彼女は最期に愛を知る

始動甘言

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星は煌々と舞台を照らす

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 遠くで何かが当たるような音がした。彼の顔から血の気が引くのが見えた。そして彼は顔を上げる。
 何が起きたのか私には分からなかった。でも身体の、腰当たりの部分がジンワリと温かくなってくる。
 (ああ)
 私はそこで気付いた、はずだと。足が震え始めた。おなかの底から何かがゆっくりと昇ってくる。多分もうすぐ立てなくなるだろう。
 私は彼の首の後ろを両手で抱き寄せる。なぜかは分からない。私の小さな体では彼を守ることは出来ない。だからせめて顔だけは守ろうと思った。


              ダンッ!ダンッダンッ!!


 背中を誰かに強く押される感覚がして、
 「げほッぉ・・・・・・・・」
 口から熱いものが込み上げて、吐いた。フラリと身体が傾いて、腕から力が抜けていくのを感じる。そのまま私は横向きに倒れた。冷たい地面が気持ちよくて、すごい眠気と寒気が襲い掛かる。
 「どうして」
 彼の声が遠くから聞こえる。さっきまで目と鼻の先にいたのに。
 「助けた」
 彼が私の身体を起こす。持ち上げられて、さらに身体が重くなった。眠気が深夜上がりぐらい酷い。身体も雨に濡れて凍えるぐらいまで冷えてきた。それでも私は彼の質問に答える為にが溢れる口から言葉を取り出す。
 「だって」
 目だけは彼を視界に入れている。星が彼と私を照らしている。まるで劇の上の主人公とヒロインみたいで、ちょっとだけおかしかった。どんくさい私とかなり背の高い彼、本物の舞台だったらあまりの凸凹さに喜劇と勘違いされそう。でも、彼を、私の彼を、笑わせたりはしない。
 「あ、あ、あ」
 口から噴水みたいにせりあがってくるものを止めたい。これが無ければもっと、ちゃんと、ハッキリ、彼に伝えられるのに。ああ、もう。耳も遠くなってきた。彼が口を動かしている。何を言っているのかさえ、分からない。
 でも、伝えなきゃ。これだけは、伝えなきゃ。
 コンクリで固められたみたいに重くなった腕に力を込めて、私は彼を寄せる。




 「―――――――――――――――――――――――――――あいしてる、から」




 その時だけは星が私たちを祝福してくれた。いつも暗い夜空にほんの少し輝いているだけのはずなのに、彼の冷たくてパサついていてほんのり鉄の味がした唇を重ねた時、周りにあるビルの光すらも跳ねのけるような強い光で私たちを照らしてくれた。
 (それが出来たなら、毎日、そうしてよ)
 腕が今度こそ固まって、彼の唇から離れた時、世界は少しだけ私に時間をくれた。
 蘇るのは嫌な思い出ばっかり。思い出したくもないのに、全部私が悪いみたいに見せられる。
 (マキちゃん)
 嫌な思い出の後にマキちゃんの顔ばっかりが出てきた。もし、彼と出会わなかったらマキちゃんと一緒にずっといれたのかな?マキちゃんは私が言えばどこまでも一緒にいてくれたかな?あの店長なら、許してくれたかもしれない。一緒に家でも持って、昔みたいに色々話して、最後はまあ、星でも見ながら眠る。
 (でも)
 私は彼を選んだ。彼はマキちゃんみたいに話を聞いてくればければ私の話に対してうんともすんとも言わない。マキちゃんからすればヒドイ奴と言われてしまうかもしれない。
 (ああ)
 私も初めはそう思った。ヒドイ人だ、これが私の運命の人だったらヒドイなーって。でも、でもね、マキちゃん。彼、手は正直なの。美術館でスゴイ大きい絵を見た時に両手をゆっくり合わせて拍手しようとしてたし、水族館でドクターフィッシュが集まってきた時は思わず手を引いていたの。それでね、私が勇気をもって手を差し出すとね・・・・・・・
 周りが白くなっていく中、彼の口がゆっくり動いているのが見えた。耳もほとんど聞こえないのに、彼が言った言葉だけは聞き逃さなかった。


 「―――――」


 「――――――――ああ」
 満天の星が輝く汚い空の下、私は最期に彼の愛を知った。
















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――













 「なんだこれは」
 日課のランニングを終えて、これから家に戻ろうとした帰路。途中にある光景が視界に入って絶句した。
 目の前に女性が血の池を作って倒れている。背中に開いた穴が複数あり、もはや助かりようもない。本当ならそれで通報するのだが、元公安の人間にとってある程度死体なら手慣れている。だが、問題は彼女ではない。
 「なんだこれは」
 大事なことではない、一大事なことが起きている。公園の入り口から小さな血の道が流れてきている。確実に猟奇的な事件が行われた後だと察する。そして血が流れているのを見るにその犯行は今現在も行われていると仮定出来た。私は恐る恐る近付いて、公園の中を覗く。
 そこには黒い線のように高い背をした男が立っていた。周りにはいくつものといくつかのサバイバル装備、そして男を中心に血の海が広がっていた。
 「・・・・・・・・・」
 私はその光景を見て、犯人を確証した。しかし、何も分からなかった。第一臭いがしないのだ。死体の臭いがまるでせず、血の臭いすらもしない。この光景に目を瞑れば深呼吸だって出来る、いや流石にそれはキツイか。
 脳がマヒしている訳ではない。こういう場合はひどく緊張するのだが、自分の身体は一切震えを起こしていない。むしろ落ち着いている。いい休暇を過ごしていたからかもしれない。
 「・・・・・・・・・」
 私は近くにあった拳銃を拾う。血に濡れてはいたものの、安全装置は問題なく外れた。引いた感じで弾が入っている重さもする。
 「動くな」
 ある程度近付いて、射程距離、というにはあまりにも近い、所まで来た私はそこで彼女に気が付いた。こんな血の海にありながらも返り血に濡れず、ただ幸せそうな顔を浮かべて穏やかに眠っている。けれど彼女の服から滲んだ血はもうすでに固まり始めていた。
 「・・・・・・・・・・・・・・」
 男は動かない。いや、動こうとしない。視線の先にあったのは彼女だった。
 (・・・・・・・・・・・・・・)
 私は残った証拠で状況を整理する。この男がどうしてこのようになったまでは分からないが、動機は掴めた。同情ぐらいは出来る、私も人の子だ。愛するものを殺され、激情に任せて襲ってきたものを返り討ちにしたのだろう。
 「・・・・・・・・・・・・・・」
 手汗と血がいい具合にグリップを濡らす。震えれば落としてしまうぐらいには丁度いい具合だ。こういう経験はある、立てこもり事件に何度も出くわした記憶が脳裏を過ぎる。犯人が人質に銃を突き付けてトリガーに指を置いている、あの時の心境。一手間違えたら死に傾く天秤の上、私自身が考えられる最高の例がそれだ。これがそれだ、もう後戻りは出来ない。
 「・・・・・・・・・・った」
 「?」
 男が言葉を漏らす。あまりにも小さくて聞き取れなかった。
 「・・・・・・どうすればよかった」
 「!」
 男の声が聞き取れるぐらいまで大きくなった。全身に思い出したかのような緊張が走る。天秤が釣り合った音、その幻聴が耳の奥から聞こえてくる。
 「そうすれば、彼女を助けられたのか」
 「―――――――――」
 後悔の声。目の前の男は血の海よりも彼女の死に動揺していた。これはマズい、実にマズい。天秤が意地悪そうな音を立てる。言葉の選択肢が大きく絞られた。
 「僕は、僕は、どうすれば・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・」
 考えろ、考えろ。私はもう秤だ、動いてしまえば彼も動く。呼吸も乱すな、心臓と脳だけを早送りさせろ!それで解決策を思いつくんだ!
 心臓が早送りするに合わせて音を高める。情報はなんだ、ここで彼を慰めればいいのか?それともこの状況を叱責すればいいのか?いや、どちらも正解だが違う、不正解だ。諭す?違う、キレイごとは使えない。悟らせる?何をだ、彼女のような犠牲を出さない為に?馬鹿馬鹿しい、ふざけるのも大概にしろ。
 空気の中に血の臭いを感じ始めて、ようやく私が緊急時の仕事モードに入っていたことに気が付く。それぐらい脳が無意識に外部の情報をシャットアウトしていたのだ。
 (今、周りを見たら、もっと鮮明に、映るだろう)
 そうなれば私は大声でこの場から走り去るだろう。そしてこの海の中に沈む。言葉を先に並べて、息を吐く。想像すれば恐怖の波にのまれて竦んでしまう、詰んでしまう。
 (選ぶんだ、慎重に、堂々と、言葉を、選ぶんだ)
 「ふぅー・・・・・・・・」
 私はうずくまる男に向かって言葉を投げる。
 「命には、責任がある」
 「・・・・・・・・・」
 男は黙っている。
 「責任を果たすのは、正者の権利だ」
 「・・・・・・・・・」
 男は黙っている。
 「道は権利を使ったものだけに現れる、それが弔いになる」
 「・・・・・・・・・・・そうか」
 男は立ち上がった。天秤が動くのを感じる。男は彼女の身体を長い手で拾う。
 (天よ・・・・・!!)
 目は瞑らない。私の命の秤は私だけの責任だ。ここで血の海に伏そうとも逃げ出してはいけないのだ。
 「・・・・・・・・・」
 男はスッと私の隣を通り過ぎる。その際に、小さく、ありがとう、と聞こえた気がした。
 バサァッと大きく開く音が後ろからして、男の気配が消える。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 私は今まで石像として生きてきたと錯覚するほどに身体が鉛のように重くなっていた。呼吸こそ安定して出来るものの、手から銃を離すという簡単な行為すら出来ない。ギチギチギチギチと重く、鈍く、固まっていた。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 首は何とか動くようになった頃、ポツリと降ってきた。いつの間にか空に雲がかかっていたのだろう。ポツリ、ポツリと赤黒くなった地面に一滴ずつ落ちていく。
 「――――――――――ああ」
 思い出すのは私が最初で最後に担当した立てこもり事件。
 「命には責任がある、どの口が言ってるんだ」
 雨が本降りになってきた。それは私の石のように重くなった身体を動かせるようにしてくれた。目を閉じれば思い出す。腕の中ではじけ飛び、犯人の顔を濡らし、今も私の足にある色。
 後ろを振り向き、もういない彼の姿を探す。おそらく光るビルの間に行ったのだろう。
 「帰ろう、私には帰る場所がある」
 銃を放り投げ、私は何事もなかったかのように帰路に着いた。幸い、誰にも出会うことはなかった。
 
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