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愛されたものたち
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太陽が夏を忘れかけたころ、風が秋の色に染まり始めたそんなある日のできごとでした。私、みさごさんはいつものように本の整頓をひと段落させ、ティータイムにしようかと思っておりました。温かな光の指す窓辺のテーブルで、お茶菓子を並べ、紅茶を用意。でも今日はきっとお客様が来るようなそんな気がして二人分。クッキーはアンリシャルパンティエの可愛い色とりどりセットを。紅茶は私の好きな香りがよいダージリン。幼い頃にはじめて銘柄の紅茶をいただいたものがダージリンだったのです。それゆえの刷り込みで、今でも大好きな紅茶です。ティーカップは淡い緑と金縁に草花が描かれたものがお客様へ。私のものは白磁にラナンキュラスが描かれたお気に入りのカップ。
「冷めないうちにどうぞ」
私が本棚の奥に向かって促すと、女の子がぴょこんと顔を出します。年のころは中学生か高校生ほどでしょうか。大きな二つのおさげが可愛らしく、黒地に白のエプロンドレス。その襟には赤い刺繍。黒髪には赤いリボン。
少し警戒した黒目がちな瞳でこちらを見つめます。
「いいの? みさご」
彼女は私の名を告げます。
「ええ、お客様は大歓迎ですよ」
にぱっと笑顔になると彼女は私の正面に座りました。窓からの光が照らす彼女の黒髪はうっすらと深い青に反射して、美しく輝きます。季節の移ろいを見せる窓の外に目を向けた彼女。横顔はどことなく物憂げでした。そんな光の彫刻に描かれた美しい少女のカメオに、私もつい見とれてしまいましたが束の間。
「ねえ、聞いてみさご!」
美しさを台無しにする無邪気な怒りを見せて彼女は私に言います。
「彼ったらほんと頑固なの!」
彼女は窓から私に目を移すと、溜めていた感情を爆発させた。
丁度私がクッキーを口にした瞬間だった。
合わせて猫の鳴き声が聞こえる。
「なーぉ」
「きゃー!」
飛び上がる少女。
もうめちゃくちゃです。
「ね、猫! あっちいって!」
「んぐんぐ。あ、ごめんなさい。ロンディーネさんは猫は苦手でしたね」
私はクッキーを嚥下してから席を立ち、足元にいた茶虎模様の猫さんを抱え上げる。液体になった猫さんは私の手の中で、記憶の固執かのように溶けて垂れている。
「サン=テグジュペリ、お部屋に戻りましょうね」
液体猫、もといサン=テグジュペリを執務室につれていく。素直にサン=テグジュペリは部屋の奥へとことこと歩いていき、お気に入りの猫ベッドで丸くなった。
「ロンディーネさん、ごめんなさいね。もうおりませんよ」
「もう、私がいるときは出さないでよね。そうそう! 彼の話なんだけど考えをどうしても変えないっていうの」
みさご図書館のお客様のいくらかは勝手にお話を進めてしまいます。そういうものだと思っておりますので、私は今更気にはいたしませんが皆様は少し驚きますよね。どうぞご容赦を。
「ロンディーネさん、彼のこと今一度教えてくださらないかしら。知りたい方もいらっしゃるとも思いますし」
私はテーブルの隅に置いてあった本に手を乗せた。
「あ、そうね。まずせっかくだからお茶いただくわ」
品よくティーカップを手にしてロンディーネさんは立ち上る湯気を眺め、香気を楽しみました。そしてお茶の水色を確かめてから、小さく一口。心がほどけたようで、目が微かに柔らかさを浮かべた。
「こっちこそごめんなさい」
「お気持ちは察しますよ。お気になさらず」
「うん。彼、裕福なの。とっても。でもね、先が長くないから持っているものはすべて貧しい人に分けたい、そう言うのよ」
「はい、立派な心掛けですね」
私もお茶を一口。口にした瞬間に広がる発酵茶特有の深い香り、舌に上る複雑な苦み、儚く落ちていくふくよかな甘み。うん、我ながらよき具合です。赤いギンガムチェックのポットウォーマーに包まれたポットに目を送った。まだ随分とあるはずです。幸福はここにあります。
彼女は正しいとわかってはいても、そんな否定と肯定のないまぜになった惑いを眉に浮かべて言った。
「かもしれない。かもしれないけど、私は……なんていうのかな、綺麗なままで過ごしてほしいの。裕福で、地位もあって、慕われたまま最後を迎えることだってできると思うの。望めばもう少し長く生きられるはず」
