1 / 1
第二次世界大戦関連
しおりを挟む
=目次
『上位位相神学論外伝資料』全24章
第1章:① 上.ナチズムとファシズム
第2章:② 中.ファシズムと反ユダヤ
第3章:③ 下.ナチズム / ナチスの人種観
第4章:➃ ナチズムのポイント列挙
第5章:⑤ 天皇制ファシズム
第6章:⑥ 蹄鉄理論の関連性
第7章:⑦ ネオ・ナチ
第8章:⑧ ファシズムの由来
第9章:⑨ ヒトラーの国籍
第10章:⑩ 小協商
第11章:⑪ K症候群
第12章:⑫ ナチスの焚書の概要
第13章:⑬ メーメル割譲
第14章:⑭ ファシズムと権威主義
第15章:⑮ ANTIFA
第16章:⑯ ナチスと同性愛
第17章:⑰ ヒムラーとオカルト
第18章:⑱ ナチス体制の成立とクリスマス
第19章:⑲ 11日戦争 -損失と奪還-
第20章:⑳ パリは燃えているか
第21章:㉑ 零時 -Stunde Null-
第22章:㉒ 百分率協定とギリシャ内戦の勃発
第23章:㉓ ポグロムと移動虐殺部隊
第24章:㉔ メンデルスゾーンとナチス
『①上.ナチズムとファシズム』 【ファシズムor結束主義】とナチズムはイタリアとドイツで生まれた【社会的干渉主義 / パターナリズム】/全体主義 / 権威主義的ポピュリズム思想で、殆ど差異のない同様のものであるとされるが、その実態は大きく異なる。
その最たる例を挙げるならば、ファシズムはナチズムと違い、【エスノセントリズム的な考え(人種 / 民族差別的なイデオロギー)】を抜き
にしてもその条件が成立する点であろう。
*₁イタリアのファシスト党 =ファシズムの場合、古代ローマ帝国の再興を掲げて、ローマ人を祖先に持つ国民のナショナリズムを焚きつけることで、全体主義体制を維持していた。
ドイツのナチス =ナチズムの場合は、第一次大戦で傷つけられたドイツ人の尊厳回復・アーリア人至上主義・ユダヤ人排斥を煽り、支持を拡大した。
また、第一次世界大戦において、イタリアはまがりなりにも戦勝国だったが、ドイツは敗戦国として莫大な賠償金を背負い、産業の中心地ルール工業地帯もフランスに占領され、追い打ちのように世界恐慌のあおりを受けた影響で、経済がどん底の状態であったという、環境の違いもある(引用.一部改)
《出典・引用》上段.無し
*₁ヨーロッパ史入門より抜粋。
『②中.ファシズムと反ユダヤ』 例えば、イタリアでは1938年に【Lejji razziali︙反ユダヤ的法律】が制定されるまで、ユダヤ人に対する差別や迫害が公に行われることは基本的には無かった(しかし反ユダヤ法が制定された後もイタリア国内では連合国に降伏するまでホロコーストが行われることは無く、それが行われるようになったのは1943年にイタリア北部でドイツの傀儡政権である【イタリア社会共和国orサロ共和国】が建国された後である)。その証拠としてイタリア国籍を持つ当時のユダヤ人の※26%(約7000人)はファシスト党に入党していたし、ムッソリーニの恋人の一人である【マルゲリータ=サルファッティ】はユダヤ人であった。 イタリア・ファシズムはイタリア国籍をもつ、イタリアという国家に協力的な者であればユダヤ人でもファシズムを共有 / 享受することができたのだ。
このように、ファシズムは最初から反ユダヤ的なイデオロギーだったわけではなく、人種差別主義的な観点の追加は後付けであった。
これら項目の追加については1935年の【第二次エチオピア戦争】や1936年の【スペイン内戦】を経たことなどからなる【ベルリン=ローマ枢軸】と呼ばれる協力関係の強化、要するに国際的に孤立していた独伊の急接近という背景がある。 イタリアはドイツの【大ドイツ主義】に警戒感をおぼえていたし、オーストリアを巡って両者は緊張関係にあった(オーストリアで成立した【オーストロファシズム】体制はナチス・ドイツとドイツから支援を受けたオーストリア・ナチ党と真っ向から対立し、オーストリアはナチス・ドイツの誕生に危機感を抱いていたムッソリーニ率いるイタリアから支援を受けていた)が、先程も述べたように独伊はこの後急速に接近してゆく。
ファシスト党に加入経験のあったユダヤ人は1938年10月の反ユダヤ法制定前には10125人であり、累計のユダヤ党員は31.3%に達していたとする場合もある。(※前者の確率に誤りがある可能性あり) 歴史家.レンツォ・デ・フェリーチェの通説。
《出典・引用》ウィキペディア
さくらインターネット
龍谷大学研究ノート「イタリア・ファシズムと反ユダヤ主義・人種主義(1) -グローバル化時代の新しいレイシズムの分析のために-」より一部抜粋。
『③下.ナチズム / ナチスの人種観』
一方のナチズム【正式名称︙ナショナルソーシャリズムor国家社会主義 / 国民社会主義】には社会主義的 / 全体主義的要素にプラスして、ユダヤ人を【劣等種︙ウンターメンシュ】の中でも最下層(ここでいうウンターメンシュはユダヤ人 / ポーランド人 / セルビア人 / ロシア人 / ジプシー等を指す。その他絶滅対象としてはアフリカ系ドイツ人 / 身体・精神障害者 / 同性愛者 / ダウン症患者 / エホバの証人 / 政治犯 / ソ連兵捕虜/レジスタンス等)である【文化破壊種】として差別する【反ユダヤ主義】という根幹のレイシズム的ものがあり、【社会進化論︙社会ダーウィニズム】に基づいたアーリア人至上主義を基本主軸としていたことはよく知られているだろう。 我々日本人だって例外ではなく、【文化追従種】として【文化創造種】であるアーリア人に追従する劣等種とされた。(非公式ながら、ナチス・ドイツに友好的と判断した民族 / 人種 / 人物は名誉アーリア人とされ、日本人も含まれたし一部のユダヤ人も対象となっていた)
ユダヤ人の定義はとても曖昧だったので、ナチスは家系によって識別を行った。その方法は至ってシンプルで4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体出身で有った場合は法的にユダヤ人(純血ユダヤ人と見做す場合もある)であるとされた。しかし後に記した【ニュルンベルク人種法】等が定義を複雑にした(つまり曽祖父に1~2人のユダヤ教共同体出身であった場合の【ドイツ人でもユダヤ人でもない人々】である。これらは混血と見做され、通常のドイツ人と同等の権利を保持していたが、その後さまざまな法令が制定されたことで徐々に権利を奪われた)
ちなみに、アーリア人 / ゲルマン民族であるという人種的ステータスを証明するためには1800年程度、SS隊員(ナチス武装親衛隊)は1750年程度まで遡って出生記録や洗礼式の記録、親族の死亡証明書を用意する必要があった。
誰が見ても分かるほど非常に非科学的(カルト的)なガバガバ論理であるが、それでも1933年には【職業官吏再建法】、1935年には【ニュルンベルク人種法︙帝国公民法 / 血統保護法】が制定され、ナチスの人種政策論の多くが実現。ユダヤ人迫害に拍車がかかることになる。 その後ナチスは他のヨーロッパ枢軸国と協力し、【最終的解決︙Endiösung】を実行。 1945年の欧州戦線終結までに、少なくとも600万人程度のユダヤ人を虐殺した。これは当時ヨーロッパに居たとされるユダヤ人の3分の2に相当する。 ユダヤ人以外にもロマ約50万人、ドイツ人含む精神障害者7万人が殺されている。
*₁ナチスはユダヤ人をユダヤ教を信仰している者ではなく、あくまで人種とみなしていた。ユダヤ人は【セム人種】に属し、【アーリア人種】とは相容れないと考えられた。 ユダヤ人の改宗やアーリア人種との結婚は、アーリア人種の劣化を目論む企てと解釈され、国家による人間社会への「生物学的介入」が必要だとされた(引用.一部改)。
*₂1935年に制定されたニュルンベルク人種法の【ドイツ国公民法︙帝国公民法】と【ドイツ人の血と名誉を守る法︙血統保護法】では【アーリア人】と【非アーリア人】という言葉に変わって【ドイツ人】と【ユダヤ人】という概念を導入した。これはとても画期的であった。 アーリア人という概念は、元々はユダヤ=ヘブライ的な世界の説明の仕方とはことなるものを求める動きの中から登場したものである。アーリア人は、インド=ゲルマン語族という言語の共通性が人種によみがえられたもので、ユダヤ人とヨーロッパ人を区別するために使用されたが、いくつかの問題を含んでいた。たとえば、ドイツと友好国でありながら言語のことなるフィンランド人とハンガリー人は非アーリア人となり、ヨーロッパという枠組みから除外されることになり、イギリスとその植民地インドが同じアーリア人となってしまう。こうしたこともあり、1935年の血統保護法では【血】という概念がはじめて導入され、「ドイツの血の純粋性がドイツ民族の存続の前提である」とされ、ドイツ人は「ドイツの血をひくもの」と定義され、ドイツ人とユダヤ人の結婚は法的に禁止された。しかし、同語反復的なこの定義では、ドイツ人は単一の純粋な人種であるかのようなイメージが生じる。ドイツ人兵士とロシア人女性のあいだに生まれた混血児をドイツに連れ帰り、ドイツ人として育てると聞いたときの違和感も、こうした純粋人種イメージと関わっていよう(引用.一部改)。
*₃ホロコーストといったユダヤ人やジプシーなどの民族排外は、人種優生学の発展が背景にあるといえる。人種優生学という言葉は、1833年にイギリスの学者【フランシス=ゴールトン︙Francis Galton, 1822-1911】が、「生まれながら優れている」あるいは「遺伝における優秀性」を意味したギリシャ語から造語したものである。ゴールトンがこの言葉に込めた意味は、血統が優れている、より生存に値する人種に対し、速やかに繁殖する機会を与えることによって人類を改造する科学を作り出すことであった。彼は、文化的・社会的業績を残し、「生産的」である人種の血を優生、社会に貢献する能力がなかったり、反社会的な行動をする人種は人類に現れた「退化」であるとし、劣等とみなしたのである(引用.一部改)。
*₄ナチ運動は、新しいドイツを主に人種問題とみていた。人種政策には建設的な面と陰湿な面があった。この政策はまず健康なドイツ国民をつくりあげることを目的としていた。ドイツ民族こそ自然界の最も行為の種であると考えたからである。しかしゲルマン人種のなかにある生物学的に望ましくない要素を根絶し、生物学的な退廃を回避することも、政府の仕事だった。
生物学的な純化というこの概念は、ヨーロッパとアメリカにおける医学界の主流派に広く浸透していた人種的な衛生学(優生学)の理論に根ざしていた。優生学理論では、人間の個体群は、動物のそれと同様、ダーウィンによって示された自然淘汰の法に従っていることを示唆していた。健康な人種をつくりだすためには、肉体的、精神的に生涯を持つ人びと、あるいは伝統的な人種の血統に外国の血をもちこむ人々を排除しなければならない。ヒトラーの【我が闘争】には、こうした人種政策のもととなった疑似科学的な見地が示されている(引用)。
〈ダーウィンの弟子:ゴールトンの功績〉 ・気象図の等圧線を考案し、気圧という概念を発見した。
・指紋による個人の識別をスコットランドヤードに提唱した等。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
ホロコースト百科事典
創価大学「Annihilation in Nazi-occupied Europe 1941-1945」より一部抜粋
*₁NPO法人ホロコースト教育資料センター「振り返り資料」より抜粋
*₂お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション“TeaPot”「ナチ人種再考 -1942年9月16日の ヒムラーの演説を読む- 」より抜粋
*₃神奈川大学「ナチス時代のジプシー研究 -人類優生学研究所における迫害のための調査を元に- 」より抜粋
*₄河出書房新社.書籍「ヒトラーと第三帝国 -1930年代の人種問題と人種差別- 」より抜粋
J-Stage「統計学の巨人」より抜粋(ゴールトンの功績)。
『➃ナチズムのポイント列挙』
・ナチ党が製作する労働者向けのポスターには、しばしばハンマーを持った男性が描かれている。これは【社会主義リアリズム】の表明又はその一種であるとされることもある。が、ナチズムは社会主義と称しているがマルクス主義やフランス・イギリスの社会主義とは全く異なっていることに注意すること。これは「社会主義」を装うことで労働者の支持を得ようとしたに過ぎず、実態はまったく反社会主義政党である。
・ナチズムはマルクス主義等の代表的な社会主義とは反する考えを持っているだけで、双方は同じ社会主義。とするのは間違いである。(※マルクス主義のような赤色社会主義に対してファシズムやナチズムは黄色社会主義に部分的な影響を受けているとされる) ※そして人種差別主義が基盤となったシンクレティズム=イデオロギーであるため、その要素を取り除くとナチズム独自のアイデンティティーは消滅するとされる。
※記述途中.もしくは答えになっていない要素を含む
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓。
『⑤天皇制ファシズム』
天皇制ファシズムと呼ばれるイデオロギーは、今日では日本国内外問わず議論の余地があるイデオロギーとされる。(天皇制ファシズムの成立を事実として見做す場合もあり)
当時の日本は全体主義的な要素を多く持ち、1925年の【治安維持法制定】 - 1928年.1941年の【治安維持法改定】をはじめとする法律に基づいた思想統制や弾圧が行われていたこと、1930年代の満洲事変から発した度重なる侵略戦争、【5・15事件 / 2・26事件】の発生 / 鎮圧から発した軍部中心の政治の誕生(軍国主義的要素を多く含み、国民の自由 / 個人主義の排除が成されたとする。これを日本型軍部ファシズムの成立と捉えることがある)、そして天皇を頂点とする国家権力に日本臣民が奉仕する点がファシズム等との類似点とされる。
しかしながら、ドイツ / イタリアなどに代表されるナチズム / ファシズム諸国とは異なり、日本では一度も議会政治が否定されることは無かった(実際に戦時中、他の主要国では基本的に代表交代が起きなかったのに対して、日本では首相交代が起きている。 やむを得なかったとはいえ東条内閣はサイパン陥落の責任を取る形で辞任しているし、続く小磯内閣も鈴木内閣も辞任している)し、明瞭なファシスト政党(というか強力なファシスト政党)は存在しなかった(その後、1940年の大政翼賛会の成立に伴って他の政党は事実上の解散状態となった)。それに、ファシズムがファシズム的イデオロギーで日本が完全に支配されたわけでもないのである。
