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最後の一本
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「じゃあこの問題、解けたヤツ挙手しろ~。」
間延びする声で生徒に授業の大半を押し付けるダメな教師を横目に、俺は席を立って教室を出た。今更誰も驚きはしないが、それでも非難の視線が少し背中に痛かった。誰も歩いていない廊下を通り、階段を登って屋上へと向かう。屋上の鍵は閉めること、と注意書きがされているが、多分1度として鍵をかけられたことはないと思う。だからこの学校で最も綺麗なのはこの鍵穴の中だ。
屋上には誰一人おらず、映画なら特等席かもしくは放映終了間際の不人気映画のようだ。屋上の少し端の方の排水溝のすぐ側の手すりに体をもたせつつ、ブレザーの内ポケットをまさぐった。そのまま右手で箱から1本取り出して、左手のライターで火をつける。
煙草休憩。それが俺が教室を出てきた理由だ。
目をつぶって深く吸い込み、肺が焼けるのを最大限感じてから吐き出す。曇っているせいか、煙は高さもそこそこに見えなくなってしまった。段々と思考が落ち着いてくるような、安心と諦観の入り交じったところに落ち着いてきた時、扉の方で急に音がした。焦って手に持っていた煙草を踏み消してから目を向けると、そこに居たのは予想もできない人物だった。
「ちょっとと邪魔していい?」
透き通るような縮れ毛の白い髪が風になびいている、その姿だけで誰かわかった。如月結衣、俺のクラスの俺の次に変な人だ。
「別にいいけど。」
そう声をかけると、彼女はわざわざ俺の隣に来て、手すりに肘をかけて空を見上げた。来たのが教師ではなかったことへの安堵が込み上げてくると、足の下にある板箱が急に気になってきた。
「別に吸ってもいいよ?私は特に気にしないからさ。」
いやいや、と思ったが如月が花のようにきれいに笑いかけてくるのを見て、吸ったほうがいいんじゃないかと自分の欲望を合理化した。拾った煙草に火をつけると、少し待ってから口にくわえた。
妙な距離感と沈黙に耐えかねて、少しだけ声をかけた。
「如月さんは屋上に何しに来たんだ?まだ授業中だろ?」
空を見上げたまま、まるで俺のはいた煙に語り掛けるように答えが返ってきた。
「特に理由はないんだけど、あえて言うなら疲れたから、かなぁ。」
もしもこの煙が俺でなく如月さんが吐いたものだったら、きっと誰かが模写したいと言い出しそうなほどだった。淡い髪色と物憂げな顔、「月曜日の昼下がり」なんて題名が合いそうだった。
「逆に聞くけど、高橋君は煙草を吸いに来たんでしょ?その煙草の銘柄、なんていうの?」
如月さんにかからないように煙を吐いてから、ショッポだよ、と答えたが少し小首をかしげているように見えたので付け足した。
「ショートホープだよ。って言っても知らないと思うけど。」
すると、如月さんは少し微笑んで振り向いた。
「ホープね。なかなか渋いの吸ってるんだ。てっきりキャスターとかピールだと思ってた。」
「ピールは女子が吸うもんだよ。キャスターはもう名前変わったけど、こんな煙臭くないよ。
って、如月さん煙草の銘柄知ってるの?」
普通に返事をしてから、そのことに気が付いた。確かに如月さんは少し普通とは違うけど、そういう方向だとは思ってもみなかった。指の間でふわふわと漂っているのに気が付いても、如月さんから目を離せなかった。
「まあ多少はね。でも吸ったことはないからただの耳年増だけど。」
「吸わないほうが体のためだよ。でもなんで銘柄まで知ってるんだ?親が吸ってたとか?」
質問に答えるより先に、俺の左手を指さしてもったいないと告げられ、短くなった煙草を口にくわえた。口の中で蜂蜜の甘さが漂っていた。
「小説をよく読むんだけどさ、昔の本って結構主人公が煙草を吸ってるんだよね。それで興味があっていろいろ調べてきた感じ。」
なるほどなぁと思った。小説はあまり読まないけれど、ドラマとかでも煙草を吸っている人はよく出てくる。特にミステリードラマの刑事は事件を解決した後に煙草をふかしながら感想を語るイメージがある。
「ホープは蜂蜜の味がするんでしょ?でも煙からそんな味がするなんて想像もできないなぁ。」
吸ってみる?と冗談のつもりで吸っていた煙草を差し出すと、一口だけと言って髪をかき上げてから煙草に口を寄せた。彼女の所作に見惚れていると、案の定彼女はむせこんでいた。
「げほっげほっ、君、こんなの吸ってるの?」
