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隣室の音

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「─ございますよ?」と僕の目の前に座った松井という担当者は、にこやかに言った。

「···だって、そんな。あの何か勘違いしてません?僕が言ったのは···」

「敷金·保証金“0”、共益費“0”、間取り1DK、家賃が···20000円以下!ですよね?小坂様」そのにこやかな笑顔の中に何が隠されてるのか?予想だにつかない僕は、頷いた。

 店内にも他の客はいて、松井さんの強調する言葉にチラッとこちらを見る人もいる。

「ちょうど、小坂様がお住まいになってる座間4丁目に近いですね。どうですか?善は急げ、とも申しますし···」


 ガチャッ···

「ふうっ」とまぁ、そんな経緯もあって、無事に引っ越しを終えた僕は、部屋中ダンボール箱で埋め尽くされてる僅かなスペースに座り込んだ。

 引っ越し前日に、届いた採用通知。時間は短いが、時給もよく計算すると、なんとか生活が出来る。

「···っと、挨拶挨拶。」ダンボール箱の隣にちょこんと置かれている引っ越しの挨拶品を手に先ずは···

 ピンポーン···とチャイムを鳴らすと、「ニャァーッ」と可愛い声が中から聞こえる。

「いないのかな?」確か松井さんの話だと、このアパートには管理人がいるとかで、敷地内の離れに住んでいると聞いたのだが···

「もう一度···」とチャイムを押そうとした僕の背後から、

「なんですかぁ?」とのんびりとした声が掛けられる。

「あ、あの···」振り向くと姿が見えず、少し先の方へ歩いていて、追いかける。

「あ、あのっ!すいません!」

「んー?あんたか。なんのようだ?ちょっと、これ持ってくれるか?」といきなりジョウロを渡され、挨拶をしようとするも、

「こっちだ、こっち!」と今度は敷地内の花壇にともう移っていた。

 話し掛ける、先に進むの繰り返しで···

「いやぁ、ありがとうありがとう」と泥のついた手で僕の手を握る。

「で、あんた誰?」

「······。」さっきから何度も何度も名前を言っているのに!と思いながらも、再度名前を言おうとすれば···

「あ、いかん。ハチにご飯与えるの忘れとったわ」とまた先に進んでいく秋野さんをまたしても追いかける。

 で、やっとのやっと···

「も、もういいですよね?ね?」と汗だくで懇願する僕に、秋野さんは声を大にして笑い、愛猫のハチを膝に乗せた。

「すまんすまん。てっきり、またセールスかなんかだと思ってな」真っ黒に日焼けした(今はまだ5月)顔で笑うと、少し黄色いがかった歯が見える。

 ニャーウッ···ニャァッ?とハチは、僕の方を見ながら毛づくろいを始めた。

(猫は、呑気でいいな···)とハチを見ると、なんとなく目が合う。

「で、誰だっけ?お前さん」

「······。」おいっ!と突っ込みたくなるも抑え、名前を言いながら挨拶の品を渡し、収穫した野菜を手に帰る。

 その野菜を台所の流しに置いてから、次の部屋に···

「結局、誰もいねーのかよ」平日という事もあり、どの部屋の住人も留守だった。

「しょうがない。夜にでも行くか」

 引っ越しの疲れや仕事が決まった安堵感もあって、いつしか僕は眠りに落ちていった。

 コツンッ···コツンッ···と鉄階段(何故鉄階段?)を昇る足音とガチャッバタンッという部屋のドアがしまる音が、4号室から聞こえ目を覚ます。

「寝ちまった。にしても、随分と乱暴に閉めるんだな」起き上がり、挨拶品を手に4号室を訪れるも···

「ん?やっぱチャイム壊れてる?反応がない···」チャイムを押しても、カチカチというだけで、中からホーンが聞こえる事は無かった。

 コンコンッ···とドアを叩き、反応を待つ。

「······。」

 5分待ち、ドアを叩く···