*₁戦前の日本では、1931年の中国侵略戦争開始以降、軍部が発言力を拡大する中で、軍国主義が強化された。そして、1940年には日独伊三国同盟を結び、せまりつつある太平洋戦争に備えて、大政翼賛会発足をはじめ侵略戦争推進のため国民動員体制をつくりあげた。
しかし、日本の軍国主義体制もファシズムの一種か否かについては議論が分かれている。それは、イタリアとドイツの場合と日本の場合は、大きく異なっていることがあるからだ。イタリア、ドイツと日本では、民主主義、議会制度の発展の度合いが違っていて、ムッソリーニ、ヒトラーが政権を握るのは、テロやデマゴギーなどの暴力があるが、それと並行して国会で多数を握るという経過をたどった。
これに対して日本では、天皇が絶対的な権力を握っていて、最初から議会の権限が制限されており、ファシズム政党が政権を奪取するという結果をたどっていない。また、天皇制権力は独占大企業とともに、封建的な性格の強い地主勢力を基盤にしていたという特徴もある(引用.一部改)。
《出典・引用》ウィキペディア(考察も含む)
武蔵野大学「日本ファシズムの思想と戦後日本の政治文化 -社会契約説と「市民」の観点から考える」より一部抜粋
*₁日本共産党公式「軍国主義・ファシズム・ナチズムとは?」より抜粋。
『⑥蹄鉄理論の関連性』
【蹄鉄理論︙Horseshoe theory】とは、極左と極右は政治イデオロギーとして正反対であると通常見做されるが、実際には蹄鉄の先の形状のように相互に関連性 / 類似性が見られる、いずれの【急進主義】で権力を獲得したエリートが政治的な集権制を形成するというフランスのジャン=ピエール・ファイユが提唱した政治学理論である。
例えばソ連の【スターリン主義】と【ナチズム】はどちらも権威主義的で反民主主義的、言論弾圧を行う過激な【パターナリズム︙社会干渉主義】を帯びたイデオロギーという共通点が蹄鉄理論の最たるものであろう(他にも個人より共同体を重視するなどの共通点も含む)。そして昨今の欧州における政治情勢では極右政党と極左政党が協調 / 協力することも珍しくない(特に移民問題を筆頭とする反グローバリズムで利害の一致から協力関係にある。 移民政策は左側は社会的格差を広げ、右側は国民国家を切り崩すとされる)。
しかしこの理論は信頼性に欠くとして、学会で支持する者はそう多くない。が、左派政党と右派政党は中道よりも近いとする声もある。
-
*₁経済次元で左右両極にあるものが権威主義に向かい、経済次元で中道にあるものが民主主義側に位置する。いわゆる蹄鉄理論。(や強引な引用)
《出典・引用》ウィキペディア
*₁九州市立大学法政論集第49巻第3・4合併号(2022年3月)抜刷 「論説.政治的左右と価値観の相関 -欧州社会調査と世界価値観調査のシュワルツ価値理論設問を用いた国際比較- 」より抜粋。
『⑦ネオ・ナチ』
昨今の世界では【ネオ・ナチ / ネオ・ファシ】という言葉を耳にする。 これらは欧州にて特に広がりを見せており、一般的にナチズム思想単体を指すのでは無く、極右政治と右翼過激主義における形態の一種と見做されている。これらは大きく【広義的なネオ・ナチ】と【狭義的なネオ・ナチ】に分けることができる。前者は外国人排斥や過激な民族主義等を「現代社会にも適応可能な主張」として、武力闘争を含む過激な活動を行う政治集団。後者はヒトラー崇拝やナチス支持、ホロコースト否認を中心とした思想を掲げる集団 / 人物を指すことが多い。 しかし列記とした定義が存在しないのもまた事実である。
《出典・引用》ウィキペディア
英和辞典
コトバンク
Weblio国語辞典
日本共産党公式「ネオ・ナチってなんですか」より一部抜粋。
『⑧ファシズムの由来』
ファシズムの名前の由来はイタリア語の【ファッショ︙fascio】から来ている。ファッショは束 / 結束ディートリヒ=クラゲスを意味し、古代ローマの最高公職者である【コンスル︙執政官】の権威の象徴である【ファスケス(斧の柄にロッド(短杖)を束ね合わせたもの】に由来する。ファスケスの象徴的意味は「統一による力」で1本のロッドでは簡単に壊れるが、束になると用意に壊せない = ロッドを束ねることから団結や結束を意味するようになった。このことから日本ではファシズムを結束主義と呼ぶ場合もある。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓。
『⑨ヒトラーの国籍』
実はヒトラーは1925年にオーストリア国籍を放棄しており、1932年2月にドイツ国籍を取得するまでの約7年無国籍者であった。
ヒトラーは1921年にはすでにドイツ労働者党(ナチ党の前身)の党首となっており、その後の1930年の国政選挙でナチ党(NSDAP)は18.25%の得票率を獲得し第二党に躍進した。 しかし、当の党首は無国籍者であり、ナチ党員は一刻も早いヒトラーのドイツ国籍取得に奔走する。 結果、ヴィルヘルム=フリック(後の国務大臣)やディートリヒ=クラゲス等の活躍もあり、ヒトラーはブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官となった(これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためであった)。これにより、ヒトラーはヴァイマル共和国の大統領選に立候補することが可能になったのだ。
その後ヒトラーは1932年のヴァイマール共和国大統領選挙に出馬。次点で落選するものの、同年7月の選挙でナチ党は230議席、37.3%を獲得して第一党となる。
《出典・引用》ウィキペディア
兵庫県教育委員会
三菱UFJリサーチ&コンサルティング「ヒトラーはなぜ熱狂的に支持されたのか」より一部抜粋。
『⑩小協商』
小協商は一般的に第一次世界大戦で敗戦国となったオーストリアとハンガリーのハプスブルク君主国の再建阻止と前者二国の領土的野心に対抗するため(ヴェルサイユ体制の維持目的)に設立されたルーマニア / チェコ・スロヴァキア / ユーゴスラヴィアの三国による協調同盟体制を指す。 当初は先述の通り主に対ハンガリー(特にハンガリーは「歴史的領土3分の2を、人口にして5分の3を失った」と認識していただけに、同国に隣接する三カ国にとっては大きな脅威に写った)目的に設立されたが、しだいにドナウ川流域諸国の相互安全保障体制としての意味を持つようになる。それと同時にドイツとイタリアのファシズム / ナチズムの台頭に脅威を感じたフランスが接近。支援を受けて結束を強化したが、1939年にナチス・ドイツとハンガリー(ポーランドも)がチェコ・スロヴァキアを解体したことで小協商は終焉を迎えた。
ちなみにチェコ・スロバキアは1935年にソ連とも相互援助条約を結んでいた(フランスも同時期にソ連と相互援助条約を締結していた)。しかしミュンヘン会談でソ連が疎外されたことで事実上の「三カ国相互援助条約」は意味を成さず、ナチスに翻弄されたことでチェコ・スロヴァキアは解体された。 その後、ソ連はナチスと急接近しモロトフ・リッベントロップ協定(通称.独ソ不可侵条約)を締結するにいたる。
*₁ヴェルサイユ体制のもとで、フランスから再起不能にされたはずのドイツが台頭し始めた。これはソ連のみならず、ヨーロッパ各国にとって脅威であった。戦争回避のための努力が次々となされた。ルーマニアは1933年チェコ・スロヴァキア、ユーゴスラヴィアと小協商の強化をはかり、常設会議を設置して、定期会合を行い、国際連盟における行動などは、同一歩調を取った。また、三国軍事会談も開かれ、参謀本部は情報交換まで行うようになった。一方、カロル二世(当時のルーマニア国王)の経済政策にはみるべきものもなく、ヨーロッパの後進国ルーマニアは、やはり大国にたよらなければならなかった。ドイツはこれに対して、迎合的経済政策をとった。経済恐慌をまともに受けた東欧諸国にとって、ドイツの経済援助はその政治的意図は何であれ、無条件で受け入れられた。すなわち、ドイツはルーマニア、ブルガリアなどの東欧の農業国からその農作物を無制限に、しかも世界市場の価格以上のそれで買い上げた。さらに、代金はドイツの工業製品によって支払われたのである。これは東欧におけるヒトラーの経済圏確立のためのものであった。ルーマニアが第一次世界大戦後、一貫してとってきた外交政策も、このため大きく変化してきた。フランスに対する依頼心が、ドイツに対するそれへと移って行くのである(引用.一部解説を後付)。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
コトバンク
大阪経済法科大学学術情報リポジトリ「一九三九年英仏ソ三国交渉と軍事会談」-はしがき- より抜粋。
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター「ミラン・ホジャの中欧連邦構想 -地域再編の試みと農民民主主義の思想- 」より一部抜粋
*₁ i-repository.net「東欧における社会主義国家の成立 -ルーマニアを中心として- 」より抜粋。
『⑪K症候群』
【K症候群/シンドロームK︙K syndrome】とは、1943年にローマ(当時.事実上ナチス占領下)で発生したユダヤ人にのみ感染する病である。 感染したユダヤ人はヴァチカン近郊のファーテベネフラテッリ病院に収容された。 「ひとたび感染したら、インフルエンザのように咳、くしゃみ、発熱が続き、数日のうちに神経を蝕まれて死に至る」とされる。 とても恐ろしい病でありながら、原因が一切不明の病。
しかし実態は、この病気はユダヤ人を守るために、イタリア人やユダヤ人医師団がでっち上げた架空の病であった。K症候群が自らに感染する事を恐れたナチス親衛隊員等は病院の周囲に近寄るのをやめたらしい。
その結果、数十人のユダヤ人を救うことができた。
K症候群のKはアルベルト=ケッセルリンク(ナチス・ドイツのイタリア戦線における司令官)。又は(両方とも)ヘルベルト=カプラー(ローマのゲシュタポ長官)の名に由来するとされる。
《出典・引用》ウィキペディア
NHK.BS世界のドキュメンタリー「K症候群 ユダヤ人を救った謎の病」
note
gooブログ
クーリエ・ジャポン。
『⑫ナチスの焚書の概要』
「焚書」とは、書物の焼却による儀式としての破壊を指す。通常、焚書は公の場で実行され、検閲の要素を示し、資料に対する文化的、宗教的、政治的反発から起こる。 焚書の中でも特に有名なのは秦の始皇帝による【焚書坑儒】とナチスの焚書であろう。今回は後者に焦点を主に当ててみる。 ドイツでは実は19世紀にも前例があり、1817年【ドイツ学生連盟︙Burschenschaften】はルターの【95か条の論題】発表300年を記念した【宗教改革300周年祭】にて統一ドイツの実現を訴えるため、警察の法令集や【ナポレオン法典】を燃やした。 それから約115年後の1933年、ナチス・ドイツ当局は専門組織や文化組織をナチスの思想と政策に同化させる【強制同一化︙Gleichschaltung】に懸命に努めた。この試みと足並みを揃えて、ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスは、ドイツ人の芸術や文化をナチスの目標と合致させる試みに着手した。政府やユダヤ人および政治的な嫌疑者や、ナチスが「退廃」と呼ぶ芸術作品を演出または創造した人々の文化的組織を追放した。 文芸共同体を同化させるために、ゲッペルス等は【国家社会主義者ドイツ学生連盟︙Nationalsozialistischer Deutscher Studentenbund、NSDStB】と協力した。 1933年5月10日、大学生たちは2万5000巻を超える「反ドイツ主義」の書物を燃やした(引用.一部改)。
*₁ナチ党が政権を取り、ヒトラーは首相についた1933年5月10日、宣伝相のゲッペルスは、ベルリンを初め全国すべての大学所在地のナチ党員に対して、国立・私立の図書館に侵入し、追放された著者の書物を街頭に放り出すように命じた。ベルリンでは焚書の儀式が行われたが、黒焦げになった書物の1ページに焚書された著者の1人、ハインリヒ=ハイネの文章が残っていることに誰も気づかなかった。1823年、ハイネが記したように「※書物を焼くものは、早晩、人間を焼くように」なった(引用)。
※「戯曲.アルマンソール」 より、本を焼くものはやがて人間を焼くようになる︙Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen(独)。
《出典・引用》ホロコースト百科事典
世界史の窓
Weblio辞書・ウィキペディア
*₁独立メディア塾「書物を焼くものは、早晩、人間を焼くようになる」より抜粋。
『⑬メーメル割譲』
ナチス・ドイツは戦闘行為を行うこと無く獲得した領土が数多い。例えば、ドイツの【オーストリア併合︙Anschluss】やチェコの【フルチーン/ズデーテン割譲(その後、チェコの全土を併合している)】などである。 ナチス・ドイツの領土的野心は留まることを知らず、1939年.バルト三国の一つ.リトアニアの【メーメル地方︙リトアニア表記.クライペダ】にも割譲要求が出された。この土地は1923年のリトアニア独立に際してその領土となったが、ドイツ人住民のドイツ復帰運動が強く、1938年後半にはその支配権は殆ど失われていた。 最後通牒を受けたリトアニアは代表団をベルリンへと派遣した。しかし圧力に屈したリトアニアは3月22日、「ドイツに対するメーメル地方割譲条約」に調印し、代わりにリトアニアは数年前に建設したばかりのメーメル港における自由貿易権を保証された。 だが、その後に結ばれた「モロトフ・リッベントロップ協定」はリトアニアに関する秘密議定書(リトアニアをソ連の勢力園とする内容)を含んでおり、内容通りにソ連は1940年に同国を軍事併合した(その後、リトアニアがソ連から独立を回復したのはソ連崩壊の前年である1990年3月11日である) (引用.一部改)。
