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番外 准将、将堂青桐 2
葵がひとりの部屋で堺について考えていたら、部屋の引き戸を堺が開けた。
葵が起きていたからか、堺は少し驚き、目をみはる。
どうしようか、まだ考えがまとまっていなかったが。
とりあえず。葵は、記憶を失っているフリをすることにした。
精神操作をもうされたくないからだ。
「起きていらっしゃいましたか、青桐様」
青桐様って誰?
堺が口にしたのは、葵が知っている人物ではなかった。
うーん、イマイチ役どころがわからないな。
「青桐様? それは俺のことですか?」
「はい。貴方は、将堂青桐様です」
葵は、頭を勢いよく回転させる。
将堂、だと?
己は将堂の影武者をするのか?
しかし、将堂青桐という名は聞いたことがない。
まだ、よくわからないな。情報不足だ。
葵は、堺の全身を見やる。
美しい顔、は。先ほど、いっぱい見た。
下に目をおろしていくと、薄青の軍服。形は確かに将堂軍のもののようだ。
そうして、自分の衣服も見る。
あれ、黒いボロの甚平を着ていたのに。白い着物を着せられている。
堺に見惚れていて、今まで気づかなかった。
この白い着物は、生地がするりと柔らかい肌触りで。名家の者が着るような、上等の品だとわかる。
「君は、俺のことを知っているのか? なんだか、さっきから全く思い出せないんだ。名前とか。ここがどこで、どうしてここで寝ているのかとか、さ」
今の状況を知るために、堺から情報を引き出さなければならない。
詳細に。
堺は己に、どのような設定を求めているのか? そこを見極めないと。
でも同時に、堺が己をどう思っているのかも、知りたい。
だから、先ほどと似たやり取りを仕掛けてみた。
「まずは、君の名前を教えてくれないか?」
この質問は二度目だ。
さすがに動揺したか、堺の瞳がわずかに揺らいだ。
堺は己の布団の脇に移動し、静かに正座をすると。うやうやしく頭を下げた。
「私は、時雨堺と申します。見ての通り、私は龍鬼ですが。貴方の部下。右将軍を務めております」
「…部下」
葵は、堺をみつめたまま、考えた。
龍鬼だと名乗ったことに、驚いた。
もう、記憶を消したあとだから、手の内を明かしてもいいということか?
それに部下ということは、己の地位は、堺の上?
え? いきなり上官の地位につけようとしている?
記憶を無くした、なにもわからない男を?
なんでだ? 影武者なら。本体がすでにその位置についているはずなのだが。
「貴方は、将堂軍の准将なのです。私は青桐様にお仕えしています」
んっ!
准将って、言った?
准将は、将堂赤穂のはずだ。
いやいや、待て待て。
落ち着いて。まだわからない。
とりあえず、堺が己に仕えているということは。これからも、堺がずっとそばにいてくれるということだ。
それは、嬉しい。
己の美しい人。
彼がいつもかたわらにいてくれるのかと思うと、嬉しいし、照れくさいし。頬がゆるんでしまう。
「そ、そうなんだ。なら、堺さん。貴方の知っている俺のことを、教えてくれないか? なんだか、頭がもやもやして。このままでは、気分が悪い」
記憶を封じられていたときの感覚を思い出して、言う。
もっと、情報が欲しい。
そしてどさくさに紛れて、名前を呼ぶ。堺とも、距離を縮めたいのだ。
「ご説明させていただきます。でもその前に。私のことは、どうか堺と呼び捨てにしていただきたい」
それは嬉しい提案。もっと距離が縮まる。
でもな…。
「堺さんだって、俺を様をつけて呼ぶだろう? 俺だけそういう扱いなのは、嫌だな」
名前を呼んだときは、単純に嬉しかったけれど。堺を呼び捨てにすると、本当に上官と部下みたいになっちゃうじゃん?
「しかし、青桐様は私の上官です。貴方は将堂家の次男として、下の者とは一線を引かなければなりません」
ひー、決定的な言葉を聞いてしまった。
将堂家の次男? やっぱり赤穂なのか。
己は、そんな大物のそっくりさんなのか?
人には見せられないという大翼を持っているから、声をかけてくるのは名家だろうとは予想していた。
でも、ヤベェ…考えてた以上の名家だった。
ビビっている場合ではない。ヤベェことは、あとで考えるとして。
ここは、引けないのだ。
「じゃあ俺は、貴方を呼び捨てにする。堺も、俺を青桐と呼んでくれ」
そうか、青桐か。
己も青桐になるのだ。
ここも慣れていかないとな。己は、青桐。
「そんな大それたこと…困ります」
将堂といったら、北東を一手に仕切る大名家。その部下ならば、上下関係に厳しい統制がされているのだろう。
でも、己が欲しいのは部下の堺ではなく。伴侶の堺なのだ。
そのためには、ここで一線引かれるわけにはいかない。
「人目が気になるなら、ふたりのときだけでもいい。俺、今なにもわからなくて。心細いんだ。そうして距離を置かれると、なんだかひとりぼっちのような気になって悲しくなる」
柄ではないが、少ししょんぼりして見せる。
堺が記憶なんか奪うから、こうなったんだよ。さぁ、手の中に落ちて来い。
「わかりました。ふたりのときだけ、青桐と呼ばせていただきます」
よっし、名前呼びで親密度をあげていけるな。
それにふたりだけの秘密みたいで、いいじゃん?
