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諸行無常ノ響キアリ
しおりを挟む界を踏みしめ、渡る。それは、少女にとってあまりにも当たり前の行為だった。
だが、穢を拒むように張り詰めた空気だけが、ただひとつ、異様だった。
張り詰めた空気は、どこかマヨヒガにでも迷い込んだかのように思える。
踏みしめたはずの大地は、少女の足裏から少しずつ感触を奪い、まるで此岸と彼岸の境を、知らぬうちに超えてしまったかのようだった。
だが、彼女はそのすべてを承知していた。
これは息も絶え絶えな魑魅魍魎を、ただ看取ってゆくための、長い、長い夏の物語である。
【遭遇】
1
少女は頬をハンカチで拭いながら、「ムラ」の細部へと歩を進めた。
形骸化した集落に残るのは、ただ「居た」という痕跡ばかりである。
風雨に削られた祠、傾いた井戸枠、名を失った卒塔婆――いずれもかつての暮らしの、乾いた残影にすぎない。
紅葉はそれらを一つずつ眺め、思い出すように首を傾げた。
……何だろう?
喉の奥にナニカが引っ掛かる。
嫌悪ではないが、どうしても思い出せない。
魚の骨ほど小さくはなく、しかし実体を欠いたモヤのような感覚。
畢竟、コンマ数秒考え込んだのち、
「まぁ、なんでも良いや」と紅葉は息をこぼす。
もとよりこの紀行に目的など無い。
どうせ大したことではない。一刻も経たずに忘れるだろう、と。
気怠い調子のまま、紅葉はある場所へ脚を向けた。
というより、そこへ向かえという達示めいた感覚を、無意識の底で拾っただけかもしれない。
2
寂れた神社――その鳥居前。
耳に届くのは寒蝉のコエだけで、人の気配はおろか、狢の影すら無い。
「如何にも悪守が居候していそうな場所ね」
悪守とは、紅葉の地元で祟り神を指す方言である。
紅葉は人間ではない。紀伊に名の知れた物怪、肉吸いであった。
紀州の湿った土を踏む足裏は、下界の者のそれとは違い、微かな震えと共に感触を返す。
左脚を伸ばし、ワンピースの袖をなびかせ、領域へ踏み入れようとしたその瞬間――界がわずかに軋んだ。
「不味そうな小娘が来たもんだ。汚穢とでも言おうか」
鳥居の奥から降ってきた第一声がそれである。
「いくら私に好意を抱こうが、夫婦にはならないわよ」
紅葉は乾いたコエで応じる。
「糧にもならない小娘を誰が欲しがろうか」
「なら、本望よ」
紅葉は軽い足取りで声の主へ向かう。
壱百寸ほど、鳥居から進んだあたりで、漸く、少女は悪守の姿を目で捉えた。
見覚えのある姿に、少女は口をゆるやかに開いた。
「……カフラタイ」
悪守はその名を聞くや、声にうっすらと笑みを滲ませた。
容姿は巨大な蚯蚓の集合の一言。
和歌山に伝わる妖虫そのものだ。
「ほう……熊野の出身か?」
「そうよ……薄汚い土蚯蚓を見るのも、久しぶりね」
「んっ――」と、悪守は上方を仰いだ。
何か考え事をしているようである。
「四肢が無いと、不便よね」
紅葉は軽口を零した。
思案に暮れながら、
「下総に流れ着いてまで、酉の小娘に茶化されるとはな」
悪守は気難しげに呟いた。
「先客が居たのね」
紅葉は軽くチャチャを入れた。
「御託を並べるのは、楽しいか……小娘」
……紅葉はそれに返さなかった。
返すのが億劫に感じた。
そのまま、……四半刻ほどの沈黙が続いた。
悪守が下を向いたことで、漸く静寂は幕を下ろした。
「それで、何かしら……思い出したの?」
紅葉は続ける。
「あんまり、気は長くないものでね」
「そうだなぁ……前に邂逅したことがあったか? それについてだ」
「言っとくけど、貴方みたいな蟻地獄はいくらでも見てきたの」
「馬の耳にも念仏かもだが」
「あら、私は悪態を吐く蟲の方便を、素直に信じるお馬鹿さんでは無いのよ?」
「……小娘、名はなんという?」
少女は長い髪を触りながら答える。
「蟲に名乗るほど低俗ではなくってよ?」
第2話
3
「それで、酉の妖怪が何故に、遥々房総の地に来たのだ?」
悪守が問いかける。
「期待しているかも知れないけれど、島流しとかでは無いわよ」
「お母さんが可愛い子には旅をさせよってさ」
紅葉は水筒を取り出し、コップ代わりの蓋に並々と麦茶を注ぐ。
そして、ごくごくと喉を鳴らしながら身体を潤す。
「……外界にはこんなにも素晴らしい飲み物があるのよ」
