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あの世の続き
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柔らかな光に包まれて、アネットは目を覚ました。どこからが夢で、どこまでが現実なのか。そもそも、死んでいるのか生きているのかもよく分からなかった。
あやふやな記憶を辿りながら目を開けると、見慣れない部屋にいる。昨日、宮殿にあてがわれた部屋だったと理解すると、アネットは諦めたようにため息をついた。その時、部屋の入り口でコンコンと音がする。誰かがノックしているようだ。
「アネット様。お目覚めですか」
「は、はい。起きました」
メリーが部屋に入ってきた。朝食の乗ったワゴンを押し、数人のメイドを連れている。彼女らは黙々と食事の準備を整えていく。
メニューは思いの外普通だった。目玉焼きとベーコンのソテー、デニッシュとコップ一杯の牛乳、レタスとトマトのサラダがベッド脇のテーブルに並んだ。
「お食事がお済みのころにまた伺います」
そう言うとメイド達は退出し、部屋は再びしんと静まり返る。アネットは昨日の昼からなにも食べていなかったことに気が付いた。夕方ここに通されてからすぐに寝てしまった。どうりでお腹が空いているはずだと思った。
アネットは朝食を食べながら、昨日の出来事を思い出していた。
昼間、近所のスーパーに買い物に出た時に事故に遭った。死んだと思っていたらこの宮殿で気が付き、瞳の色を大層珍しがられた。そして、そのために勝手にこの宮殿の王の后にさせられそうになっている。その後、疲れきって寝てしまい、先ほど目が覚めた。
衣食住を与えられているものの、部屋の内側からは鍵を開けることが出来ない。昨年結婚したばかりの夫は今頃どうしているだろうかと考え、アネットは再びため息をついた。
食事を終え、アネットはクローゼットを開けた。明るくなってから改めて見てみると、煌びやかでいかにも高級そうなドレスばかりがずらりと並んでいる。どれも美しかったけれど、普段着にするにはごてごてしすぎていた。アネットはその中からなるべく飾り気の少ないシンプルなワンピースを選び出し、着替えた。
白いシンプルなワンピースはウエストで切り返しが付いていて、膝丈の上品な物だった。靴も服に合わせてローヒールの白を選んだ。
昨日の生成りの囚人服のようなワンピースとは違い、計ったようにぴったりだった。生地もいくぶん上質なようで、滑らかな肌触りが心地よい。
一通り身支度を終えたとき、メイド達がやってきた。食事の片付けをし、メイド達は部屋を出て行く。メリーだけがその場に残り、アネットに言った。
「陛下がお呼びです。お着替えがお済みなら、参りましょう」
アネットはメリーの後を歩く。さらにその後ろにはビバルがおり、二人に挟まれるようにして王の間へ向かった。
「起きたか。アネット、もっとこちらへ来い」
アーツは玉座から立ち上がり、アネットに手を伸ばす。彼女が反射的に身をよじって逃げようとすると、アーツはさも面白ろそうに右の口角を釣り上げてニヤリと笑った。
「式までは手を出さん。安心しろ」
そう言うだけでアーツは引き下がり、再び玉座へと収まった。「魔王とは意外に律儀なものなのだな」とアネットは意識の端で思う。だが、すぐに昨日首筋に噛みつかれたことを思い出した。「首筋にキスをしたくせに」と言いかけたが、蒸し返してもろくなことにはならないだろうと考えて飲みこんでおいた。
「よく寝ていたようだな。昨晩、メイドが食事を運んでも起きないと言っていた」
「ごめんなさい。ちっとも気が付きませんでした」
「良い。体調を崩されるても厄介だ」
アーツは特に気にしない風でそう言った。
「あの、王様」
「アーツ」
アーツはアネットの言葉を遮った。アーツは彼の赤い瞳を、アネットに強く語るように向ける。
「アーツ、さま」
「アーツだと言っている」
アーツはやや不機嫌そうにアネットを睨む。
「ア、アーツ。わたし、アネットじゃありません」
「ほう。では、名はなんという」
「わたしは、……あ、あれ……? 」
「……どうした。お前から言い出したのだのだろう」
アネットは必死に、彼女の本来の名前を思い出そうとしていた。しかし、「違う」と言ったものの、何かがつっかえて出てこない。それまで住んで居た場所、夫の顔や名前、友達や両親の事は思い出せるのに、自分の名前だけはどうしても思い出せなかった。数分の間粘ってみたものの、遂に諦めてしまった。
「いえ……なんでもありません。ごめんなさい……」
アネットは肩を落として下を向き、黙り込んでしまった。
「アネット。お前がメシアである限り、お前が何者であろうとそれを気にするほど私は小物ではない」
アーツは肘掛けに肘を付いて、脚を組み替えた。
「部屋にある物は何でも使え。足りないものは遠慮なくメイドに言うといい。その代わり、私はお前の力を頂く。良いな」
そこで謁見は打ち切られ、アネットは部屋へと戻ることになった。ビバルがアネットを部屋まで連れて行く。
廊下には大きな窓が幾つもあり、外の景色がよく見えた。どこから見ても外は一面に砂漠が広がるばかりで、この宮殿の他には何も無さそうだ。もしもここから逃げ出すとしても、せめて何か乗り物が必要だろう。アネットが思案していると、ビバルが口を開いた。
「逃げようなんて思ったって無駄ですぜ、アネット様。いくらメシアと言われようとも、人間の力なんぞたかが知れている。ましてやここは砂漠ですからね。一人で出歩いたって碌なことはありませんぜ。何より、俺たちの首が飛んじまう」
図星を突かれたようで内心どきどきしていたが、アネットは必死で平静を装う。
「そ、そんなこと、言っていないでしょう。こんな砂漠を、散歩すらしようなんて思えないわ」
「ならいいんですがね。……そうそう、一歩宮殿を出ると凶暴なモンスターが出ますぜ。この宮殿にいる奴らはそれなりに知能があって陛下に忠誠を誓っているが、外の奴らはそうじゃない」
「そう……」
アネットは背中に冷たい汗が伝うのを感じ、身震いした。
このまま勝手に魔王の花嫁にされるのも嫌だったが、逃げ出すことも出来そうにない。今後の身の振り方を考えるまでもなく、されるがままに過ごさなければならないのだろうか。アネットは惨めな気持ちになり、深くため息をついた。
あやふやな記憶を辿りながら目を開けると、見慣れない部屋にいる。昨日、宮殿にあてがわれた部屋だったと理解すると、アネットは諦めたようにため息をついた。その時、部屋の入り口でコンコンと音がする。誰かがノックしているようだ。
「アネット様。お目覚めですか」
「は、はい。起きました」
メリーが部屋に入ってきた。朝食の乗ったワゴンを押し、数人のメイドを連れている。彼女らは黙々と食事の準備を整えていく。
メニューは思いの外普通だった。目玉焼きとベーコンのソテー、デニッシュとコップ一杯の牛乳、レタスとトマトのサラダがベッド脇のテーブルに並んだ。
「お食事がお済みのころにまた伺います」
そう言うとメイド達は退出し、部屋は再びしんと静まり返る。アネットは昨日の昼からなにも食べていなかったことに気が付いた。夕方ここに通されてからすぐに寝てしまった。どうりでお腹が空いているはずだと思った。
アネットは朝食を食べながら、昨日の出来事を思い出していた。
昼間、近所のスーパーに買い物に出た時に事故に遭った。死んだと思っていたらこの宮殿で気が付き、瞳の色を大層珍しがられた。そして、そのために勝手にこの宮殿の王の后にさせられそうになっている。その後、疲れきって寝てしまい、先ほど目が覚めた。
衣食住を与えられているものの、部屋の内側からは鍵を開けることが出来ない。昨年結婚したばかりの夫は今頃どうしているだろうかと考え、アネットは再びため息をついた。
食事を終え、アネットはクローゼットを開けた。明るくなってから改めて見てみると、煌びやかでいかにも高級そうなドレスばかりがずらりと並んでいる。どれも美しかったけれど、普段着にするにはごてごてしすぎていた。アネットはその中からなるべく飾り気の少ないシンプルなワンピースを選び出し、着替えた。
白いシンプルなワンピースはウエストで切り返しが付いていて、膝丈の上品な物だった。靴も服に合わせてローヒールの白を選んだ。