「良かった。よろしくな、堺?」
先ほどは、彼に握られた手。今度は、こちらから堺の手を握る。
相変わらず、冷たい手。
でも自分は体温が高めだから、むしろ気持ち良くて、心地よくて。
ずっと握っていたい。
「あの、青桐…の、今の状況を説明したいのだが。よろしいですか?」
おずおずと彼が言い出したので、青桐は手を離して、うながした。
説明は、おおよそこんな感じだった。
敵に矢を射掛けられ、落馬した己は、そのとき頭を打ち。どうやら記憶を失っているようだ。
本当は、堺が記憶を奪ったのだけど。
なるほど、そういう設定なのだな?
将堂と手裏は、戦をしている。己は将堂の次男であり、将堂軍の准将であり、右軍総司令官である。
おいおい、まんま、将堂赤穂じゃねぇか。
山の中で暮らしていても、将堂と手裏が戦をしていて、将堂の大将が金蓮、准将赤穂。手裏の総帥が手裏基成って名前くらいは知っているよ。
顔は、知らないけど。
「ふーん、なんだか物語を聞いているようだ。全く、自分の話のように思えない」
青桐は頭を抱えたい衝動に駆られた。
頭が痛いフリをして、うつむき。こめかみがピクピクするのを隠した。
もう、誰か夢だと言ってくれ。
こんな大きな話になるとは思わなかった。困惑極まりないよ。
あぁ、でもでも。ひとつ、重要なことを確認しておかないとな。
「あの、俺に家族はいますか? なんとなく…堺は俺の家族のように思うのですが。気のせいですか?」
青桐にとって一番重要なのは。堺の立ち位置だ。
先ほどの求婚をあったことにして、伴侶だと認めるのか?
なかったことにして、部下の地位にとどまるのか?
それを確かめておきたかった。
「貴方には、兄上様がいらっしゃる。将堂金蓮様という、将堂家の当主であり、将堂軍の大将です。御両親は他界されていますが。青桐様には兄弟も親戚も大勢いらっしゃいます」
くそっ、なかったことにされた。
いら立ちで、青桐は大きく首を振った。
堺は、家族はいます、安心してください、というような顔で微笑んだが。
違うんだ。
己が欲しいのは、偽物の家族ではなく、堺なのに。
「わからない。思い出そうとすると…頭が締めつけられるように、痛い」
堺の顔を見ているのが苦しくなって、一時逃れをする。
傷ついた。この話は、もういい。
「無理をしてはいけません」
堺は頭を抱える青桐の肩をさすり、そっと、優しく布団に横たえた。
苦し紛れの行動だったけれど、逆に堺は、青桐が本当に記憶を失ったことで後遺症に苦しんでいるのだと思い込んだようだ。
「堺、そばにいてくれないか」
駄目押しで、心細そうに堺の袖口を握る。
己が頼れるのは堺だけなのだと、強く印象づけておきたい。
だから、己を見捨てることもなかったことにすることも、許さないよ。
「医者を呼びに行くだけです。青桐。もしもなにもわからなくて、不安なら。知りたいことは、なんでも教えますから。安心して。今はゆっくり休んでください」
聞いているだけで、気持ちが落ち着いてくる、いい声だ。
ずっと耳にしていたい。
もう少しそばにいてほしい。そう言おうと思い、口を開くが。
でも、こちらも。いったん情報を整理したい。青桐は渋々、彼から手を離した。
★★★★★
部屋を出て行った堺が、引き戸をぴったりと閉める。
足音が遠のいたのを確認し…青桐は。重くて長いため息をついた。
なんとか、記憶がない態で切り抜けられた。安心感が、胸に迫る。
そばにいてくれ、は。ちょっと女々しすぎたかな?
しかし心細さを演出するには、あれくらい大袈裟な方がいい。
それで堺の心を掴めるのなら。
それにしても…。
ふっざけんな、じじぃっ! 赤穂の身代わりとか、あり得ねぇんだけど。
つか、赤穂は? 赤穂はどうなった?
己を身代りにするということは、赤穂は不在ということだ。
記憶を奪ってまで己をこの位置につけるってことは、己が赤穂として生きていく、ということなのか?
大人物過ぎだろう。
ならもっと、ちゃんと稽古つけといてくれよぉ。
将堂の猛犬、血塗られた闘将、龍鬼も裸足で逃げ出す凶戦士、ヤベェふたつ名しかねぇやつだぞっ。
つか、ちゃんと教えておいてくれよ、腰抜かすわっ!