爽やかな夏風が吹くのと同時、左手の指先を悪守へと差し向ける。
「――井の中の蛙大海を知らず」
紅葉は続けて言葉を積み重ねる。
「貴方が暮らしているこの土地だけじゃないのよ。社会変革があったのはね」
悪守は無い鼻を鳴らした。
「そんな粗品、誰が欲しがるか――とでも言いたげな面じゃな」
紅葉は肩をすくめる。
「まあ、土蚯蚓には勿体ない品だろうけどね」
悪守は外方を向いた。
「……童を見たのも幾分前か」
「山椒魚みたいね」
紅葉は洞の外気温でも量るように淡々と言い放った。
「でも、干乾びてないだけご立派よ」
軽蔑を含みながらも、尊敬の念も込める。
「世がどれだけ移ろおうと、此処で呼吸し続けている。その往生際の悪さだけは、評価してあげてもいいわ」
悪守は口腔の奥で土砂を転がすように低く笑った。
「褒め言葉として受け取っておこうか、小娘」
「どちらでもいいわよ。受け取り方は土生虫の自由だもの」
麦茶の残滓を口の中で転がしながら、紅葉は淡く肩を揺らした。
「……腐りもせず、逃げもせず、ただそこに居続けた。それって、案外難しいことなのよ」
「ふん。吾に説教を垂れるとは、随分と偉くなったものだな」
「偉くなんてないわ。ただ――」
土埃の漂う空気をひとつ吸い込み、視線を悪守へと戻す。
「変わらないものの強さ、それを知っているだけよ」
悪守はそれを受け流したかに思われた。
しかし、頭部をゆっくりと紅葉に近づけ、
「変わらぬものに美学を見出すとは、小娘の分際にして少々風流であるな」と述べる。
「何、阿呆なことを言っているの?」
紅葉は口を紡ぐことなく、説教臭く垂れた。
「変化を完全に否定している訳では無いの。
――唯、古典的な事を全て忘れようだなんて薄情で出来ないだけよ」
「――そうか。少々腹を割ることができると思ったが」
悪守は声を落とす。
「別に調伏しに来たわけでは無いし、かと言って利点のない会話をするだけ時間の無駄だ」
声音には怒気も温度もなく、ただ初冬の風のような乾いた平静だけがあった。
紅葉は決して無関心ではない。
ただ、情というものがいずれ己を蝕むと知っているがゆえに、その芽を、悪守へ渡すことだけは避けたかったのである。
まして、悪守とはいえ、人畜以外の畜生に情緒を揺さぶられるなど滑稽千万なのだ。
「――人畜無害の妖なら可愛いものだけど、悪守だしね」
紅葉は口角を僅かに釣り上げた。
その口跡を聞いた刹那、悪守の表情が変わる。
もちろん蚯蚓なので顔という顔はない。
所謂のっぺらなのだが、それが深々と伝わってくる。
「小娘、吾を悪守と呼ぶか?」
それに対し、紅葉は驚いたように口を開いた。
「その反応を見るに、言われたのは初めてのようね」
悪守はしばし紅葉を見据えたのち、声を低く潜ませるように吐き出す。
「小娘が意気がると思うに、やはりか」
紅葉は僅かに口角を揺らし、軽く声を落とす。
「素直に受け入れるなんて意外ね」
4
少女と化物は面と向かい対峙を続けている。
しかし、先の刺々しいモノとは明らかに異なる雰囲気を醸し出していた。
というよりも、徐々に丸くなっているという方が正しいのだろう。
「――有為転変、それは熟感じておった。
人や畜生をひっくるめ、久しい来訪者がお主だった」
悪守はそれを悟っていたのだ。
だからこそなのか、若干であるが、悪守の口調が緩んだように感じられた。
「――良かったわね。静かに逝去する前に、私に会えたのだもの」
妖は人々の記憶から完全に忘れさられること。
これが人間の死という概念に相当する。
悪守というのは、本来活気を失った寺院に住み着くものだ。
しかし、稀に例外というのもある。
人を喰うなりして、坊主に鎮められ、界の中に閉じ込められる。
それが何時しか土地神と崇められ、何時しか寂れ、悪守となる。
これが、この悪守のあらましである。
「――そうかも知れぬな」
悪守は再び言の葉に笑みを混ぜる。
だが、それは今迄のものとは意味が違う。
それは、少女への嘲笑に対し、愉悦が勝ったことを意味していた。
「⋯⋯蚕と一緒ね。人の手が入ると、『元の世界』には戻れない――故に、一人では生きていけない」
それを淡々と述べる紅葉自身も、いつの間にか顔が緩んでいた。
まるで夏の氷屋の如く、緩まずにはいられなかったのだ。
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