*₁1938年秋、ドイツがチェコ・スロヴァキアのズデーテン地方を割譲すると、次はリトアニアのクライペダ地方がドイツに奪われるだろうとという悲観的観測がリトアニア国内に広がった。11月下旬、シュキルパ(当時の在ポーランド.リトアニア公使)は、レオポルダス=ディームシャ駐ケーニヒスベルク総領事とともに、クライペダ地方の問題に関してヒトラーと直接交渉するようスメトナ(リトアニア初代大統領)に助言した。しかしスメトナは、ヒトラーとの直接対談を拒否している。実のところスメトナは、大統領在任中の14年間で一度も海外を公式訪問しなかった。スメトナは、リトアニアが特定の隣国と特別な外交関係をもてば他国の不信を招くことになるとして、かねてより「中立」外交を主張していた。スメトナが海外を公式訪問しなかったのはそれを意識していたからでもあるが、シュキルパから見れば、スメトナのこのような「消極的」な外交姿勢こそがリトアニアを窮地に陥らせた原因だったのである。
クライペダ問題が深刻化するなか、政府は、シュキルパ駐ポーランド公使とユルギス=シャウリース駐独公使の入れ替えを決める。ドイツで長年駐在武官を務めたシュキルパを駐独公使とすることで、事態の打開を目指したのである。外交政策の転換を目指したシュキルパは、駐独公使着任にあたってドイツと友好条約を結ぶことを目標とし、その条約案まで策定した。しかし、シュキルパによれば、この条約案はロゾライティス前外相らの反対によって葬り去られることになる。ロゾライティスの後任のユオザス=ウルプシース外相は、シュキルパに対してリトアニアの中立維持に努めるよう求め、勝手な行動を控える指示を出した。これに対してシュキルパは、リトアニアがドイツと行動をともにしなければ、ドイツはリトアニアを敵国と見なすだろうし、その場合にはクライペダ地方を失うだけでなく、ヴィルニュス(現在のリトアニアの首都。当時はポーランド領だった)の回復も叶わないどころか、リトアニアの独立の維持すら脅かされると考えていた。
リトアニア政府は1938年末以降、クライペダ問題に関して、リトアニアのクライペダ地方に対する主権を認めたクライペダ憲章(1924年)の署名国であるイギリスやフランスなどに助言を求めるも、解決に向けた有効な手立ては得られなかった。フランスは、ドイツとの関係悪化を恐れ、この問題に取り組もうとしなかった。イギリスは、これが東欧地域全体における重要な問題であることを認識していたものの、この問題でドイツが行動にでたとしてもドイツと戦火を交えるつもりはなかった。1939年1月30日、イギリス外相ハリファックス卿は、ヒトラーが3月15日以降にクライペダを奪取する計画があるという確かな情報を在モスクワ大使館経由で入手した。しかし、ドイツとの経済問題を抱えていたイギリス政府は、この問題を先送りにしていたのである。
1939年3月、ローマで教皇ピウス12世の戴冠式に出席したウルプシース外相は、リトアニアに戻る最中にベルリンに立ち寄った。20日午前、ベルリンに到着したウルプシース外相は、クライペダ問題の解決に向けて、シュキルパとともにドイツ外務省へと向かった。このとき、ウルプシース外相のみを執務室に招き入れたヨハヒム=フォン=リッペントロップ外相は、ウルプシース外相にクライペダ地方の割譲を求める最後通牒を突きつけた。翌21日、カウナスに戻ったウルプシース外相は、ドイツからの最後通牒について政府に報告した。同日14日から閣議が開かれ、対応が検討されたが、ドイツと戦っても「3日も持たない」というカジース・ムスティキス国防相やラシュティキス軍総司令官の判断もあり、政府は結局ドイツからの最後通牒を受諾することを決定した。
翌22日、ウルプシース外相はベルリンを再訪し、シュキルパとともにドイツ外務省に向かった。そして23時55分、2人は、リッペントロップ外相の執務室で「クライペダ地方の引き渡しに関する条約」に署名した。この条約により、リトアニアはクライペダ地方を「自発的に」ドイツに引き渡すこととされ、即日クライペダ地方はドイツに編入され、ドイツ領メーメルラントとなった。(引用.一部解説を後付)
《出典・引用》世界史の窓
Weblio辞書・ウィキペディア
*₁東京大学学術機関リポジトリ「小国とファシズム」より抜粋。
『⑭ファシズムと権威主義』
ファシズム国家として名が上がるのはドイツ・イタリア・日本であるが、この典型的な三つの国家の他にもファシズムによって国家統制を行った国家は存在した。ヨーロッパのファシスト国家の周辺に生まれた、大戦前のオーストリアのドルフース政権(オーストロファシズム)、ルーマニアのアントネスク政権(ファシズム組織.鉄衛団との協力も根拠に挙げられる)ギリシャのメタクサス政権(共産主義の脅威を口実に憲法の主要条項を廃止し、古代ギリシャとビザンツに続く「第三ギリシャ文明」を標榜するファシズム体制を敷いた)などはファシズム政権とされる。これらはいずれもドイツ・イタリアのファシズムと共に大戦期に消滅した。
それらとは別に、同じ時期に独裁国家も生まれた。スペインのフランコ政権(ファランジズム)、ポルトガルのサラザール政権(及びその後継のカエターノ政権)は、いずれも1930年代末までに独裁体制を作り上げ、大戦後にも政権を維持している。スペインにはフランコ以前の1920年代にプリモ=デ=リベラ政権が独裁政治を行っていた。これらのケースでは独裁政治が行われていたが、強固なイデオロギーの標榜よりも個人のカリスマ性を全面に押し出し、厳密な国家統制も行われていなかった。独裁政治によって人権や自由が奪われた点ではファシズムと似ているが、厳密にはその概念には当てはまらず、それらは【権威主義】体制と規定されている。彼らは世界大戦でもファシズム国家とは一線を画して中立政策をとり、ファシズム国家と共に倒れることもなく、戦後までその権力を維持した。1910~1920年代のハンガリーのホルティ、ポーランドのピウスツキ、リトアニアのスメトナも独裁政権であったが、これらもファシズムには近いが、議会制度が否定されていないことなどから、区別して権威主義体制とされている(引用.一部改)。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
コトバンク。
『⑮ANTIFA』
ネオ・ナチについては先に述べたので、それとは対極に位置する存在【ANTIFA︙Anti-Fascist Action】についてここでは記述する。 ANTIFAは名称の通り、ネオ・ナチやファシズム、白人至上主義、差別主義などに強く反対する抗議活動を指す(なお、ここでは現代に存在するANTIFAについて述べる)。 メンバーの大半があらゆる人種差別、性差別に反対している。 その一方で反政府主義かつ反資本主義であるため、ANTIFAのメンバーは主流左派よりも【無政府主義︙anarchism】に近いとされる(参加者は反権威主義 / 反資本主義 / 反国家主義など多様な政治思想を持ち、アナーキズム、共産主義、社会主義を支持する者が多いが、社会民主主義者も含まれる)。 中央組織を持たず、自律的な複数のグループや個人の緩やかな連合体として存在し、一部には暴力的手段を用いる者もいる。 この運動は2016年に成立したアメリカの第一次トランプ政権以降、より注目を集めるようになった(引用.一部改)。
《出典・引用》ウィキペディア
BBC News JAPAN 「2020年6月1日 -トランプ米大統領、反ファシスト「アンティファ」をテロ組織に指定すると発言- 」より抜粋。
『⑯ナチスと同性愛』
ヴァイマル政権下では男性同性愛はドイツ刑法第175条のもとで違法とされていたが、ドイツ人同性愛者権利活動家たちは、同性愛を非難した社会的姿勢を改善するための運動において世界的なリーダーとなった。ドイツでは、多くの同性愛者に対するヴァイマル共和政の容認をドイツの退廃の兆候と見なしていた。ナチスは同性愛という「不道徳」をドイツからなくして、人種闘争を改善することを望む道徳的な活動家を装った。1933年に政権を握ったナチスは、ドイツ人男性同性愛者への迫害に拍車をかけた。迫害は、同性愛者組織の解散から、強制収容所への収容にまで及んだ(引用.一部改)。
*₁ドイツでは1794年に男性同性愛者を死刑に処するソドミー法(特定の性行為を犯罪とする法律のこと)が廃棄され、その代わりに刑務所での服役が課されるようになった。1851年のプロイセン刑法典では「男性間もしくは人間と動物の間で行われた自然に反する猥褻(わいせつ)行為は6ヶ月以上4年未満の軽懲役刑に処し、また早急に市民権の行使を禁ずることもある」として、男性同性愛者の自由刑は廃止され、動物と人間の間での猥褻行為は処罰された。これに対して1864年に法律家 K. H. ウルリヒスが男性同性愛の無罪化を呼びかけたが、1867年のドイツ法律家大会で要求は却下された。1869年にプロイセンの医師ウィルヒョウらも、成人男性間の同性愛行為は犯罪ではなく、国家が個人の生活に介入すべきではないと無罪化を主張した。にもかかわらず1871年のドイツ帝国成立の際には、同法が北ドイツ連邦から踏襲されることとなった。その条文では「男性間もしくは人間と動物の間で行われた自然に反する猥褻行為は、6ヶ月以上4年未満の軽懲役刑に処し、また早急に市民権の行使を禁ずることもある」と、明確に規定された。
しかしながら、帝政期からヴァイマル時代にかけて、同法の改正が幾度か試みられた。ナチスは選挙公約として、同性愛者に処罰の厳格化あるいは死刑を掲げ、その政権成立後には国家社会主義的な刑法典を目指す改正に着手し、1935年6月28日の刑法改定では男性同性愛者に対する刑の厳格化を実現した。「自然に反する猥褻行為」を行った者は、最高懲役10年を求刑されることになった。それまで男性同士の猥褻行為は、家族や市民社会を危険に晒す「道徳上の混乱」や「人類の頽廃(たいはい)」、そして「健全な民族の破壊」と見なされていた。しかしナチス政権下では人口政策の観点から、生物学的な側面が強調された。精力の浪費、健全な民族の力の阻害、公的生活の品位の低下、民族の道徳秩序を危険に晒すものと認識されるようになった。ナチスの人口政策は「民族の純潔性を維持すること」を課題としたのである。そして「フォルクの健全な見解」の宣伝により、あらゆる「逸脱」に厳しい処罰が求められた。その方法は自発的な、後には計画的で強制的なものとなる去勢から、死刑にまで至るものだった。こうした処罰の法制化は「遺伝子予防法(1933年7月14日、1935年6月26日改正)」、「危険な常習犯と性犯罪者に対する予防拘禁法(1933年11月24日、1941年9月4日改正)」、「重犯罪者への通達(1939年12月)、そして「共同体にとって異質な者に対する法(1939年以降)」に続くものであった。実際には女性同性愛者に対する処罰も行われていたことが、近年明らかにされつつある(引用.一部解説を後付)。
*₂プロイセン刑法143条は、後には帝国刑法175条として同性愛を規制してきた。これに抵抗を企てたウルリヒス(法律家 兼 同性愛者の研究家)や「ホモセクシャル」という語を造ったケルトビニーは初期の活動家だった。医学会では「犯罪」ではなく、治療すべき「病気」として同性愛は見なされるようになった。また、法の及ばないイタリア・カプリ島へ赴く同性愛者もいた。クルップ財閥のフリードリヒ(三代目当主)は島では人望を集めたが、同性愛だという噂が広まり、自殺に追い込まれた。
その後ようやく、同性愛者擁護団体が設立される時代となり、ヒルシュフェルト(医者であり、世界で初めて同性愛者解放運動を組織)は「科学的人道主義委員会」を、ブラント(同性愛解放運動者)は「主体者同盟」を組織し、法撤廃を目標にして多岐にわたる活動をおこなった。ユダヤ人同様、ナチスの同性愛者への蛮行は猖獗(しょうけつ。悪いことが蔓延ること)を極め、175条は強化された。彼らは収容所に送致され、ピンクの三角形マークを付けられ、強制労働などに苦しんだ。ナチス時代には同性愛が原因で5万人が有罪判決を受けた。戦後もこの法律は1994年まで効力を発揮し、同性愛者を苦しみ続けた。(引用.一部解説を後付)
*₃刑法175条はドイツ帝国刑法に由来するもので、「自然に反する性行為は、男性の人間どうしで行われたにせよ、また人間と動物の間で行われたにせよ、拘禁刑に処す。市民権の剥奪が命じられることもある」と定めた法律である。この刑法175条は1871年に成立したが、しばらく判決では「性交類似行為」のみが規制の対象となっていた。第一次世界大戦終結頃までは年平均380人ほどが逮捕され、その後1934年までの年平均逮捕者数は704人であったが、場合によっては異なるものの、たいていが3ヶ月以下の刑であり、集いの場所の取り締まりも稀であった。だが、ドイツ国家人民党(DNVP)やドイツ福音教会委員会のような宗教団体、ときには報道機関が同性愛嫌悪を煽り、それによって人々の間に偏見が植え付けられていった。
ナチス時代の1935年には刑法175条が強化され、「同性愛的な欲望を抱くだけで取り締まりの対象となるよう解釈が拡大し、また第175条a項が導入され、買春行為、力の行為、職権濫用について規定され」、それに従い開設された「同性愛および堕胎と戦うための帝国センター」が延べ10万人近くをリストアップして5万人に刑を宣告した。強制収容所に送られた同性愛者の人数を正確に算出することは困難だが、同性愛者を意味する「ピンク・トライアングル」を着けた者の位階はユダヤ人のすぐ下の最下層に位置づけられ、他の囚人たちからも偏見を受けていた。収容されていた同性愛者のうち60%が収容所で死亡しており、これは政治犯の場合の死亡率が41%であることと比べると高い数値である。というのも、証言によると、収容所内の囚人数を減らすためにしばしば絶滅収容所へ囚人が送られていたが、その選別は最古参の囚人が行っており、そこで絶滅収容所送りとして選ばれる収容者の圧倒的多数がピンク・トライアングルをつけた収容者だったからである。ここからも分かるように、同性愛嫌悪は収容所内の囚人たちの間にも広がっていた(引用)。
《出典・引用》ホロコースト百科事典
*₁一橋大学「公的言説に刻印された両性(ジェンダー) -1909年のドイツ刑法典準備草案をめぐる議論を事例として- 」より抜粋
*₂関西大学「第八回マイノリティー・セミナー」より抜粋
*₃慶應義塾大学塾生サイト「戦後ドイツにおけるユダヤ人の「シンボル化」と同性愛者の扱われ方に関する比較考察 -記念碑の記述の差異について- 」より抜粋。
『⑰ヒムラーとオカルト』
