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2 ローズマリーと僕

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 三年前に、贔屓にしているアトウッド書店で彼女に出会い、一目で恋に落ちた。

 アトウッド書店は色々重宝している書店だったのだけれど、最近は同僚がみんな彼女に声をかけたがってアトウッド書店を使いたがっていたので自分も冷やかしに行ったら、ミイラ取りがミイラになってしまった。
豊かなブルネットの髪が肩から背中に波打っている。色白の肌に良く映えている。緑の瞳に影を落とす長いまつ毛。これが化粧ではなさそうなのに参った。すっと通った小さな鼻に、桜桃のような小さめの赤い唇。見えないところもそういう色かと一瞬にして想像してしまった。
 どうも今の流行りの、細い腰を強調したドレスを身に着けているようだがそれがまた彼女の肢体を際立たせている。あの腰をつかんで自分に跨らせ、朝まで踊らせたい。
偶然にもその荷、彼女が着ていたドレスは自分の瞳の色に近い青だった。もう妄想が止まらない。
 婚約指輪などはつけているように見えない。まあ店員だから、店に出るときは外しているのかもしれないとも思ったが指輪の跡もなさそうだ。
 今を逃したら、他の誰かが先に彼女を手に入れてしまうかもしれない。
 今しかない。
 ……しかしなんと言葉をかければいいのか。今までの26年の人生、幸いにも女は入れ食い状態だったのだ。何を言っても着いてくる。でも彼女はそういう女とは限らない。何かないか。興味を引けるような何か。
 そうだ、ここは本屋だ。よし。本の話をすればよい。
「君。そこにある本を、全部くれ」
「……はい?」
 彼女は私の声が聞こえなかったのか、こちらに顔を向けて聞き直してきた。
 ああ、そうやって見つめられるとまた彼女の愛らしさが、自分の脳に染みわたってくる。
「そこの本を全部くれ、と言ったんだ」
「……えっ?」
「君がそこに持っている本を、全部」
 彼女は恥じらっているように見える。とてもイイ。
「あの、お客様。こちらは魔術書で――」
「ああ、わかっているよ。私はこれでも魔術師だから」
「はい、それでしたらあの、ご存じかもしれませんが、こちらの魔術書、大変貴重な物でして」
「わかっているよ」
 ああ、彼女の声も可愛らしい。思ったより落ち着いたトーンの声だ。声が震えているのも愛らしい。人見知りをしているのだろうか。
「あと、こちらのもの全てと言われましても、同じものも複数冊ございますし」
「構わないよ」
 ああ、なんでもいいから彼女の声をもっと聴きたい。彼女の息遣いも、触れるくらい近くで聴きたい。
「君が触った本なら何冊あっても構わない」
 彼女の眉間にしわが寄る。ああ、そんな顔もするんだね。愛しいきみ。
 彼女に近づこうと一歩踏み出したら、彼女は一歩下がった。でも下がってもその後ろは本の棚があるんだけど。僕がじりじりと前に出ると、彼女はじりじりと後ろに下がる。僕を誘い込んでいるのかな?
「あの、出版数が非常に限られておりますので、重複分はご遠慮いただきたく思います。また、ご承知とは思いますが、魔術書は予約分しか出版されないものもございますし、そちらについてはご予約の方を優先させていただく必要がございます」
「む」
 彼女の声をもっと聴きたくて――彼女の息遣いをもっと感じたくて、彼女が震える声で話すのを聞いていたら、至極納得の行く説明をされてしまった。ああ、彼女は彼女の仕事にも責任をもっているんだな。素晴らしい。見た目だけでなく、内面も素敵なひとなんだ。
 ああ、彼女を眺めているだけでうっとりしてしまう。何がこんなに自分を酔わせるんだろう。なんかいい匂いもしている気がする。花吹雪も舞っているような気がする。結婚式を挙げている教会の鐘が鳴っている気もする。全ての感覚が「彼女だ」って僕に伝えてくる。
「お客様、何か問題がございましたか?」
  彼女の髪を手に取ろうとしていたところ、責任者らしき年かさの男性がやってきて、横から声をかけてきた。邪魔をされたような気持ちになってしまったが、考えてみたら彼女は勤務中だな。勤務の邪魔をして、上役に彼女が怒られたりしては申し訳ない。
「いや、問題は何もないんだよ。心配をさせて申し訳なかったね」
「そうでしたか」
 彼女はほっとした顔をして、上役の男性の後ろに隠れる。なんだ、二人は割りない仲なのか?いやそうではなさそうだ。深い信頼関係にあるようだ。まあ、彼女の周りに彼女が信頼できる人間がいるというのはいいことだ。そのうち自分もそのうちに入れてもらいたい。
「うん、こちらにある本をすべてもらいたいんだ」
「は、はい?」
「うん、すべて。1冊ずつ。予約が入っているものは除いてもらっていい」
 そうして欲しいと彼女が言っていたからな。彼女の迷惑になることはしてはいけない。
「この本と一緒に彼女も持ち帰るが、構わないかい?」
 上役らしき男性は目を見開いてから眉を寄せた。何か問題があるのか。
「……店員は売り物ではございません、お客様」
 そうか、この言い方は良くなかったな。
「いや、妻に迎えたい」
 彼女と、彼女の上役らしき男性は困ったように顔を見合わせている。む。やはり二人は割りない仲だったのか。それは困る。僕はこの恋を諦めねばならんのか。この男をどうにかしてしまえば彼女が手に入るだろうか——いやいやそれで彼女が悲しむところは見たくない。僕が身を引くしかないのか。
 そんなことを考えていたら彼女の上役は困ったように話し出した。
「恐れ入りますがお客様、娘を妻にというお申し出は誠にありがたいのですが」
「お父上だったのか!父上、娘さんと結婚したいのだが、構わないだろうか?」
 彼女と、彼女のお父上は顔を見あわせている。
「お客様、この後お時間はおありでしょうか」
「彼女のためならどれだけでも時間は取るが」
「……ご予定は、本当に、ございませんか?」
 彼女の父上は大変に鋭かった。
「……明日の午前中、10時からが良いのだが……」
 仕事はしっかりしているように見えた彼女の前で印象の悪いことをしてしまったかと思うと、少し声が小さくなる。ああ、彼女は私のことをどう思っているだろうか。こんな気持ちになったのは初めてなんだ。彼女に嫌われたら僕は死んでしまうかもしれない。
「こちらもその時間なら大丈夫です。それまでに気が変わらないということでしたら、こちらの店舗の前にお越しいただけますか」
「わかった」
 気が変わると思われているのが癪ではあるが仕方ない。翌日の10時に必ずまたアトウッド書店の玄関先で彼女達を待つとしよう。
「この本は本当にご入用ですか」
 彼女が恐る恐る声をかけてくる。
「もちろんだ」
 彼女の声は自分を酔わせる音楽のようだ。美酒のようだ。可能だったら本当にこのまま攫ってしまいたい。僕の女王として崇め奉りたい。
「では、配送の手配をいたしましょうか」
「自分で送れるから必要ない」
「そうですか。…魔術師ってすごいんですね」
 感心してくれたようで、彼女が微笑んでくれた。彼女が!僕に!微笑んでくれた!天にも昇る気持ちというのはこのことか。そして、彼女は僕のことを知っている。そのうえで褒めてくれている。ああ、僕はなんと幸せ者なのだ。魔術師になって良かったと心底思える。
「ああ、君も僕の家に来てくれる日が一日でも早いことを願っているよ……」
 彼女と彼女の父親は微笑んでいた。
 微笑んでくれていたのに。
 翌朝、僕は結婚の申し込みを断られてしまったのだ。
 今思うと、あの微笑みは「どうやって断ろうか」と考えていた微笑みなのだろうと思う。でも、彼女を妻に迎えることを楽しみに夜勤をこなし、朝から同僚のお勧めの花屋で花束を作ってもらってきた僕は、本当に倒れそうになってしまった。

「申し訳ありませんが、私にコール様の妻というのは荷が重すぎて務まらないと考えております」
 彼女は私の目をしっかり見て、震える声ではあったけれども言い切った。
 彼女は私のことを知っていたのだ、ということはとても嬉しかった。しかし、自分の評判のおかげで——仕事ぶりや、この顔のおかげで女性に人気ということも含めて——断られると思わなかった。
 彼女に、荷が重すぎるとは全く思わない。僕が彼女がいいんだ。だから彼女が完璧な人選なのだ。
 どれだけ言葉を尽くしても、彼女——ローズマリー。今朝再び彼女らに会うまで、僕は彼女の名前も知らなかった——と、彼女の父のグレアム氏は、僕の申し出に首を縦に振ってはくれなかったのだ。
 ローズマリーに嫌われてはいないのはわかる。嫌われてはいないのだが、「高嶺の花」とか「身分違い」とか「荷が重い」とかを何回も言われた。彼女はどっちが高嶺の花かわかっていない。身分だって、僕は魔術に秀でていただけで、もともとは田舎の農家の三男だ。王都の有名書店の娘の彼女の方がよっぽど立派な出自だ。荷が重いなら、その荷を軽くする努力なら僕はなんだってする。
 どれだけ何を伝えても、彼らは「諾」という答えはないのだろう。
 彼女が否というなら、僕はあきらめるしかないのだ。いや、少なくともここは引くしかないのだ。
 終始固い表情だったローズマリーは、自分のドレスをぎゅっと握りしめていた。今日は、彼女の瞳よりも深い緑のドレスだった。暗めの色の方が似合う。ああ、そんな顔をしていても彼女はやはり僕の心をつかんで離さない。
 どうしたら僕は彼女の隣に立てる?
 とりあえず、僕はまだあきらめない——というよりあきらめきれない旨を彼女たちに告げ、自宅へ戻った。

 自宅の本棚には魔術書がみっちり詰まっている。どの本がどこにあるかもわかっている。
 ただまだ本棚に入れていないものが積みあがっている。これは、彼女が店頭に並べようとしていた本だ。
 僕は一番上にあった本を抱きしめて、夜勤明けの睡眠をとった。

 その後、僕は風邪をひいて寝込んだかのような症状で、起き上がれなくなった。体が重い。頭が重い。仕事に行けたとしても、仕事にならないのがわかっているので、とりあえず一日だけ仕事を休むことにした。
 実際のところ熱があるわけでもない。咳も、鼻水も出ない。それなのに起き上がれない。これは恋煩いというものだろうか。
 部屋が暗いのがいけないのかと昼間はカーテンを開けていたりしたけれど、よく眠れもしないし体調も良くならない。そして頭に浮かぶのはローズマリーの事だけだった。
 抱えて眠った魔術書がいけなかったのだろうか。それは魔術書というよりもおまじないのような、町の占い師向けの実用書だったのだけれど、その中に何か僕の魔力が引きずられるような内容があったのだろうか。
 枕元には、宰相殿やら魔術師長から魔術的に送られてくる文が積みあがっていく。文字を読もうと思うと、頭がふらつくのだ。もう問い合わせを読むのも面倒になり、魔術師長には直接音声を届けてくれ、と音声で魔術的に連絡を入れておいた。
 自分の台所代わりと言えるほど懇意にしている近くの食堂に「体調が悪いので、何か温かくて消化の良さそうなものを運んできてはもらえないか」と連絡を入れたら、小一時間後に食堂の息子、マークが配達を兼ねて様子を見に来てくれた。本来ならこの食堂からの荷物はすべて台所に運ばれるようにお互いの台所を魔術的につないであるのだけれど、彼とは年も近く、たまには酒を酌み交わすような仲なので心配をしてくれたのだろう。
「ジャーヴィス、大丈夫か?」
「……だめ」
 マークにかけてもらった「大丈夫か?」という一言だけでも、ローズマリーを連想してしまう。彼がローズマリーに似ているとかではなくて、彼女にそう、言葉をかけてもらえたりしないだろうかと考えてしまったのだ。
「……ふられてしまって、精神的に参っているのかも」
「ええ!?ジャーヴィスをふる人なんかいたのか?」
「いたんだなあ、それが」
 あはは、と無理やり声に出して笑ってみた。笑ったら少し元気が出たかもしれない。
「いたのかあ…。これ、トマトのリゾット。チーズは控えめにしてある」
「ありがとう。これを食べたら元気になれそうだ」
  また、無理やり唇の端を上げて笑ってみた。どんな時でも笑うと、元気になるという言い伝えを聞いたことがある。
 体調不良の理由に思い当たったのだ。笑え。ジャーヴィス。笑え。そして元気を取り戻して、彼女を手に入れる方法を考えるんだ。
 落ち着いたら店に来いよ、だとか、俺が酒を持ってこっちに来てもいいけど、などとマークは心配してくれる。ああ、心配してくれる人が近くにいるって、心に染みるなあと思った。ああ、マークがローズマリーだったらいいのに。
「ああ、うん。ありがとう、ローズマリー」
「……ローズマリー?」
「あ」
 マークは「その人がジャーヴィスを振ったのか、もったいないことするもんだ」と僕の肩を叩いてくれた。
「ジャーヴィスならなんとかしちゃうんだろ?」
 マークは悪い顔で笑っている。彼とは、自分が王都にやってきてすぐからの付き合いだからもう10年以上の付き合いだ。僕が食堂のおやじさんやおかみさんに言えないようなことも、彼は全部知っているのだ。
「なんとか、したいねえ。うん」
 僕は、いい匂いのするリゾットの入っている器を受け取る。
 これを食べたら、魔術師としての僕の育ての母ともいえる魔術師長に恋の相談をしよう。彼女には笑われそうだけど。

 実際、リゾットを食べたら腹がふくれて眠くなった。そして水を大目に飲んでからまたベッドに戻って横になったら、瞼が重くなってきた。でもその瞼に浮かぶのはやっぱりローズマリーなのだ。
 あの芯の強そうな彼女に「はい」と言わせるには、どうしたらいいか。うとうとしていた。
『おい、ジャーヴィス・コール。大丈夫か?』
 深い眠りに落ちる手前で、聞き慣れた魔術師長の声で起こされた。音声がつながったらしい。
「……うー、だめです」
『おい、何か悪いものでも食ったのか』
「食いそびれました」
『ん?なんだそれ』
「振られちゃったんです。一目惚れの女の子に」
 それがショックで起きられません、と冗談めかして伝えたら案外真剣に受け取られてしまってこちらが焦る羽目になった。師長のことだから、ほかにももっといい女がいるだろうよとでも言ってくるかと思ったら、諦められないのはわかるよ、としみじみと返された。
『言いたくなければ構わんが、その、相手は誰だ』
 私の知っている相手か、と師長は付け加える。
「知ってますかねえ。あの、アトウッド書店の可愛い店員さんの話、聞いたことあります?」
 ああ、可愛い、可愛い店員さん。ローズマリー・アトウッド。彼女の名前がローズマリー・コールになっても割と収まりはいいと思う。
『ああ、みんながなんか言ってたなあ。私でもなんとなく知っている。へえ、その子か』
 そんな感じでいろいろ話をしていたが、師長は本当にびっくりするくらい僕に同情してくれた。
『そんな調子ではまだ仕事にならんだろ。明日も休みなさい』
「……いいんですか」
『お前な、気づいていないかもしれないけれど、通信に音声以外のものも乗ってきているよ』
「え?」
『気づいていないんだな。ローズマリー嬢好き好き大好き結婚したーい、っていうのが音声と一緒にぜーんぶ伝わって来ているよ。それが落ち着いてくれないと、お前の仕事には不都合が出るだろうが』
「え!」
『めっちゃめちゃ魔力が乱れているからね。一人で寝ていて落ち着くかは知らんが、必要なら娼館にでも行くか誰かをそこらでひっかけるかなんかして、どうにかしなさい。その状態で出てこられたら、君を狙っている連中がみーんな仕事にならないよ。そこらへんで盛られていたらたまったもんじゃないからね、何とかするまでこちらには来ないでおくれ』
「……えー……」
『えーじゃないよ!』
 師長には逆らえない。
 僕が田舎から出てくることになったときの保証人は彼女なのだ。そして、僕ほど魔力量が多い人間のすべきことなど、都会の学校にいたら教師のうち誰か一人くらいは知っていただろうからこっそり教えてもらえていただろうことも、彼女が全て教えてくれたのだ。
 魔力が不安定な時には人肌がいいとも教えてくれて、彼女は僕に娼館へ行くお小遣いもくれた。
男性は娼館に行くこともできるけれど、女性の場合は男娼を買うのかと聞いてみたらデリカシーがないと、涙を流すほど大笑いされた。そういう相手がどうしても必要という人もいなくはないが、猫などを抱いて寝てもだいたいは落ち着くとも教えてくれた。師長は猫を可愛がっていればそれで済んでしまうらしい。しかしちゃっかり男性のパートナーはいるようで、その人とうまいことやっていたのだろう。確かに僕はデリカシーがない。
 そう、僕は魔力量が多すぎていまだに自力で調整しきれないことがままあったために、この見た目に寄って来てくれる方々をおいしくいただいてきたのはそういう理由もあったのだ。いや、女の子が好きだというのも否定できないけれど。でもこれからはローズマリーがいい。あの白い、なめらかそうな肌に触れてみたい。
『ほらまた!』
「……すみません」
『とにかく魔力を整えてからじゃないと出て来てはいけないよ!わかったね!』
 そして師長との通信は切れた。
 付き合いの長い師長とも、マークとも話ができて少し落ち着いてきた、ような気がする。でも一人になった瞬間に寂しい。
 うまくいっていれば今頃ローズマリーはここに来てくれただろうに。どうしたら彼女を説得できるか。僕が彼女の心をつかむにはどうしたらいいのか。
 ああ。
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