143 / 159
101 それで安曇はおしまいよ
◆それで安曇はおしまいよ
一方。幸直を無事に逃がした巴は、深い闇の中、ひとり立ち尽くす。
幸直がそばにいるだけで、熱くなっていた体が。
彼がいなくなったことで、急速に冷たくなっていく。
体の温度を変えるほどに、好き。なんだな?
己は、もうそこまで、幸直のことを愛しているのだ。
誰かのことを、こんなに強い気持ちで、好きだと思う心が。己の中にあることが、巴は不思議だった。
だから。
どうか、無事に本拠地にたどり着いてほしい。お願いだ。お願い…。
そう、真摯に祈ったあと。巴は振り返る。
銀杏のお供のふたりを、なんとか足止めしなければならない。
騒ぎを聞きつけて天幕から出てきた、大柄な方の男は、巴を前にして刀を抜く。
丸腰の巴は、なんとか体術で乗り切るしかないのだが。
ま、無理かな。
とりあえず、幸直のあとを、こいつらが追いかけなければいい。
巴は、彼を助けるという美談に、酔うことはない。
感情にのみ込まれることもない。
ゆえに、無理もしなかった。
怪我がなければ、いずれまた、彼らに隙が生まれる。そのときを待つのが合理的。
でも、幸直を逃がす時間は、なんとか稼ぎたいけれど。
それだけでいいのだ。
大柄な男が、小柄な方に指示する。
「おい、馬を追え。あいつをなんとか連れ戻せ。こいつに言うことをきかせるためのエサらしいからよ」
小柄な方は、小さくうなずき。駆け出そうとするが。
巴は彼の腕を掴んで、引き留める。
そのとき、一瞬だが。彼の目が和んだ。
ん? なんだ。と巴が思うそばから。小柄な男は目を吊り上げ、触んじゃねぇよっ、と怒鳴って、巴の手を引きはがす。
そして闇夜に消えていった。
気のせいか、と感じるが。
すぐに大柄な男に刀を突きつけられて。降参の合図に手を上げた。
ちっ、もう少し粘りたかったな。
キンと冷える空気の中で。ホーと、フクロウが鳴いた。
すると、ホーと別のフクロウが応える。
話をしているのだろうかと、なにやら微笑ましく思ったのは最初だけ。そのうち、あちらこちらで、ホーホーとフクロウが鳴き始め、森中を揺さぶるほどに響き渡った。
それは異様な感覚で。大柄な男も、なんだなんだと動揺するほどだ。
「もう、なぁに? これ。うるさいんだけどぉ」
天幕から、銀杏が、まだ眠そうに目をこすりながら出てきた。
そうしたら、フクロウの鳴き声がピタリと止まる。
森は再び、静寂に包まれた。耳に物が詰まったような不快な静けさだ。
なんなんだ? これは。
巴も、こんな現象は初めてで。目を丸くする。
どうやらフクロウも。銀杏のことは、お気に召さないらしい。
しかし、もしもフクロウが、この森にいっぱいいるのなら…日の光の下で目にしてみたいものだ。
でも、フクロウは夜行性だったかな?