彼女の背中をさすりながら、残り僅かになった煙草を一口吸って足元に落とした。
「最初のうちはそんなもんだよ。少量ずつ吸って吐いてを繰り返しているうちに慣れてくるのさ。」
「そんなもんかぁ。」
自分が吐いた煙に語り掛ける彼女の声には憂いが感じられた。励まそうにも励まし方がわからず、微妙な沈黙を終わらせる言葉を切り出した。
「俺は吸い終わったから教室に戻るけど、如月さんは?」
「私はもう少しここにいるから、先帰ってて。」
言われるがままに彼女を置いて屋上を後にした。帰り際に見た彼女の横顔はやっぱり絵になると思った。
それから如月さんは月曜日の三時間目に屋上で一緒の煙草を吸うという変な間柄になった。彼女は僕が吸っている煙草を吸って少しずつ煙草になれるんだと息まいていて、俺は一緒に煙草を共有できる人がいる事の楽しさを知った。
如月さんは俺が思っている以上に普通な人だった。否が応でも目立つ風貌を持っていて、学校にも来たり来なかったりするくらいの自由な人だと思っていた。けれども、先生の愚痴だとか、月曜日の憂鬱さを話していると、案外身近な存在なのかもしれないと思えた。
今日も一人で先に屋上に来たけれども、俺の手元にはもう煙草が一本もない。ライターしかないことはわかっているが、さっきから何度も癖のようにポケットをたたいてしまう。そしていつも以上に如月さんが来るまでの時間が長く感じた。
「お待たせ。ごめんね。」
気が付くと隣に来ていた如月さんが申し訳なさそうな顔をして俺の顔を覗き込んでいた。
「そんなに待ってないから大丈夫。」
そう答えたはずなのに、如月さんは何度かごめんと繰り返した。
「お詫びではないけど、これ一緒に吸お?」
そういって差し出されたの箱にはオリーブの葉を平和の象徴が咥えていた。
「ピースのライトか。」
普段吸っているショッポに比べれば吸いごたえがないだろうなぁと思うと少し残念だったけど、如月さんが選んでくれたし初めての味が少し気になった。
如月さんから一本受け取ると自分の煙草に火をつけた。すると、如月さんは煙草をくわえたまま俺の煙草から火を奪っていった。
ゆっくり吸って最初に感じたのは、ショッポとはまた違った甘みだった。落ち着いた優しい甘さで、ずっと口に含んでいたくなるような上質なものだった。
「これ、紅茶みたいな味だね。」
そういわれて確かにと思った。煙の苦みを無理に消すわけでもないところが、似ている。
「吸いやすいしおいしい。如月さんに似合うよ。」
「そうかな。」
少しうれしそうに笑う彼女の横顔にピースはよく似合っていた。彼女もいつの間にか煙草を吸うことに慣れていて、ふかし煙草ならむせることなく一本据えるようになっていた。
「どうしてピースにしようと思ったの?」
気になっていたことを聞いてみると、答えは意外と単純なものだった。
「名前からして吸いやすそうだなって思ったからかな。本当においしい煙草でよかったよ。」
そういってまた一口吸ってから、彼女は俺のほうに向いていった。
「逆に聞くけど、普段ホープを吸ってたのはどうしてなの?」
思わず俺は全力で肺に煙を流し込んだ。こういう時、ピースだと水ごたえが足りないと感じる。長く、なるべく長い時間をかけて肺から煙を絞り出すと、言葉を吐き出した。
「親父が吸ってた煙草だから。もうだいぶ前のことだけど。」
言い終えてから彼女のほうを向くと、わかりやすいほどに顔に疑問符が浮かんでいた。それで頭の隅のほうに追いやった記憶を引っ張り出すことになった。
「小学生のころ、親父がよく煙草を買いに行かせたんだよ。ショッポかって来いって言ってさ。でも吸うときは絶対外で、俺には親父にまとわりついた残り香しか吸わせてもらえなかった。」
それで親父の真似をしてみたんだと言って話を区切るつもりだった。でも、一度開けてしまった思い出の箱は、すべて見聞するまで元通りにしまわれてくれなかった。
「弟が生まれてもうすぐ妹もって時期に、弟と親父の血がつながってなかったことから、母親の不倫がばれたんだ。まだガキの頃だったから状況がよくわからなかったが、結局親父が家を出ていくことになった。
親父は俺の分だけは高校出るまで養育費を払うから会いに来るはずだった。でも家を出て言ってから一度も会いに来なかったな。まあ、それも母親が阻止してたと後から知ったけど。」
如月さんはただ黙って話を聞いていたけど、すべて話してほしいという表情が見て取れた。いや、若しかしたら自分の奥底に隠れた感情を映していただけかもしれない。