ナチス・ドイツはオカルト色が強いことで知られており(後世に脚色されたものも多いが)、それらはナチス親衛隊SSのトップであるハインリヒ=ヒムラーによる影響を多く受けている。 ヒムラーは占星術にはまり、中世の黒魔術や魔女の研究にも情熱を傾けた。1938年にはアイスランドへ遺跡調査隊を派遣して、聖杯の探索を行わせていたり、キリスト教の聖遺物【※神聖ローマ帝国のロンギヌスの槍(神聖ローマ帝国のレガリアである帝国宝物の一つ)】をホーフブルク宮殿からニュルンベルク(ザクセン朝の初代フランク王ハインリヒの死後、息子のオットー1世に受け継がれ、それ以降は長くニュルンベルクに保管されていたが、ナポレオン戦争中にナポレオンに奪われることを恐れたため、ウィーンのホーフブルク宮殿に移された)に移したことなどが代表的だろう(引用.一部改)。
※ロンギヌスの槍(聖槍とも)とされる物は複数存在する。
《出典・引用》ウィキペディア
ニフティニュース / wanibooks-news-newscrunch.com「ナチスオカルティズムの根本はヒトラーではなく「ロンギヌスの槍」と力を信じたヒムラー」より抜粋。
『⑱ナチス体制の成立とクリスマス』
*₁クリスマスが社会的、政治的プロパガンダに利用される例は、ナチス・ドイツ以前にもあった。一つは戦争である。すでにクリスマスを祝うという習慣を知っていた将校たちは、第一次世界大戦の戦場で「ドイツのクリスマス」を祝ったが、ロウソクを灯したクリスマスツリーは民族意識や愛国心の高揚に利用された。特に、総力戦となった第一次世界大戦では、銃後と前線の連帯を強化する目的で、銃後で準備された大量のクリスマス小包(こづつみ)が前線に送られた。もう一つは、第一次世界大戦の敗戦による精神的打撃、政治的混乱、経済的困窮のなかで、とりわけ1929年の世界恐慌後に見られたように、クリスマスは反ユダヤ運動に利用されたり、富裕層に対する労働者階級の闘争の手段となった。ナチス・ドイツもヴァイマル共和国末期の経済的困窮を引きずって始まったため、経済的立て直しは内政の安定(ナチ化)と共に最重要課題となった。その方策の一つが、クリスマスの利用だった。
国民社会主義のプロパガンダについては、ヨーゼフ=ゲッベルスの国民啓蒙・自由研究(第二次世界大戦.関連等)
『⑲11日戦争 - 損失と奪還- 』
第一次世界大戦末期に【11日戦争︙Operation Faustschlag】と呼ばれる戦いがあった。
1917年、ドイツ=オーストリア連合軍に苦戦するロシア帝国軍だったが、国内では2月革命が勃発。 ニコライ2世が退位に追い込まれたことでロマノフ朝、結果的にロシア帝国が崩壊した。 その後、ケレンスキーを首班とする臨時政府が成立したが、一方で各地の労働者・農民はソヴィエトを結成。戦争継続を図ろうとする臨時政府と激しく対立し、独自のソヴィエト権力を作り上げた。こうしてロシア国内は事実上の二重権力状態となり、同年10月(ロシア暦)にはボリシェヴィキが臨時政府を打倒したことで世界初の社会主義政権が誕生した。 しかし、レーニン等の独裁政権に反発する人々が白軍を組織して武装蜂起を起こしたことでロシア内戦が発生。ロシアは対外戦争どころでは無くなってしまった。 ソヴィエトは中央同盟国との単独講和に乗り出し、11月には講和条約交渉が始まった(12月15日にはバルト海から黒海に至る線で停戦協定が成立した)。 レーニンが提示した【平和についての布告(無賠償・無併合・民族自決を原則とした即時停戦案)】で打ち出した無賠償・無併合を講話の前提としたが、ドイツ側は有利な戦況を活かして賠償金獲得・占領地の併合を狙い、根本のところで対立し、交渉は難航した。また旧ロシア帝国に属し、大戦でドイツ軍が占領している、ポーランド、フィンランド、ウクライナ、バルト地域などの民族自決に対する措置も両国で争点となった。ドイツは講和の条件としてこれらの広大な地域のロシアからの分離を要求してきた。 交渉当事者の外務人民委員(外務大臣に相当)であるレフ=トロツキーはこれ以上の戦闘継続は困難であると判断していた。しかし、彼はドイツ国内の左派革命運動に期待し、ドイツで内乱が起こればドイツ軍はすぐには行動できないはずだとみて、「戦争を中止し、軍隊を復員させるが、講話には調印しない」という判断をした。その意味は休戦状態を長引かせ、講話に応じず、時間稼ぎをしてドイツの出方を待つ、ということであったようだ。 だが、トロツキーの読みは外れた。ウクライナ人民共和国(反ボルシェヴィキ政権)がドイツと平和条約を締結したのである。 ドイツはソヴィエトとの停戦協定を破棄し、オーストリア軍と共に旧ロシア帝国領への攻勢を開始した。 中央同盟国軍は大した抵抗も受けず、一週間で240km前進した。ドイツ軍がペトログラード(現在のサンクト=ペテルブルク、当時ロシアの首都であった)から160kmのところにまで迫ってきたため、ソヴィエトは首都をモスクワへと移した。 その後、ソヴィエトはドイツ側の要求を全面的に呑む形で講和条件を受諾。ドイツ軍はコーカサス地方と内戦が続くフィンランドを除いた地域での作戦を中止した。 講和条約(ブレスト=リトフスク条約)の結果、ソヴィエトはポーランド、ウクライナ、白ロシア、ラトビア、エストニア、リトアニアを放棄した。これにより、ソヴィエトは広大な領土と人口を失ったが、ロシア内戦(ドイツが第一次世界大戦で敗戦したことに伴って、ソヴィエトは講和条約を破棄。 ソヴィエト=ウクライナ戦争を初めとする分離独立した地域へ侵攻した)・第二次世界大戦を経て、手放した領土の多くを奪還することとなる。
(※11日戦争後、独立を果たしたポーランドは西ウクライナや白ロシアの領有権を主張。 ポーランドがウクライナ・白ロシアに侵攻したことで、ポーランド=ソヴィエト戦争が勃発。 結果、ソヴィエトは敗戦を喫し、広大なウクライナ領土を失う。 この領土も第二次世界大戦で奪還することとなる)
《出典・引用》ホロコースト百科事典
世界史の窓
Weblio辞典・ウィキペディア
Try IT。
『⑳パリは燃えているか』
1940年6月、ドイツ軍によってパリが占領され、フランス政府は降伏し、フランス南部に対独協力政権(ヴィシー政権)が成立した。ただちにフランス各地ではドイツ軍とヴィシー政権に対するレジスタンス(抵抗運動)が始まった。
1943年、スターリングラード攻防戦とクルスクの戦いでドイツ軍の敗戦を契機に、戦況は一気に連合国側の優勢に傾いた。5月に北アフリカ戦線で枢軸軍が降伏、同年9月にイタリアが降伏、1944年6月6日には連合国軍がノルマンディーに上陸した。 連合軍が迫っていたパリでは、ドイツ軍の敗退が近いと判断し、8月19日にレジスタンスが武装蜂起を決行した。 8月23日、レジスタンスや連合軍との攻防の末に敗色が濃厚となったナチス・ドイツ総統アドルフ=ヒトラーは、パリ防衛司令官ディートリヒ=フォン=コルティッツに一つの命令を下した。それは「敵に渡すくらいなら灰にしろ。跡形もなく燃やせ」という、彼の破壊的思想に満ちた最後の抵抗策であった。だが、コルティッツはその命令を得策でないと考え、結果的にパリ破壊命令を無視し続け、降伏文書に署名した。 8月25日午後1時、破壊の報告が来ないことに痺れを切らしたヒトラーは、ベルリンから「Brennt Paris?︙パリは燃えているか?」と叫び、問いかけた。しかし、彼の欲しかった回答を得ることはできなかった。(引用.一部改)
《出典・引用》世界史の窓
Weblio辞典・ウィキペディア
NHK.映像の世紀バタフライエフェクト「パリは燃えているか」より一部抜粋。
『㉑零時 -Stunde Null-』
第二次世界大戦の終戦を迎えた1945年は、ドイツでは【零時︙die stunde Null】と呼ばれ、ナチス政権時代とその土壌を提供した国民史の「反省」に基づいて、新たに零から国家再建に着手した時間を指す。 戦後ドイツでは「終戦」を戦争の敗北よりも、解放、さらにそれよりも戦後の再出発とする認識が強く、5月8日の降伏を「零時」と表現する傾向が強い(引用)。
《出典・引用》ウィキペディア
つくばリポジトリ「「公的な歴史認識」の基準をめぐって -ドイツ歴史家論争- 」より抜粋。
『㉒百分率協定とギリシャ内戦の勃発』
東西冷戦の開始は1947年のトルーマン・ドクトリン(トルーマン大統領が出した共産圏に対する封じ込め政策)の発表からとするのが一般的である。しかし東西大国の代理戦争は1944年末にはすでに始まっており、それがギリシャ内戦である。
1944年9月、レジスタンスがギリシャ全土で一斉蜂起を行い、10月にはイギリス軍が上陸したことで枢軸国軍は撤退し、ギリシャは解放された。 この時、イギリスとソ連はバルカン半島における勢力圏を取り決める秘密協定【パーセンテージ協定︙百分率協定(ソ連のバルカンにおける影響力の増大を恐れたチャーチル側が分割案を示した)】を結んでおり、ギリシャはイギリス90%、ソ連10%の分割で合意したことで、事実上イギリスがギリシャを管理することとなった。 だが、ギリシャ国内では共産主義者を中心とした左派勢力が強く、このままではギリシャが共産化する恐れがあった。 同年11月、カイロに亡命していた政府が帰還したが、左派勢力の排除態度を鮮明化したため、両者の対立は決定的となった。12月、左派勢力と反共勢力(以後政府側と呼ぶ)が武力衝突したことでギリシャは内戦状態に突入した。 当初は地方の殆どを勢力下としていた左派勢力側(1946年にソ連・ユーゴスラヴィアなどの支援を受けてギリシャ民主軍を組織。以後、左派勢力はギリシャ民主軍と呼ぶ)が優位であったが、イギリス(後にアメリカも加わる)の支援を受けた政府側が次第に優勢となっていった。その後、内戦終結直前にはユーゴスラヴィアからの支援も打ち切られた(ユーゴスラヴィアがコミンフォルムから脱退したため、ソ連に忠誠を誓うギリシャ民主軍への支援を取りやめてしまった)ことでギリシャ民主軍には、もはや抵抗する力は殆ど残されていなかった。 結果、ギリシャ内戦は政府側が勝利し、ギリシャは西側諸国に取り込まれた。
*₁周知のように、第二次世界大戦中のギリシャでは、隣国ユーゴスラヴィアに比肩(ひけん)しうる程の影響力をもつ左翼的レジスタンス運動が展開された。しかし、解放後、彼らは、ユーゴスラヴィアの場合とは全く対照的に、イギリス軍の支援の下に復帰した亡命政権によって政権から排除されたのみか、武力弾圧の下にさらされた結果、大戦後のギリシャでは内戦状態が現出した。
つまり、ギリシャにあっては、大戦の終りが内戦の始まりであったのであり、その点で中国との類似性が見られる。しかし、ここでも中国の場合とは全く対照的に、1949年10月にこの左翼的レジスタンス勢力によって発せられたのは勝利の宣言ではなく、苦渋に満ちた敗北の宣言であった。その結果、第二次大戦中の「英雄たち」は一転して「反逆者」とされ、投獄されるか、亡命生活を余儀なくされたのだった。まさに現代のギリシャ悲劇と呼ぶ以外にない歴史の逆転であった(引用)。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
コトバンク
HistoryMaps
note・NikolaiMisonikomii
*₁一橋大学「内戦期ギリシャの政党政治と軍部」より抜粋。
『㉓ポグロムと移動虐殺部隊』
ユダヤ人迫害はホロコーストだけに限ったものではない。ロシアでは帝政時代から【ポグロム︙погром(ロシア語で破滅・破壊などを指す)】と呼ばれるユダヤ人迫害(ユダヤ人以外の市民による地元のユダヤ人に対しての暴力的な攻撃)が行われており、ユダヤ人に対する経済的、社会的、政治的な反感が伝統的な宗教的反ユダヤ主義を強化したことが主な原因であった。 ポグロムの実行者は、ときには政府や警察に奨励されながら、地元で組織を編成した。彼らはユダヤ人に対して、強姦や殺害、所有物の略奪を行った。
20世紀初頭には、ロシア内戦とそれに続く1917年のボルシェヴィキ革命(ロシア革命)中、ウクライナ国家主義者ポーランド当局者、赤軍兵士などは、ベラルーシ西部とポーランドガルシア(ガリツィア。現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる)地域でポグロム的な暴力行為に加担し、1918年から1920年にかけて数千人ものユダヤ人が殺された(このような暴動を起こす人物は「理性をなくした、へべれけに酔っ払った農民」だという者もいるが、実際には計画的、組織的に徹底して行われた)。
1941年、ドイツ軍がモロトフ・リッベントロップ協定を破棄してソ連に侵攻すると【※移動虐殺部隊︙Einsatzgruppen】は治安警察署長のラインハルト=ハイドリヒから、新たに占領したソ連領の市民によるポグロムを許容し、奨励さえする命令を受けていた(引用.一部改)。
※移動虐殺部隊とは主にナチス親衛隊と警察官で構成された部隊で、ドイツ治安警察と親衛隊保安部の将校の指揮の下、前線の後方で敵性分子(主にユダヤ人)を銃殺するために組織されていた。
《出典・引用》ウィキペディア
ホロコースト百科事典。
『㉔メンデルスゾーンとナチス』
三大ヴァイオリン協奏曲(四大とも)の一つに数えられる「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64(以後メンコンと呼ぶ)」や「真夏の夜の夢」などを作曲したドイツ出身のユダヤ人作曲家【フェリックス=メンデルスゾーン︙Felix Mendelssohn, 1809-1847】。 彼の死後、その権威は増幅するどころか時代の波に揉まれ、失墜した。 それが最も顕著に現れたのがナチス政権時代だろう。 ナチスの文化当局は【ヨハン=セバスティアン=バッハ】や【ルートヴィヒ=ヴァン=ベートーヴェン】などのドイツ音楽殿堂の巨匠の作品を普及させる一方で、メンデルスゾーンなどの【非アーリア人】の古典作品の演奏を禁止した。 ナチス政権下におけるメンデルスゾーンの不当な評価は徹底したものであった。その背景には彼が大銀行家(メンデルスゾーン銀行)の御曹司であり、そんな劣等民族の金持ちのボンボンがまともな音楽が書けるはずがないという、言うにいえぬ嫉妬心があったのかもしれない(しかし、メンコンは当時の音楽家たちの決死の抵抗もあって、演奏が事実上黙認されたという歴史もある)。
《出典・引用》ウィキペディア
ホロコースト百科事典
クラシック音楽へのおさそい「メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」序曲 作品21」
クラシック音楽へのおさそい「~Blue Sky Lavel~」
「大銀行家アブラハムとメンデルスゾーン銀行の繁栄」
note
gooブログ。