「······。」おかしい···

 さっき隣からちゃんと音がしたから、こうしてきたのに···

「留守?な訳ねーもんな···」ドアに耳を済ますと、中から小さく音もするし人の話し声も聞こえてくる。

「しゃーね。あとにしよ」と再度訪れても灯りはうっすらとついてるのに、やはりノックをしても出てこない。他の部屋には挨拶は出来たのに···

 新聞受けに挨拶の品を押し込み、部屋に戻ろうとするとガチャンと取り出す音はしたが、引き返す事はせずそのまま部屋へと戻る。


「あぁ。4号室ね。まぁ、いるって言えばいるし。いないと言えばいない。なぁ、ハチ?」と秋野さんは草むらで虫と格闘してるハチに問いかける。

 ここに住んで1週間にもなるのに、いまだ隣人の名前も性別もなんらわからない。

 庭に置いてある白い椅子に腰掛けながら、出された麦茶を飲み、カーテンの閉じた4号室を見る。

(ん?いま何か動いた?)気のせいだろうか?一瞬カーテンの端が揺れた気がしたのは。

「そういや、小坂さん。お仕事の方はいかがですか?」

「前と似たような仕事ですけど···」

(あれ?僕は言ったっけ?)秋野さんが、笑いながら麦茶を飲み干す。

 まだ5月の半ばなのに、もうじんわりと汗をかき、シオカラトンボが飛んでいた。

「ハーチ!お前さんにゃ、トンボは無理だよ」秋野さんがそう言うと、トンボを狙っていたハチがこちらを見て、軽く鳴いた。

「ハチは、不思議な猫ですね」


 あれは、ここに越してきた当日。

 秋野さんと話してる時にハチの身体を鬱々とした気もちで撫ぜていた。

『お前は、ほんとウジウジしてんな』

「ん?秋野さん、いまなんか言いましたか?」少し離れた所で、花に何かを埋めていた秋野さんに問いかけた。

「あ?わしか?わしは、何も言っとらんぞ···」

 少し日差しが眩しいのか、目を細めてこちらを見る。

「あ、いえ。なんか誰かの声が聞こえたような気がして···」

『お前はほんと意気地なし。してもいない事を何故していないと言わん?』

「???」声は聞こえるが、姿は見えない。

(幻聴?)

『それは、不当解雇というのだろう?俺にはよくわからんが···』

(まさか?)と膝に乗せているハチを見るが、ハチは眠いのか大きなアクビをしていた。

「さぁ、ハチ?腹でも減っただろ?」

 ニャァンッ···ハチは、僕の膝から飛び降りて秋野さんの元に駆け寄り、座る。

『まっ、その内凄いことあるからさ。気対して待っとけよ!相棒』

 ニャァッ···

 一瞬、ハチと目があい···

「っ?!」

(今のってウインク?え?猫でもウインクするのか?)

 椅子に座りながら、秋野さんとハチを見送り、立ち上がり4号室を見上げるも、カードは閉まったまま微動だにしなかった。


 それから数日したある晩。

 この日は、新しい職場での歓迎会で僕は少しお酒に酔っていた。

 カチャッ···

 時間も時間でなるべく音を立てないように部屋に入る。

「ふぅっ。酔ったな···」少しふらつきながらも布団を敷き、横になる。

(やっぱり···)

 隣の部屋からは、小さな音がコツコツと漏れる。壁自体そう薄くはない筈なのに、何故か4号室の音や声が時々聞こえる。

 このアパートの3号室に住んでる蒼井くんに聞いても、

「声っすか?4号室?いぃや、全然聞こえないっすよ?」隣では仲良さげに彼女が立ってくっついていた。

 とにかく、誰も4号室の住人を知らない。

「いたかなぁ?」とボサボサの頭をかきながら答える三雲くん。

「気のせいじゃないですか?小坂さん、疲れてるんですよ」と逆に心配してくる瀬川さん。

「はふぅ。顔ぐらい見せろって···ったく」久し振りに飲んだ酒は、疲れた身体を闇の奥へと沈ませていく···


『だって···。くすっ···どうする?』

「······。」
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