「中学三年になった時、親父が俺のために払ったお金は弟たちのために使うから、俺は中卒で働けと言われたよ。自分で稼ぐから通わせてくれって言ったとき、初めて煙草が吸いたくなった。なんとなく、ショッポを吸えば親父とつながれるような気がしてさ。」
もしこの時に彼女が別のもっと普通な言葉を発していたら、屋上から煙草を投げ捨ててたかもしれないし、下手したら如月さんに煙草を投げつけたかもしれない。けれども、彼女が口にしたのは全く別なものだった。
「煙草がよく似合いそうな人生だね。」
「......確かに、そうだな。」
それから、俺たちは一言も交わさずに煙草をふかし続けた。口に広がるピースの味がショッポに比べて大人びたものに感じて、少し気持ちが凪いだ。
吸い終わると、如月さんは俺にとびっきりの笑顔を見せてこう言った。
「そしたら、ピースは私とつながる味だから覚えておいてね。如月さんとの約束だよ?」
その笑顔に一瞬心臓が止まるかと思った。自分のそばにいてこんなにも笑顔な人を見たことがないくらいの満面の笑みで、心が奪われそうだった。
「忘れないよ、絶対に。」
俺の言葉を最後まで聞くと、気分がよさそうに彼女が先に屋上を後にした。一緒には帰らないという約束だから、俺は少し空を眺めながらさっきの如月さんの笑顔を脳裏に焼き付けた。
その日から僕らは交互にショッポとピースを持ち寄って吸った。ショッポしか吸ったことがなかった俺にとって、ピースを吸う時間は間違いなく如月さんの存在を脳に刻み込むものになった。親父の遺した理不尽に対する抵抗を想起させるショッポに対して、ピースは如月さんの高校生らしい等身大の姿を思い起こさせた。
今日は俺がショッポを持ってくる日だから、ポケットを膨らませて屋上に向かった。ただ、今日は如月さんが学校に来ていなかったので一人で吸うことも考えていた。
屋上についてから眼下の町を覗き込んでみる。今もたくさんの人が町を歩いている。綺麗に区画整理されている大通り沿いは人がまるで巣の中を歩く蟻のように見えた。もしくはゲームに登場するNPCのようにせわしない。俯瞰で見れば淡白な町の様子も内側から見れば色彩に富んでいるはずだ。
そんなことを考えていると、屋上の扉があく音がした。手に煙草がsないことを確認してから扉のほうを振り向くと、そこには以外にも如月さんの姿があった。
煙草だけ吸いに学校に来るなんて、と軽口をたたこうと思ったが、言葉がのどの奥で詰まった。開け放ったドアノブに手をかけたままの姿勢で、目の焦点がどこにもあっていない如月さんに駆け寄ると、口角が少し上がった。
「高橋君、悪いんだけどいつもの場所まで私を運んでくれない?」
「いいけど、大丈夫か?」
オウム返しのように大丈夫という割には、如月さんは俺の肩に手をかけてもなお体を支えるのが精いっぱいの様子だった。なんとか手すりのところまで連れて行ったが、そこで体育座りの姿勢をとった。手すりに腕をかけて落ちるなんてことが起こってもおかしくなかったから、そのほうが俺も安心した。
「今日はやめとくか?」
こんな調子で煙草なんて吸うもんじゃないという認識は一致していたようで、如月さんは残念そうに言った。
「今日は遠慮しとくよ。その代わりに今日はこっちを吸ってくれない?それで煙を私にかけてくれたらいいから。」
如月さんは慣れた手つきでピースを一本俺に渡してくれた。ショッポの気分になっていたけれど、まあいいかと思ってピースに火をつけた。そして忘れずに如月さんに少しだけ煙をかける。やっぱりいい香り、なんて如月さんは愛煙家らしいことをつぶやいた。
「今日はやけに体調悪そうだけど、何かあったのか?」
ふと尋ねてみたかったことを聞いただけだったが、如月さんは少し難しい顔をした。言葉を口に戻すなんてことはできないので、ひたすら如月さんの答えを待つよりほかはなかった。しばらくしてから如月さんの口が開いた。
「ちょっとね。朝から頭も痛いし体が痛くて休もうかと思ったんだけど、煙草は吸いたかったからさ。」
泣き出しそうな笑顔、とでもいうべきだろうか。どれだけ笑顔で取り繕っても滲み出す苦しみが目に映る。そんな彼女にかける言葉は見当たらなかったが、小さく煙を吹きかけた。下手な言葉よりも何倍も如月さんの痛みを緩和してくれるような気がした。
煙を間にした沈黙は少し居心地が悪かったけど、如月さんにしゃべらせるのも申し訳ないし、ピースの味に集中した。いつの間にかふかし煙草のほうに慣れてしまい、ピースの程よい苦みと甘さは癖になっていた。
「ねえ、高橋君。煙草を吸ってるとさ。」
そこで言葉が途切れた。振り向けばきっと作り笑いをさせるだろうと思い、青空を眺めたまま続きを促した。
「煙草を吸ってると?」
落ち着くよね、なんて当たり前すぎる言葉が返ってきた。そこに本来あるべきだった言葉を尋ねようかと思ったけど、僕らの間柄には似合わないと思ってやめた。代わりに、そうだね、なんて当たり前すぎる相槌を打った。
白い部分が完全になくなった煙草を手すりにつけて火を消し、最後の煙を如月さんに吹きかけた。その顔にはピースの言葉がよく似合う穏やかな笑みが刻まれていた。
「そろそろ俺は帰るけど、手伝おうか?」
座り込んだまま立ち上がることができなさそうな如月さんにそう問うたが、こては求めていたものではなかった。
「いや、先帰ってていいよ。代わりにさ、私も一本吸いたいからホープくれない?」
ポケットをたたいて箱の存在を確認すると、一本取りだして如月さんの口に寄せた。まるでストローでも吸うかのように如月さんは煙草に吸い付くと目を閉じた。ライターで煙草の先に火をつけると、機械のスイッチを入れたように如月さんの目が開いた。
「ありがとね。やっぱりホープもおいしい。」
「それはよかった。」
なんとなく今日は俺よりも如月さんにホープが似合ってると思った。一口吸うのを見届けてから帰ろうとすると、それを見越したように声をかけられた。
「これさ、残り一本だからあげるよ。」
そういってピースを箱ごと受け取ると、ホープとは反対側のポケットに突っ込んだ。如月さんは小学生みたい、と俺のポケットを指さして笑った。その表情を見て安堵した俺は屋上を後にした。如月さんがの吐いたホープの味はいつもよりも苦かった。
教室に戻って授業を受けたが、その後も如月さんが教室に帰ってくることはなかった。放課後に気になって屋上に身に言ったが、既にそこには如月さんの姿はなく、ホープの吸い殻が落ちているだけだった。
次の日も、来週も如月さんは学校に来ることはなかった。普段から自由にしているせいで誰一人としてそのことを気にしていない様子だった。俺も、もしかしたら煙草がばれたのかもなくらいに考えていた。そんな中、次の木曜日に朝から険しい表情の担任が教室に入ってきた。そして、開口一番に如月さんの訃報を告げた。
クラスメイトの訃報、というのを聞いたときにどんな反応をするのが正常なのだろうか。泣いたり、うつろな表情を浮かべたり、何があったのかと尋ねるのだろうか。でも、誰一人としてそうはしなかった。ただ静かにその先の言葉を待っているだけだった。
そんな異様なクラスの風景か、自分に何も言わなかった如月さんに対してか、それとも自分自身かわからない何かに強烈な怒りを覚えて、教室を抜け出した。担任が何か俺に言ったような気がするが、頭には入ってこなかった。
屋上について、如月さんからもらったピースの箱を開けた。すると、煙草があったであろう場所に見覚えのない紙片が挟まっていた。小さく折りたたまれていたそれは、広げるとルーズリーフの切れ端だった。初めて見る如月さんの字でつづられていた文章。
「高橋君へ」
その言葉で始まった手紙には如月さんの半生が記されていた。高校に入ってすぐに脳腫瘍が見つかったこと、ずっと抗がん剤治療をつづけながら高校に通っていたこと、そしてこれを読んでいるころにはもう自分が死んでいるであろうことも。
そしてあの日の言葉の続きもそこにはあった。
「煙草を吸っていると、自分から死に近づいているみたいな気がするんだ。勝手に迫ってくるんじゃなくて、私は自分から進んでいるんだって気がするから煙草が好きなんだ。」
気が付くと視界がぼやけていて、そこから先の文章がよく読めなかった。目をこすって最後まで必死に読むと、最後の一本のピースを吸ったらこの手紙ごと燃やしてほしいと書かれていた。
無性に煙草が吸いたい。今煙草を吸えばこの入り乱れた感情も落ち着けてくれる。そう頭ではわかっていても、どうしてもピースを口にくわえようとは思えなかった。結局、紙片を元あった場所に戻すと、俺はピースをポケットに戻して手すりにもたれかかった。
もしあの時、聞いていたら答えれくれたのだろうか。そしたらどこかで自分を頼ってくれることはあったのだろうか。もっと自分にできることはなかったのか。
自分の知らない感情からあふれ出る自責の念は、いつかの如月さんの横顔の隣に浮かんでいた。そして、ようやく未知の感情の正体に気づいた。でも口に出すことも、名前を付けることもしない。その代わりに最後のピースに火をつけた。
これが最後の一本。間違いなく今だけは如月さんと心がつながっているはずだ。だから、この気持ちはきっと煙が天まで届けてくれる。そう信じて吸い込んだ紅茶の味を空に吹きかけた。