脳内で、激しく罵詈雑言を叫び終わったところで。
堺が呼んだらしい、医者が部屋に入ってきた。
「頭痛がするんだって? あまり思い詰めたら駄目だよ?」
のんびりした口調は、なにやら穏やかな気持ちにさせる。医者に向いている男だな。
気を静めるお茶というものを差し出され。青桐は身を起こして、ひと口飲む。
そして、医者に聞いた。
「先生。俺の記憶喪失はいつ治りますか?」
「さぁ、こればかりは医者でもわからないな。だが、慌てることはない。無理に思い出そうとすると、頭痛が引き起こされてしまうから。自然に任せるのが一番だよ」
この医者は、将堂の上官が記憶喪失だと聞かされても、飛んでくることはなく。記憶を取り戻す努力をするなと言う。
つまり予定調和だ。
医者も堺も、おそらくこの屋敷にいる者はみんなグル。
「…以前の俺は、どんな男でしたか?」
顔が似ていても、別人だ。
そのように振舞えなければ、おかしいと思われてしまうのではないかと思った。
「んー、准将は苛烈な男であったが。記憶を無くした青桐様が、必ずしも元の苛烈な男になるとは限らない。元の自分を意識することなく、心のままに過ごされた方が、お体に障りませんよ」
記憶喪失という免罪符で、少しくらい前と違う行動をとっても大丈夫、ということか。
なら、少し気が楽だな。
「わかりました。少し休みます」
「頭痛の薬はいるかい? 薬はどのようなものでも、頼りにしない方がいいのだが…」
「いりません。お茶で、だいぶ楽になりました」
変な薬を盛られて、これ以上なにかをされるのは嫌だし。意識のない間に、なにか起きるのも困る。
わからないことだらけだから、油断したくない。
布団にもぐって、寝たふりをすると。医者が部屋を出て行った。
そして、青桐は再びため息をつく。
演技なんか、したことがなかったが。堺以外の人物と会っても、なんとかうまくやれた。
爺さんと、子供のときにやった『殿様ごっこ』が役に立った…。
ああぁぁーっ、もしかして、こうしてかしずかれる日が来るのを知っていて、って、じじぃっ!!
青桐は、死んだ爺さんに、ツッコミを入れるのが疲れてきた。
今日はいっぱい驚いたが、普段の精神鍛錬のたまもので、翼をピクリとも動かさずに済んだ。
なにもかも、爺さんがいつかの日のために仕組んだことだ。
精神操作を破る、技のことも。
赤穂のことを言わなかったのも、もしかしたら、特に事が起きなかったときなんの憂いもなく巣立ちができるようにという。爺さんの配慮だったかもしれない。
だって、実際。こんなにもビビっている。
将堂赤穂の身代わりなんて、普通に考えて無理。
あぁ、そのための記憶操作だったのかもな。ぼんやりとしている間に、既成事実を作ってしまうという…。
優しいような、乱暴なような。
逃げちゃうか?
一般人がいきなりこんな大きな家の次男おさまるなんて、できっこない。
そりゃ、爺さんに。礼儀作法などは教えてもらったけれど。
それが通用するのかは、わからないし。
ちょっと怖気づいた青桐は、窓に近寄っていった。
腰掛けの高さで、障子が閉まっている。
障子を開けると、雨戸が閉まっている。雨戸を開けると、外気だ。
雪が積もっていて、すごく寒い。
それで、この部屋が暖かいのだと気づいた。部屋の隅に、七輪があった。
まぁ、それはともかく。
窓の外は、綺麗な庭だ。腰高の窓から、風景を切り取って見るように手入れされた、計算された美しさ。
その奥は、背の高い塀で囲まれている。
昨今は翼を使えない者が増えているようだが。
青桐は、翼ももちろん鍛えていて、自在に操れる。
しかも猛禽の羽なのだ。屋敷の塀など、あってないようなもの。逃げることはできそう。
しかし、ここがどこだかわからない。
将堂の幹部がいるなら、富士か? あとせめて、靴とか衣類とかも揃えないと、凍死する。
青桐は雨戸を閉め、窓を元の状態に戻すと。部屋を出た。
他に、外の景色が見える場所。靴や服がないか、探った。
すぐに逃げるわけじゃない。ただ既成事実を作られる前に、選択肢を増やしておきたいだけだ。
やっていけそうなら、爺さんの遺言でもあるし、手助けしてもいい。
堺のことも、諦めきれない。
できれば嫁にして長野に帰ることが出来たら、最高だが。
右将軍と言っていたから。名家の出かもしれないし。無理かなぁ。
いやいや、結婚に承諾したのだから。ここは強気で取りに行かなきゃ。
少し戸が開いた部屋があり、中に入ると。掃き出しの窓が開いていて、外の大きな庭の全景が見えていた。
青桐が濡れ縁に出て行くと。庭の真ん中でたたずむ、堺の後ろ姿をみつける。
夜、暗くて、灯りはなかったが。堺の白い髪が満月の光を吸い込むかのように輝いていた。
まじで?
なんでこんなに、綺麗なんだ?
逃げようかなんて、ちょっと思ったけれど。
この美しい人が、己との結婚を承諾したのだ。それをなかったことにして逃亡するなんて、愚の骨頂だ。
青桐は、逃亡計画をとっとと破棄し。濡れ縁の下にあった、踏み石に置かれた草履を引っかけて、堺に近寄っていった。
すると彼は、地に膝をつき、月を見上げて泣いていた。
まるで、かぐや姫が月に帰りたいと泣いているかのような、幻想的な風景。
でも、月には帰さないよ。
「…しき」
堺がつぶやいた言葉が、青桐の胸に突き刺さる。
なに? 人の名前か?
まだ、確実に自分のものというわけではないのに。なんか、物凄くイラッとした。
自分の知らない誰かを思って、堺が泣いているのだから。
心に波風が立つこと自体が、青桐にはあまりなかった。
だから、この不快な感情がなんなのかわからなくて。ただただ、腹立たしいのだと思ったのだ。
でも、いきなり堺が。地面に積もった新雪に顔を埋めたから。
不快な感情が、霧散するほどびっくりした。
堺は、なにをやっているのか?
遊び? いやいや、美しい顔がしもやけになってしまうではないか。
青桐は、慌てて堺に駆け寄った。堺の名を呼び、彼の身を雪から引き起こす。
白い顔は、雪の冷たさに、逆に色づいている。
薄青の目はキラキラ輝いて、でも頬は涙に濡れている。
「大丈夫か? 泣いているのか?」
泣きやんでほしくて、青桐は堺に微笑みかけるが。
目にたまった雫が、ひと筋、ハラリと流れ落ちる。
もう、何度、惚れさせる気だろうか?
儚げな、その表情…抱き締めて、慰めてやりたい。
が、ここはグッと我慢。まだその時期じゃない。
もっと、しっかりと彼を捕まえてからでないと、脅えて飛び去ってしまう。
「どうかしたのか? その、胸に抱えている手紙に、なにか悪いことでも書いてあったのか?」
己の伴侶を泣かすとか、許さねぇ。
しき、が人かどうかわからないが。許さないからな。
「いいえ、これは嬉しい知らせです」
それはそれで、むかつくんですけど。
堺の心を揺さぶる、しきというものが。
「嬉しい知らせで、顔を雪につけてしまうなんて。案外、子供のようなことをするのだな。ほら、頬がこんなに冷たくなって…」
内心ドキドキしたが。それを隠し、手のひらで堺の頬を包む。
案の定、氷のように冷たい。
本当に、氷の彫像、氷の精霊なのではないだろうか。
でも、動いている。体温がある。手で触れられる。
確かめるように、でも怖がらせないようにそっと、中指の背で頬の輪郭をたどった。
堺は無垢な眼差しで、青桐をみつめている。
己の邪な気持ちを感じていないのか、されるがままだ。
わからないのなら、その方がいい。
そのまま青桐は、堺の髪をすいていく。
指の隙間をすべる白い髪は、透き通っていて。なめらかで、優しい触り心地だ。
自分の髪などごわごわで、一本一本の主張が激しくて、なんの感慨もないただの髪だが。
堺の髪は、なんてしなやかなのだろう。
「絹糸のように、綺麗な髪だ。それに…堺は可愛らしい」
ただ、青桐の手の感触に身を委ねていた堺が、我に返ったように目を見開いた。
カッと、頬を赤く染めるが。
そんな表情の変化は、彼が本当に生きているのだと実感して、嬉しくなる。
「かっ!? なんてことを…。それに私は、貴方より年上なのに。子供のようだなんて」
年上か、姉さん女房だな。
それに今の恥じらう顔は、今まで見てきた綺麗な顔とは少し違って。いい。
「なぜ? 大人でも、可愛らしい人は可愛らしいものです」
「そんなこと、言われたことがない」
綺麗な人だから、可愛いと言われたことがないのだろうか?
「なら、俺が初めてなんだ」
可愛らしい堺を知っているのは、己だけ。
ゆっくり青桐は立ち上がり、堺に手を差し伸べる。
「貴方の初めては、全部、俺が貰う。いいな、堺?」
これは、宣言だ。堺のすべてを。堺の初めてを。俺が奪い。俺だけのものにするという。
堺は、きょとんとしている。
なにを言われているか、わかっていないのかもな。
でも、それでいい。それがいい。
こんなに美しい人が、誰にも手折られずに来たなんて。奇跡に近いけど。
ちょっと、考えられないけれど。
堺がなにも知らないのなら、ふたりで少しずつ階段を登っていける。
己も、知らないからな。
「なんて、ちょっと、格好つけちゃったかな?」
真剣な気持ちではあったけれど、脅えさせないように少しおどけて見せる。
青桐の知識は、書物の中のものしかないから。教えてあげるなんて大それたことは言えない。
青桐の手を取った堺を、雪の地べたから引き上げる。堺は長身だけど、立ってキスすることなどそうはないから、なにも問題はない。
でも、もしかしたら。背が高いから、誰も堺と付き合おうと思わなかったとか?
そんなことで?
堺の反応が可愛いものばかりだから。
それに、結婚の承諾をしてくれたから。
堺は結婚していない、恋人もいないと思っていたけど。
本当に純粋なのかなぁ?
口説いていることにも気づかないし。誰にも、口説かれたことがないのかな?
誰も触れていないのかなぁ? 美しい、この人に。
青桐は、握る堺の手を、親指で意味深に撫でてみた。すると、ポッと頬が赤くなる。
初心だ。可憐だ。清らかだ。
「堺は、恋人いるのか?」
我慢できなくて、単刀直入に聞いてしまった。
そうしたら、薄青の瞳が少し陰った。
「…私は龍鬼ですから」
答えになっていない。と青桐はこのとき思ったのだが。
その言葉の意味を、まだ知らなかったのだ。
葵が起きていたからか、堺は少し驚き、目をみはる。
どうしようか、まだ考えがまとまっていなかったが。
とりあえず。葵は、記憶を失っているフリをすることにした。
精神操作をもうされたくないからだ。
「起きていらっしゃいましたか、青桐様」
青桐様って誰?
