11 / 24
国境無きエゴイスト編
第十一話 唐紅のファンファーレ
しおりを挟む9
左肩の痛みが、脈打つたびに鋭く走った。
冷気に満ちた地下で、そこだけが異様な熱を持ち、血が流れる感覚をはっきりと主張してくる。
体温がどこまで下がっているのか、自分でも判然としない。
冷たさと熱さが溶け合い、境界を失った感覚が、エレナの意識をじわじわと侵食していた。
それでも、視線は逸らさない。
五体の吸血鬼――その立ち位置、重心、次に踏み出す方向。すべてを、氷のように冷えた思考で捉え続ける。
手にした偽書が、ひどく重かった。
紙の重量ではない。溜め込まれた魔力と、それを解き放つ覚悟の重さだ。まるで、自分の体と魂を一緒に引きずり込もうとしているかのように、腕に鈍い負荷がかかる。
(……本当は)
心の奥で、押し殺していた声が浮かぶ。
(これだけは、使いたくなかった……)
奥義。『モコシの方舟』は、単なる大魔術ではない。
自分の魔力だけで完結する術ではなく、周囲の湿潤、地下に眠る水脈、土地そのものの“状態”を強制的に神話へと昇華させ、巻き込む――いわば、環境ごと戦場に引きずり出す行為だ。
制御を誤れば、敵だけでなく、自分自身も呑み込まれる。
だからこそ、普段は決して選ばない。選んではならない力。
だが――。
視界の端で、吸血鬼の一体が、わずかに踏み込みの角度を変えた。
連携の合図。次は、四方向から同時に来る。
失われ続ける血。
削られる魔力。
そして、ここを突破されれば、その先にいるのは――髙島とマリヤ。
碧色の瞳が、静かに据わる。
「……この先には行かせません」
一度、深く息を吸う。
冷たい空気が肺を満たし、そのまま身体の奥へと沈んでいく。
「……私の得意な魔術は」
声は低く、震えはない。
「炎でも、風でもありません」
言葉と同時に、偽書ヴェレスの頁がめくられる。
グラゴロ文字が、淡い青白色に浮かび上が り、空間そのものが、わずかに軋んだ。
「氷と、水です……!」
宣言と同時に、地下が“応えた”。
ホームの床下、さらに深い地層を巡る地下水が、はっきりとうねりを上げる。
それは地震のような破壊的な揺れではない。
もっと静かで、もっと不気味な――水そのものが、意志を持って身じろぎする感覚だった。
エレナは環境を壞しているのではない。
敵が存在するための“前提条件”を、神話の形で奪っているだけなのだ。
霧が噴き上がる。
視界を奪うほどではないが、輪郭を曖昧にし、距離感を狂わせるには十分な白さだ。
吸血鬼たちの足元で、水膜が広がる。わずかな傾斜すらないはずのホームが、まるで傾いた床のように錯覚される。
一体が踏み込む。
次の瞬間、その足が滑った。
完全な転倒ではない。
だが、戦闘において致命的な“半拍の遅れ”。
エレナはそれを見逃さない。
偽書ヴェレスを介して、湿潤の魔力をさらに圧縮する。
水は氷へ、氷は粘性へと変質し、床は“止まれない地面”へと変貌していった。
吸血鬼たちは即座に対応する。
壁を蹴り、手すりに掴まり、宙を使って間合いを詰める。
その連携は洗練され、無駄がない。
――だが。
地下であること。
水があること。
そして、ここが閉鎖された空間であること。
すべてが、エレナの側にあった。
「地下で戰おうとなさるとは……お馬鹿の極みですね!」
嘲笑を伴うその声は、戦場を嘲るかのように、閉ざされた空間に冷たく響き渡る。
左肩が、再び疼く。
拍動に合わせて、鋭い痛みが走る。
一瞬、視界が暗転しかける。
「……っ」
喉までこみ上げた呻きを、噛み殺す。
ここで集中を切らすわけにはいかない。
(まだ……まだ耐えられます)
エレナは、自分に言い聞かせるように呼吸を整える。
冷たい空気を吸い込み、吐き出すたび、意識は再び澄み渡っていった。
取り出したのは、先の戰闘でも用いた、正教会から託された聖遺物――
祝福されし、『ペタルの杭』の公式レプリカ。
――エレナは吸血鬼でありながら、祝福が効かない。
だからこそ、彼女のみが扱える品だった。
青白い杭が、一本。
次いで、もう一本。
霧の中に浮かび上がるそれらは、氷の結晶をまとい、異様な静けさを放っている。
吸血鬼の一体が、直感的に危険を察知し、距離を取ろうとした。
――遅い。
エレナの意識が、杭に流れ込む。
放たれた一本目は、回避行動に入る直前の胸部を正確に貫いた。
衝撃音が遅れて響き、吸血鬼の身体が後方へ弾き飛ばされる。
二本目。
三本目。
四本目。
連続する突きは、流れる水のように途切れない。
速度ではない。軌道と精度が、完全に敵を上回っていた。
左肩の痛みが、限界を主張する。
膝がわずかに沈む。
それでも、杭は止まらない。
最後の一体が、必死に杭を掴み取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
エレナは、ためらいなく意識をさらに踏み込ませた。
青白い杭が、わずかに――しかし決定的に加速する。
高速。
冷徹。
まるで処刑ではなく、作業のように。
最後の一体が、膝から崩れ落ちる。
エレナは、その目前で立ち止まり、静かに告げた。
「これは、祝福ではありません」
杭を、まっすぐに。
「――ただの、終止符です」
乾いた音。
すべてが、終わった。
エレナは深く息を吐き、その場に膝をつく。
遅れて、激痛が一気に押し寄せる。
「――っ痛いです……」
堪えていた涙を溜めながら、エレナは左肩をそっと押さえた。
霧が、ゆっくりと薄れていく。
湿潤と冷気だけが残り、地下鐵のホームは再び静寂に包まれた。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる