は止まっていた。少し目が赤いのは泣いたせいだろう。
「来てくださいっ」
手首をがしっとつかまれて、巫女テントに連れて行かれる。
この戦地に配属されている巫女は二十人いるのだけど、それぞれ五つのテントに分かれて生活している。
「私、もうここにはいられないし、荷物を持っていくのも大変なので、ハナ先輩に差し上げますっ!」
と、ユーナが荷物箱からワンピースを取り出して私の胸に押し当てた。
とても戦場には似つかわしくない、春の光を思わせる柔らかな黄色いワンピース。
「サイズ、合うと思うので着てみてください」
「え? いや、あの、サイズが合っても、私にこんな綺麗な色のワンピースは……」
もう、私二十三歳だよ。行き遅れのおばさんなんだよ?
「先輩っ!」
ユーナが怖い。
私は言われるままワンピースに袖を通す。……胸元が、少し布が余ります。丈は問題ないかな。
鏡を見ると、ダサいおばさんが頑張って若作りした滑稽な姿が映っている。
「座ってください!」
ユーナの気迫に押され、私は鏡の前の椅子に座る。
「ハナ先輩はいつも髪の毛を一つに結んでお団子にしてますが、このワンピースの色にも負けない綺麗な金髪をしているんです。下ろさないと損です」
……髪を下ろしていても治療の邪魔になるので。
という私の言葉は見透かされていたのか、サイドの髪をみつあみにして背中に回し、後ろの髪が前に落ちてこないようにセットしてくれた。
「この大きな眼鏡も、必要ない時は外せばいいんですよ。先輩の瞳は、朝のうっすら紫がかった空の色みたいでとても綺麗です。それにまつげも長くて大きな瞳」
眼鏡は、何も視力を正すためではない。治療中に血や汗が目に入らないようにガードするためのもので、巫女に支給されるものだ。……眼鏡をかけていると、目がかゆくなることが少なくなって気に入っているんだけどな。
「それに、まるで貴族のように白い肌。マスクで隠しているなんてもったいないです」
八年間もほぼテントの中で治療していて、ほとんど日に焼けていないからだ。病人のようで気持ちが悪い白さだと思う。それを隠すためにマスクをしていると言っても過言ではない。
健康的な肌色がうらやましい。
あ、もちろん病気がうつらないようにというのが、本来のマスクをする目的だ。
ちなみに、うっかり誰かとキスをして巫女の能力を失わないようにという理由もあるんだけど、そもそもキスだけでは能力はなくならないという説もある。そのあたり、はっきり誰かに聞いたことがないのでよく分からない。
「ほら、ほおに少し紅を入れるだけで、とても綺麗です」
ああ、確かに。
ユーナがちょっと化粧をしてくれただけで、白すぎる肌も血色がよいように見える。
「この姿を見たら、ハナ先輩を行き遅れ巫女なんて言う人はいなくなると思うんです。先輩、これも、これも差し上げますから、次に氷の将軍が来る時は、絶対、ちゃんとした格好をしてくださいねっ! 約束ですよっ!」
ユーナが、私の手に、今使った化粧道具を押し付ける。
それからワンピースに合った黄色のリボンを髪に結んでくれた。
「ありがとう」
氷の将軍の話は嘘だけど、ユーナの気持ちはとても嬉しくて、素直にお礼の言葉が口に出た。
あ、そうだ。お礼に、私もなにか渡そう。
ユーナのテントを出て、自分のテントにもらった荷物を置きに向かう。
すると、テントを出て少し歩いたところで、一人の兵から声がかかった。
「ど、どちらに行かれるのですか? 私がご案内いたしますよ?」
私より頭一つ分背の高い細い兵だ。細いと言っても、無駄な筋肉がついていないだけで、鍛えられた体をしている。兵にしては珍しく髪が長めで、肩に届く髪を後ろで結んでいた。目にかかりそうな黒い前髪の奥からは、切れ長の黒い瞳が見えている。
槍使いのマーティーだ。先ほど私を擁護してくれた若い兵。
「マーティー、もう手の豆の傷は大丈夫?」
槍の訓練を熱心に行うあまり、何度も何度も豆がつぶれて、時には化膿してひどいことになっていた。癒しで傷をふさいでもすぐにまた豆をつぶすのだ。
訓練を繰り返すうちに、手の皮が厚くなればそんなこともなくなる。『僕はまだ未熟なのです』と言っていた姿を思い出す。あれはもう四年も前のことになるだろうか? えーっと、今は十九歳かな? 二十歳になったのかな?
「は? 手の豆? は、はい」
マーティーが手のひらをこちらに見せてくれた。
「ああ、本当に、立派になったね」
私はマーティーの手を取り、かつてジュクジュクだった手の豆の場所をそっと指の先で撫でる。
硬い。硬くて分厚い皮がしっかりとした手。
「あ、あの、ぼ、僕、なんで、名前を、あっと、えーっと、あ、あなたはその」
マーティーの手を離して、顔を見る。
おや? 焦ったような戸惑いを含んだ表情をしている。
ああ、四年も前の未熟だったころのことを言われても困りますよね。
「頑張ってね」
私はぺこりと小さくお辞儀をしてテントに向かった。
もらった化粧道具などを置くと、もう一度テントを出て、森の中へ入る。
前線基地となっている場所の前方が敵地。
右側には切り立った崖がそびえたち、左側には湖が広がる。背後は森。森と言っても、王都にまで通じる道が整備されているので、入ったからといって迷うことはない。
道を三十分ほど進み、獣道に入る。
確か、この先に綺麗な花が咲き乱れる場所があったはず。
お礼と、恋が成就したお祝いに、ユーナに花束を贈ろう。
以前、微かな風が花の匂いを乗せてきたので、見つけた場所だ。そろそろ花の香りが――
「え? この臭い……」
どういうこと? これは、花の匂いじゃない。
慌てて周りを確認する。
この臭いは、血だ。戦場で、治療テントで働く私が間違えるわけがない。
いったい、どこから? なぜ、この場所で血の臭いが?
戦場は駐屯地からさらに五キロほど離れた場所だ。戦争とはいえ、敵国と兵たちが睨み合っているだけの状態でほぼ十年。
だからこそ、巫女と兵の見合いなんてのんきな話も出ているわけで。
怪我人が絶えないのは、訓練と、森に現れる狼などの危険な動物の駆除、盗賊などの討伐、それから時々現れる敵側のスパイとの戦闘が主な理由だ。
こんなところで血の臭いというと……狼? 盗賊?
と、とにかく逃げないと! 物音を立てないように踵を返した瞬間、小さな音が聞こえてきた。
音のしたほうを確認すると、木々の間から馬の姿が見えた。
花々が色とりどりに咲き乱れるその先の木々の間に、馬の姿。馬は臆病な動物だ。狼などの危険な獣がいれば逃げ出しているはず。
ひとまず危険な獣がいるわけじゃないと分かって、ほっと胸を撫でおろす。
でも、なぜこんな森の中に馬が? 馬の休憩のため水場を求めるような場所でもない。馬にはちゃんと鞍が付けられているのが見える。野生の馬というわけでもなさそうだ。
……馬に、乗っていた人はどこ? じりりと手に汗が浮かぶ。馬だけなんていうことがあるはずがない。そして、血の臭い……
あたりを用心深く探るけれど、人の姿は見当たらない。馬に視線を戻すと、何かしきりに足元を気にしているように見える。
もしかしたら、乗っていた人が落馬して怪我でもしたのかもしれない。
急いで馬のもとへと向かう。
「血……っ!」
馬は私の姿に気が付くと、小さくいななき、心配そうに足元に倒れている人物に鼻先を寄せた。
「あああ……」
すごい血だ。
黄色い花の上に、鮮血がしずくとなって散っている。
その中心には、男の人がうつぶせで倒れていた。周りの地面は血を吸って、土の色が赤褐色に染まっている。
生きている?
近づけば、背に大きな切り傷。剣で切られたであろう傷だ。
治療テントに運ばれてくる怪我人たちに、こんなひどい怪我をした人はいなかった。
「私には無理かもしれない……完全に癒すには上級巫女でないと……ううん、出血を止めるだけでも中級巫女の力が必要だわ」
人を呼ぼう。いや、呼びに行っても、テントには下級巫女しかいない。中級巫女が来るまでに、この傷じゃ……
「大丈夫ですか?」
すくむ足。
目の前で人が死ぬかもしれない。
もう、嫌だ! 幼いころの思い出が脳裏をかすめる。
あの日、突然、生まれ育った村を病が襲った。
次々に死んでいく人たち。なすすべもなく、ただ、命が尽きていく人たちを見送ったあの時……人々があっという間に、倒れていった。巫女のいない村。巫女に助けを求める、そんな時間もなく……次々と息を引き取っていく村人たち。冷たくなっていく……。助けを求めに行くと出立の準備をしていた父も、村人を看病していた母も、母が看病していた隣の家のおばさんもおじさんも、仲が良かった幼馴染の子も……。あの、人の冷たさは忘れられない。
ぎゅっとこぶしを握り締める。
違う、今の私は幼い子供じゃない。何もできなかった子供じゃない。
私は巫女だ。癒しの力のある巫女。
倒れている男の人に再度声をかけても返事はない。
そっと男の人の鼻の下に指を持っていく。……呼吸は、ある。まだ、生きてる。
「止まれ……」
私の力ではどこまで癒せるのか分からない。だけれど、せめて血を止めることができれば……
巫女の力が上がっているという自覚はある。もしかしたら中級巫女レベルになったかもしれないと思ったのは私じゃないか。
バクバクと高鳴る心臓。落ち着こう。
手を傷の上にかざし、目をつむる。集中するんだ。体の中をめぐる魔力。ああ、温かくなってきた。神様、どうか、癒しの力としてこの魔力を彼に……!
「【癒し】」
頭の中がふわりと浮くような感じ。
何、これ、初めての感じだ。ああ、貧血のようなこの感じ……。神様、私の血が彼の癒しになるなら……
お願い、血よ止まれ。傷口よふさがれ。
死なないで! 生きて!
応援ありがとうございます!
21
お気に入りに追加
5,694
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
靴磨きの聖女アリア
さとう
恋愛
孤児の少女アリア。彼女は八歳の時に自分が『転生者』であることを知る。
記憶が戻ったのは、両親に『口減らし』として捨てられ、なんとかプロビデンス王国王都まで辿り着いた時。
スラム街の小屋で寝ていると、同じ孤児の少年クロードと知り合い、互いに助け合って生きていくことになる。
アリアは、生きるために『靴磨き』をすることを提案。クロードと一緒に王都で靴磨きを始め、生活は楽ではなかったが何とか暮らしていけるようになる。
そんなある日……ちょっとした怪我をしたクロードを、アリアは魔法で治してしまう。アリアは『白魔法』という『聖女』にしか使えない希少な魔法の使い手だったのだ。
靴磨きを始めて一年後。とある事件が起きてクロードと離れ離れに。アリアは靴磨き屋の常連客であった老夫婦の養女となり、いつしかクロードのことも忘れて成長していく。そして、アリアもすっかり忘れていた『白魔法』のことが周りにバレて、『聖女』として魔法学園に通うことに。そして、魔法学園で出会ったプロビデンス王国の第一王子様は何と、あのクロードで……?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
アイテムマイスター物語〜ゴミスキルで能無し認定された主人公はパーティーから追放され好き勝手に生きる事に決めました
すもも太郎
ファンタジー
冒険者仲間からは外れスキル認定されていたアイテムマイスターのスキルを持つ主人公ラセル。
だが、それはとんでもないチート性能を持つものだった。
Fランクから一緒に冒険を始めラセル達仲間であったが、パーティーがAランクに格上げされたのを切っ掛けに主人公はパーティーからクビを宣告される。
その時から主人公の真の人生が動き始めた。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
一基当千ゴーレムライダー ~十年かけても動かせないので自分で操縦します~
葵東
ファンタジー
巨大ゴーレムが戦場の主役となったゴーレム大戦後、各国はゴーレムの増産と武装強化を競っていた。
小国に住む重度のゴーレムオタクのルークスはゴーレムマスターになるのが夢である。
しかしゴーレムを操る土の精霊ノームに嫌われているため、契約を結ぶ事ができないでいた。
「なら、ゴーレムに乗ってしまえば良いんだ」
ルークスはゴーレムの内部に乗り込み、自ら操るゴーレムライダーになった。
侵略してきた敵部隊を向かえ撃ち、幼なじみが考案した新兵器により一撃で敵ゴーレムを倒す。
ゴーレムライダーが戦場で無双する。
※毎週更新→不定期更新に変更いたします。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
『親友』との時間を優先する婚約者に別れを告げたら
黒木メイ
恋愛
筆頭聖女の私にはルカという婚約者がいる。教会に入る際、ルカとは聖女の契りを交わした。会えない間、互いの不貞を疑う必要がないようにと。
最初は順調だった。燃えるような恋ではなかったけれど、少しずつ心の距離を縮めていけたように思う。
けれど、ルカは高等部に上がり、変わってしまった。その背景には二人の男女がいた。マルコとジュリア。ルカにとって初めてできた『親友』だ。身分も性別も超えた仲。『親友』が教えてくれる全てのものがルカには新鮮に映った。広がる世界。まるで生まれ変わった気分だった。けれど、同時に終わりがあることも理解していた。だからこそ、ルカは学生の間だけでも『親友』との時間を優先したいとステファニアに願い出た。馬鹿正直に。
そんなルカの願いに対して私はダメだとは言えなかった。ルカの気持ちもわかるような気がしたし、自分が心の狭い人間だとは思いたくなかったから。一ヶ月に一度あった逢瀬は数ヶ月に一度に減り、半年に一度になり、とうとう一年に一度まで減った。ようやく会えたとしてもルカの話題は『親友』のことばかり。さすがに堪えた。ルカにとって自分がどういう存在なのか痛いくらいにわかったから。
極めつけはルカと親友カップルの歪な三角関係についての噂。信じたくはないが、間違っているとも思えなかった。もう、半ば受け入れていた。ルカの心はもう自分にはないと。
それでも婚約解消に至らなかったのは、聖女の契りが継続していたから。
辛うじて繋がっていた絆。その絆は聖女の任期終了まで後数ヶ月というところで切れた。婚約はルカの有責で破棄。もう関わることはないだろう。そう思っていたのに、何故かルカは今更になって執着してくる。いったいどういうつもりなの?
戸惑いつつも情を捨てきれないステファニア。プライドは捨てて追い縋ろうとするルカ。さて、二人の未来はどうなる?
※曖昧設定。
※別サイトにも掲載。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
夫に「好きな人が出来たので離縁してくれ」と言われました。
cyaru
恋愛
1年の交際期間を経て、結婚してもうすぐ5年目。
貧乏暇なしと共働きのタチアナとランスロット。
ランスロットの母親が怪我をしてしまい、タチアナはランスロットの姉妹と共に義母の介護も手伝い、金銭的な支援もしながら公爵家で侍女の仕事と、市場で簡単にできる内職も引き受け倹しく生活をしていた。
姑である義母の辛辣な言葉や小姑の義姉、義妹と全て丸投げの介助にたまの休日に体を休める事も出来ない日々。
そんなある日。仕事は休みだったが朝からランスロットの実家に行き、義母の介助を終えて家に帰るとランスロットが仕事から帰宅をしていた。
急いで食事の支度をするタチアナにランスロットが告げた。
「離縁をして欲しい」
突然の事に驚くタチアナだったが、ランスロットは構わず「好きな人が出来た。もう君なんか愛せない」と熱く語る。
目の前で「彼女」への胸の内を切々と語るランスロットを見て「なんでこの人と結婚したんだろう」とタチアナの熱はランスロットに反比例して冷え込んでいく。
「判りました。離縁しましょう」タチアナはもうランスロットの心の中に自分はいないのだと離縁を受け入れたのだが・・・・。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。アナタのリアルな世界の常識と混同されないよう【くれぐれも!】お願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※外道な作者の妄想を交えているノンフィクションを感じるフィクションで、ご都合主義です。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。
※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
義妹に王子を横取りされて婚約破棄された悪役令嬢は、聖女を目指す
ともり
ファンタジー
真理(16歳)はトラックに轢かれそうなところを異世界の神様に助けられ、気がつくと悪役令嬢マリーになっていた。
義妹に婚約者の王子を奪われないように行動……はせずに、己の幸せのためにひたすら聖女を目指す。
「俺様王子?そんなものは欲しい人にあげる!」
なのに、どうして王子がつきまとってくるの?義妹はどうしたの??ねえ、ちょっとー!?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
婚約者が私以外の人と勝手に結婚したので黙って逃げてやりました〜某国の王子と珍獣ミミルキーを愛でます〜
平川
恋愛
侯爵家の莫大な借金を黒字に塗り替え事業を成功させ続ける才女コリーン。
だが愛する婚約者の為にと寝る間を惜しむほど侯爵家を支えてきたのにも関わらず知らぬ間に裏切られた彼女は一人、誰にも何も告げずに屋敷を飛び出した。
流れ流れて辿り着いたのは獣人が治めるバムダ王国。珍獣ミミルキーが生息するマサラヤマン島でこの国の第一王子ウィンダムに偶然出会い、強引に王宮に連れ去られミミルキーの生態調査に参加する事に!?
魔法使いのウィンロードである王子に溺愛され珍獣に癒されたコリーンは少しずつ自分を取り戻していく。
そして追い掛けて来た元婚約者に対して少女であった彼女が最後に出した答えとは…?
完結済全6話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。