上 下
94 / 159

65 雨の慕情 ①

しおりを挟む
     ◆雨の慕情

 青桐は、部屋の障子を開ける。
「だいぶ、降ってきたなぁ」
 外は雨模様。美しく整えられた庭園が、しとどに濡れているのが見えた。

 この部屋は、夜、使用することが多く。いつもは、雨戸で閉ざされているのだが。
 庭の中央には、立派な松の木があって、見事だ。
 今日はあいにくの天気だが、もっと早く、庭園を堪能すれば良かった。

「そうですね。紫輝は途中、降られていなければよいのですが」
 堺が言うのに、青桐はこめかみを震わせる。
 また、逃げられたのだ。

 青桐の屋敷から、堺の屋敷へ戻って来たとき。青桐は、紫輝の首根っこを捕まえようとした。
 今日こそ、いろいろ聞き出してやると思って。
 そうしたら、あの黒猫耳は。気配を察知したようで。
『雨が降るから、今日はこれまで』と言って、黒馬に乗ってシャッと帰りやがった。
 あいつめっ。

 金銭のことは、赤穂の許可があるようなので、遠慮なく使わせてもらうつもりだが。
 他にも、己と赤穂が入れ替わる件や。
 金蓮が赤穂を殺していないという、その詳細とか。
 そもそもあいつは、なにをしようとしているのか、とか。

 マジで。早急に知りたいのにっ。

 紫輝は、赤穂が生きているのを知っていて、愛鷹山まで己に会いに来たわけだ。
 もちろん、親友の堺が、やりたくもない命令に従わなければならなかったことを心配して…という理由もあるのだろうが。
 なんとなく、泳がせられているような。
 あいつの手のひらの上で踊らされているような。そんな不快感がある。

 知らない間に、というのが、青桐は嫌なのだ。
 利用とか誘導とかされるのではなく。裏があるなら、それを知り、その上で動きたいではないか。

 紫輝からは、その説明が聞きたいのだ。
 紫輝の、思惑を。

 そうは言っても、ザザッと音が鳴るほどの本降りだ。今日はもう、外に行く活動はできそうにない。
「こういう日は、本でも読んで、のんびり過ごしたいものだな?」
「少しですが、屋敷に所蔵している本があります。見てみますか?」
 堺の言葉に、一も二もなく、うなずいた。
 青桐は、読書が趣味なのだ。

 一番好きなのは、道場で剣術をすることだが。余暇は、本を読みたい派。
 山の中で、人と会わずに、修行僧のような、己を律する生活をしてきた中。青桐の知識欲を満たしてくれたのが、書物だった。
 爺さんは、本には、世の大概のことは書かれていると言い。青桐もそう思って、与えられた本は、片っ端から読んだ。
 何度も繰り返し読んだ。ソラで口に出して言えるほど、本の知識は身に染み込んでいる。
 書物は貴重だ。
 いわゆる、金額がお高い。
 しかし、質素な生活を送りながらも。爺さんは、本を買う金は惜しまなかった。

 ここに来て、きこりのときに使っていた山小屋が、どうなっているのか、気になった。
 特に、私物で取り返したいものなどはないのだが。
 本だけは回収できたらいいなぁと思っている。
 ま、覚えているから。いいと言えば、いいのだけど。

 人気のない廊下を進み、堺に案内されたのは、薄暗い小さな部屋だ。
 少し高い位置に、小さな窓があり。それだけが、明り取りになっている。
 堺がランプに火をつけると、壁一面に蔵書が並び、床にも本棚に入りきらない書物が積まれてあった。

「見かけると、つい買ってしまって。整理が行き届かず、お恥ずかしいのですが」
「いやいや、すごいよ、この本の量。ワクワクする」
 青桐は本の背表紙を、指でなぞって、端から見てみる。
 読んだ本もあるが、見たことのない本もいっぱいあるじゃん?
 寝入るまでのちょっとの時間が、空虚だったのだが。これで時間を無駄にすることはなくなる。

「飛ばした本は、興味がないのですか?」
 堺の言葉に、青桐は、なにげなく答えた。
「いや、読んだことあるから…」

 そこまで言って、しまったと思った。

 知識があるのはともかく、以前読んだ本の題名を覚えているのは、記憶を縛られた者として、アリか、ナシか?
「覚えているのですか? どんな本を読んだのか。題名も、内容も?」
 ナシだったか。
 青桐は手に取っていた本を棚に戻し。堺の手を取って、床板に座り込んだ。

「ごめん、堺。記憶は戻っている」
 堺は、今までにないくらい驚いて。そして薄青の瞳をおどおどと泳がせた。
「いつ…どうして…」
「う、ん。初日からかな? 記憶喪失のフリをしていたのは。堺にもう、記憶を奪われたくなかったから」

 言うと、堺は深く頭を下げ、土下座した。

「申し訳ありません。申し訳…」
 声を震わせて、涙をぼろぼろこぼす堺が。あんまり可哀想で。
 青桐は手で、堺の肩に触れ、頭をあげさせた。

「大丈夫だよ、堺が命令されて、そうしたことは、もうわかっているし。ただ、ちゃんと赤穂の身代わりをするから、もう記憶は消さないでほしい。俺は、堺と過ごした日々を忘れたくないんだ」
 堺は目を丸くして、青桐を信じられないというような顔でみつめる。

「許す…のですか? なんで、怒らないのですか?」
 まるで叱られたい、罵られることが当たり前、と思っているようだった。
 しかし青桐は、怒りは、初日に昇華してしまっている。

 それも、堺のせいなどと思ったことは、不思議と、一度もなかった。
 いや、不思議ではない。
 意識が薄れた、あのときに聞いた『私の一生は、貴方のものです』という悲壮な声に。彼の悪意を、全く感じなかったからだ。
 堺自身が、己の記憶を、奪いたいと思って奪ったのではないことを、初めからわかっていた。

「どうして、私など…貴方の記憶を奪う、悪魔のような私を、許すのですか?」
「堺が悪魔のよう、ではないんだ。堺の能力を利用しようとする、行使した者が、悪魔なんだ。堺は逃れられなかった。だから、堺自身は悪くない。こうして、ずっと、気に病んでいたのなら。むしろ、黙っていた俺の方が。申し訳なかったと思うよ」

 青桐は、泣く堺の頬に、そっとくちづけた。
 癒すように、甘やかすように。
 でも堺は。驚いて、身を離してしまう。

「私、などに…私、などに…」
「堺、俺は。すべてを覚えていると言っただろう? もちろん、ずっと言い続けてきた、堺を愛しているという言葉にも。嘘はないよ。初めて会ったとき、俺が求婚したの、覚えている?」

 堺はうなずいた。もちろん、覚えている。
 龍鬼である己に、龍鬼でない普通の人が、求婚するなんて。あり得ないこと。
 それが、一時の気持ちでも。
 忘れ去られてしまう、気持ちでも。
 青桐のその言葉は、堺にとって、キラキラに輝く宝物のように尊い言葉だったのだから。

「結婚してと言って、君は、俺と一緒になると誓った。だから、もう堺は、俺の伴侶なんだよ? 記憶を奪われたくなくて、記憶喪失のフリをしたのは。堺が俺との結婚に承諾した、そのことを忘れたくなかったから。記憶喪失のフリまでして、ここまで来たのは。堺と結ばれるまでは、君のそばにいたかったから。最初から、俺は、堺のことが好きで。一目惚れで、初めは容姿にかれたけれど。今は、可愛らしくて、凛々しくて、優しい堺の人柄にも魅かれている。なにもかも、堺を手に入れるためにしてきたことだ」

「私のため? 私を手に入れる、そんなことのために、今まで演技を?」
「そんなことじゃない。俺にとっては、人生を揺るがす、大一番だ。堺が手に入るなら、赤穂の地位も財産もいらない。堺だけが、欲しかった」

 誰にも求められなかった自分を、これほどまでに求めてくれる、青桐のその気持ちに、堺は身震いした。
 体の奥から、嬉しさが湧き上がり。涙が止まらなかった。

「青桐様の記憶を奪ったのが、私だと知られたら、嫌われてしまうと思っていました。貴方の人格を無視して、別人に仕立て上げ、嘘の人生を歩ませようとした。そんな私に、怒りを向けるのは。当然のことです。嫌悪の目を向けられることを、覚悟していました。でも、私はズルいから。貴方が私を見限るまでは…貴方のそばに置いてもらいたくて。それまで、だけでも…」

 堺の頬を優しく撫でる、青桐の手に、手を重ね。
 目でも言葉でも、青桐に問いかける。

「いいのですか? 私は、貴方のそばにいても。ずっと、そばにいても?」
「あぁ、ずっと。生涯。死がふたりを分かつまで…いや、そのあとも。永遠に、そばにいてくれ。俺の龍」

 ふたりは手を握り合い、どちらからともなく唇を寄せ、甘くてとろけるくちづけをした。
 青桐にとっては、ようやくたどり着いた、愛の結実。
 堺にとっては、なにより欲しかった言葉、想いを、愛する者から与えられた歓喜。

 埃っぽく、小さな、書物庫の中で。まるで色っぽくはないけれど。ふたりにはそんなこと、どうでもいいこと。
 お互い、目の前の愛する人のことしか、目に映っていなかった。

 くちづけをほどいたあとは、お互いの体温を間近に感じながら。ザアッと降る雨音が響く部屋の中で、しばらく寄り添っていた。
 体から、なにかがあふれそうな心地がする。
 幸せが満ち足りるって、こういう気持ちなのかな、と。ぼんやり堺は考えていた。

「でも、どうして、能力がすぐ解かれてしまったのでしょう。それとも、失敗した?」
「いや、効いてたよ。術を掛けられてすぐは、俺は自分が何者か、わからなくて。ぼんやりしていた。でも、精神を鍛えていて。俺を育ててくれた爺さんは、精神を操る龍鬼は、記憶を縛るのだと言って。頭がぼんやりしたら、こうして額をグルグルするといいって、教えてくれたんだ」
 青桐は己の肩に身を寄せている堺の額を、指でコチョコチョした。

「なぜ、私の術を、お爺様が知っているのかとか、ツッコミどころが満載なんですけど。くすぐったいです、青桐様」
 首をすくめて、フフッと吐息で笑うが。嫌がって離れることはない。
 すごく甘えているように感じ、青桐は良い気分でくすぐり続けた。
 堺の額は、つるつるしていて。くすぐるこちらの指先も、心地いい。

 くるくると、まるで愛撫のように、堺の額を撫でていたら。

 不意に、なにか指に引っかかりを感じた。

 ニキビとか腫物ではないのだ。なにもないのに、違和感がある。
 そして、そこを撫でると、堺はなぜか、痛がった。

「…っ、な、なんですか? 頭の中がビンと震えた」
「記憶を封じる糸が、堺にもある。なんで?」
 青桐がつぶやくと。堺は身を離し。床板に座り込んだまま、うつむいた。

「私には、一日分の記憶がないのです。それは八年前、両親が惨殺された、その日の記憶。兄が姿を消した、その日の記憶。記憶を縛る能力は、私の特異能力です。おそらく、自分で自分を縛ったのではないかと…」
「そんな危険なこと、しないだろう? 堺」
「わからない。わからないんですけど…私が両親を殺して、兄も殺して。恐ろしくなって、自分で縛ったのかも。ずっと、おかしいと思っていたのです。なぜ、あの日のことだけ、思い出せないのか。私は見ているはずなのに。真相を、知っているはずなのに。覚えていないなんて…」