『上位位相神学論外伝資料』全24章
第1章:① 上.ナチズムとファシズム
第2章:② 中.ファシズムと反ユダヤ
第3章:③ 下.ナチズム / ナチスの人種観
第4章:➃ ナチズムのポイント列挙
第5章:⑤ 天皇制ファシズム
第6章:⑥ 蹄鉄理論の関連性
第7章:⑦ ネオ・ナチ
第8章:⑧ ファシズムの由来
第9章:⑨ ヒトラーの国籍
第10章:⑩ 小協商
第11章:⑪ K症候群
第12章:⑫ ナチスの焚書の概要
第13章:⑬ メーメル割譲
第14章:⑭ ファシズムと権威主義
第15章:⑮ ANTIFA
第16章:⑯ ナチスと同性愛
第17章:⑰ ヒムラーとオカルト
第18章:⑱ ナチス体制の成立とクリスマス
第19章:⑲ 11日戦争 -損失と奪還-
第20章:⑳ パリは燃えているか
第21章:㉑ 零時 -Stunde Null-
第22章:㉒ 百分率協定とギリシャ内戦の勃発
第23章:㉓ ポグロムと移動虐殺部隊
第24章:㉔ メンデルスゾーンとナチス
『①上.ナチズムとファシズム』 【ファシズムor結束主義】とナチズムはイタリアとドイツで生まれた【社会的干渉主義 / パターナリズム】/全体主義 / 権威主義的ポピュリズム思想で、殆ど差異のない同様のものであるとされるが、その実態は大きく異なる。
その最たる例を挙げるならば、ファシズムはナチズムと違い、【エスノセントリズム的な考え(人種 / 民族差別的なイデオロギー)】を抜き
にしてもその条件が成立する点であろう。
*₁イタリアのファシスト党 =ファシズムの場合、古代ローマ帝国の再興を掲げて、ローマ人を祖先に持つ国民のナショナリズムを焚きつけることで、全体主義体制を維持していた。
ドイツのナチス =ナチズムの場合は、第一次大戦で傷つけられたドイツ人の尊厳回復・アーリア人至上主義・ユダヤ人排斥を煽り、支持を拡大した。
また、第一次世界大戦において、イタリアはまがりなりにも戦勝国だったが、ドイツは敗戦国として莫大な賠償金を背負い、産業の中心地ルール工業地帯もフランスに占領され、追い打ちのように世界恐慌のあおりを受けた影響で、経済がどん底の状態であったという、環境の違いもある(引用.一部改)
《出典・引用》上段.無し
*₁ヨーロッパ史入門より抜粋。
『②中.ファシズムと反ユダヤ』 例えば、イタリアでは1938年に【Lejji razziali︙反ユダヤ的法律】が制定されるまで、ユダヤ人に対する差別や迫害が公に行われることは基本的には無かった(しかし反ユダヤ法が制定された後もイタリア国内では連合国に降伏するまでホロコーストが行われることは無く、それが行われるようになったのは1943年にイタリア北部でドイツの傀儡政権である【イタリア社会共和国orサロ共和国】が建国された後である)。その証拠としてイタリア国籍を持つ当時のユダヤ人の※26%(約7000人)はファシスト党に入党していたし、ムッソリーニの恋人の一人である【マルゲリータ=サルファッティ】はユダヤ人であった。 イタリア・ファシズムはイタリア国籍をもつ、イタリアという国家に協力的な者であればユダヤ人でもファシズムを共有 / 享受することができたのだ。
このように、ファシズムは最初から反ユダヤ的なイデオロギーだったわけではなく、人種差別主義的な観点の追加は後付けであった。
これら項目の追加については1935年の【第二次エチオピア戦争】や1936年の【スペイン内戦】を経たことなどからなる【ベルリン=ローマ枢軸】と呼ばれる協力関係の強化、要するに国際的に孤立していた独伊の急接近という背景がある。 イタリアはドイツの【大ドイツ主義】に警戒感をおぼえていたし、オーストリアを巡って両者は緊張関係にあった(オーストリアで成立した【オーストロファシズム】体制はナチス・ドイツとドイツから支援を受けたオーストリア・ナチ党と真っ向から対立し、オーストリアはナチス・ドイツの誕生に危機感を抱いていたムッソリーニ率いるイタリアから支援を受けていた)が、先程も述べたように独伊はこの後急速に接近してゆく。
ファシスト党に加入経験のあったユダヤ人は1938年10月の反ユダヤ法制定前には10125人であり、累計のユダヤ党員は31.3%に達していたとする場合もある。(※前者の確率に誤りがある可能性あり) 歴史家.レンツォ・デ・フェリーチェの通説。
《出典・引用》ウィキペディア
さくらインターネット
龍谷大学研究ノート「イタリア・ファシズムと反ユダヤ主義・人種主義(1) -グローバル化時代の新しいレイシズムの分析のために-」より一部抜粋。
『③下.ナチズム / ナチスの人種観』
一方のナチズム【正式名称︙ナショナルソーシャリズムor国家社会主義 / 国民社会主義】には社会主義的 / 全体主義的要素にプラスして、ユダヤ人を【劣等種︙ウンターメンシュ】の中でも最下層(ここでいうウンターメンシュはユダヤ人 / ポーランド人 / セルビア人 / ロシア人 / ジプシー等を指す。その他絶滅対象としてはアフリカ系ドイツ人 / 身体・精神障害者 / 同性愛者 / ダウン症患者 / エホバの証人 / 政治犯 / ソ連兵捕虜/レジスタンス等)である【文化破壊種】として差別する【反ユダヤ主義】という根幹のレイシズム的ものがあり、【社会進化論︙社会ダーウィニズム】に基づいたアーリア人至上主義を基本主軸としていたことはよく知られているだろう。 我々日本人だって例外ではなく、【文化追従種】として【文化創造種】であるアーリア人に追従する劣等種とされた。(非公式ながら、ナチス・ドイツに友好的と判断した民族 / 人種 / 人物は名誉アーリア人とされ、日本人も含まれたし一部のユダヤ人も対象となっていた)
ユダヤ人の定義はとても曖昧だったので、ナチスは家系によって識別を行った。その方法は至ってシンプルで4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体出身で有った場合は法的にユダヤ人(純血ユダヤ人と見做す場合もある)であるとされた。しかし後に記した【ニュルンベルク人種法】等が定義を複雑にした(つまり曽祖父に1~2人のユダヤ教共同体出身であった場合の【ドイツ人でもユダヤ人でもない人々】である。これらは混血と見做され、通常のドイツ人と同等の権利を保持していたが、その後さまざまな法令が制定されたことで徐々に権利を奪われた)
ちなみに、アーリア人 / ゲルマン民族であるという人種的ステータスを証明するためには1800年程度、SS隊員(ナチス武装親衛隊)は1750年程度まで遡って出生記録や洗礼式の記録、親族の死亡証明書を用意する必要があった。
誰が見ても分かるほど非常に非科学的(カルト的)なガバガバ論理であるが、それでも1933年には【職業官吏再建法】、1935年には【ニュルンベルク人種法︙帝国公民法 / 血統保護法】が制定され、ナチスの人種政策論の多くが実現。ユダヤ人迫害に拍車がかかることになる。 その後ナチスは他のヨーロッパ枢軸国と協力し、【最終的解決︙Endiösung】を実行。 1945年の欧州戦線終結までに、少なくとも600万人程度のユダヤ人を虐殺した。これは当時ヨーロッパに居たとされるユダヤ人の3分の2に相当する。 ユダヤ人以外にもロマ約50万人、ドイツ人含む精神障害者7万人が殺されている。
*₁ナチスはユダヤ人をユダヤ教を信仰している者ではなく、あくまで人種とみなしていた。ユダヤ人は【セム人種】に属し、【アーリア人種】とは相容れないと考えられた。 ユダヤ人の改宗やアーリア人種との結婚は、アーリア人種の劣化を目論む企てと解釈され、国家による人間社会への「生物学的介入」が必要だとされた(引用.一部改)。
*₂1935年に制定されたニュルンベルク人種法の【ドイツ国公民法︙帝国公民法】と【ドイツ人の血と名誉を守る法︙血統保護法】では【アーリア人】と【非アーリア人】という言葉に変わって【ドイツ人】と【ユダヤ人】という概念を導入した。これはとても画期的であった。 アーリア人という概念は、元々はユダヤ=ヘブライ的な世界の説明の仕方とはことなるものを求める動きの中から登場したものである。アーリア人は、インド=ゲルマン語族という言語の共通性が人種によみがえられたもので、ユダヤ人とヨーロッパ人を区別するために使用されたが、いくつかの問題を含んでいた。たとえば、ドイツと友好国でありながら言語のことなるフィンランド人とハンガリー人は非アーリア人となり、ヨーロッパという枠組みから除外されることになり、イギリスとその植民地インドが同じアーリア人となってしまう。こうしたこともあり、1935年の血統保護法では【血】という概念がはじめて導入され、「ドイツの血の純粋性がドイツ民族の存続の前提である」とされ、ドイツ人は「ドイツの血をひくもの」と定義され、ドイツ人とユダヤ人の結婚は法的に禁止された。しかし、同語反復的なこの定義では、ドイツ人は単一の純粋な人種であるかのようなイメージが生じる。ドイツ人兵士とロシア人女性のあいだに生まれた混血児をドイツに連れ帰り、ドイツ人として育てると聞いたときの違和感も、こうした純粋人種イメージと関わっていよう(引用.一部改)。
*₃ホロコーストといったユダヤ人やジプシーなどの民族排外は、人種優生学の発展が背景にあるといえる。人種優生学という言葉は、1833年にイギリスの学者【フランシス=ゴールトン︙Francis Galton, 1822-1911】が、「生まれながら優れている」あるいは「遺伝における優秀性」を意味したギリシャ語から造語したものである。ゴールトンがこの言葉に込めた意味は、血統が優れている、より生存に値する人種に対し、速やかに繁殖する機会を与えることによって人類を改造する科学を作り出すことであった。彼は、文化的・社会的業績を残し、「生産的」である人種の血を優生、社会に貢献する能力がなかったり、反社会的な行動をする人種は人類に現れた「退化」であるとし、劣等とみなしたのである(引用.一部改)。
*₄ナチ運動は、新しいドイツを主に人種問題とみていた。人種政策には建設的な面と陰湿な面があった。この政策はまず健康なドイツ国民をつくりあげることを目的としていた。ドイツ民族こそ自然界の最も行為の種であると考えたからである。しかしゲルマン人種のなかにある生物学的に望ましくない要素を根絶し、生物学的な退廃を回避することも、政府の仕事だった。
生物学的な純化というこの概念は、ヨーロッパとアメリカにおける医学界の主流派に広く浸透していた人種的な衛生学(優生学)の理論に根ざしていた。優生学理論では、人間の個体群は、動物のそれと同様、ダーウィンによって示された自然淘汰の法に従っていることを示唆していた。健康な人種をつくりだすためには、肉体的、精神的に生涯を持つ人びと、あるいは伝統的な人種の血統に外国の血をもちこむ人々を排除しなければならない。ヒトラーの【我が闘争】には、こうした人種政策のもととなった疑似科学的な見地が示されている(引用)。
〈ダーウィンの弟子:ゴールトンの功績〉 ・気象図の等圧線を考案し、気圧という概念を発見した。
・指紋による個人の識別をスコットランドヤードに提唱した等。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
ホロコースト百科事典
創価大学「Annihilation in Nazi-occupied Europe 1941-1945」より一部抜粋
*₁NPO法人ホロコースト教育資料センター「振り返り資料」より抜粋
*₂お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション“TeaPot”「ナチ人種再考 -1942年9月16日の ヒムラーの演説を読む- 」より抜粋
*₃神奈川大学「ナチス時代のジプシー研究 -人類優生学研究所における迫害のための調査を元に- 」より抜粋
*₄河出書房新社.書籍「ヒトラーと第三帝国 -1930年代の人種問題と人種差別- 」より抜粋
J-Stage「統計学の巨人」より抜粋(ゴールトンの功績)。
『➃ナチズムのポイント列挙』
・ナチ党が製作する労働者向けのポスターには、しばしばハンマーを持った男性が描かれている。これは【社会主義リアリズム】の表明又はその一種であるとされることもある。が、ナチズムは社会主義と称しているがマルクス主義やフランス・イギリスの社会主義とは全く異なっていることに注意すること。これは「社会主義」を装うことで労働者の支持を得ようとしたに過ぎず、実態はまったく反社会主義政党である。
・ナチズムはマルクス主義等の代表的な社会主義とは反する考えを持っているだけで、双方は同じ社会主義。とするのは間違いである。(※マルクス主義のような赤色社会主義に対してファシズムやナチズムは黄色社会主義に部分的な影響を受けているとされる) ※そして人種差別主義が基盤となったシンクレティズム=イデオロギーであるため、その要素を取り除くとナチズム独自のアイデンティティーは消滅するとされる。
※記述途中.もしくは答えになっていない要素を含む
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓。
『⑤天皇制ファシズム』
天皇制ファシズムと呼ばれるイデオロギーは、今日では日本国内外問わず議論の余地があるイデオロギーとされる。(天皇制ファシズムの成立を事実として見做す場合もあり)
当時の日本は全体主義的な要素を多く持ち、1925年の【治安維持法制定】 - 1928年.1941年の【治安維持法改定】をはじめとする法律に基づいた思想統制や弾圧が行われていたこと、1930年代の満洲事変から発した度重なる侵略戦争、【5・15事件 / 2・26事件】の発生 / 鎮圧から発した軍部中心の政治の誕生(軍国主義的要素を多く含み、国民の自由 / 個人主義の排除が成されたとする。これを日本型軍部ファシズムの成立と捉えることがある)、そして天皇を頂点とする国家権力に日本臣民が奉仕する点がファシズム等との類似点とされる。
しかしながら、ドイツ / イタリアなどに代表されるナチズム / ファシズム諸国とは異なり、日本では一度も議会政治が否定されることは無かった(実際に戦時中、他の主要国では基本的に代表交代が起きなかったのに対して、日本では首相交代が起きている。 やむを得なかったとはいえ東条内閣はサイパン陥落の責任を取る形で辞任しているし、続く小磯内閣も鈴木内閣も辞任している)し、明瞭なファシスト政党(というか強力なファシスト政党)は存在しなかった(その後、1940年の大政翼賛会の成立に伴って他の政党は事実上の解散状態となった)。それに、ファシズムがファシズム的イデオロギーで日本が完全に支配されたわけでもないのである。