「でも、彼はそれを望まなかったのですね」
「うん……」
ロンディーネさんは視線を落とし、スカートの裾をぎゅっと握りしめて何かに耐えているようでした。涙でしょうか、怒りでしょうか、私にはわかりませんでした。
結論は出ておらずとも、何かを飲み込んだようにロンディーネさんは続ける。
「彼との出会いは偶然だったわ。旅の最中、街中で休んでいるとたまたま泣いている彼を見つけたわ。驚いたわよ。空から大粒の涙が降ってくるのだもの。見上げれば、うん、綺麗な顔の男の子だったわ。街を見下ろしてぼろぼろと泣いていたの。私は会いに行ったわ」
ロンディーネさんの瞳はここではない、古い街並みと、冬に近づく空と、そして彼の表情を見つめておりました。
「いただくわね」
「どうぞ、お好きなだけ」
綺麗な指先でクッキーを手にした。雲の形のココアクッキー。小さな口でついばむように召し上がる姿もまた絵になりました。
「こんな美味しいものが食べられない人も少なからずいる街だったわ。私は旅の一族だから、色々なものを見てきていた。富める者、貧しいもの、奪う者、与える者、支配する者……世界はどうしようもなく区別されて作られている。私だってそのひとつ」
「彼はそれが嫌だったのですね。そして富を分け与えようと」
「ええ。でもそんなに多くなかった。あるだけなの。黄金も宝石も、勝手に生まれてくるわけじゃない。彼は裕福な生まれだったけれど、与えられたものは有限だったの。命がそうであるように」
「ある命と富を分け与えることは、有意義とも思えなくもないのですがロンディーネさんはなにがご不満だったのですか」
わかっていたことでしたが、聞かなければいけません。これはそういう物語ですから。
「富はいつか失われる。貧しい人をひととき救ったところで、微かな富はすぐに消えてまた飢えに怯えることになるわ。その先まで彼は生きていられないし、与えるものもいずれ尽きる。私はそれが賢いこととは思えなかったの。ひとときの幸せを与えて、ひとときの安心を覚えて、そして自分も、相手も、また持たざる者へと落ちていく。だったら、彼ぐらいは暖かいままに生を終えて欲しい」
彼女の目が涙に濡れ黒曜石のように煌めきを放つ。零れはしない。でも、その耐えている姿が余計に胸を打ちました。
私はハンカチを渡しました。
「ありがとう、みさご」
謝罪ではなく感謝を告げられる彼女に強さと品性を感じました。
「そうですね。貧困は社会の構造で、すべてが正しく豊かに暮らせるわけではありませんものね。持つ者が富める生き方を選ぶことはまっとうなことで、それを手放さずとも責めを負うこともありません」
「うん。わざわざ失われる必要はない。私はそう言ったわ。でも、これは以前に自分が成せなかったことだから、もともとこれは彼らのものだから、って譲らなかった」
「ロンディーネさんは、結局手伝ったのね」
「彼の下にはもう誰もいなかったから、私がすべてを手伝ったわ。彼は動けなかったから、病気の子供のいる家族にルビーを、飢える劇作家やマッチ売りの少女にはサファイアを。そうしているうちに彼は視力を失ったわ」
「一族で旅をされていたのですよね。ロンディーネさんの御家族はどうされたのですか」
口の端を上げて、少し自嘲の顔で彼女は笑いました。後悔はないという目でした。
「エジプトに、先に行ってもらったの」
「視力を失ったこと、私は本当に悲しかった。もっと他の方法があったんじゃないのかなって、それほどにまで自身を追い詰める必要なんかなかったはずだって。でも彼は言うの『貧しさに苦しむ人たちを見る方がずっとつらい』って。本当に身勝手よね!」
怒りを見せる彼女。頬は笑顔を、目の奥はより涙を蓄えているようでした。
「そんなあなたを見ている私の気持ちはどうなるの? って喉まで出かかったわ。けれど、どうしようもなく彼の生き方を認めてしまったの。愛しいって。きっと、最初に彼の涙を見た時から私は尽くすことを誓っていたのかもしれないわ」
私は彼の為に文字通り街中を飛び回った、と呟いた彼女の目がまた街中を映しました。雨の日も、風の日も、晴れの日も、街中を見て回り彼にすべてを伝えたのです。もう宝石は無かったそうですが、幸いきらきらとした宝飾品は多くあり、その金を剥がしてはロンディーネさんが貧しい人々に渡しました。ですが、誰が、どうして、などと施しを受けた方々は誰一人そのことを知らないまま、ロンディーネさんと彼の活動は続いたのでした。
「ある日ね、私、見てしまったの」
私は持っていたティーカップを置いて尋ねます。
「なにをご覧になったのですか」
「あのとき病気だった子供が母親の手を引いてお買い物していたの。劇作家は初公演が決まって嬉しそうにチラシを配っていたの。他にもね、いっぱい。彼が配った富が街中の人に明日を見せてくれたの。彼のしていたことは無駄じゃなかったの」
綺麗な涙がこぼれました。
今度こそ可愛らしい、そして優しい少女の笑顔です。
「私、嬉しかった。すぐに彼に伝えたわ。みんな笑ってるって、あなたがみんなを幸せにしたのよって」
「配ったのはロンディーネさんも、ですよね」
「あはは、彼もそういってくれた。ここに残った意味があったのね。でも、もう時間はあまり残されていなかったの。私も、彼も。彼はとうとう何も無くなってしまったわ。貧しい人たちと同じ、みすぼらしい姿になった。あれほど美しく輝いていたのに。ほどなくして、彼は居場所を失ったの。綺麗じゃないからって……あんまりよ」
彼女の目が薄曇りの冬景色を映します。ロンディーネさんはティーカップに視線を落として、窓を映す水面を潜っていく。
窓の外で風が走り抜けました。木々が揺れ、ざわめきを奏でます。
そのとき、声がしました。
「僕は後悔なんてしていないからね、ロンディーネ」
「王子!」
彼女の背後の本棚の間から、白杖をついた青年がゆっくりと歩いてきておりました。金色の髪と閉じられた瞼、形の綺麗な唇と耳と鼻とすべて。しかし、その服はあまりに不似合いなぼろきれそのものでした。
「ロンディーネ、僕の方こそ君をあの土地に縛り付けたことを後悔しているんだ。君はまだ生きられた。暖かい場所で家族と暮らせた。本当に申し訳ないと思っている」
「私は私の意志で生きたのよ。だから、私の命を否定しないで。私はあなたの為に過ごせたこと、後悔していない。ただ……悔しかったの。誰もあなたを称えない、誇らない。悔しいわ!」
「いいんだ。そもそも僕が知らなかったことへの罪滅ぼしでもある。栄光なんて歴史と共にいつかは失われるんだ。そんなものよりも、僕は君に出会えたこと、君と生きられたことが嬉しいんだ。ありがとう」
秋が窓に踊る。
ロンディーネさんは席を立ち、かいがいしく彼を支える。
「王子様、お初にお目にかかります。如月みさごです」
私も席を立ち、一礼を捧げます。
「いつもありがとう、みさごさん。ロンディーネが世話になったね」
「ふふふ、私は物語の管理人ですから。それより王子、物語に終止符を打ちましょう」
「そうだね。ロンディーネ、僕は君を失ったとき、なんて馬鹿なことをしたんだと自分を呪ったんだ」
「違うわ! 私は自分で選んだの。あなたと共にある時間を。それこそが私の生涯よ。命は終われば次は無いもの。だからこそ、自分で選んだ今を生きたいと願ったの。あなたの願いを叶える生涯を」
王子の閉じた瞼が濡れ、きんいろの睫毛をきらめかせた。
私は緑の本を取り出し、空白のページを開きました。
「では、ロンディーネさん」
みなまでは申しませんでしたが、私はロンディーネさんにフィナーレを促します。
「ありがとう、みさご。紅茶、とっても美味しかったわ。ごちそうさま」
「次は僕も一緒に招待してもらえると嬉しいな」
「さあ、どうでしょう。秘密の女子会ですし、ふふふ。ロンディーネさんが良いと仰ったら一緒においでください」
「ああ、そうするよ。彼女の機嫌を損ねないよう気を付けなくては」
「あははっ。またね、みさご」
ロンディーネさんは王子の頬に、そっと口づけをしました。
すると二人は小さな光に代わり、ふわりと私の本の中に入って行きました。何も書かれていなかったページには
「幸福な王子」
著 オスカー・ワイルド
と、浮かび上がります。
私は本をテーブルに置き、椅子に腰を下ろします
ティーカップを手にしたとき、強い秋風が窓の外を駆けていきました。
だいぶ冷めてしまった紅茶を口に含みます。
「なーぉ」
足元には部屋を抜け出したサン=テグジュペリさんがおりました。
「冬が来ますね」
私はサン=テグジュペリさんの暖かく柔らかな頭を撫でるのでした。
「愛されたものたち」 了
------------------------------------------------------
「幸福な王子」あらすじwikipediaより
ある街の柱の上に、「幸福な王子」と呼ばれる像が立っていた。かつてこの国で、幸福な生涯を送りながらも、若くして死んだとある王子を記念して建立されたものだった。両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。しかし、人々が知らないことがあった。その像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、かつて宮殿にいた頃には気付かず知らなかった、この町の貧しい、不幸な人々の実態を知り、嘆き悲しんでいることである。
渡り鳥であるがゆえにエジプトへ旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると、突然上から大粒の涙が降ってくる。王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。ツバメは早く南へ渡りたかったが、やがて言われた通り王子の剣の装飾に使われていた美しいルビーを病気の子供がいる貧しい母親に届けた。
王子は片目のサファイアを飢えた若い劇作家に、もう片方を幼いマッチ売りの少女に持っていって欲しいと言い、ツバメは「そんな事をしたら目が見えなくなってしまう」と忠告するが、「この風景を見る方が辛い」と言われ、言われたまま両目のサファイアを届ける。
エジプトに渡ることを中止し、街に残り、王子と共に過ごす覚悟を決意したツバメは、街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に、自分の体の金箔を剥がして分け与えて欲しいと頼む。
やがて冬が訪れ、王子はかつての輝きを失い、みすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも徐々に衰え、弱っていく。自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり、目の見えない王子にキスをし、やがて彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが、鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。
天国では、下界の様子の全てを見ていた神が、天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ天使を遣わせる。天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓を、そしてツバメの骸を持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。
「冷めないうちにどうぞ」
私が本棚の奥に向かって促すと、女の子がぴょこんと顔を出します。年のころは中学生か高校生ほどでしょうか。大きな二つのおさげが可愛らしく、黒地に白のエプロンドレス。その襟には赤い刺繍。黒髪には赤いリボン。
少し警戒した黒目がちな瞳でこちらを見つめます。
「いいの? みさご」
彼女は私の名を告げます。
「ええ、お客様は大歓迎ですよ」
にぱっと笑顔になると彼女は私の正面に座りました。窓からの光が照らす彼女の黒髪はうっすらと深い青に反射して、美しく輝きます。季節の移ろいを見せる窓の外に目を向けた彼女。横顔はどことなく物憂げでした。そんな光の彫刻に描かれた美しい少女のカメオに、私もつい見とれてしまいましたが束の間。
「ねえ、聞いてみさご!」
美しさを台無しにする無邪気な怒りを見せて彼女は私に言います。
「彼ったらほんと頑固なの!」
彼女は窓から私に目を移すと、溜めていた感情を爆発させた。
丁度私がクッキーを口にした瞬間だった。
合わせて猫の鳴き声が聞こえる。
「なーぉ」
「きゃー!」
飛び上がる少女。
もうめちゃくちゃです。
「ね、猫! あっちいって!」
「んぐんぐ。あ、ごめんなさい。ロンディーネさんは猫は苦手でしたね」
私はクッキーを嚥下してから席を立ち、足元にいた茶虎模様の猫さんを抱え上げる。液体になった猫さんは私の手の中で、記憶の固執かのように溶けて垂れている。
「サン=テグジュペリ、お部屋に戻りましょうね」
液体猫、もといサン=テグジュペリを執務室につれていく。素直にサン=テグジュペリは部屋の奥へとことこと歩いていき、お気に入りの猫ベッドで丸くなった。
「ロンディーネさん、ごめんなさいね。もうおりませんよ」
「もう、私がいるときは出さないでよね。そうそう! 彼の話なんだけど考えをどうしても変えないっていうの」
みさご図書館のお客様のいくらかは勝手にお話を進めてしまいます。そういうものだと思っておりますので、私は今更気にはいたしませんが皆様は少し驚きますよね。どうぞご容赦を。
「ロンディーネさん、彼のこと今一度教えてくださらないかしら。知りたい方もいらっしゃるとも思いますし」
私はテーブルの隅に置いてあった本に手を乗せた。
「あ、そうね。まずせっかくだからお茶いただくわ」
品よくティーカップを手にしてロンディーネさんは立ち上る湯気を眺め、香気を楽しみました。そしてお茶の水色を確かめてから、小さく一口。心がほどけたようで、目が微かに柔らかさを浮かべた。
「こっちこそごめんなさい」
「お気持ちは察しますよ。お気になさらず」
「うん。彼、裕福なの。とっても。でもね、先が長くないから持っているものはすべて貧しい人に分けたい、そう言うのよ」
「はい、立派な心掛けですね」
私もお茶を一口。口にした瞬間に広がる発酵茶特有の深い香り、舌に上る複雑な苦み、儚く落ちていくふくよかな甘み。うん、我ながらよき具合です。赤いギンガムチェックのポットウォーマーに包まれたポットに目を送った。まだ随分とあるはずです。幸福はここにあります。
彼女は正しいとわかってはいても、そんな否定と肯定のないまぜになった惑いを眉に浮かべて言った。
「かもしれない。かもしれないけど、私は……なんていうのかな、綺麗なままで過ごしてほしいの。裕福で、地位もあって、慕われたまま最後を迎えることだってできると思うの。望めばもう少し長く生きられるはず」
「でも、彼はそれを望まなかったのですね」
「うん……」
ロンディーネさんは視線を落とし、スカートの裾をぎゅっと握りしめて何かに耐えているようでした。涙でしょうか、怒りでしょうか、私にはわかりませんでした。
結論は出ておらずとも、何かを飲み込んだようにロンディーネさんは続ける。
「彼との出会いは偶然だったわ。旅の最中、街中で休んでいるとたまたま泣いている彼を見つけたわ。驚いたわよ。空から大粒の涙が降ってくるのだもの。見上げれば、うん、綺麗な顔の男の子だったわ。街を見下ろしてぼろぼろと泣いていたの。私は会いに行ったわ」
ロンディーネさんの瞳はここではない、古い街並みと、冬に近づく空と、そして彼の表情を見つめておりました。
「いただくわね」
「どうぞ、お好きなだけ」
綺麗な指先でクッキーを手にした。雲の形のココアクッキー。小さな口でついばむように召し上がる姿もまた絵になりました。
「こんな美味しいものが食べられない人も少なからずいる街だったわ。私は旅の一族だから、色々なものを見てきていた。富める者、貧しいもの、奪う者、与える者、支配する者……世界はどうしようもなく区別されて作られている。私だってそのひとつ」
「彼はそれが嫌だったのですね。そして富を分け与えようと」
「ええ。でもそんなに多くなかった。あるだけなの。黄金も宝石も、勝手に生まれてくるわけじゃない。彼は裕福な生まれだったけれど、与えられたものは有限だったの。命がそうであるように」
「ある命と富を分け与えることは、有意義とも思えなくもないのですがロンディーネさんはなにがご不満だったのですか」
わかっていたことでしたが、聞かなければいけません。これはそういう物語ですから。
「富はいつか失われる。貧しい人をひととき救ったところで、微かな富はすぐに消えてまた飢えに怯えることになるわ。その先まで彼は生きていられないし、与えるものもいずれ尽きる。私はそれが賢いこととは思えなかったの。ひとときの幸せを与えて、ひとときの安心を覚えて、そして自分も、相手も、また持たざる者へと落ちていく。だったら、彼ぐらいは暖かいままに生を終えて欲しい」
彼女の目が涙に濡れ黒曜石のように煌めきを放つ。零れはしない。でも、その耐えている姿が余計に胸を打ちました。
私はハンカチを渡しました。
「ありがとう、みさご」
謝罪ではなく感謝を告げられる彼女に強さと品性を感じました。
「そうですね。貧困は社会の構造で、すべてが正しく豊かに暮らせるわけではありませんものね。持つ者が富める生き方を選ぶことはまっとうなことで、それを手放さずとも責めを負うこともありません」
「うん。わざわざ失われる必要はない。私はそう言ったわ。でも、これは以前に自分が成せなかったことだから、もともとこれは彼らのものだから、って譲らなかった」
「ロンディーネさんは、結局手伝ったのね」
「彼の下にはもう誰もいなかったから、私がすべてを手伝ったわ。彼は動けなかったから、病気の子供のいる家族にルビーを、飢える劇作家やマッチ売りの少女にはサファイアを。そうしているうちに彼は視力を失ったわ」
「一族で旅をされていたのですよね。ロンディーネさんの御家族はどうされたのですか」
口の端を上げて、少し自嘲の顔で彼女は笑いました。後悔はないという目でした。
「エジプトに、先に行ってもらったの」
「視力を失ったこと、私は本当に悲しかった。もっと他の方法があったんじゃないのかなって、それほどにまで自身を追い詰める必要なんかなかったはずだって。でも彼は言うの『貧しさに苦しむ人たちを見る方がずっとつらい』って。本当に身勝手よね!」
怒りを見せる彼女。頬は笑顔を、目の奥はより涙を蓄えているようでした。
「そんなあなたを見ている私の気持ちはどうなるの? って喉まで出かかったわ。けれど、どうしようもなく彼の生き方を認めてしまったの。愛しいって。きっと、最初に彼の涙を見た時から私は尽くすことを誓っていたのかもしれないわ」
私は彼の為に文字通り街中を飛び回った、と呟いた彼女の目がまた街中を映しました。雨の日も、風の日も、晴れの日も、街中を見て回り彼にすべてを伝えたのです。もう宝石は無かったそうですが、幸いきらきらとした宝飾品は多くあり、その金を剥がしてはロンディーネさんが貧しい人々に渡しました。ですが、誰が、どうして、などと施しを受けた方々は誰一人そのことを知らないまま、ロンディーネさんと彼の活動は続いたのでした。
「ある日ね、私、見てしまったの」
私は持っていたティーカップを置いて尋ねます。
「なにをご覧になったのですか」
「あのとき病気だった子供が母親の手を引いてお買い物していたの。劇作家は初公演が決まって嬉しそうにチラシを配っていたの。他にもね、いっぱい。彼が配った富が街中の人に明日を見せてくれたの。彼のしていたことは無駄じゃなかったの」
綺麗な涙がこぼれました。
今度こそ可愛らしい、そして優しい少女の笑顔です。
「私、嬉しかった。すぐに彼に伝えたわ。みんな笑ってるって、あなたがみんなを幸せにしたのよって」
「配ったのはロンディーネさんも、ですよね」
「あはは、彼もそういってくれた。ここに残った意味があったのね。でも、もう時間はあまり残されていなかったの。私も、彼も。彼はとうとう何も無くなってしまったわ。貧しい人たちと同じ、みすぼらしい姿になった。あれほど美しく輝いていたのに。ほどなくして、彼は居場所を失ったの。綺麗じゃないからって……あんまりよ」
彼女の目が薄曇りの冬景色を映します。ロンディーネさんはティーカップに視線を落として、窓を映す水面を潜っていく。
窓の外で風が走り抜けました。木々が揺れ、ざわめきを奏でます。
そのとき、声がしました。
「僕は後悔なんてしていないからね、ロンディーネ」
「王子!」
彼女の背後の本棚の間から、白杖をついた青年がゆっくりと歩いてきておりました。金色の髪と閉じられた瞼、形の綺麗な唇と耳と鼻とすべて。しかし、その服はあまりに不似合いなぼろきれそのものでした。
「ロンディーネ、僕の方こそ君をあの土地に縛り付けたことを後悔しているんだ。君はまだ生きられた。暖かい場所で家族と暮らせた。本当に申し訳ないと思っている」
「私は私の意志で生きたのよ。だから、私の命を否定しないで。私はあなたの為に過ごせたこと、後悔していない。ただ……悔しかったの。誰もあなたを称えない、誇らない。悔しいわ!」
「いいんだ。そもそも僕が知らなかったことへの罪滅ぼしでもある。栄光なんて歴史と共にいつかは失われるんだ。そんなものよりも、僕は君に出会えたこと、君と生きられたことが嬉しいんだ。ありがとう」
秋が窓に踊る。
ロンディーネさんは席を立ち、かいがいしく彼を支える。
「王子様、お初にお目にかかります。如月みさごです」
私も席を立ち、一礼を捧げます。
「いつもありがとう、みさごさん。ロンディーネが世話になったね」
「ふふふ、私は物語の管理人ですから。それより王子、物語に終止符を打ちましょう」
「そうだね。ロンディーネ、僕は君を失ったとき、なんて馬鹿なことをしたんだと自分を呪ったんだ」
「違うわ! 私は自分で選んだの。あなたと共にある時間を。それこそが私の生涯よ。命は終われば次は無いもの。だからこそ、自分で選んだ今を生きたいと願ったの。あなたの願いを叶える生涯を」
王子の閉じた瞼が濡れ、きんいろの睫毛をきらめかせた。
私は緑の本を取り出し、空白のページを開きました。
「では、ロンディーネさん」
みなまでは申しませんでしたが、私はロンディーネさんにフィナーレを促します。
「ありがとう、みさご。紅茶、とっても美味しかったわ。ごちそうさま」
「次は僕も一緒に招待してもらえると嬉しいな」
「さあ、どうでしょう。秘密の女子会ですし、ふふふ。ロンディーネさんが良いと仰ったら一緒においでください」
「ああ、そうするよ。彼女の機嫌を損ねないよう気を付けなくては」
「あははっ。またね、みさご」
ロンディーネさんは王子の頬に、そっと口づけをしました。
すると二人は小さな光に代わり、ふわりと私の本の中に入って行きました。何も書かれていなかったページには
「幸福な王子」
著 オスカー・ワイルド
と、浮かび上がります。
私は本をテーブルに置き、椅子に腰を下ろします
ティーカップを手にしたとき、強い秋風が窓の外を駆けていきました。
だいぶ冷めてしまった紅茶を口に含みます。
「なーぉ」
足元には部屋を抜け出したサン=テグジュペリさんがおりました。
「冬が来ますね」
私はサン=テグジュペリさんの暖かく柔らかな頭を撫でるのでした。
「愛されたものたち」 了
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「幸福な王子」あらすじwikipediaより
ある街の柱の上に、「幸福な王子」と呼ばれる像が立っていた。かつてこの国で、幸福な生涯を送りながらも、若くして死んだとある王子を記念して建立されたものだった。両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。しかし、人々が知らないことがあった。その像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、かつて宮殿にいた頃には気付かず知らなかった、この町の貧しい、不幸な人々の実態を知り、嘆き悲しんでいることである。
渡り鳥であるがゆえにエジプトへ旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると、突然上から大粒の涙が降ってくる。王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。ツバメは早く南へ渡りたかったが、やがて言われた通り王子の剣の装飾に使われていた美しいルビーを病気の子供がいる貧しい母親に届けた。
王子は片目のサファイアを飢えた若い劇作家に、もう片方を幼いマッチ売りの少女に持っていって欲しいと言い、ツバメは「そんな事をしたら目が見えなくなってしまう」と忠告するが、「この風景を見る方が辛い」と言われ、言われたまま両目のサファイアを届ける。
エジプトに渡ることを中止し、街に残り、王子と共に過ごす覚悟を決意したツバメは、街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に、自分の体の金箔を剥がして分け与えて欲しいと頼む。
やがて冬が訪れ、王子はかつての輝きを失い、みすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも徐々に衰え、弱っていく。自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり、目の見えない王子にキスをし、やがて彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが、鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。
天国では、下界の様子の全てを見ていた神が、天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ天使を遣わせる。天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓を、そしてツバメの骸を持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。
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