 目を見開いて、堺だけが、なにか恐ろしいものを見ているような顔をしている。
 そのようなこと、あるはずないのに。
 彼がまるで、両親を、真実、殺したみたいに嘆くから。
 青桐は、堺を強く抱き締めた。

「俺は…堺と二週間しか、一緒にいない。でも、それでもわかることはある。堺は、両親も兄も、殺せない。そんな人じゃない。堺は優しくて、強くて、心根がとても清い人だから。俺は、断言できる。堺は殺していない」

 堺は思い出していた。紫輝にも、同じことを言われて、励まされたことがある。
 青桐も、紫輝も、自分のことを信じてくれるのに。

 自分だけが、自分を信じられない。

 真相が、どれほどひどいものなのか。知りたくない。
 知るのが、怖い。

 でも。もしも両親を殺した、兄を殺した、外道であるのなら。
 己は、青桐のそばにはいられない。
 その資格がない。
 外道であればもちろん、外道であることを知らなくても。
 外道なら、青桐のそばにいてはいけないと思う。

 ならば。知らないと。
 知って。己は青桐のそばにいてもいい人物なのか、自分で確かめないと。

「青桐様、私の糸をほどいてください」
 堺は、真剣な目を青桐に向け、強く決断した。

「もしも私が外道なら、青桐様のおそばにはいられません。でも、だから、知りたい。あの日の真相を。貴方のそばにいるために。貴方は私を、外道ではないと信じてくれた。その想いに賭けます」

 青桐はひとつうなずき。堺の額に指を引っかけた。
 糸をほどく場面を、強く、強く、思い描く。
 すると、指になにかが当たるのだが。それはすごく強情だった。
 それに触れるたびに、堺は痛そうな顔をする。

 ズキン、ズキンと、堺の脳内に強い痛みが走り抜ける。
 それは記憶の扉自体が、こじ開けられることを拒絶しているような、なんらかの力のように思えた。

「まだ、怖いのだろう? 脅えているのだろう? その想いが、糸をかたくなにさせている」
 青桐に言われ、堺は心細そうな目で彼をみつめる。

 怖い。
 己が、本当に両親を殺していたら?
 金蓮の言うとおり『醜い、見るに堪えない、兄殺しの男』だったら?
 せっかく、青桐が、記憶を奪った自分を許してくれたのに。また、離れなければならなくなったら?

「だから八年も、この糸は、堺の記憶を縛り続けた。真実を見たくないと思う堺の心が、糸を強固に、今も結びつけているんだ。でも、堺。俺は堺を信じている。堺も、俺を信じてくれ。絶対に、大丈夫。大丈夫」

 痛みが走るたびに、身をこわばらせていた。
 それは、糸をほどかせたくない、無意識の抵抗なのかもしれないと、堺は青桐に言われて、思った。

 青桐を信じて。堺は目を閉じる。
 なにもかも、青桐にゆだねる。
 強く、見えない糸を青桐が引っ張った、そのとき…なにかがプチリと千切れて。

 堺の脳内で、頑なに閉じられていた記憶の花弁が、ブワッと花開いた。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

SEXしないと出られない部屋

BL / 完結 24h.ポイント:518pt お気に入り:18

妹を庇ったら婚約破棄された、なので私は自由の身です。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,251pt お気に入り:35

左遷先は、後宮でした。

BL / 完結 24h.ポイント:752pt お気に入り:1,408

ちびヨメは氷血の辺境伯に溺愛される

BL / 連載中 24h.ポイント:44,484pt お気に入り:4,976

花となれ

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:161

イケメンリーマンにご用心。

BL / 完結 24h.ポイント:1,995pt お気に入り:3

浦島太郎異伝 竜王の嫁探し

BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:302

結婚したい男

SF / 連載中 24h.ポイント:276pt お気に入り:13

処理中です...