*₁戦前の日本では、1931年の中国侵略戦争開始以降、軍部が発言力を拡大する中で、軍国主義が強化された。そして、1940年には日独伊三国同盟を結び、せまりつつある太平洋戦争に備えて、大政翼賛会発足をはじめ侵略戦争推進のため国民動員体制をつくりあげた。
しかし、日本の軍国主義体制もファシズムの一種か否かについては議論が分かれている。それは、イタリアとドイツの場合と日本の場合は、大きく異なっていることがあるからだ。イタリア、ドイツと日本では、民主主義、議会制度の発展の度合いが違っていて、ムッソリーニ、ヒトラーが政権を握るのは、テロやデマゴギーなどの暴力があるが、それと並行して国会で多数を握るという経過をたどった。
これに対して日本では、天皇が絶対的な権力を握っていて、最初から議会の権限が制限されており、ファシズム政党が政権を奪取するという結果をたどっていない。また、天皇制権力は独占大企業とともに、封建的な性格の強い地主勢力を基盤にしていたという特徴もある(引用.一部改)。
《出典・引用》ウィキペディア(考察も含む)
武蔵野大学「日本ファシズムの思想と戦後日本の政治文化 -社会契約説と「市民」の観点から考える」より一部抜粋
*₁日本共産党公式「軍国主義・ファシズム・ナチズムとは?」より抜粋。
『⑥蹄鉄理論の関連性』
【蹄鉄理論︙Horseshoe theory】とは、極左と極右は政治イデオロギーとして正反対であると通常見做されるが、実際には蹄鉄の先の形状のように相互に関連性 / 類似性が見られる、いずれの【急進主義】で権力を獲得したエリートが政治的な集権制を形成するというフランスのジャン=ピエール・ファイユが提唱した政治学理論である。
例えばソ連の【スターリン主義】と【ナチズム】はどちらも権威主義的で反民主主義的、言論弾圧を行う過激な【パターナリズム︙社会干渉主義】を帯びたイデオロギーという共通点が蹄鉄理論の最たるものであろう(他にも個人より共同体を重視するなどの共通点も含む)。そして昨今の欧州における政治情勢では極右政党と極左政党が協調 / 協力することも珍しくない(特に移民問題を筆頭とする反グローバリズムで利害の一致から協力関係にある。 移民政策は左側は社会的格差を広げ、右側は国民国家を切り崩すとされる)。
しかしこの理論は信頼性に欠くとして、学会で支持する者はそう多くない。が、左派政党と右派政党は中道よりも近いとする声もある。
-
*₁経済次元で左右両極にあるものが権威主義に向かい、経済次元で中道にあるものが民主主義側に位置する。いわゆる蹄鉄理論。(や強引な引用)
《出典・引用》ウィキペディア
*₁九州市立大学法政論集第49巻第3・4合併号(2022年3月)抜刷 「論説.政治的左右と価値観の相関 -欧州社会調査と世界価値観調査のシュワルツ価値理論設問を用いた国際比較- 」より抜粋。
『⑦ネオ・ナチ』
昨今の世界では【ネオ・ナチ / ネオ・ファシ】という言葉を耳にする。 これらは欧州にて特に広がりを見せており、一般的にナチズム思想単体を指すのでは無く、極右政治と右翼過激主義における形態の一種と見做されている。これらは大きく【広義的なネオ・ナチ】と【狭義的なネオ・ナチ】に分けることができる。前者は外国人排斥や過激な民族主義等を「現代社会にも適応可能な主張」として、武力闘争を含む過激な活動を行う政治集団。後者はヒトラー崇拝やナチス支持、ホロコースト否認を中心とした思想を掲げる集団 / 人物を指すことが多い。 しかし列記とした定義が存在しないのもまた事実である。
《出典・引用》ウィキペディア
英和辞典
コトバンク
Weblio国語辞典
日本共産党公式「ネオ・ナチってなんですか」より一部抜粋。
『⑧ファシズムの由来』
ファシズムの名前の由来はイタリア語の【ファッショ︙fascio】から来ている。ファッショは束 / 結束ディートリヒ=クラゲスを意味し、古代ローマの最高公職者である【コンスル︙執政官】の権威の象徴である【ファスケス(斧の柄にロッド(短杖)を束ね合わせたもの】に由来する。ファスケスの象徴的意味は「統一による力」で1本のロッドでは簡単に壊れるが、束になると用意に壊せない = ロッドを束ねることから団結や結束を意味するようになった。このことから日本ではファシズムを結束主義と呼ぶ場合もある。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓。
『⑨ヒトラーの国籍』
実はヒトラーは1925年にオーストリア国籍を放棄しており、1932年2月にドイツ国籍を取得するまでの約7年無国籍者であった。
ヒトラーは1921年にはすでにドイツ労働者党(ナチ党の前身)の党首となっており、その後の1930年の国政選挙でナチ党(NSDAP)は18.25%の得票率を獲得し第二党に躍進した。 しかし、当の党首は無国籍者であり、ナチ党員は一刻も早いヒトラーのドイツ国籍取得に奔走する。 結果、ヴィルヘルム=フリック(後の国務大臣)やディートリヒ=クラゲス等の活躍もあり、ヒトラーはブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官となった(これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためであった)。これにより、ヒトラーはヴァイマル共和国の大統領選に立候補することが可能になったのだ。
その後ヒトラーは1932年のヴァイマール共和国大統領選挙に出馬。次点で落選するものの、同年7月の選挙でナチ党は230議席、37.3%を獲得して第一党となる。
《出典・引用》ウィキペディア
兵庫県教育委員会
三菱UFJリサーチ&コンサルティング「ヒトラーはなぜ熱狂的に支持されたのか」より一部抜粋。
『⑩小協商』
小協商は一般的に第一次世界大戦で敗戦国となったオーストリアとハンガリーのハプスブルク君主国の再建阻止と前者二国の領土的野心に対抗するため(ヴェルサイユ体制の維持目的)に設立されたルーマニア / チェコ・スロヴァキア / ユーゴスラヴィアの三国による協調同盟体制を指す。 当初は先述の通り主に対ハンガリー(特にハンガリーは「歴史的領土3分の2を、人口にして5分の3を失った」と認識していただけに、同国に隣接する三カ国にとっては大きな脅威に写った)目的に設立されたが、しだいにドナウ川流域諸国の相互安全保障体制としての意味を持つようになる。それと同時にドイツとイタリアのファシズム / ナチズムの台頭に脅威を感じたフランスが接近。支援を受けて結束を強化したが、1939年にナチス・ドイツとハンガリー(ポーランドも)がチェコ・スロヴァキアを解体したことで小協商は終焉を迎えた。
ちなみにチェコ・スロバキアは1935年にソ連とも相互援助条約を結んでいた(フランスも同時期にソ連と相互援助条約を締結していた)。しかしミュンヘン会談でソ連が疎外されたことで事実上の「三カ国相互援助条約」は意味を成さず、ナチスに翻弄されたことでチェコ・スロヴァキアは解体された。 その後、ソ連はナチスと急接近しモロトフ・リッベントロップ協定(通称.独ソ不可侵条約)を締結するにいたる。
*₁ヴェルサイユ体制のもとで、フランスから再起不能にされたはずのドイツが台頭し始めた。これはソ連のみならず、ヨーロッパ各国にとって脅威であった。戦争回避のための努力が次々となされた。ルーマニアは1933年チェコ・スロヴァキア、ユーゴスラヴィアと小協商の強化をはかり、常設会議を設置して、定期会合を行い、国際連盟における行動などは、同一歩調を取った。また、三国軍事会談も開かれ、参謀本部は情報交換まで行うようになった。一方、カロル二世(当時のルーマニア国王)の経済政策にはみるべきものもなく、ヨーロッパの後進国ルーマニアは、やはり大国にたよらなければならなかった。ドイツはこれに対して、迎合的経済政策をとった。経済恐慌をまともに受けた東欧諸国にとって、ドイツの経済援助はその政治的意図は何であれ、無条件で受け入れられた。すなわち、ドイツはルーマニア、ブルガリアなどの東欧の農業国からその農作物を無制限に、しかも世界市場の価格以上のそれで買い上げた。さらに、代金はドイツの工業製品によって支払われたのである。これは東欧におけるヒトラーの経済圏確立のためのものであった。ルーマニアが第一次世界大戦後、一貫してとってきた外交政策も、このため大きく変化してきた。フランスに対する依頼心が、ドイツに対するそれへと移って行くのである(引用.一部解説を後付)。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
コトバンク
大阪経済法科大学学術情報リポジトリ「一九三九年英仏ソ三国交渉と軍事会談」-はしがき- より抜粋。
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター「ミラン・ホジャの中欧連邦構想 -地域再編の試みと農民民主主義の思想- 」より一部抜粋
*₁ i-repository.net「東欧における社会主義国家の成立 -ルーマニアを中心として- 」より抜粋。
『⑪K症候群』
【K症候群/シンドロームK︙K syndrome】とは、1943年にローマ(当時.事実上ナチス占領下)で発生したユダヤ人にのみ感染する病である。 感染したユダヤ人はヴァチカン近郊のファーテベネフラテッリ病院に収容された。 「ひとたび感染したら、インフルエンザのように咳、くしゃみ、発熱が続き、数日のうちに神経を蝕まれて死に至る」とされる。 とても恐ろしい病でありながら、原因が一切不明の病。
しかし実態は、この病気はユダヤ人を守るために、イタリア人やユダヤ人医師団がでっち上げた架空の病であった。K症候群が自らに感染する事を恐れたナチス親衛隊員等は病院の周囲に近寄るのをやめたらしい。
その結果、数十人のユダヤ人を救うことができた。
K症候群のKはアルベルト=ケッセルリンク(ナチス・ドイツのイタリア戦線における司令官)。又は(両方とも)ヘルベルト=カプラー(ローマのゲシュタポ長官)の名に由来するとされる。
《出典・引用》ウィキペディア
NHK.BS世界のドキュメンタリー「K症候群 ユダヤ人を救った謎の病」
note
gooブログ
クーリエ・ジャポン。
『⑫ナチスの焚書の概要』
「焚書」とは、書物の焼却による儀式としての破壊を指す。通常、焚書は公の場で実行され、検閲の要素を示し、資料に対する文化的、宗教的、政治的反発から起こる。 焚書の中でも特に有名なのは秦の始皇帝による【焚書坑儒】とナチスの焚書であろう。今回は後者に焦点を主に当ててみる。 ドイツでは実は19世紀にも前例があり、1817年【ドイツ学生連盟︙Burschenschaften】はルターの【95か条の論題】発表300年を記念した【宗教改革300周年祭】にて統一ドイツの実現を訴えるため、警察の法令集や【ナポレオン法典】を燃やした。 それから約115年後の1933年、ナチス・ドイツ当局は専門組織や文化組織をナチスの思想と政策に同化させる【強制同一化︙Gleichschaltung】に懸命に努めた。この試みと足並みを揃えて、ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスは、ドイツ人の芸術や文化をナチスの目標と合致させる試みに着手した。政府やユダヤ人および政治的な嫌疑者や、ナチスが「退廃」と呼ぶ芸術作品を演出または創造した人々の文化的組織を追放した。 文芸共同体を同化させるために、ゲッペルス等は【国家社会主義者ドイツ学生連盟︙Nationalsozialistischer Deutscher Studentenbund、NSDStB】と協力した。 1933年5月10日、大学生たちは2万5000巻を超える「反ドイツ主義」の書物を燃やした(引用.一部改)。
*₁ナチ党が政権を取り、ヒトラーは首相についた1933年5月10日、宣伝相のゲッペルスは、ベルリンを初め全国すべての大学所在地のナチ党員に対して、国立・私立の図書館に侵入し、追放された著者の書物を街頭に放り出すように命じた。ベルリンでは焚書の儀式が行われたが、黒焦げになった書物の1ページに焚書された著者の1人、ハインリヒ=ハイネの文章が残っていることに誰も気づかなかった。1823年、ハイネが記したように「※書物を焼くものは、早晩、人間を焼くように」なった(引用)。
※「戯曲.アルマンソール」 より、本を焼くものはやがて人間を焼くようになる︙Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen(独)。
《出典・引用》ホロコースト百科事典
世界史の窓
Weblio辞書・ウィキペディア
*₁独立メディア塾「書物を焼くものは、早晩、人間を焼くようになる」より抜粋。
『⑬メーメル割譲』
ナチス・ドイツは戦闘行為を行うこと無く獲得した領土が数多い。例えば、ドイツの【オーストリア併合︙Anschluss】やチェコの【フルチーン/ズデーテン割譲(その後、チェコの全土を併合している)】などである。 ナチス・ドイツの領土的野心は留まることを知らず、1939年.バルト三国の一つ.リトアニアの【メーメル地方︙リトアニア表記.クライペダ】にも割譲要求が出された。この土地は1923年のリトアニア独立に際してその領土となったが、ドイツ人住民のドイツ復帰運動が強く、1938年後半にはその支配権は殆ど失われていた。 最後通牒を受けたリトアニアは代表団をベルリンへと派遣した。しかし圧力に屈したリトアニアは3月22日、「ドイツに対するメーメル地方割譲条約」に調印し、代わりにリトアニアは数年前に建設したばかりのメーメル港における自由貿易権を保証された。 だが、その後に結ばれた「モロトフ・リッベントロップ協定」はリトアニアに関する秘密議定書(リトアニアをソ連の勢力園とする内容)を含んでおり、内容通りにソ連は1940年に同国を軍事併合した(その後、リトアニアがソ連から独立を回復したのはソ連崩壊の前年である1990年3月11日である) (引用.一部改)。
