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≪ 弘徽殿 ≫
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「ああ長官、ちょうどいいところに」と頭中将に声を掛けられた篁は、いかにも怪しげに干し栗をじっと見た。
「それは?」
「干し栗を差し上げようとしたのですが、なにやら疑われているようで。長官おひとつどうですか? 私が食べるよりあなたが食べれば姫も安心できるでしょう」
篁の眉間の皺が深くなり、喉仏がゆっくりと上下する。
そしてゆっくりと手をあげて器の中に……。
(――あっ)
翠子は慌てて篁より先に栗を摘まんだ。
一瞬の感覚に安堵して、そのまま口に入れもぐもぐと食べる。
「うん、おいしいです」
「あ……。ひ、姫っ」
あんぐりと口を開けた篁は翠子と干し栗を交互に見つめて頭を抱えるが、翠子はホッとしていた。毒は入っていないが入っていたとしても篁は食べてしまっただろう。
でも翠子には自信があった。毒はない。
たとえ一粒だろうと毒があれば伝わってくる。だが栗を摘まんだとき、感じたのは穏やかな温もりだけだった。
ごくりと飲み込んで頭を下げる。
「せっかくなので頂きますね。ありがとうございます」
対して目を丸くした頭中将は、はっとしたように破顔した。
「あ、はい。どうぞどうぞ」
差し出された竹の器を受け取り、翠子はすたすたと歩き始めた。
真新しい竹を切っただけの器も何も感じない。弟の頭中将が姉の女御に好意で持ってきた手土産なのだろう。
「では、また」と頭中将が声を掛けてきたが気にせず振り返らなかった。
毒はなくても、彼が信用できないのは変わらない。
「姫さま!」
慌てて後を追ってきた篁が、翠子を覗き込む。
「大丈夫なのですか? 栗にもし……」
毒とは言いづらいのだろう。もごもごと口ごもる篁に翠子は弓なりに細めた目を向ける。
「大丈夫ですよ。触った瞬間、なにもなかったので食べました」
「いけません。何も感じずに人を殺める人間だっているのですから」
はじめて見る篁の真剣な瞳に、翠子は足をとめた。
えっ?
「そういえば、そうですね」
考えてもなかったが、あるいは――。
「こら! なに脅かしているのよ!」
朱依が、バシバシと篁を叩く。
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「朱依、いいのよ。心配してくれたんだもの。ありがとうございます」
「大体あなたは遅いのよ! とにかく、ひどいんだからあの人たち」
再び歩き出した翠子の後ろで、朱依が弘徽殿で起きた一部始終を篁に報告しはじめた。
「まるで姫さまが弘徽殿の女御が犯人だって言いふらしているみたいな言い方で! 扇で姫さまを叩いたのよっ」
「なんだって!」
(あの扇……)
殴りかかってきた女房の扇の絵。紅葉の絵の中に蝶がいた。
色づく紅葉と蝶。あまり見かけない組み合わせだと思うけれど、どうだろう。流行はわからないので後で朱依に聞いてみようと思う。
蝶の絵が、なんとなく気になるなと思いながら、翠子は竹の器から干し栗をひとつ摘まみ出す。
ぱくりと頬張ると、ねっとりとした甘さが口いっぱいに広がってくる。
干し栗に罪はない。ただ甘くておいしいだけだ。
もしこの栗に毒が入っていたら……。
『何も感じずに人を殺める人間だっているのですから』
篁が言う通りかもしれないなと思う。
鬼のような氷の心を持った人間だっているだろう。もしそうだとして毒を食らって倒れたとしても。それはそれでいい。むしろ感じ取れなかった事実に、私はほっとする。
でも――。
『姫と煌仁はよく似ている。忘れるなよ? 自分を大切にできなければ人を幸せにはできぬ』
ふいに唯泉に言われた言葉が脳裏をよぎった。
篁の目は本気だった。朱依と同じくらいの熱量で心配してくれている。
もし目の前で倒れてしまったら、朱依も篁も自身を責めて悲しむだろう。邸で待つ皆も、もしかしたら煌仁も悲しんでくれるかもしれない。
それでは申し訳ないと思った。
じんわりと温かくなる胸がなにかを教えようとしている。
自分の命だけれど、自分ひとりの命じゃないのかもしれないと。翠子ははじめてそんなことを考えた。
「それは?」
「干し栗を差し上げようとしたのですが、なにやら疑われているようで。長官おひとつどうですか? 私が食べるよりあなたが食べれば姫も安心できるでしょう」
篁の眉間の皺が深くなり、喉仏がゆっくりと上下する。
そしてゆっくりと手をあげて器の中に……。
(――あっ)
翠子は慌てて篁より先に栗を摘まんだ。
一瞬の感覚に安堵して、そのまま口に入れもぐもぐと食べる。
「うん、おいしいです」
「あ……。ひ、姫っ」
あんぐりと口を開けた篁は翠子と干し栗を交互に見つめて頭を抱えるが、翠子はホッとしていた。毒は入っていないが入っていたとしても篁は食べてしまっただろう。
でも翠子には自信があった。毒はない。
たとえ一粒だろうと毒があれば伝わってくる。だが栗を摘まんだとき、感じたのは穏やかな温もりだけだった。
ごくりと飲み込んで頭を下げる。
「せっかくなので頂きますね。ありがとうございます」
対して目を丸くした頭中将は、はっとしたように破顔した。
「あ、はい。どうぞどうぞ」
差し出された竹の器を受け取り、翠子はすたすたと歩き始めた。
真新しい竹を切っただけの器も何も感じない。弟の頭中将が姉の女御に好意で持ってきた手土産なのだろう。
「では、また」と頭中将が声を掛けてきたが気にせず振り返らなかった。
毒はなくても、彼が信用できないのは変わらない。
「姫さま!」
慌てて後を追ってきた篁が、翠子を覗き込む。
「大丈夫なのですか? 栗にもし……」
毒とは言いづらいのだろう。もごもごと口ごもる篁に翠子は弓なりに細めた目を向ける。
「大丈夫ですよ。触った瞬間、なにもなかったので食べました」
「いけません。何も感じずに人を殺める人間だっているのですから」
はじめて見る篁の真剣な瞳に、翠子は足をとめた。
えっ?
「そういえば、そうですね」
考えてもなかったが、あるいは――。
「こら! なに脅かしているのよ!」
朱依が、バシバシと篁を叩く。
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「朱依、いいのよ。心配してくれたんだもの。ありがとうございます」
「大体あなたは遅いのよ! とにかく、ひどいんだからあの人たち」
再び歩き出した翠子の後ろで、朱依が弘徽殿で起きた一部始終を篁に報告しはじめた。
「まるで姫さまが弘徽殿の女御が犯人だって言いふらしているみたいな言い方で! 扇で姫さまを叩いたのよっ」
「なんだって!」
(あの扇……)
殴りかかってきた女房の扇の絵。紅葉の絵の中に蝶がいた。
色づく紅葉と蝶。あまり見かけない組み合わせだと思うけれど、どうだろう。流行はわからないので後で朱依に聞いてみようと思う。
蝶の絵が、なんとなく気になるなと思いながら、翠子は竹の器から干し栗をひとつ摘まみ出す。
ぱくりと頬張ると、ねっとりとした甘さが口いっぱいに広がってくる。
干し栗に罪はない。ただ甘くておいしいだけだ。
もしこの栗に毒が入っていたら……。
『何も感じずに人を殺める人間だっているのですから』
篁が言う通りかもしれないなと思う。
鬼のような氷の心を持った人間だっているだろう。もしそうだとして毒を食らって倒れたとしても。それはそれでいい。むしろ感じ取れなかった事実に、私はほっとする。
でも――。
『姫と煌仁はよく似ている。忘れるなよ? 自分を大切にできなければ人を幸せにはできぬ』
ふいに唯泉に言われた言葉が脳裏をよぎった。
篁の目は本気だった。朱依と同じくらいの熱量で心配してくれている。
もし目の前で倒れてしまったら、朱依も篁も自身を責めて悲しむだろう。邸で待つ皆も、もしかしたら煌仁も悲しんでくれるかもしれない。
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じんわりと温かくなる胸がなにかを教えようとしている。
自分の命だけれど、自分ひとりの命じゃないのかもしれないと。翠子ははじめてそんなことを考えた。
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