間延びする声で生徒に授業の大半を押し付けるダメな教師を横目に、俺は席を立って教室を出た。今更誰も驚きはしないが、それでも非難の視線が少し背中に痛かった。誰も歩いていない廊下を通り、階段を登って屋上へと向かう。屋上の鍵は閉めること、と注意書きがされているが、多分1度として鍵をかけられたことはないと思う。だからこの学校で最も綺麗なのはこの鍵穴の中だ。
屋上には誰一人おらず、映画なら特等席かもしくは放映終了間際の不人気映画のようだ。屋上の少し端の方の排水溝のすぐ側の手すりに体をもたせつつ、ブレザーの内ポケットをまさぐった。そのまま右手で箱から1本取り出して、左手のライターで火をつける。
煙草休憩。それが俺が教室を出てきた理由だ。
目をつぶって深く吸い込み、肺が焼けるのを最大限感じてから吐き出す。曇っているせいか、煙は高さもそこそこに見えなくなってしまった。段々と思考が落ち着いてくるような、安心と諦観の入り交じったところに落ち着いてきた時、扉の方で急に音がした。焦って手に持っていた煙草を踏み消してから目を向けると、そこに居たのは予想もできない人物だった。
「ちょっとと邪魔していい?」
透き通るような縮れ毛の白い髪が風になびいている、その姿だけで誰かわかった。如月結衣、俺のクラスの俺の次に変な人だ。
「別にいいけど。」
そう声をかけると、彼女はわざわざ俺の隣に来て、手すりに肘をかけて空を見上げた。来たのが教師ではなかったことへの安堵が込み上げてくると、足の下にある板箱が急に気になってきた。
「別に吸ってもいいよ?私は特に気にしないからさ。」
いやいや、と思ったが如月が花のようにきれいに笑いかけてくるのを見て、吸ったほうがいいんじゃないかと自分の欲望を合理化した。拾った煙草に火をつけると、少し待ってから口にくわえた。
妙な距離感と沈黙に耐えかねて、少しだけ声をかけた。
「如月さんは屋上に何しに来たんだ?まだ授業中だろ?」
空を見上げたまま、まるで俺のはいた煙に語り掛けるように答えが返ってきた。
「特に理由はないんだけど、あえて言うなら疲れたから、かなぁ。」
もしもこの煙が俺でなく如月さんが吐いたものだったら、きっと誰かが模写したいと言い出しそうなほどだった。淡い髪色と物憂げな顔、「月曜日の昼下がり」なんて題名が合いそうだった。
「逆に聞くけど、高橋君は煙草を吸いに来たんでしょ?その煙草の銘柄、なんていうの?」
如月さんにかからないように煙を吐いてから、ショッポだよ、と答えたが少し小首をかしげているように見えたので付け足した。
「ショートホープだよ。って言っても知らないと思うけど。」
すると、如月さんは少し微笑んで振り向いた。
「ホープね。なかなか渋いの吸ってるんだ。てっきりキャスターとかピールだと思ってた。」
「ピールは女子が吸うもんだよ。キャスターはもう名前変わったけど、こんな煙臭くないよ。
って、如月さん煙草の銘柄知ってるの?」
普通に返事をしてから、そのことに気が付いた。確かに如月さんは少し普通とは違うけど、そういう方向だとは思ってもみなかった。指の間でふわふわと漂っているのに気が付いても、如月さんから目を離せなかった。
「まあ多少はね。でも吸ったことはないからただの耳年増だけど。」
「吸わないほうが体のためだよ。でもなんで銘柄まで知ってるんだ?親が吸ってたとか?」
質問に答えるより先に、俺の左手を指さしてもったいないと告げられ、短くなった煙草を口にくわえた。口の中で蜂蜜の甘さが漂っていた。
「小説をよく読むんだけどさ、昔の本って結構主人公が煙草を吸ってるんだよね。それで興味があっていろいろ調べてきた感じ。」
なるほどなぁと思った。小説はあまり読まないけれど、ドラマとかでも煙草を吸っている人はよく出てくる。特にミステリードラマの刑事は事件を解決した後に煙草をふかしながら感想を語るイメージがある。
「ホープは蜂蜜の味がするんでしょ?でも煙からそんな味がするなんて想像もできないなぁ。」
吸ってみる?と冗談のつもりで吸っていた煙草を差し出すと、一口だけと言って髪をかき上げてから煙草に口を寄せた。彼女の所作に見惚れていると、案の定彼女はむせこんでいた。
「げほっげほっ、君、こんなの吸ってるの?」
彼女の背中をさすりながら、残り僅かになった煙草を一口吸って足元に落とした。
「最初のうちはそんなもんだよ。少量ずつ吸って吐いてを繰り返しているうちに慣れてくるのさ。」
「そんなもんかぁ。」
自分が吐いた煙に語り掛ける彼女の声には憂いが感じられた。励まそうにも励まし方がわからず、微妙な沈黙を終わらせる言葉を切り出した。
「俺は吸い終わったから教室に戻るけど、如月さんは?」
「私はもう少しここにいるから、先帰ってて。」
言われるがままに彼女を置いて屋上を後にした。帰り際に見た彼女の横顔はやっぱり絵になると思った。
それから如月さんは月曜日の三時間目に屋上で一緒の煙草を吸うという変な間柄になった。彼女は僕が吸っている煙草を吸って少しずつ煙草になれるんだと息まいていて、俺は一緒に煙草を共有できる人がいる事の楽しさを知った。
如月さんは俺が思っている以上に普通な人だった。否が応でも目立つ風貌を持っていて、学校にも来たり来なかったりするくらいの自由な人だと思っていた。けれども、先生の愚痴だとか、月曜日の憂鬱さを話していると、案外身近な存在なのかもしれないと思えた。
今日も一人で先に屋上に来たけれども、俺の手元にはもう煙草が一本もない。ライターしかないことはわかっているが、さっきから何度も癖のようにポケットをたたいてしまう。そしていつも以上に如月さんが来るまでの時間が長く感じた。
「お待たせ。ごめんね。」
気が付くと隣に来ていた如月さんが申し訳なさそうな顔をして俺の顔を覗き込んでいた。
「そんなに待ってないから大丈夫。」
そう答えたはずなのに、如月さんは何度かごめんと繰り返した。
「お詫びではないけど、これ一緒に吸お?」
そういって差し出されたの箱にはオリーブの葉を平和の象徴が咥えていた。
「ピースのライトか。」
普段吸っているショッポに比べれば吸いごたえがないだろうなぁと思うと少し残念だったけど、如月さんが選んでくれたし初めての味が少し気になった。
如月さんから一本受け取ると自分の煙草に火をつけた。すると、如月さんは煙草をくわえたまま俺の煙草から火を奪っていった。
ゆっくり吸って最初に感じたのは、ショッポとはまた違った甘みだった。落ち着いた優しい甘さで、ずっと口に含んでいたくなるような上質なものだった。
「これ、紅茶みたいな味だね。」
そういわれて確かにと思った。煙の苦みを無理に消すわけでもないところが、似ている。
「吸いやすいしおいしい。如月さんに似合うよ。」
「そうかな。」
少しうれしそうに笑う彼女の横顔にピースはよく似合っていた。彼女もいつの間にか煙草を吸うことに慣れていて、ふかし煙草ならむせることなく一本据えるようになっていた。
「どうしてピースにしようと思ったの?」
気になっていたことを聞いてみると、答えは意外と単純なものだった。
「名前からして吸いやすそうだなって思ったからかな。本当においしい煙草でよかったよ。」
そういってまた一口吸ってから、彼女は俺のほうに向いていった。
「逆に聞くけど、普段ホープを吸ってたのはどうしてなの?」
思わず俺は全力で肺に煙を流し込んだ。こういう時、ピースだと水ごたえが足りないと感じる。長く、なるべく長い時間をかけて肺から煙を絞り出すと、言葉を吐き出した。
「親父が吸ってた煙草だから。もうだいぶ前のことだけど。」
言い終えてから彼女のほうを向くと、わかりやすいほどに顔に疑問符が浮かんでいた。それで頭の隅のほうに追いやった記憶を引っ張り出すことになった。
「小学生のころ、親父がよく煙草を買いに行かせたんだよ。ショッポかって来いって言ってさ。でも吸うときは絶対外で、俺には親父にまとわりついた残り香しか吸わせてもらえなかった。」
それで親父の真似をしてみたんだと言って話を区切るつもりだった。でも、一度開けてしまった思い出の箱は、すべて見聞するまで元通りにしまわれてくれなかった。
「弟が生まれてもうすぐ妹もって時期に、弟と親父の血がつながってなかったことから、母親の不倫がばれたんだ。まだガキの頃だったから状況がよくわからなかったが、結局親父が家を出ていくことになった。
親父は俺の分だけは高校出るまで養育費を払うから会いに来るはずだった。でも家を出て言ってから一度も会いに来なかったな。まあ、それも母親が阻止してたと後から知ったけど。」
如月さんはただ黙って話を聞いていたけど、すべて話してほしいという表情が見て取れた。いや、若しかしたら自分の奥底に隠れた感情を映していただけかもしれない。
「中学三年になった時、親父が俺のために払ったお金は弟たちのために使うから、俺は中卒で働けと言われたよ。自分で稼ぐから通わせてくれって言ったとき、初めて煙草が吸いたくなった。なんとなく、ショッポを吸えば親父とつながれるような気がしてさ。」
もしこの時に彼女が別のもっと普通な言葉を発していたら、屋上から煙草を投げ捨ててたかもしれないし、下手したら如月さんに煙草を投げつけたかもしれない。けれども、彼女が口にしたのは全く別なものだった。
「煙草がよく似合いそうな人生だね。」
「......確かに、そうだな。」
それから、俺たちは一言も交わさずに煙草をふかし続けた。口に広がるピースの味がショッポに比べて大人びたものに感じて、少し気持ちが凪いだ。
吸い終わると、如月さんは俺にとびっきりの笑顔を見せてこう言った。
「そしたら、ピースは私とつながる味だから覚えておいてね。如月さんとの約束だよ?」
その笑顔に一瞬心臓が止まるかと思った。自分のそばにいてこんなにも笑顔な人を見たことがないくらいの満面の笑みで、心が奪われそうだった。
「忘れないよ、絶対に。」
俺の言葉を最後まで聞くと、気分がよさそうに彼女が先に屋上を後にした。一緒には帰らないという約束だから、俺は少し空を眺めながらさっきの如月さんの笑顔を脳裏に焼き付けた。
その日から僕らは交互にショッポとピースを持ち寄って吸った。ショッポしか吸ったことがなかった俺にとって、ピースを吸う時間は間違いなく如月さんの存在を脳に刻み込むものになった。親父の遺した理不尽に対する抵抗を想起させるショッポに対して、ピースは如月さんの高校生らしい等身大の姿を思い起こさせた。
今日は俺がショッポを持ってくる日だから、ポケットを膨らませて屋上に向かった。ただ、今日は如月さんが学校に来ていなかったので一人で吸うことも考えていた。
屋上についてから眼下の町を覗き込んでみる。今もたくさんの人が町を歩いている。綺麗に区画整理されている大通り沿いは人がまるで巣の中を歩く蟻のように見えた。もしくはゲームに登場するNPCのようにせわしない。俯瞰で見れば淡白な町の様子も内側から見れば色彩に富んでいるはずだ。
そんなことを考えていると、屋上の扉があく音がした。手に煙草がsないことを確認してから扉のほうを振り向くと、そこには以外にも如月さんの姿があった。
煙草だけ吸いに学校に来るなんて、と軽口をたたこうと思ったが、言葉がのどの奥で詰まった。開け放ったドアノブに手をかけたままの姿勢で、目の焦点がどこにもあっていない如月さんに駆け寄ると、口角が少し上がった。
「高橋君、悪いんだけどいつもの場所まで私を運んでくれない?」
「いいけど、大丈夫か?」
オウム返しのように大丈夫という割には、如月さんは俺の肩に手をかけてもなお体を支えるのが精いっぱいの様子だった。なんとか手すりのところまで連れて行ったが、そこで体育座りの姿勢をとった。手すりに腕をかけて落ちるなんてことが起こってもおかしくなかったから、そのほうが俺も安心した。
「今日はやめとくか?」
こんな調子で煙草なんて吸うもんじゃないという認識は一致していたようで、如月さんは残念そうに言った。
「今日は遠慮しとくよ。その代わりに今日はこっちを吸ってくれない?それで煙を私にかけてくれたらいいから。」
如月さんは慣れた手つきでピースを一本俺に渡してくれた。ショッポの気分になっていたけれど、まあいいかと思ってピースに火をつけた。そして忘れずに如月さんに少しだけ煙をかける。やっぱりいい香り、なんて如月さんは愛煙家らしいことをつぶやいた。
「今日はやけに体調悪そうだけど、何かあったのか?」
ふと尋ねてみたかったことを聞いただけだったが、如月さんは少し難しい顔をした。言葉を口に戻すなんてことはできないので、ひたすら如月さんの答えを待つよりほかはなかった。しばらくしてから如月さんの口が開いた。
「ちょっとね。朝から頭も痛いし体が痛くて休もうかと思ったんだけど、煙草は吸いたかったからさ。」
泣き出しそうな笑顔、とでもいうべきだろうか。どれだけ笑顔で取り繕っても滲み出す苦しみが目に映る。そんな彼女にかける言葉は見当たらなかったが、小さく煙を吹きかけた。下手な言葉よりも何倍も如月さんの痛みを緩和してくれるような気がした。
煙を間にした沈黙は少し居心地が悪かったけど、如月さんにしゃべらせるのも申し訳ないし、ピースの味に集中した。いつの間にかふかし煙草のほうに慣れてしまい、ピースの程よい苦みと甘さは癖になっていた。
「ねえ、高橋君。煙草を吸ってるとさ。」
そこで言葉が途切れた。振り向けばきっと作り笑いをさせるだろうと思い、青空を眺めたまま続きを促した。
「煙草を吸ってると?」
落ち着くよね、なんて当たり前すぎる言葉が返ってきた。そこに本来あるべきだった言葉を尋ねようかと思ったけど、僕らの間柄には似合わないと思ってやめた。代わりに、そうだね、なんて当たり前すぎる相槌を打った。
白い部分が完全になくなった煙草を手すりにつけて火を消し、最後の煙を如月さんに吹きかけた。その顔にはピースの言葉がよく似合う穏やかな笑みが刻まれていた。
「そろそろ俺は帰るけど、手伝おうか?」
座り込んだまま立ち上がることができなさそうな如月さんにそう問うたが、こては求めていたものではなかった。
「いや、先帰ってていいよ。代わりにさ、私も一本吸いたいからホープくれない?」
ポケットをたたいて箱の存在を確認すると、一本取りだして如月さんの口に寄せた。まるでストローでも吸うかのように如月さんは煙草に吸い付くと目を閉じた。ライターで煙草の先に火をつけると、機械のスイッチを入れたように如月さんの目が開いた。
「ありがとね。やっぱりホープもおいしい。」
「それはよかった。」
なんとなく今日は俺よりも如月さんにホープが似合ってると思った。一口吸うのを見届けてから帰ろうとすると、それを見越したように声をかけられた。
「これさ、残り一本だからあげるよ。」
そういってピースを箱ごと受け取ると、ホープとは反対側のポケットに突っ込んだ。如月さんは小学生みたい、と俺のポケットを指さして笑った。その表情を見て安堵した俺は屋上を後にした。如月さんがの吐いたホープの味はいつもよりも苦かった。
教室に戻って授業を受けたが、その後も如月さんが教室に帰ってくることはなかった。放課後に気になって屋上に身に言ったが、既にそこには如月さんの姿はなく、ホープの吸い殻が落ちているだけだった。
次の日も、来週も如月さんは学校に来ることはなかった。普段から自由にしているせいで誰一人としてそのことを気にしていない様子だった。俺も、もしかしたら煙草がばれたのかもなくらいに考えていた。そんな中、次の木曜日に朝から険しい表情の担任が教室に入ってきた。そして、開口一番に如月さんの訃報を告げた。
クラスメイトの訃報、というのを聞いたときにどんな反応をするのが正常なのだろうか。泣いたり、うつろな表情を浮かべたり、何があったのかと尋ねるのだろうか。でも、誰一人としてそうはしなかった。ただ静かにその先の言葉を待っているだけだった。
そんな異様なクラスの風景か、自分に何も言わなかった如月さんに対してか、それとも自分自身かわからない何かに強烈な怒りを覚えて、教室を抜け出した。担任が何か俺に言ったような気がするが、頭には入ってこなかった。
屋上について、如月さんからもらったピースの箱を開けた。すると、煙草があったであろう場所に見覚えのない紙片が挟まっていた。小さく折りたたまれていたそれは、広げるとルーズリーフの切れ端だった。初めて見る如月さんの字でつづられていた文章。
「高橋君へ」
その言葉で始まった手紙には如月さんの半生が記されていた。高校に入ってすぐに脳腫瘍が見つかったこと、ずっと抗がん剤治療をつづけながら高校に通っていたこと、そしてこれを読んでいるころにはもう自分が死んでいるであろうことも。
そしてあの日の言葉の続きもそこにはあった。
「煙草を吸っていると、自分から死に近づいているみたいな気がするんだ。勝手に迫ってくるんじゃなくて、私は自分から進んでいるんだって気がするから煙草が好きなんだ。」
気が付くと視界がぼやけていて、そこから先の文章がよく読めなかった。目をこすって最後まで必死に読むと、最後の一本のピースを吸ったらこの手紙ごと燃やしてほしいと書かれていた。
無性に煙草が吸いたい。今煙草を吸えばこの入り乱れた感情も落ち着けてくれる。そう頭ではわかっていても、どうしてもピースを口にくわえようとは思えなかった。結局、紙片を元あった場所に戻すと、俺はピースをポケットに戻して手すりにもたれかかった。
もしあの時、聞いていたら答えれくれたのだろうか。そしたらどこかで自分を頼ってくれることはあったのだろうか。もっと自分にできることはなかったのか。
自分の知らない感情からあふれ出る自責の念は、いつかの如月さんの横顔の隣に浮かんでいた。そして、ようやく未知の感情の正体に気づいた。でも口に出すことも、名前を付けることもしない。その代わりに最後のピースに火をつけた。
これが最後の一本。間違いなく今だけは如月さんと心がつながっているはずだ。だから、この気持ちはきっと煙が天まで届けてくれる。そう信じて吸い込んだ紅茶の味を空に吹きかけた。
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