*₁1938年秋、ドイツがチェコ・スロヴァキアのズデーテン地方を割譲すると、次はリトアニアのクライペダ地方がドイツに奪われるだろうとという悲観的観測がリトアニア国内に広がった。11月下旬、シュキルパ(当時の在ポーランド.リトアニア公使)は、レオポルダス=ディームシャ駐ケーニヒスベルク総領事とともに、クライペダ地方の問題に関してヒトラーと直接交渉するようスメトナ(リトアニア初代大統領)に助言した。しかしスメトナは、ヒトラーとの直接対談を拒否している。実のところスメトナは、大統領在任中の14年間で一度も海外を公式訪問しなかった。スメトナは、リトアニアが特定の隣国と特別な外交関係をもてば他国の不信を招くことになるとして、かねてより「中立」外交を主張していた。スメトナが海外を公式訪問しなかったのはそれを意識していたからでもあるが、シュキルパから見れば、スメトナのこのような「消極的」な外交姿勢こそがリトアニアを窮地に陥らせた原因だったのである。
クライペダ問題が深刻化するなか、政府は、シュキルパ駐ポーランド公使とユルギス=シャウリース駐独公使の入れ替えを決める。ドイツで長年駐在武官を務めたシュキルパを駐独公使とすることで、事態の打開を目指したのである。外交政策の転換を目指したシュキルパは、駐独公使着任にあたってドイツと友好条約を結ぶことを目標とし、その条約案まで策定した。しかし、シュキルパによれば、この条約案はロゾライティス前外相らの反対によって葬り去られることになる。ロゾライティスの後任のユオザス=ウルプシース外相は、シュキルパに対してリトアニアの中立維持に努めるよう求め、勝手な行動を控える指示を出した。これに対してシュキルパは、リトアニアがドイツと行動をともにしなければ、ドイツはリトアニアを敵国と見なすだろうし、その場合にはクライペダ地方を失うだけでなく、ヴィルニュス(現在のリトアニアの首都。当時はポーランド領だった)の回復も叶わないどころか、リトアニアの独立の維持すら脅かされると考えていた。
リトアニア政府は1938年末以降、クライペダ問題に関して、リトアニアのクライペダ地方に対する主権を認めたクライペダ憲章(1924年)の署名国であるイギリスやフランスなどに助言を求めるも、解決に向けた有効な手立ては得られなかった。フランスは、ドイツとの関係悪化を恐れ、この問題に取り組もうとしなかった。イギリスは、これが東欧地域全体における重要な問題であることを認識していたものの、この問題でドイツが行動にでたとしてもドイツと戦火を交えるつもりはなかった。1939年1月30日、イギリス外相ハリファックス卿は、ヒトラーが3月15日以降にクライペダを奪取する計画があるという確かな情報を在モスクワ大使館経由で入手した。しかし、ドイツとの経済問題を抱えていたイギリス政府は、この問題を先送りにしていたのである。
1939年3月、ローマで教皇ピウス12世の戴冠式に出席したウルプシース外相は、リトアニアに戻る最中にベルリンに立ち寄った。20日午前、ベルリンに到着したウルプシース外相は、クライペダ問題の解決に向けて、シュキルパとともにドイツ外務省へと向かった。このとき、ウルプシース外相のみを執務室に招き入れたヨハヒム=フォン=リッペントロップ外相は、ウルプシース外相にクライペダ地方の割譲を求める最後通牒を突きつけた。翌21日、カウナスに戻ったウルプシース外相は、ドイツからの最後通牒について政府に報告した。同日14日から閣議が開かれ、対応が検討されたが、ドイツと戦っても「3日も持たない」というカジース・ムスティキス国防相やラシュティキス軍総司令官の判断もあり、政府は結局ドイツからの最後通牒を受諾することを決定した。
翌22日、ウルプシース外相はベルリンを再訪し、シュキルパとともにドイツ外務省に向かった。そして23時55分、2人は、リッペントロップ外相の執務室で「クライペダ地方の引き渡しに関する条約」に署名した。この条約により、リトアニアはクライペダ地方を「自発的に」ドイツに引き渡すこととされ、即日クライペダ地方はドイツに編入され、ドイツ領メーメルラントとなった。(引用.一部解説を後付)
《出典・引用》世界史の窓
Weblio辞書・ウィキペディア
*₁東京大学学術機関リポジトリ「小国とファシズム」より抜粋。
『⑭ファシズムと権威主義』
ファシズム国家として名が上がるのはドイツ・イタリア・日本であるが、この典型的な三つの国家の他にもファシズムによって国家統制を行った国家は存在した。ヨーロッパのファシスト国家の周辺に生まれた、大戦前のオーストリアのドルフース政権(オーストロファシズム)、ルーマニアのアントネスク政権(ファシズム組織.鉄衛団との協力も根拠に挙げられる)ギリシャのメタクサス政権(共産主義の脅威を口実に憲法の主要条項を廃止し、古代ギリシャとビザンツに続く「第三ギリシャ文明」を標榜するファシズム体制を敷いた)などはファシズム政権とされる。これらはいずれもドイツ・イタリアのファシズムと共に大戦期に消滅した。
それらとは別に、同じ時期に独裁国家も生まれた。スペインのフランコ政権(ファランジズム)、ポルトガルのサラザール政権(及びその後継のカエターノ政権)は、いずれも1930年代末までに独裁体制を作り上げ、大戦後にも政権を維持している。スペインにはフランコ以前の1920年代にプリモ=デ=リベラ政権が独裁政治を行っていた。これらのケースでは独裁政治が行われていたが、強固なイデオロギーの標榜よりも個人のカリスマ性を全面に押し出し、厳密な国家統制も行われていなかった。独裁政治によって人権や自由が奪われた点ではファシズムと似ているが、厳密にはその概念には当てはまらず、それらは【権威主義】体制と規定されている。彼らは世界大戦でもファシズム国家とは一線を画して中立政策をとり、ファシズム国家と共に倒れることもなく、戦後までその権力を維持した。1910~1920年代のハンガリーのホルティ、ポーランドのピウスツキ、リトアニアのスメトナも独裁政権であったが、これらもファシズムには近いが、議会制度が否定されていないことなどから、区別して権威主義体制とされている(引用.一部改)。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
コトバンク。
『⑮ANTIFA』
ネオ・ナチについては先に述べたので、それとは対極に位置する存在【ANTIFA︙Anti-Fascist Action】についてここでは記述する。 ANTIFAは名称の通り、ネオ・ナチやファシズム、白人至上主義、差別主義などに強く反対する抗議活動を指す(なお、ここでは現代に存在するANTIFAについて述べる)。 メンバーの大半があらゆる人種差別、性差別に反対している。 その一方で反政府主義かつ反資本主義であるため、ANTIFAのメンバーは主流左派よりも【無政府主義︙anarchism】に近いとされる(参加者は反権威主義 / 反資本主義 / 反国家主義など多様な政治思想を持ち、アナーキズム、共産主義、社会主義を支持する者が多いが、社会民主主義者も含まれる)。 中央組織を持たず、自律的な複数のグループや個人の緩やかな連合体として存在し、一部には暴力的手段を用いる者もいる。 この運動は2016年に成立したアメリカの第一次トランプ政権以降、より注目を集めるようになった(引用.一部改)。
《出典・引用》ウィキペディア
BBC News JAPAN 「2020年6月1日 -トランプ米大統領、反ファシスト「アンティファ」をテロ組織に指定すると発言- 」より抜粋。
『⑯ナチスと同性愛』
ヴァイマル政権下では男性同性愛はドイツ刑法第175条のもとで違法とされていたが、ドイツ人同性愛者権利活動家たちは、同性愛を非難した社会的姿勢を改善するための運動において世界的なリーダーとなった。ドイツでは、多くの同性愛者に対するヴァイマル共和政の容認をドイツの退廃の兆候と見なしていた。ナチスは同性愛という「不道徳」をドイツからなくして、人種闘争を改善することを望む道徳的な活動家を装った。1933年に政権を握ったナチスは、ドイツ人男性同性愛者への迫害に拍車をかけた。迫害は、同性愛者組織の解散から、強制収容所への収容にまで及んだ(引用.一部改)。
*₁ドイツでは1794年に男性同性愛者を死刑に処するソドミー法(特定の性行為を犯罪とする法律のこと)が廃棄され、その代わりに刑務所での服役が課されるようになった。1851年のプロイセン刑法典では「男性間もしくは人間と動物の間で行われた自然に反する猥褻(わいせつ)行為は6ヶ月以上4年未満の軽懲役刑に処し、また早急に市民権の行使を禁ずることもある」として、男性同性愛者の自由刑は廃止され、動物と人間の間での猥褻行為は処罰された。これに対して1864年に法律家 K. H. ウルリヒスが男性同性愛の無罪化を呼びかけたが、1867年のドイツ法律家大会で要求は却下された。1869年にプロイセンの医師ウィルヒョウらも、成人男性間の同性愛行為は犯罪ではなく、国家が個人の生活に介入すべきではないと無罪化を主張した。にもかかわらず1871年のドイツ帝国成立の際には、同法が北ドイツ連邦から踏襲されることとなった。その条文では「男性間もしくは人間と動物の間で行われた自然に反する猥褻行為は、6ヶ月以上4年未満の軽懲役刑に処し、また早急に市民権の行使を禁ずることもある」と、明確に規定された。
しかしながら、帝政期からヴァイマル時代にかけて、同法の改正が幾度か試みられた。ナチスは選挙公約として、同性愛者に処罰の厳格化あるいは死刑を掲げ、その政権成立後には国家社会主義的な刑法典を目指す改正に着手し、1935年6月28日の刑法改定では男性同性愛者に対する刑の厳格化を実現した。「自然に反する猥褻行為」を行った者は、最高懲役10年を求刑されることになった。それまで男性同士の猥褻行為は、家族や市民社会を危険に晒す「道徳上の混乱」や「人類の頽廃(たいはい)」、そして「健全な民族の破壊」と見なされていた。しかしナチス政権下では人口政策の観点から、生物学的な側面が強調された。精力の浪費、健全な民族の力の阻害、公的生活の品位の低下、民族の道徳秩序を危険に晒すものと認識されるようになった。ナチスの人口政策は「民族の純潔性を維持すること」を課題としたのである。そして「フォルクの健全な見解」の宣伝により、あらゆる「逸脱」に厳しい処罰が求められた。その方法は自発的な、後には計画的で強制的なものとなる去勢から、死刑にまで至るものだった。こうした処罰の法制化は「遺伝子予防法(1933年7月14日、1935年6月26日改正)」、「危険な常習犯と性犯罪者に対する予防拘禁法(1933年11月24日、1941年9月4日改正)」、「重犯罪者への通達(1939年12月)、そして「共同体にとって異質な者に対する法(1939年以降)」に続くものであった。実際には女性同性愛者に対する処罰も行われていたことが、近年明らかにされつつある(引用.一部解説を後付)。
*₂プロイセン刑法143条は、後には帝国刑法175条として同性愛を規制してきた。これに抵抗を企てたウルリヒス(法律家 兼 同性愛者の研究家)や「ホモセクシャル」という語を造ったケルトビニーは初期の活動家だった。医学会では「犯罪」ではなく、治療すべき「病気」として同性愛は見なされるようになった。また、法の及ばないイタリア・カプリ島へ赴く同性愛者もいた。クルップ財閥のフリードリヒ(三代目当主)は島では人望を集めたが、同性愛だという噂が広まり、自殺に追い込まれた。
その後ようやく、同性愛者擁護団体が設立される時代となり、ヒルシュフェルト(医者であり、世界で初めて同性愛者解放運動を組織)は「科学的人道主義委員会」を、ブラント(同性愛解放運動者)は「主体者同盟」を組織し、法撤廃を目標にして多岐にわたる活動をおこなった。ユダヤ人同様、ナチスの同性愛者への蛮行は猖獗(しょうけつ。悪いことが蔓延ること)を極め、175条は強化された。彼らは収容所に送致され、ピンクの三角形マークを付けられ、強制労働などに苦しんだ。ナチス時代には同性愛が原因で5万人が有罪判決を受けた。戦後もこの法律は1994年まで効力を発揮し、同性愛者を苦しみ続けた。(引用.一部解説を後付)
*₃刑法175条はドイツ帝国刑法に由来するもので、「自然に反する性行為は、男性の人間どうしで行われたにせよ、また人間と動物の間で行われたにせよ、拘禁刑に処す。市民権の剥奪が命じられることもある」と定めた法律である。この刑法175条は1871年に成立したが、しばらく判決では「性交類似行為」のみが規制の対象となっていた。第一次世界大戦終結頃までは年平均380人ほどが逮捕され、その後1934年までの年平均逮捕者数は704人であったが、場合によっては異なるものの、たいていが3ヶ月以下の刑であり、集いの場所の取り締まりも稀であった。だが、ドイツ国家人民党(DNVP)やドイツ福音教会委員会のような宗教団体、ときには報道機関が同性愛嫌悪を煽り、それによって人々の間に偏見が植え付けられていった。
ナチス時代の1935年には刑法175条が強化され、「同性愛的な欲望を抱くだけで取り締まりの対象となるよう解釈が拡大し、また第175条a項が導入され、買春行為、力の行為、職権濫用について規定され」、それに従い開設された「同性愛および堕胎と戦うための帝国センター」が延べ10万人近くをリストアップして5万人に刑を宣告した。強制収容所に送られた同性愛者の人数を正確に算出することは困難だが、同性愛者を意味する「ピンク・トライアングル」を着けた者の位階はユダヤ人のすぐ下の最下層に位置づけられ、他の囚人たちからも偏見を受けていた。収容されていた同性愛者のうち60%が収容所で死亡しており、これは政治犯の場合の死亡率が41%であることと比べると高い数値である。というのも、証言によると、収容所内の囚人数を減らすためにしばしば絶滅収容所へ囚人が送られていたが、その選別は最古参の囚人が行っており、そこで絶滅収容所送りとして選ばれる収容者の圧倒的多数がピンク・トライアングルをつけた収容者だったからである。ここからも分かるように、同性愛嫌悪は収容所内の囚人たちの間にも広がっていた(引用)。
《出典・引用》ホロコースト百科事典
*₁一橋大学「公的言説に刻印された両性(ジェンダー) -1909年のドイツ刑法典準備草案をめぐる議論を事例として- 」より抜粋
*₂関西大学「第八回マイノリティー・セミナー」より抜粋
*₃慶應義塾大学塾生サイト「戦後ドイツにおけるユダヤ人の「シンボル化」と同性愛者の扱われ方に関する比較考察 -記念碑の記述の差異について- 」より抜粋。
『⑰ヒムラーとオカルト』