昨日の生成りの囚人服のようなワンピースとは違い、計ったようにぴったりだった。生地もいくぶん上質なようで、滑らかな肌触りが心地よい。
一通り身支度を終えたとき、メイド達がやってきた。食事の片付けをし、メイド達は部屋を出て行く。メリーだけがその場に残り、アネットに言った。
「陛下がお呼びです。お着替えがお済みなら、参りましょう」
アネットはメリーの後を歩く。さらにその後ろにはビバルがおり、二人に挟まれるようにして王の間へ向かった。
「起きたか。アネット、もっとこちらへ来い」
アーツは玉座から立ち上がり、アネットに手を伸ばす。彼女が反射的に身をよじって逃げようとすると、アーツはさも面白ろそうに右の口角を釣り上げてニヤリと笑った。
「式までは手を出さん。安心しろ」
そう言うだけでアーツは引き下がり、再び玉座へと収まった。「魔王とは意外に律儀なものなのだな」とアネットは意識の端で思う。だが、すぐに昨日首筋に噛みつかれたことを思い出した。「首筋にキスをしたくせに」と言いかけたが、蒸し返してもろくなことにはならないだろうと考えて飲みこんでおいた。
「よく寝ていたようだな。昨晩、メイドが食事を運んでも起きないと言っていた」
「ごめんなさい。ちっとも気が付きませんでした」
「良い。体調を崩されるても厄介だ」
アーツは特に気にしない風でそう言った。
「あの、王様」
「アーツ」
アーツはアネットの言葉を遮った。アーツは彼の赤い瞳を、アネットに強く語るように向ける。
「アーツ、さま」
「アーツだと言っている」
アーツはやや不機嫌そうにアネットを睨む。
「ア、アーツ。わたし、アネットじゃありません」
「ほう。では、名はなんという」
「わたしは、……あ、あれ……? 」
「……どうした。お前から言い出したのだのだろう」
アネットは必死に、彼女の本来の名前を思い出そうとしていた。しかし、「違う」と言ったものの、何かがつっかえて出てこない。それまで住んで居た場所、夫の顔や名前、友達や両親の事は思い出せるのに、自分の名前だけはどうしても思い出せなかった。数分の間粘ってみたものの、遂に諦めてしまった。
「いえ……なんでもありません。ごめんなさい……」
アネットは肩を落として下を向き、黙り込んでしまった。
「アネット。お前がメシアである限り、お前が何者であろうとそれを気にするほど私は小物ではない」
アーツは肘掛けに肘を付いて、脚を組み替えた。
「部屋にある物は何でも使え。足りないものは遠慮なくメイドに言うといい。その代わり、私はお前の力を頂く。良いな」
そこで謁見は打ち切られ、アネットは部屋へと戻ることになった。ビバルがアネットを部屋まで連れて行く。
廊下には大きな窓が幾つもあり、外の景色がよく見えた。どこから見ても外は一面に砂漠が広がるばかりで、この宮殿の他には何も無さそうだ。もしもここから逃げ出すとしても、せめて何か乗り物が必要だろう。アネットが思案していると、ビバルが口を開いた。
「逃げようなんて思ったって無駄ですぜ、アネット様。いくらメシアと言われようとも、人間の力なんぞたかが知れている。ましてやここは砂漠ですからね。一人で出歩いたって碌なことはありませんぜ。何より、俺たちの首が飛んじまう」
図星を突かれたようで内心どきどきしていたが、アネットは必死で平静を装う。
「そ、そんなこと、言っていないでしょう。こんな砂漠を、散歩すらしようなんて思えないわ」
「ならいいんですがね。……そうそう、一歩宮殿を出ると凶暴なモンスターが出ますぜ。この宮殿にいる奴らはそれなりに知能があって陛下に忠誠を誓っているが、外の奴らはそうじゃない」
「そう……」
アネットは背中に冷たい汗が伝うのを感じ、身震いした。
このまま勝手に魔王の花嫁にされるのも嫌だったが、逃げ出すことも出来そうにない。今後の身の振り方を考えるまでもなく、されるがままに過ごさなければならないのだろうか。アネットは惨めな気持ちになり、深くため息をついた。
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