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昇華せぬ机上神話編
第十八話 原点回帰
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「―――phola ende uuodan uuoruun zi holza.」
瓦礫の山となった中心部。炭化した右腕が転がっていたはずの闇の中から、低く、湿った呪文が漏れ出した。
それは言葉というよりは、古き森の奥底で泥が泡立つような、不吉な韻律だった。
「メルゼブルクの第二呪文。――まだ生きてたか⋯⋯蛆虫が!」
エレナが咄嗟に髙島とマリヤを背後に庇う。
光に焼かれ、塵となったはずの肉片が、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように一箇所に集まり、脈打ち始めた。
翡翠の結晶が砕けた「無」の空間に、突如として古高ドイツ語の呪詛が重なり合う。
「bên zi bêna, bluot zi bluota……(骨は骨に、血は血に……)」
切断され、炭化したシュミットの右腕が、自ら意思を持っているかのように跳ね、彼の肩へと吸着する。
バキバキと、硬質な音が静寂を侵食した。 砕かれた骨が接合し、焼かれた血管が新たな血を求めて蠢く。
「……sose gilîmida sîn.(あたかも膠(にかわ)で繋がれたが如く⋯⋯)」
闇の奥から立ち上がったシュミットは、剥き出しの筋肉が編み上げられていく右腕を、愛おしげに眺めていた。
彼の顔半分は聖なる光に焼かれ、白磁のように剥落している。だが、残された左眼には、先ほどまでの「秩序」を捨てた、より原初的で、凶暴な光が宿っていた。
「……ソビエトからの聖傅(サクラメント)か。確かに強力な祝福だな。
―――しかしだ、小娘。我らが祖先がキリストの軍門に降る前から、この大地には『癒やし』の術が存在したのだ。
―――汚れた十字などというものを信仰するほど我々ゲルマンは落ちぶれていないのだよ!!」
再生した指先が、空中で翡翠の断片を掴み、粉々に握りつぶす。
「秩序は死んだ。……これからは、ただの屠殺(とさつ)作業だ!! ――不快なスラヴの塵を纏めて息の根を止めてやろう!!」
「insprinc haptbandun!(拘束を跳ね除けよ!)」
シュミットが解き放った咆哮は、物理的な衝撃波に留まらなかった。
彼の影が、足元の瓦礫を飲み込みながら、生き物のように四方へと這い広がる。
それは聖傅機密が展開していた聖なる領域を、黒いインクを落とした水槽のように侵食していった。
「これは第一呪文……聖域が、塗りつぶされていく……!?」
エレナが呻く。彼女の背後の「秩序」の光が、急速に色褪せていく。
「言ったはずだ。我々の大地には、キリストが来るより前から『真実』があったと。 そして――私は人間らしさという枠さえも、とうに捨て去っているのだよ
それに十字の奇跡は『解毒』した。九つの薬草の呪文ってのがあってなぁ....口に出さずとも、再演算するのに時間は掛からなかったんだよ!!」
シュミットが再生した右腕を地面に突き立てると、亀裂から冷たい霧が噴き出した。
その霧は死臭を孕み、周囲の瓦礫を「黒檀」へと変質させていく。
「見よ。ここはこの世の最果て、九つの川が交わる地。 死者の王が統べる領域――『ミクトランの再興』だ」
地面からは無数の剥き出しの翡翠が突き出し、エレナたちを取り囲む檻となる。
先ほどまでの「聖域」の静謐さは消え、再び吹き荒れるのは、先の領域より強化された、肉を削ぐような凍てつく風の咆哮だった。
「さあ、ポグロムの再来、生贄の時間だ。 ―――再び顕現しこの冥界において、貴様たちの『祝福』とやらはただのノイズに過ぎん……!」
翡翠の檻が三人を取り囲み、逃げ場を完全に断つ。シュミットの掲げた右腕から、漆黒の雷鳴を孕んだ影の触手が、高島たちの心臓を貫こうと殺到した。
「纏めて死ね!! ――劣等人種共めが!!」
「エレナッ、マリヤッ!!」 髙島は叫び、咄嗟に二人をかばうように前に出た。だが、死の嵐は全方位から、一ミリの隙間もなく彼らを飲み込もうとしていた。
その時だ。
「……ちがう」
髙島の背中に触れた小さな手が、驚くほどの冷たさと、確かな熱を伝えてきた。
震えていたはずのマリヤが、高島の服を掴んでいた手を離し、静かに一歩前へ踏み出す。
彼女の瞳は、これまでの恐怖を洗い流したかのように白く透き通り、人間という枠組みを超えた「沈黙」を湛えていた。
「……その言葉は、……わたしたちのもの」
マリヤは、迫りくる黒檀の奔流を見つめ、静かに、だが世界の根幹に楔を打ち込むような声で「定義」を告げた。
「―――掻い潜れ(vua slizze)。」
その瞬間、世界から「摩擦」が消えた。
シュミットが放った必中の翡翠の弾丸が、高島の喉元を貫く寸前で、あたかも水面に投げた石が跳ねるように、不自然な角度で空を切った。
飲み込もうとした黒檀の影も、三人の肉体に触れる直前で、まるで見えない潤滑油に滑るようにズルリと逸れ、背後の壁に空しく激突する。
「な……何だ……!? 何が起きている!!」 シュミットの顔が驚愕に引きつる。
彼は確かに、最速、最短、回避不能の軌道で殺意を放っている。
しかし、マリヤが定義した「掻い潜れ」という概念の前では、「攻撃を当てる」という因果関係そのものが成立しない。
「……『innuic heriuuun(敵から逃れろ)』。……呪文を先に言ったのは、おじさん、あなただよ」
マリヤは感情を削ぎ落とした瞳で、狂った吸血鬼を見据えた。
「―――私の異言は書き換えのみ魔術的効力を持つ。⋯⋯その適用範囲は私達全員。
だから、逃げるね。……あなたの指先からも、あなたの殺意からも。……全部、掠りもしない」
「生意気な餓鬼が!!」
シュミットが狂ったように右腕を振り回し、黒いレーザーを放射する。
だが、そのレーザーさえも、三人の輪郭をなぞるように鮮やかに回避して散していく。
攻撃が届かない。かすりもしない。
マリヤの「異言」による強制再定義は、シュミットの神話的暴力を、ただの「空振り」という滑稽な現象に引きずり下ろしたのだ。
「馬鹿な……ありえん! 神話の力、九つの階梯を上り詰めた我が魔術が……ただの、一人のガキの言葉に拒絶されているというのかッ!!」
「……ふふ、最高の気分ね、ナチス」
絶対的な守護の中で、エレナが高島の血を吸った黄金の爪を研ぎ、死の嵐の中を悠然と歩き始めた。
飛んでくる破片を避ける動作すら必要ない。あらゆる殺意が彼女を避けて通る。
「あんたの『自由の呪文』が、私たちをあんたの支配から、完全に自由に(フリーに)したのよ。……さあ、一方的な『お掃除』の時間ね」
絶望に染まった翡翠の監獄に、今度はシュミットの悲鳴が響こうとしていた。
髙島は確信した。
これが、マリヤ。神にさえ選ばれなかった「例外」が持つ、世界の理を書き換える力なのだと。
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