ナチス・ドイツはオカルト色が強いことで知られており(後世に脚色されたものも多いが)、それらはナチス親衛隊SSのトップであるハインリヒ=ヒムラーによる影響を多く受けている。 ヒムラーは占星術にはまり、中世の黒魔術や魔女の研究にも情熱を傾けた。1938年にはアイスランドへ遺跡調査隊を派遣して、聖杯の探索を行わせていたり、キリスト教の聖遺物【※神聖ローマ帝国のロンギヌスの槍(神聖ローマ帝国のレガリアである帝国宝物の一つ)】をホーフブルク宮殿からニュルンベルク(ザクセン朝の初代フランク王ハインリヒの死後、息子のオットー1世に受け継がれ、それ以降は長くニュルンベルクに保管されていたが、ナポレオン戦争中にナポレオンに奪われることを恐れたため、ウィーンのホーフブルク宮殿に移された)に移したことなどが代表的だろう(引用.一部改)。
※ロンギヌスの槍(聖槍とも)とされる物は複数存在する。
《出典・引用》ウィキペディア
ニフティニュース / wanibooks-news-newscrunch.com「ナチスオカルティズムの根本はヒトラーではなく「ロンギヌスの槍」と力を信じたヒムラー」より抜粋。
『⑱ナチス体制の成立とクリスマス』
*₁クリスマスが社会的、政治的プロパガンダに利用される例は、ナチス・ドイツ以前にもあった。一つは戦争である。すでにクリスマスを祝うという習慣を知っていた将校たちは、第一次世界大戦の戦場で「ドイツのクリスマス」を祝ったが、ロウソクを灯したクリスマスツリーは民族意識や愛国心の高揚に利用された。特に、総力戦となった第一次世界大戦では、銃後と前線の連帯を強化する目的で、銃後で準備された大量のクリスマス小包(こづつみ)が前線に送られた。もう一つは、第一次世界大戦の敗戦による精神的打撃、政治的混乱、経済的困窮のなかで、とりわけ1929年の世界恐慌後に見られたように、クリスマスは反ユダヤ運動に利用されたり、富裕層に対する労働者階級の闘争の手段となった。ナチス・ドイツもヴァイマル共和国末期の経済的困窮を引きずって始まったため、経済的立て直しは内政の安定(ナチ化)と共に最重要課題となった。その方策の一つが、クリスマスの利用だった。
国民社会主義のプロパガンダについては、ヨーゼフ=ゲッベルスの国民啓蒙・自由研究(第二次世界大戦.関連等)
『⑲11日戦争 - 損失と奪還- 』
第一次世界大戦末期に【11日戦争︙Operation Faustschlag】と呼ばれる戦いがあった。
1917年、ドイツ=オーストリア連合軍に苦戦するロシア帝国軍だったが、国内では2月革命が勃発。 ニコライ2世が退位に追い込まれたことでロマノフ朝、結果的にロシア帝国が崩壊した。 その後、ケレンスキーを首班とする臨時政府が成立したが、一方で各地の労働者・農民はソヴィエトを結成。戦争継続を図ろうとする臨時政府と激しく対立し、独自のソヴィエト権力を作り上げた。こうしてロシア国内は事実上の二重権力状態となり、同年10月(ロシア暦)にはボリシェヴィキが臨時政府を打倒したことで世界初の社会主義政権が誕生した。 しかし、レーニン等の独裁政権に反発する人々が白軍を組織して武装蜂起を起こしたことでロシア内戦が発生。ロシアは対外戦争どころでは無くなってしまった。 ソヴィエトは中央同盟国との単独講和に乗り出し、11月には講和条約交渉が始まった(12月15日にはバルト海から黒海に至る線で停戦協定が成立した)。 レーニンが提示した【平和についての布告(無賠償・無併合・民族自決を原則とした即時停戦案)】で打ち出した無賠償・無併合を講話の前提としたが、ドイツ側は有利な戦況を活かして賠償金獲得・占領地の併合を狙い、根本のところで対立し、交渉は難航した。また旧ロシア帝国に属し、大戦でドイツ軍が占領している、ポーランド、フィンランド、ウクライナ、バルト地域などの民族自決に対する措置も両国で争点となった。ドイツは講和の条件としてこれらの広大な地域のロシアからの分離を要求してきた。 交渉当事者の外務人民委員(外務大臣に相当)であるレフ=トロツキーはこれ以上の戦闘継続は困難であると判断していた。しかし、彼はドイツ国内の左派革命運動に期待し、ドイツで内乱が起こればドイツ軍はすぐには行動できないはずだとみて、「戦争を中止し、軍隊を復員させるが、講話には調印しない」という判断をした。その意味は休戦状態を長引かせ、講話に応じず、時間稼ぎをしてドイツの出方を待つ、ということであったようだ。 だが、トロツキーの読みは外れた。ウクライナ人民共和国(反ボルシェヴィキ政権)がドイツと平和条約を締結したのである。 ドイツはソヴィエトとの停戦協定を破棄し、オーストリア軍と共に旧ロシア帝国領への攻勢を開始した。 中央同盟国軍は大した抵抗も受けず、一週間で240km前進した。ドイツ軍がペトログラード(現在のサンクト=ペテルブルク、当時ロシアの首都であった)から160kmのところにまで迫ってきたため、ソヴィエトは首都をモスクワへと移した。 その後、ソヴィエトはドイツ側の要求を全面的に呑む形で講和条件を受諾。ドイツ軍はコーカサス地方と内戦が続くフィンランドを除いた地域での作戦を中止した。 講和条約(ブレスト=リトフスク条約)の結果、ソヴィエトはポーランド、ウクライナ、白ロシア、ラトビア、エストニア、リトアニアを放棄した。これにより、ソヴィエトは広大な領土と人口を失ったが、ロシア内戦(ドイツが第一次世界大戦で敗戦したことに伴って、ソヴィエトは講和条約を破棄。 ソヴィエト=ウクライナ戦争を初めとする分離独立した地域へ侵攻した)・第二次世界大戦を経て、手放した領土の多くを奪還することとなる。
(※11日戦争後、独立を果たしたポーランドは西ウクライナや白ロシアの領有権を主張。 ポーランドがウクライナ・白ロシアに侵攻したことで、ポーランド=ソヴィエト戦争が勃発。 結果、ソヴィエトは敗戦を喫し、広大なウクライナ領土を失う。 この領土も第二次世界大戦で奪還することとなる)
《出典・引用》ホロコースト百科事典
世界史の窓
Weblio辞典・ウィキペディア
Try IT。
『⑳パリは燃えているか』
1940年6月、ドイツ軍によってパリが占領され、フランス政府は降伏し、フランス南部に対独協力政権(ヴィシー政権)が成立した。ただちにフランス各地ではドイツ軍とヴィシー政権に対するレジスタンス(抵抗運動)が始まった。
1943年、スターリングラード攻防戦とクルスクの戦いでドイツ軍の敗戦を契機に、戦況は一気に連合国側の優勢に傾いた。5月に北アフリカ戦線で枢軸軍が降伏、同年9月にイタリアが降伏、1944年6月6日には連合国軍がノルマンディーに上陸した。 連合軍が迫っていたパリでは、ドイツ軍の敗退が近いと判断し、8月19日にレジスタンスが武装蜂起を決行した。 8月23日、レジスタンスや連合軍との攻防の末に敗色が濃厚となったナチス・ドイツ総統アドルフ=ヒトラーは、パリ防衛司令官ディートリヒ=フォン=コルティッツに一つの命令を下した。それは「敵に渡すくらいなら灰にしろ。跡形もなく燃やせ」という、彼の破壊的思想に満ちた最後の抵抗策であった。だが、コルティッツはその命令を得策でないと考え、結果的にパリ破壊命令を無視し続け、降伏文書に署名した。 8月25日午後1時、破壊の報告が来ないことに痺れを切らしたヒトラーは、ベルリンから「Brennt Paris?︙パリは燃えているか?」と叫び、問いかけた。しかし、彼の欲しかった回答を得ることはできなかった。(引用.一部改)
《出典・引用》世界史の窓
Weblio辞典・ウィキペディア
NHK.映像の世紀バタフライエフェクト「パリは燃えているか」より一部抜粋。
『㉑零時 -Stunde Null-』
第二次世界大戦の終戦を迎えた1945年は、ドイツでは【零時︙die stunde Null】と呼ばれ、ナチス政権時代とその土壌を提供した国民史の「反省」に基づいて、新たに零から国家再建に着手した時間を指す。 戦後ドイツでは「終戦」を戦争の敗北よりも、解放、さらにそれよりも戦後の再出発とする認識が強く、5月8日の降伏を「零時」と表現する傾向が強い(引用)。
《出典・引用》ウィキペディア
つくばリポジトリ「「公的な歴史認識」の基準をめぐって -ドイツ歴史家論争- 」より抜粋。
『㉒百分率協定とギリシャ内戦の勃発』
東西冷戦の開始は1947年のトルーマン・ドクトリン(トルーマン大統領が出した共産圏に対する封じ込め政策)の発表からとするのが一般的である。しかし東西大国の代理戦争は1944年末にはすでに始まっており、それがギリシャ内戦である。
1944年9月、レジスタンスがギリシャ全土で一斉蜂起を行い、10月にはイギリス軍が上陸したことで枢軸国軍は撤退し、ギリシャは解放された。 この時、イギリスとソ連はバルカン半島における勢力圏を取り決める秘密協定【パーセンテージ協定︙百分率協定(ソ連のバルカンにおける影響力の増大を恐れたチャーチル側が分割案を示した)】を結んでおり、ギリシャはイギリス90%、ソ連10%の分割で合意したことで、事実上イギリスがギリシャを管理することとなった。 だが、ギリシャ国内では共産主義者を中心とした左派勢力が強く、このままではギリシャが共産化する恐れがあった。 同年11月、カイロに亡命していた政府が帰還したが、左派勢力の排除態度を鮮明化したため、両者の対立は決定的となった。12月、左派勢力と反共勢力(以後政府側と呼ぶ)が武力衝突したことでギリシャは内戦状態に突入した。 当初は地方の殆どを勢力下としていた左派勢力側(1946年にソ連・ユーゴスラヴィアなどの支援を受けてギリシャ民主軍を組織。以後、左派勢力はギリシャ民主軍と呼ぶ)が優位であったが、イギリス(後にアメリカも加わる)の支援を受けた政府側が次第に優勢となっていった。その後、内戦終結直前にはユーゴスラヴィアからの支援も打ち切られた(ユーゴスラヴィアがコミンフォルムから脱退したため、ソ連に忠誠を誓うギリシャ民主軍への支援を取りやめてしまった)ことでギリシャ民主軍には、もはや抵抗する力は殆ど残されていなかった。 結果、ギリシャ内戦は政府側が勝利し、ギリシャは西側諸国に取り込まれた。
*₁周知のように、第二次世界大戦中のギリシャでは、隣国ユーゴスラヴィアに比肩(ひけん)しうる程の影響力をもつ左翼的レジスタンス運動が展開された。しかし、解放後、彼らは、ユーゴスラヴィアの場合とは全く対照的に、イギリス軍の支援の下に復帰した亡命政権によって政権から排除されたのみか、武力弾圧の下にさらされた結果、大戦後のギリシャでは内戦状態が現出した。
つまり、ギリシャにあっては、大戦の終りが内戦の始まりであったのであり、その点で中国との類似性が見られる。しかし、ここでも中国の場合とは全く対照的に、1949年10月にこの左翼的レジスタンス勢力によって発せられたのは勝利の宣言ではなく、苦渋に満ちた敗北の宣言であった。その結果、第二次大戦中の「英雄たち」は一転して「反逆者」とされ、投獄されるか、亡命生活を余儀なくされたのだった。まさに現代のギリシャ悲劇と呼ぶ以外にない歴史の逆転であった(引用)。
《出典・引用》ウィキペディア
世界史の窓
コトバンク
HistoryMaps
note・NikolaiMisonikomii
*₁一橋大学「内戦期ギリシャの政党政治と軍部」より抜粋。
『㉓ポグロムと移動虐殺部隊』
ユダヤ人迫害はホロコーストだけに限ったものではない。ロシアでは帝政時代から【ポグロム︙погром(ロシア語で破滅・破壊などを指す)】と呼ばれるユダヤ人迫害(ユダヤ人以外の市民による地元のユダヤ人に対しての暴力的な攻撃)が行われており、ユダヤ人に対する経済的、社会的、政治的な反感が伝統的な宗教的反ユダヤ主義を強化したことが主な原因であった。 ポグロムの実行者は、ときには政府や警察に奨励されながら、地元で組織を編成した。彼らはユダヤ人に対して、強姦や殺害、所有物の略奪を行った。
20世紀初頭には、ロシア内戦とそれに続く1917年のボルシェヴィキ革命(ロシア革命)中、ウクライナ国家主義者ポーランド当局者、赤軍兵士などは、ベラルーシ西部とポーランドガルシア(ガリツィア。現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる)地域でポグロム的な暴力行為に加担し、1918年から1920年にかけて数千人ものユダヤ人が殺された(このような暴動を起こす人物は「理性をなくした、へべれけに酔っ払った農民」だという者もいるが、実際には計画的、組織的に徹底して行われた)。
1941年、ドイツ軍がモロトフ・リッベントロップ協定を破棄してソ連に侵攻すると【※移動虐殺部隊︙Einsatzgruppen】は治安警察署長のラインハルト=ハイドリヒから、新たに占領したソ連領の市民によるポグロムを許容し、奨励さえする命令を受けていた(引用.一部改)。
※移動虐殺部隊とは主にナチス親衛隊と警察官で構成された部隊で、ドイツ治安警察と親衛隊保安部の将校の指揮の下、前線の後方で敵性分子(主にユダヤ人)を銃殺するために組織されていた。
《出典・引用》ウィキペディア
ホロコースト百科事典。
『㉔メンデルスゾーンとナチス』
三大ヴァイオリン協奏曲(四大とも)の一つに数えられる「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64(以後メンコンと呼ぶ)」や「真夏の夜の夢」などを作曲したドイツ出身のユダヤ人作曲家【フェリックス=メンデルスゾーン︙Felix Mendelssohn, 1809-1847】。 彼の死後、その権威は増幅するどころか時代の波に揉まれ、失墜した。 それが最も顕著に現れたのがナチス政権時代だろう。 ナチスの文化当局は【ヨハン=セバスティアン=バッハ】や【ルートヴィヒ=ヴァン=ベートーヴェン】などのドイツ音楽殿堂の巨匠の作品を普及させる一方で、メンデルスゾーンなどの【非アーリア人】の古典作品の演奏を禁止した。 ナチス政権下におけるメンデルスゾーンの不当な評価は徹底したものであった。その背景には彼が大銀行家(メンデルスゾーン銀行)の御曹司であり、そんな劣等民族の金持ちのボンボンがまともな音楽が書けるはずがないという、言うにいえぬ嫉妬心があったのかもしれない(しかし、メンコンは当時の音楽家たちの決死の抵抗もあって、演奏が事実上黙認されたという歴史もある)。
《出典・引用》ウィキペディア
ホロコースト百科事典
クラシック音楽へのおさそい「メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」序曲 作品21」
クラシック音楽へのおさそい「~Blue Sky Lavel~」
「大銀行家アブラハムとメンデルスゾーン銀行の繁栄」
note
gooブログ。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる