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バランスボールに乗って、ダイエットをしている女は、食うものも食わず、かつ丼ばかりのことを想って、豚のしっぽを追いかけて、その尻尾に食いついて、お腹を満たす、しかし、希少部位である尻尾は、レバーや肩ロースに比べると、もしかしたら、うまいのかもしれないが、きいたことがない、料理名。
ナポリあたりで、コーヒーを飲む、淑女ぶった女は日傘をさして、街を徘徊する。
まるで、男のしっぽばかりを眺めて、いい迷惑だと言わんばかりに、けつを振る、その心理は、男漁りの本能、いまだかつて、女に理性があったためしはない。
なぜか。
理性とは、豚のしっぽを追いかけているうちは、仕事に追われて、子供を産むことこそ、女の仕事だといわれてきた。
では、理性とは何なのか。
少なくとも、料理をしているその傷ついた手に、軟膏を塗る、ささくれ立ってきて、その手に欲情する男の視線が、彼女たちのすべてだった。
彼女たちの仕事は、本来、料理ではない。
子供を産むことでもない。
動物としたらそうかもしれないけれど、今のご時世、ユートピア思想心世界では、動物すらも人格を持っていて、と私は考えているのだが、理性こそ不確かなものはない。
一体何なのか。
バランスボールに乗る女が宇宙人のことを考えるとして、いくらダイエットしても、宇宙整形であっという間に美しくなれる。もし、女だけの世界なら、倦怠が支配して、憧れどころか、言葉すら産もうとはしない。逆もまたしかり。
だから豚のしっぽを追いかけて、おいしい料理を食うこと、うんこをして、酒を飲み、ただ生きていくというのか。それは人格を備えた動物が、むしろ女を動物園に入れたがっているようなもの。
ユーモアではなくはっきり言って、理性が必要な瞬間は、ものを取らない時、殴りそうなとき、でもそれは単なる分別という。仕事をして、遊んで、自然と理性は実につく。できないとしたら、動物園が待っている。
バランスボールもいいけれど、今の世の中、食う方が楽しいはず。
では、動物園で豚に馬鹿にされないためには、豚の振りをする。
それで、何とか理性動物が、あなたを一人前とは言わないまでも、餌くらいはくれる。
もちろん餌は男ではない。
だからこの時代、強く生きて理性的に生きるためには、豚を見習い鳥を見習い、木々を見習い、せいぜい動物園に入れられないように、コケトリーをほどほどに、働かない女は食うべからず、でも、働けないのなら、せいぜい豚の肩ロースで満足すること。
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