堺が口にしたのは、葵が知っている人物ではなかった。
うーん、イマイチ役どころがわからないな。
「青桐様? それは俺のことですか?」
「はい。貴方は、将堂青桐様です」
葵は、頭を勢いよく回転させる。
将堂、だと?
己は将堂の影武者をするのか?
しかし、将堂青桐という名は聞いたことがない。
まだ、よくわからないな。情報不足だ。
葵は、堺の全身を見やる。
美しい顔、は。先ほど、いっぱい見た。
下に目をおろしていくと、薄青の軍服。形は確かに将堂軍のもののようだ。
そうして、自分の衣服も見る。
あれ、黒いボロの甚平を着ていたのに。白い着物を着せられている。
堺に見惚れていて、今まで気づかなかった。
この白い着物は、生地がするりと柔らかい肌触りで。名家の者が着るような、上等の品だとわかる。
「君は、俺のことを知っているのか? なんだか、さっきから全く思い出せないんだ。名前とか。ここがどこで、どうしてここで寝ているのかとか、さ」
今の状況を知るために、堺から情報を引き出さなければならない。
詳細に。
堺は己に、どのような設定を求めているのか? そこを見極めないと。
でも同時に、堺が己をどう思っているのかも、知りたい。
だから、先ほどと似たやり取りを仕掛けてみた。
「まずは、君の名前を教えてくれないか?」
この質問は二度目だ。
さすがに動揺したか、堺の瞳がわずかに揺らいだ。
堺は己の布団の脇に移動し、静かに正座をすると。うやうやしく頭を下げた。
「私は、時雨堺と申します。見ての通り、私は龍鬼ですが。貴方の部下。右将軍を務めております」
「…部下」
葵は、堺をみつめたまま、考えた。
龍鬼だと名乗ったことに、驚いた。
もう、記憶を消したあとだから、手の内を明かしてもいいということか?
それに部下ということは、己の地位は、堺の上?
え? いきなり上官の地位につけようとしている?
記憶を無くした、なにもわからない男を?
なんでだ? 影武者なら。本体がすでにその位置についているはずなのだが。
「貴方は、将堂軍の准将なのです。私は青桐様にお仕えしています」
んっ!
准将って、言った?
准将は、将堂赤穂のはずだ。
いやいや、待て待て。
落ち着いて。まだわからない。
とりあえず、堺が己に仕えているということは。これからも、堺がずっとそばにいてくれるということだ。
それは、嬉しい。
己の美しい人。
彼がいつもかたわらにいてくれるのかと思うと、嬉しいし、照れくさいし。頬がゆるんでしまう。
「そ、そうなんだ。なら、堺さん。貴方の知っている俺のことを、教えてくれないか? なんだか、頭がもやもやして。このままでは、気分が悪い」
記憶を封じられていたときの感覚を思い出して、言う。
もっと、情報が欲しい。
そしてどさくさに紛れて、名前を呼ぶ。堺とも、距離を縮めたいのだ。
「ご説明させていただきます。でもその前に。私のことは、どうか堺と呼び捨てにしていただきたい」
それは嬉しい提案。もっと距離が縮まる。
でもな…。
「堺さんだって、俺を様をつけて呼ぶだろう? 俺だけそういう扱いなのは、嫌だな」
名前を呼んだときは、単純に嬉しかったけれど。堺を呼び捨てにすると、本当に上官と部下みたいになっちゃうじゃん?
「しかし、青桐様は私の上官です。貴方は将堂家の次男として、下の者とは一線を引かなければなりません」
ひー、決定的な言葉を聞いてしまった。
将堂家の次男? やっぱり赤穂なのか。
己は、そんな大物のそっくりさんなのか?
人には見せられないという大翼を持っているから、声をかけてくるのは名家だろうとは予想していた。
でも、ヤベェ…考えてた以上の名家だった。
ビビっている場合ではない。ヤベェことは、あとで考えるとして。
ここは、引けないのだ。
「じゃあ俺は、貴方を呼び捨てにする。堺も、俺を青桐と呼んでくれ」
そうか、青桐か。
己も青桐になるのだ。
ここも慣れていかないとな。己は、青桐。
「そんな大それたこと…困ります」
将堂といったら、北東を一手に仕切る大名家。その部下ならば、上下関係に厳しい統制がされているのだろう。
でも、己が欲しいのは部下の堺ではなく。伴侶の堺なのだ。
そのためには、ここで一線引かれるわけにはいかない。
「人目が気になるなら、ふたりのときだけでもいい。俺、今なにもわからなくて。心細いんだ。そうして距離を置かれると、なんだかひとりぼっちのような気になって悲しくなる」
柄ではないが、少ししょんぼりして見せる。
堺が記憶なんか奪うから、こうなったんだよ。さぁ、手の中に落ちて来い。
「わかりました。ふたりのときだけ、青桐と呼ばせていただきます」
よっし、名前呼びで親密度をあげていけるな。
それにふたりだけの秘密みたいで、いいじゃん?
「良かった。よろしくな、堺?」
先ほどは、彼に握られた手。今度は、こちらから堺の手を握る。
相変わらず、冷たい手。
でも自分は体温が高めだから、むしろ気持ち良くて、心地よくて。
ずっと握っていたい。
「あの、青桐…の、今の状況を説明したいのだが。よろしいですか?」
おずおずと彼が言い出したので、青桐は手を離して、うながした。
説明は、おおよそこんな感じだった。
敵に矢を射掛けられ、落馬した己は、そのとき頭を打ち。どうやら記憶を失っているようだ。
本当は、堺が記憶を奪ったのだけど。
なるほど、そういう設定なのだな?
将堂と手裏は、戦をしている。己は将堂の次男であり、将堂軍の准将であり、右軍総司令官である。
おいおい、まんま、将堂赤穂じゃねぇか。
山の中で暮らしていても、将堂と手裏が戦をしていて、将堂の大将が金蓮、准将赤穂。手裏の総帥が手裏基成って名前くらいは知っているよ。
顔は、知らないけど。
「ふーん、なんだか物語を聞いているようだ。全く、自分の話のように思えない」
青桐は頭を抱えたい衝動に駆られた。
頭が痛いフリをして、うつむき。こめかみがピクピクするのを隠した。
もう、誰か夢だと言ってくれ。
こんな大きな話になるとは思わなかった。困惑極まりないよ。
あぁ、でもでも。ひとつ、重要なことを確認しておかないとな。
「あの、俺に家族はいますか? なんとなく…堺は俺の家族のように思うのですが。気のせいですか?」
青桐にとって一番重要なのは。堺の立ち位置だ。
先ほどの求婚をあったことにして、伴侶だと認めるのか?
なかったことにして、部下の地位にとどまるのか?
それを確かめておきたかった。
「貴方には、兄上様がいらっしゃる。将堂金蓮様という、将堂家の当主であり、将堂軍の大将です。御両親は他界されていますが。青桐様には兄弟も親戚も大勢いらっしゃいます」
くそっ、なかったことにされた。
いら立ちで、青桐は大きく首を振った。
堺は、家族はいます、安心してください、というような顔で微笑んだが。
違うんだ。
己が欲しいのは、偽物の家族ではなく、堺なのに。
「わからない。思い出そうとすると…頭が締めつけられるように、痛い」
堺の顔を見ているのが苦しくなって、一時逃れをする。
傷ついた。この話は、もういい。
「無理をしてはいけません」
堺は頭を抱える青桐の肩をさすり、そっと、優しく布団に横たえた。
苦し紛れの行動だったけれど、逆に堺は、青桐が本当に記憶を失ったことで後遺症に苦しんでいるのだと思い込んだようだ。
「堺、そばにいてくれないか」
駄目押しで、心細そうに堺の袖口を握る。
己が頼れるのは堺だけなのだと、強く印象づけておきたい。
だから、己を見捨てることもなかったことにすることも、許さないよ。
「医者を呼びに行くだけです。青桐。もしもなにもわからなくて、不安なら。知りたいことは、なんでも教えますから。安心して。今はゆっくり休んでください」
聞いているだけで、気持ちが落ち着いてくる、いい声だ。
ずっと耳にしていたい。
もう少しそばにいてほしい。そう言おうと思い、口を開くが。
でも、こちらも。いったん情報を整理したい。青桐は渋々、彼から手を離した。
★★★★★
部屋を出て行った堺が、引き戸をぴったりと閉める。
足音が遠のいたのを確認し…青桐は。重くて長いため息をついた。
なんとか、記憶がない態で切り抜けられた。安心感が、胸に迫る。
そばにいてくれ、は。ちょっと女々しすぎたかな?
しかし心細さを演出するには、あれくらい大袈裟な方がいい。
それで堺の心を掴めるのなら。
それにしても…。
ふっざけんな、じじぃっ! 赤穂の身代わりとか、あり得ねぇんだけど。
つか、赤穂は? 赤穂はどうなった?
己を身代りにするということは、赤穂は不在ということだ。
記憶を奪ってまで己をこの位置につけるってことは、己が赤穂として生きていく、ということなのか?
大人物過ぎだろう。
ならもっと、ちゃんと稽古つけといてくれよぉ。
将堂の猛犬、血塗られた闘将、龍鬼も裸足で逃げ出す凶戦士、ヤベェふたつ名しかねぇやつだぞっ。
つか、ちゃんと教えておいてくれよ、腰抜かすわっ!
脳内で、激しく罵詈雑言を叫び終わったところで。
堺が呼んだらしい、医者が部屋に入ってきた。
「頭痛がするんだって? あまり思い詰めたら駄目だよ?」
のんびりした口調は、なにやら穏やかな気持ちにさせる。医者に向いている男だな。
気を静めるお茶というものを差し出され。青桐は身を起こして、ひと口飲む。
そして、医者に聞いた。
「先生。俺の記憶喪失はいつ治りますか?」
「さぁ、こればかりは医者でもわからないな。だが、慌てることはない。無理に思い出そうとすると、頭痛が引き起こされてしまうから。自然に任せるのが一番だよ」
この医者は、将堂の上官が記憶喪失だと聞かされても、飛んでくることはなく。記憶を取り戻す努力をするなと言う。
つまり予定調和だ。
医者も堺も、おそらくこの屋敷にいる者はみんなグル。
「…以前の俺は、どんな男でしたか?」
顔が似ていても、別人だ。
そのように振舞えなければ、おかしいと思われてしまうのではないかと思った。
「んー、准将は苛烈な男であったが。記憶を無くした青桐様が、必ずしも元の苛烈な男になるとは限らない。元の自分を意識することなく、心のままに過ごされた方が、お体に障りませんよ」
記憶喪失という免罪符で、少しくらい前と違う行動をとっても大丈夫、ということか。
なら、少し気が楽だな。
「わかりました。少し休みます」
「頭痛の薬はいるかい? 薬はどのようなものでも、頼りにしない方がいいのだが…」
「いりません。お茶で、だいぶ楽になりました」
変な薬を盛られて、これ以上なにかをされるのは嫌だし。意識のない間に、なにか起きるのも困る。
わからないことだらけだから、油断したくない。
布団にもぐって、寝たふりをすると。医者が部屋を出て行った。
そして、青桐は再びため息をつく。
演技なんか、したことがなかったが。堺以外の人物と会っても、なんとかうまくやれた。
爺さんと、子供のときにやった『殿様ごっこ』が役に立った…。
ああぁぁーっ、もしかして、こうしてかしずかれる日が来るのを知っていて、って、じじぃっ!!
青桐は、死んだ爺さんに、ツッコミを入れるのが疲れてきた。
今日はいっぱい驚いたが、普段の精神鍛錬のたまもので、翼をピクリとも動かさずに済んだ。
なにもかも、爺さんがいつかの日のために仕組んだことだ。
精神操作を破る、技のことも。
赤穂のことを言わなかったのも、もしかしたら、特に事が起きなかったときなんの憂いもなく巣立ちができるようにという。爺さんの配慮だったかもしれない。
だって、実際。こんなにもビビっている。
将堂赤穂の身代わりなんて、普通に考えて無理。
あぁ、そのための記憶操作だったのかもな。ぼんやりとしている間に、既成事実を作ってしまうという…。
優しいような、乱暴なような。
逃げちゃうか?
一般人がいきなりこんな大きな家の次男おさまるなんて、できっこない。
そりゃ、爺さんに。礼儀作法などは教えてもらったけれど。
それが通用するのかは、わからないし。
ちょっと怖気づいた青桐は、窓に近寄っていった。
腰掛けの高さで、障子が閉まっている。
障子を開けると、雨戸が閉まっている。雨戸を開けると、外気だ。
雪が積もっていて、すごく寒い。
それで、この部屋が暖かいのだと気づいた。部屋の隅に、七輪があった。
まぁ、それはともかく。
窓の外は、綺麗な庭だ。腰高の窓から、風景を切り取って見るように手入れされた、計算された美しさ。
その奥は、背の高い塀で囲まれている。
昨今は翼を使えない者が増えているようだが。
青桐は、翼ももちろん鍛えていて、自在に操れる。
しかも猛禽の羽なのだ。屋敷の塀など、あってないようなもの。逃げることはできそう。
しかし、ここがどこだかわからない。
将堂の幹部がいるなら、富士か? あとせめて、靴とか衣類とかも揃えないと、凍死する。
青桐は雨戸を閉め、窓を元の状態に戻すと。部屋を出た。
他に、外の景色が見える場所。靴や服がないか、探った。
すぐに逃げるわけじゃない。ただ既成事実を作られる前に、選択肢を増やしておきたいだけだ。
やっていけそうなら、爺さんの遺言でもあるし、手助けしてもいい。
堺のことも、諦めきれない。
できれば嫁にして長野に帰ることが出来たら、最高だが。
右将軍と言っていたから。名家の出かもしれないし。無理かなぁ。
いやいや、結婚に承諾したのだから。ここは強気で取りに行かなきゃ。
少し戸が開いた部屋があり、中に入ると。掃き出しの窓が開いていて、外の大きな庭の全景が見えていた。
青桐が濡れ縁に出て行くと。庭の真ん中でたたずむ、堺の後ろ姿をみつける。
夜、暗くて、灯りはなかったが。堺の白い髪が満月の光を吸い込むかのように輝いていた。
まじで?
なんでこんなに、綺麗なんだ?
逃げようかなんて、ちょっと思ったけれど。
この美しい人が、己との結婚を承諾したのだ。それをなかったことにして逃亡するなんて、愚の骨頂だ。
青桐は、逃亡計画をとっとと破棄し。濡れ縁の下にあった、踏み石に置かれた草履を引っかけて、堺に近寄っていった。
すると彼は、地に膝をつき、月を見上げて泣いていた。
まるで、かぐや姫が月に帰りたいと泣いているかのような、幻想的な風景。
でも、月には帰さないよ。
「…しき」
堺がつぶやいた言葉が、青桐の胸に突き刺さる。
なに? 人の名前か?
まだ、確実に自分のものというわけではないのに。なんか、物凄くイラッとした。
自分の知らない誰かを思って、堺が泣いているのだから。
心に波風が立つこと自体が、青桐にはあまりなかった。
だから、この不快な感情がなんなのかわからなくて。ただただ、腹立たしいのだと思ったのだ。
でも、いきなり堺が。地面に積もった新雪に顔を埋めたから。
不快な感情が、霧散するほどびっくりした。
堺は、なにをやっているのか?
遊び? いやいや、美しい顔がしもやけになってしまうではないか。
青桐は、慌てて堺に駆け寄った。堺の名を呼び、彼の身を雪から引き起こす。
白い顔は、雪の冷たさに、逆に色づいている。
薄青の目はキラキラ輝いて、でも頬は涙に濡れている。
「大丈夫か? 泣いているのか?」
泣きやんでほしくて、青桐は堺に微笑みかけるが。
目にたまった雫が、ひと筋、ハラリと流れ落ちる。
もう、何度、惚れさせる気だろうか?
儚げな、その表情…抱き締めて、慰めてやりたい。
が、ここはグッと我慢。まだその時期じゃない。
もっと、しっかりと彼を捕まえてからでないと、脅えて飛び去ってしまう。
「どうかしたのか? その、胸に抱えている手紙に、なにか悪いことでも書いてあったのか?」
己の伴侶を泣かすとか、許さねぇ。
しき、が人かどうかわからないが。許さないからな。
「いいえ、これは嬉しい知らせです」
それはそれで、むかつくんですけど。
堺の心を揺さぶる、しきというものが。
「嬉しい知らせで、顔を雪につけてしまうなんて。案外、子供のようなことをするのだな。ほら、頬がこんなに冷たくなって…」
内心ドキドキしたが。それを隠し、手のひらで堺の頬を包む。
案の定、氷のように冷たい。
本当に、氷の彫像、氷の精霊なのではないだろうか。
でも、動いている。体温がある。手で触れられる。
確かめるように、でも怖がらせないようにそっと、中指の背で頬の輪郭をたどった。
堺は無垢な眼差しで、青桐をみつめている。
己の邪な気持ちを感じていないのか、されるがままだ。
わからないのなら、その方がいい。
そのまま青桐は、堺の髪をすいていく。
指の隙間をすべる白い髪は、透き通っていて。なめらかで、優しい触り心地だ。
自分の髪などごわごわで、一本一本の主張が激しくて、なんの感慨もないただの髪だが。
堺の髪は、なんてしなやかなのだろう。
「絹糸のように、綺麗な髪だ。それに…堺は可愛らしい」
ただ、青桐の手の感触に身を委ねていた堺が、我に返ったように目を見開いた。
カッと、頬を赤く染めるが。
そんな表情の変化は、彼が本当に生きているのだと実感して、嬉しくなる。
「かっ!? なんてことを…。それに私は、貴方より年上なのに。子供のようだなんて」
年上か、姉さん女房だな。
それに今の恥じらう顔は、今まで見てきた綺麗な顔とは少し違って。いい。
「なぜ? 大人でも、可愛らしい人は可愛らしいものです」
「そんなこと、言われたことがない」
綺麗な人だから、可愛いと言われたことがないのだろうか?
「なら、俺が初めてなんだ」
可愛らしい堺を知っているのは、己だけ。
ゆっくり青桐は立ち上がり、堺に手を差し伸べる。
「貴方の初めては、全部、俺が貰う。いいな、堺?」
これは、宣言だ。堺のすべてを。堺の初めてを。俺が奪い。俺だけのものにするという。
堺は、きょとんとしている。
なにを言われているか、わかっていないのかもな。
でも、それでいい。それがいい。
こんなに美しい人が、誰にも手折られずに来たなんて。奇跡に近いけど。
ちょっと、考えられないけれど。
堺がなにも知らないのなら、ふたりで少しずつ階段を登っていける。
己も、知らないからな。
「なんて、ちょっと、格好つけちゃったかな?」
真剣な気持ちではあったけれど、脅えさせないように少しおどけて見せる。
青桐の知識は、書物の中のものしかないから。教えてあげるなんて大それたことは言えない。
青桐の手を取った堺を、雪の地べたから引き上げる。堺は長身だけど、立ってキスすることなどそうはないから、なにも問題はない。
でも、もしかしたら。背が高いから、誰も堺と付き合おうと思わなかったとか?
そんなことで?
堺の反応が可愛いものばかりだから。
それに、結婚の承諾をしてくれたから。
堺は結婚していない、恋人もいないと思っていたけど。
本当に純粋なのかなぁ?
口説いていることにも気づかないし。誰にも、口説かれたことがないのかな?
誰も触れていないのかなぁ? 美しい、この人に。
青桐は、握る堺の手を、親指で意味深に撫でてみた。すると、ポッと頬が赤くなる。
初心だ。可憐だ。清らかだ。
「堺は、恋人いるのか?」
我慢できなくて、単刀直入に聞いてしまった。
そうしたら、薄青の瞳が少し陰った。
「…私は龍鬼ですから」
答えになっていない。と青桐はこのとき思ったのだが。
その言葉の意味を、まだ知らなかったのだ。
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