「姫、こいつが、あの男を馬で逃がしたんです。今、島田が追いかけて…」
巴が思考の逃避行をしている最中、大柄な男が銀杏に報告している。
そこに、その小柄な島田とやらが戻ってきた。
「すみません、逃げられました」
男の言葉に、巴はひとつ息をつく。
やった。とりあえず幸直は、第一関門は突破した。
あとは、命のあるうちに本拠地に、それか軍の誰かに保護してもらえたら、それでいい。
怒り心頭の銀杏が、ずかずかと歩いてきて、巴の頬を平手で叩いたが。
幸直を逃がせたという達成感の方が強くて。全然、痛くなかった。
「あんた、馬鹿ね。自分が逃げれば良かったのに。あんな足手まといの、怪我人を逃がすなんて。どうせ、途中で死ぬわよ。もしかして、あの兵士が助けを呼んでくれるとか、馬鹿なこと思ってないわよね? みんな、自分の命が大切よ。恋人だかなんだか知らないけど、あんたなんか、誰も助けに来ないんだからねっ」
それはそれで、いいのだが。
そう思い、巴は小さく口を開いて、白い息を吐く。
幸直が自分を見捨てて、新たな幸せを探せるのなら、邪魔はしないよ。
ただ、生きていてくれるだけでいいよ。
巴は、幸直が死ななければ、それだけで良かった。
「足手まといはいらないと、言っていたじゃないか。手負いの男がひとり逃げても、どうでもいいだろ?」
「…それもそうね」
ふん、と鼻で笑って、天幕に戻ろうとする銀杏に、巴はたずねた。
「あんたは…姉さんは、なんでこんなことをするんだ? 今更、本物の基成が出てきたところで、なにも変わらないと思うんだけど」
手裏家というのは、徹底した秘密主義の家だった。
姉がいるというのも、巴は十六になるまで知らなかったくらいで。
だから。巴は。全然、彼女の顔を覚えていなかった。
それこそ、幸直や安曇ほどの強烈な印象がなければ、巴は人の顔など基本覚えないので。なおさらだ。
だから、初対面の人を姉さんと呼ぶ違和感が、半端ない。
しかし、姉だというのなら、姉さんと呼ぶしかないのだろう。
座敷牢で姉さんに対面したのは、薄っすら記憶があるので。まぁ、事実なのだろう。
それで、秘密主義の話だが。
巴は十六歳のときに、次期当主としてお披露目される予定ではあったが。不甲斐なかったもので。次期当主は弟の基晶に決定していて。
後継のお披露目をしなければ、軍の幹部や親戚筋などに顔見せすることもないのだ。
ゆえに、己の顔など、誰も知らないと思うんだけど。
「そんなこと、ないわ。みんな、安曇に騙されているのよ。安曇が基成に成り代わっていたと万民に知れれば、それで安曇はおしまいよ」
自信満々に、銀杏は言うのだが。
だから、この折れた翼で、己が基成だと、どうやって証明するのか。
証明したとして、今の安曇よりも有能でなければ、己など誰も見向きもしないのではないか。
巴はそういうことを聞きたかったのだが。
微妙に芯がずれている。
「安曇が騙したとして、それのなにがいけないんだ?」
とつとつと、巴は銀杏に質問を重ねていった。
最終的に、寝不足で、足が重くなればいいと思っている。
そうすれば、将堂領内にいる時間が増え、脱出する機会も増えるから。
手裏の領地に入る前に、誰かが来てくれたら、ありがたい。
もし来ないのなら、それでも良いけど。
手裏基成の傀儡と成り果て、幸直と対峙する前に、自害するだけ。
目の前に幸直がいなくて、絵も描けないのなら。
己の人生は終了ということだ。
「なにって、馬鹿なの? 騙されたら、腹が立つでしょ? みんなが安曇に冷たい目を向けるわ」
お供の者に手を縛られながら、巴は首を傾げる。
銀杏は、先ほどから安曇の話しかしていない。
「あんたは、僕を手裏に戻して、なにがしたい? なんで手裏を掌握したいんだ?」
「私は、あの男から奪いたいだけよ。すべて奪って、泣きながら私の前にひざまずけばいいの」
立って話すのが疲れたのか、銀杏は焚火の前に座り込む。
自分も少し距離を置いたところに腰かけた。
あの男というのは、やはり安曇なのだろう。
銀杏が安曇に執着しているのが、見え見えの、頭の悪い会話に。巴は焦れ焦れしつつも。
話をなんとか引き延ばす。
「奪ったあとは? 安曇から手裏家の当主の座を奪い、なにかやりたいことがあるのか?」
「ないわ」
あっけらかんと言い放つ銀杏に、巴は頭痛を覚えた。
「…ないのか? 手裏家の当主になるのだろう? 手裏をこれからどうしていきたいんだ?」
「それは、現状維持でいいじゃない?」
その、賢龍と言われる安曇が構築した組織図を、維持するのが、どれだけ大変か。この女、ちっともわかっていないな。と巴は思う。
少なくとも、剣術に明け暮れた己が、それを出来るとも到底思えないが。
「現状維持なら、あんたが当主になる旨味がない。今の基成は、実直に領地経営をしているのだろう? 姉さんに、部下は誰もついてこないぞ」
「うるさいわねぇ、あんたが安曇を殺せばいいのよ。そうすれば、位を継ぐのは、あんたしかいなくなるんだから、それでいいじゃない?」
ええぇ? 己が殺すの?
つか、普通に戦って殺せる相手とは思えない。
勇猛果敢、疾風怒濤の名君だろ? 無理無理。
もう、これはとっとと尻尾を巻いて逃げ出すしかない。…安曇と顔を合わせる前に。
そう、心の内では決めたものの、もう少し説得してみることにした。
「そんな短絡的なことで、何万もの手裏の領民を不安にさせるのか? 今まで話を聞いてきて、姉さんの経営戦略が全く見えてこない。今後の計画は? 展望は? あんたはマジで、当主になって、なにがしたいんだ?」
「だから言っているでしょ? 私は安曇が這いつくばって私に命乞いするところが見たいだけよ」
「何万の領民は…」
「うるさいっ、そんなの知らないわよ。経営も戦略も財源も全部、不破がやってくれるもの。大丈夫よ。あんたは黙って、私の言うことを聞いていればいいのよっ。もう、なにも喋らないで」
銀杏はキレて、天幕に戻ろうとする。
結局、手裏の展望など、領地のことについてはなにも触れない。いや、考えていないのだろうな。
そんなのが当主になったら、たちまち西は没落する。
銀杏は不破に、難しいことは丸投げする気のようだが。不破が、安曇を殺されたあとも、粛々と働いてくれるとは限らない。
いや、ない。断言できる。
あぁ、困った。もう、背を向けたものではあるが。なんの罪もない領民が、頭の悪い女のせいで、苦境に立たされるのを、さすがに黙って見てはいられない。
ま、自分が基成に戻る気がない時点で、銀杏の望みは叶わないことは決定している。
領民が飢えることはないだろうけど。
「なぁ、安曇って、どんな男なんだ?」
天幕の入り口に手をかけた銀杏に、巴はたずねる。
銀杏は安曇を憎からず思っているのだ。好きだから、これほどに執着するのだ。たぶん、そう。
銀杏の、怒りでも好意でも、安曇の名を出したら引っかかると思ったのだ。
案の定、銀杏は不機嫌そうに、巴を振り返った。
「はぁ? なんであんたが、安曇のことを知りたがるのよ?」
「消耗していない僕が、なんでわざわざ、手負いの男を逃がして、ここに残ったと思っているんだ? 僕が手裏基成に戻ると決意したからに、決まっているじゃないか。だから、今基成をやっている安曇眞仲が、どんな男か知っておきたいんだよ。成り代わりに成り代わるためにな」
全く熱量のない平坦な声で、巴は銀杏に告げる。
そんな気は毛頭ないが。ま、辻褄は合っているだろ。
銀杏はまんざらでもない顔つきで、焚火の前に戻ってきた。
そうそう、まだ寝させないよ。せいぜい寝坊して、出発を遅らせないとな。
「手裏基成はね、私と安曇と不破の三人体制でやってきたのよ。あんたが手裏から追い出された日、私はあのふたりに、座敷牢から救出されたの。不破も、とても美しい容姿をしているけれど。安曇はもっと、目にまぶしい美形でね。私、あんな美しい人物を、今でも彼以外に見たことはないわ。たくましくて。鼻が高くて。とにかくすっごい綺麗なのよ」
安曇が綺麗なのは、知っている。
巴も、あの美しさには、胸が震えた。
つか、銀杏の語彙少なくね?
「男ふたりに女がひとり。私は安曇と不破に、手裏家の長子として、とても丁重に扱われたの」
夢見る顔つきで、銀杏は、安曇の賛辞を並べていく。
巴は笑みを顔に貼りつけて、うんうんと相槌を打つが。
なんだ、やっぱり安曇に惚れてんじゃん、と思っていた。
可愛さ余って憎さ百倍の、わっかりやすいやつ。
あぁ、超迷惑。
こんなことに、己らを巻き込まないでほしい。
絵を描いて…できれば幸直のそばで、静かに過ごしたいだけなのに。
巴はそう思い、胸の内でため息をついた。
一方。幸直を無事に逃がした巴は、深い闇の中、ひとり立ち尽くす。
幸直がそばにいるだけで、熱くなっていた体が。
彼がいなくなったことで、急速に冷たくなっていく。
体の温度を変えるほどに、好き。なんだな?
己は、もうそこまで、幸直のことを愛しているのだ。
誰かのことを、こんなに強い気持ちで、好きだと思う心が。己の中にあることが、巴は不思議だった。
だから。
どうか、無事に本拠地にたどり着いてほしい。お願いだ。お願い…。
そう、真摯に祈ったあと。巴は振り返る。
銀杏のお供のふたりを、なんとか足止めしなければならない。
騒ぎを聞きつけて天幕から出てきた、大柄な方の男は、巴を前にして刀を抜く。
丸腰の巴は、なんとか体術で乗り切るしかないのだが。
ま、無理かな。
とりあえず、幸直のあとを、こいつらが追いかけなければいい。
巴は、彼を助けるという美談に、酔うことはない。
感情にのみ込まれることもない。
ゆえに、無理もしなかった。
怪我がなければ、いずれまた、彼らに隙が生まれる。そのときを待つのが合理的。
でも、幸直を逃がす時間は、なんとか稼ぎたいけれど。
それだけでいいのだ。
大柄な男が、小柄な方に指示する。
「おい、馬を追え。あいつをなんとか連れ戻せ。こいつに言うことをきかせるためのエサらしいからよ」
小柄な方は、小さくうなずき。駆け出そうとするが。
巴は彼の腕を掴んで、引き留める。
そのとき、一瞬だが。彼の目が和んだ。
ん? なんだ。と巴が思うそばから。小柄な男は目を吊り上げ、触んじゃねぇよっ、と怒鳴って、巴の手を引きはがす。
そして闇夜に消えていった。
気のせいか、と感じるが。
すぐに大柄な男に刀を突きつけられて。降参の合図に手を上げた。
ちっ、もう少し粘りたかったな。
キンと冷える空気の中で。ホーと、フクロウが鳴いた。
すると、ホーと別のフクロウが応える。
話をしているのだろうかと、なにやら微笑ましく思ったのは最初だけ。そのうち、あちらこちらで、ホーホーとフクロウが鳴き始め、森中を揺さぶるほどに響き渡った。
それは異様な感覚で。大柄な男も、なんだなんだと動揺するほどだ。
「もう、なぁに? これ。うるさいんだけどぉ」
天幕から、銀杏が、まだ眠そうに目をこすりながら出てきた。
そうしたら、フクロウの鳴き声がピタリと止まる。
森は再び、静寂に包まれた。耳に物が詰まったような不快な静けさだ。
なんなんだ? これは。
巴も、こんな現象は初めてで。目を丸くする。
どうやらフクロウも。銀杏のことは、お気に召さないらしい。
しかし、もしもフクロウが、この森にいっぱいいるのなら…日の光の下で目にしてみたいものだ。
でも、フクロウは夜行性だったかな?
「姫、こいつが、あの男を馬で逃がしたんです。今、島田が追いかけて…」
巴が思考の逃避行をしている最中、大柄な男が銀杏に報告している。
そこに、その小柄な島田とやらが戻ってきた。
「すみません、逃げられました」
男の言葉に、巴はひとつ息をつく。
やった。とりあえず幸直は、第一関門は突破した。
あとは、命のあるうちに本拠地に、それか軍の誰かに保護してもらえたら、それでいい。
怒り心頭の銀杏が、ずかずかと歩いてきて、巴の頬を平手で叩いたが。
幸直を逃がせたという達成感の方が強くて。全然、痛くなかった。
「あんた、馬鹿ね。自分が逃げれば良かったのに。あんな足手まといの、怪我人を逃がすなんて。どうせ、途中で死ぬわよ。もしかして、あの兵士が助けを呼んでくれるとか、馬鹿なこと思ってないわよね? みんな、自分の命が大切よ。恋人だかなんだか知らないけど、あんたなんか、誰も助けに来ないんだからねっ」
それはそれで、いいのだが。
そう思い、巴は小さく口を開いて、白い息を吐く。
幸直が自分を見捨てて、新たな幸せを探せるのなら、邪魔はしないよ。
ただ、生きていてくれるだけでいいよ。
巴は、幸直が死ななければ、それだけで良かった。
「足手まといはいらないと、言っていたじゃないか。手負いの男がひとり逃げても、どうでもいいだろ?」
「…それもそうね」
ふん、と鼻で笑って、天幕に戻ろうとする銀杏に、巴はたずねた。
「あんたは…姉さんは、なんでこんなことをするんだ? 今更、本物の基成が出てきたところで、なにも変わらないと思うんだけど」
手裏家というのは、徹底した秘密主義の家だった。
姉がいるというのも、巴は十六になるまで知らなかったくらいで。
だから。巴は。全然、彼女の顔を覚えていなかった。
それこそ、幸直や安曇ほどの強烈な印象がなければ、巴は人の顔など基本覚えないので。なおさらだ。
だから、初対面の人を姉さんと呼ぶ違和感が、半端ない。
しかし、姉だというのなら、姉さんと呼ぶしかないのだろう。
座敷牢で姉さんに対面したのは、薄っすら記憶があるので。まぁ、事実なのだろう。
それで、秘密主義の話だが。
巴は十六歳のときに、次期当主としてお披露目される予定ではあったが。不甲斐なかったもので。次期当主は弟の基晶に決定していて。
後継のお披露目をしなければ、軍の幹部や親戚筋などに顔見せすることもないのだ。
ゆえに、己の顔など、誰も知らないと思うんだけど。
「そんなこと、ないわ。みんな、安曇に騙されているのよ。安曇が基成に成り代わっていたと万民に知れれば、それで安曇はおしまいよ」
自信満々に、銀杏は言うのだが。
だから、この折れた翼で、己が基成だと、どうやって証明するのか。
証明したとして、今の安曇よりも有能でなければ、己など誰も見向きもしないのではないか。
巴はそういうことを聞きたかったのだが。
微妙に芯がずれている。
「安曇が騙したとして、それのなにがいけないんだ?」
とつとつと、巴は銀杏に質問を重ねていった。
最終的に、寝不足で、足が重くなればいいと思っている。
そうすれば、将堂領内にいる時間が増え、脱出する機会も増えるから。
手裏の領地に入る前に、誰かが来てくれたら、ありがたい。
もし来ないのなら、それでも良いけど。
手裏基成の傀儡と成り果て、幸直と対峙する前に、自害するだけ。
目の前に幸直がいなくて、絵も描けないのなら。
己の人生は終了ということだ。
「なにって、馬鹿なの? 騙されたら、腹が立つでしょ? みんなが安曇に冷たい目を向けるわ」
お供の者に手を縛られながら、巴は首を傾げる。
銀杏は、先ほどから安曇の話しかしていない。
「あんたは、僕を手裏に戻して、なにがしたい? なんで手裏を掌握したいんだ?」
「私は、あの男から奪いたいだけよ。すべて奪って、泣きながら私の前にひざまずけばいいの」
立って話すのが疲れたのか、銀杏は焚火の前に座り込む。
自分も少し距離を置いたところに腰かけた。
あの男というのは、やはり安曇なのだろう。
銀杏が安曇に執着しているのが、見え見えの、頭の悪い会話に。巴は焦れ焦れしつつも。
話をなんとか引き延ばす。
「奪ったあとは? 安曇から手裏家の当主の座を奪い、なにかやりたいことがあるのか?」
「ないわ」
あっけらかんと言い放つ銀杏に、巴は頭痛を覚えた。
「…ないのか? 手裏家の当主になるのだろう? 手裏をこれからどうしていきたいんだ?」
「それは、現状維持でいいじゃない?」
その、賢龍と言われる安曇が構築した組織図を、維持するのが、どれだけ大変か。この女、ちっともわかっていないな。と巴は思う。
少なくとも、剣術に明け暮れた己が、それを出来るとも到底思えないが。
「現状維持なら、あんたが当主になる旨味がない。今の基成は、実直に領地経営をしているのだろう? 姉さんに、部下は誰もついてこないぞ」
「うるさいわねぇ、あんたが安曇を殺せばいいのよ。そうすれば、位を継ぐのは、あんたしかいなくなるんだから、それでいいじゃない?」
ええぇ? 己が殺すの?
つか、普通に戦って殺せる相手とは思えない。
勇猛果敢、疾風怒濤の名君だろ? 無理無理。
もう、これはとっとと尻尾を巻いて逃げ出すしかない。…安曇と顔を合わせる前に。
そう、心の内では決めたものの、もう少し説得してみることにした。
「そんな短絡的なことで、何万もの手裏の領民を不安にさせるのか? 今まで話を聞いてきて、姉さんの経営戦略が全く見えてこない。今後の計画は? 展望は? あんたはマジで、当主になって、なにがしたいんだ?」
「だから言っているでしょ? 私は安曇が這いつくばって私に命乞いするところが見たいだけよ」
「何万の領民は…」
「うるさいっ、そんなの知らないわよ。経営も戦略も財源も全部、不破がやってくれるもの。大丈夫よ。あんたは黙って、私の言うことを聞いていればいいのよっ。もう、なにも喋らないで」
銀杏はキレて、天幕に戻ろうとする。
結局、手裏の展望など、領地のことについてはなにも触れない。いや、考えていないのだろうな。
そんなのが当主になったら、たちまち西は没落する。
銀杏は不破に、難しいことは丸投げする気のようだが。不破が、安曇を殺されたあとも、粛々と働いてくれるとは限らない。
いや、ない。断言できる。
あぁ、困った。もう、背を向けたものではあるが。なんの罪もない領民が、頭の悪い女のせいで、苦境に立たされるのを、さすがに黙って見てはいられない。
ま、自分が基成に戻る気がない時点で、銀杏の望みは叶わないことは決定している。
領民が飢えることはないだろうけど。
「なぁ、安曇って、どんな男なんだ?」
天幕の入り口に手をかけた銀杏に、巴はたずねる。
銀杏は安曇を憎からず思っているのだ。好きだから、これほどに執着するのだ。たぶん、そう。
銀杏の、怒りでも好意でも、安曇の名を出したら引っかかると思ったのだ。
案の定、銀杏は不機嫌そうに、巴を振り返った。
「はぁ? なんであんたが、安曇のことを知りたがるのよ?」
「消耗していない僕が、なんでわざわざ、手負いの男を逃がして、ここに残ったと思っているんだ? 僕が手裏基成に戻ると決意したからに、決まっているじゃないか。だから、今基成をやっている安曇眞仲が、どんな男か知っておきたいんだよ。成り代わりに成り代わるためにな」
全く熱量のない平坦な声で、巴は銀杏に告げる。
そんな気は毛頭ないが。ま、辻褄は合っているだろ。
銀杏はまんざらでもない顔つきで、焚火の前に戻ってきた。
そうそう、まだ寝させないよ。せいぜい寝坊して、出発を遅らせないとな。
「手裏基成はね、私と安曇と不破の三人体制でやってきたのよ。あんたが手裏から追い出された日、私はあのふたりに、座敷牢から救出されたの。不破も、とても美しい容姿をしているけれど。安曇はもっと、目にまぶしい美形でね。私、あんな美しい人物を、今でも彼以外に見たことはないわ。たくましくて。鼻が高くて。とにかくすっごい綺麗なのよ」
安曇が綺麗なのは、知っている。
巴も、あの美しさには、胸が震えた。
つか、銀杏の語彙少なくね?
「男ふたりに女がひとり。私は安曇と不破に、手裏家の長子として、とても丁重に扱われたの」
夢見る顔つきで、銀杏は、安曇の賛辞を並べていく。
巴は笑みを顔に貼りつけて、うんうんと相槌を打つが。
なんだ、やっぱり安曇に惚れてんじゃん、と思っていた。
可愛さ余って憎さ百倍の、わっかりやすいやつ。
あぁ、超迷惑。
こんなことに、己らを巻き込まないでほしい。
絵を描いて…できれば幸直のそばで、静かに過ごしたいだけなのに。
巴はそう思い、胸の内でため息をついた。
あなたにおすすめの小説
繋ぎの婚約を契約通り解消しようとしたら、王宮に溺愛軟禁されました
こたま
BL
エレンは子爵家のオメガ令息として産まれた。年上のアルファの王子殿下と年齢が釣り合うオメガ令息が少なく、他国との縁組も纏まらないため家格は低いが繋ぎとして一応婚約をしている。王子のことは兄のように慕っており、初恋の人ではあるけれど、契約終了時期か王子に想い人が現れた時には解消されるものと考えていた。ところが婚約解消時期の直前に王子宮に軟禁された。結婚を承諾するまでここから出さないと王子から溢れるほどの愛を与えられる。ハッピーエンドオメガバースBLです。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。抱かれたら身代わりがばれてしまうので初夜は断固拒否します!
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
隣国の国王キリアン(アルファ)に嫁がされたオメガの王子リュカ。
しかし実は、結婚から逃げ出した双子の弟セラの身代わりなのです…
本当の花嫁じゃないとばれたら大変!
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだんキリアンに惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
【完結】転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
捨てられた生贄オメガ、魔王城で極上の『巣作り』始めます!~不眠症の魔王様、私のクッションで爆睡して溺愛モードに突入~
水凪しおん
BL
「役立たずのオメガ」として冷遇され、血も涙もない魔王への生贄として捨てられたリノ。
死を覚悟して連れてこられた魔王城は、寒くて硬くて、居住性最悪のブラック環境だった!?
「こんなところで寝られるか!」
極限状態で発動したオメガ特有の『巣作り本能』と、神業レベルの裁縫スキルが火を噴く!
ゴミ同然の布切れをフカフカのクッションに、冷たい石床を極上のラグマットにリフォーム。
すると、不眠症で常にイライラしていた魔王ザルドリスが、リノの作った「巣」のあまりの快適さに陥落してしまい……?
「……貴様、私を堕落させる気か」
(※いいえ、ただ快適に寝たいだけです)
殺されるどころか、魔王様に気に入られ、気付けば城中がリノの虜に。
捨てられた生贄オメガが、裁縫一つで魔王城を「世界一のマイホーム」に変える、ほのぼの逆転溺愛ファンタジー!
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。