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終節 鳴動、闇にて響く11

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 木々も草木も湧く泉さえ枯れ果てた箱庭には、混沌の闇の空と、轟く雷鳴と、そして、困惑してその肩を震わす美しき女妖の姿があった。

『ラグナ・・・・此処は?』

 美しき女妖レイノーラは、闇からの風に見事な赤毛の髪を揺らしながら、当惑する茶色の瞳で、魔王と呼ばれる青年ゼラキエルの冷酷な無表情を仰いだのだった。
 本来なら、暗黒の闇に閉ざされ風すら吹かぬはずのこの城に、激しい風が吹き抜けている。
 幻の城には住み慣れていたはずなのに、まさか、この城にこのような場所があろうとは・・・・

 闇から吹き付ける激しい風の中、ゼラキエルの深き藍色の髪が棚引くように揺れていた。
 黒衣の裾が激しく翻り、冷たい光を宿す美しくも禍々しい緑玉の瞳が、その心根すら現す気配無く、真っ直ぐにレイノーラの美麗な顔を見つめ据えている。

『その体に自ら傷を付けたのか?レイノーラ?』

 どこに真意があるのかすら解らぬ、低く冷静な声でそう言って、ゼラキエルの禍々しくも美しい緑玉の瞳が、彼女の白い素肌に生々しく残る爪痕に向けられた。
 悔しそうに蛾美な眉を寄せ、レイノーラは、鋭い口調で言い放つのである。

『付けましたとも!貴方は、何故それほどまでにこの姿にこだわるのです!?
私には、不便ですらない忌々しいこの体・・・・私の力を封じてまで、この女にこだわる貴方の心がわかりませんわ!
このまま、この体を引き裂いてやろうと思いましたのよ・・・・!』

 そんな彼女の激しい言いように、何ゆえか魔王は、実に愉快そうにその凛々しい唇の角を歪めたのだった。
 美麗な顔を、実に攻撃的で険しい表情に満たしたレイノーラの綺麗な頬に、見事な赤毛の髪が揺れながら張り付いている。
 白い素肌に残る傷から紅の鮮血が滴り落ち、綺麗な胸元を鮮やかに彩っていた。

『つまらぬ感情に流されおって・・・・ラレンシェイを完全に取り込まぬ限り、そなたは、人のままか・・・・』
『ラグナ!貴方とて、まだ人でありましょうに!?だから、この女にこだわるのでしょう!?
いけ好かぬと思ったら・・・そう、この女は、あの妖精の女に似ている!
だから、この女を私の憑に選んだのでしょう!?
貴方とて、魔王と呼ばれながら、結局は人である事を捨てられぬのですわ!!』

 感情の赴くままにそう叫んだレイノーラの首に、不意に、ゼラキエルの右手が巻きついた。

『!?』

 その黒き爪が、なだらかなうなじに食い込んで、息を詰める程に彼女の首を締め上げる。
 レイノーラは、驚愕して大きくその茶色の瞳を見開いた。

『あ・・・っ!?ラ、ラグ・・・ナ・・・!』

『少し言葉が過ぎるぞ、レイノーラ・・・・』

 美麗な顔が、背筋も凍る程の戦慄に慄いて不自然に歪む。
 そんな彼女を見つめる、冷酷で残酷で、そして禍々しい程に美しい緑玉の瞳が、何ゆえか、冷たく笑っていた。
 レイノーラが、その恐怖に妖艶な唇を震わせた時、しなやかな首を締め上げていた彼の手が緩み、代わりに、黒衣を纏う大きな両腕が、強引に彼女の腰を抱き寄せたのである。

 ふわりと深き藍色の髪が白い首筋を撫で、降るように落ちてきた冷たい唇が、滑らかな丘陵を描く綺麗な胸に刻まれた、鋭い爪痕に触れたのだった。

『これはそなたの憑・・・・【息吹(アビ・リクォト)】が欲しければ、自ら行くがよい、この身をどうしようと・・・・そなたの勝手だ』

 耳の奥に、ひどく甘美に共鳴する低い声に、レイノーラは、そのしなやかな背をぴくりと震わせた。
とたん、あの異国の女剣士が憤怒の装いを呈して、美しき女妖の中で猛然と抵抗し始める。

~ やめろ!!私に触れるな!!触れるな―――――っ!!

 しかし、そんな彼女を無理矢理押さえ付けながら、レイノーラは、綺麗な頬を僅かに上気させ、しなやかにその身を反らせると、魔王と呼ばれる青年の腕にそのまま体を委ねたのだった。

 『黙りなさい、無粋な女め・・・・・・』

 呟くようにそう言った彼女の白い素肌から流れ落ちる鮮血が、魔王と呼ばれる青年の唇を濡らしていく。
 その冷たい舌先が鋭い爪痕を滑り、レイノーラは、再び、ぴくりとその身を震わせたのだった。

 『・・・・ラグナ・・・・誤魔化すのが上手い人・・・・貴方が誰を思っていようと、もう、そのようなこと・・・
どうでもいい・・・・』

 細く引き締まった腰を抱く長い指先が、しなやかな背筋を辿って見事な赤毛の髪に掛かる。
 艶やかな髪束が零れ落ちる綺麗な頬が、甘美なその感覚に高揚し、ほのかに赤く染まっていく。
 なだらかな肩から滑り落ちた深き青のドレスの衿が肘の辺りで止まり、闇からの風にゆらゆらと漂うように揺らめいていた。

 伏せがちになる長い睫毛の合間に、今も昔も変わらぬ、その深き藍色の髪が跳ねているのが見える。
 白く滑らかな素肌を、這うように辿る冷たい唇と舌先。
 黒衣を纏う広い肩に両手を伸ばして、レイノーラは、端正で凛々しい彼の顔をそのに抱いた。

 綺麗な額に刻まれた紫色の炎の烙印。
 風に跳ねる赤い前髪の下、不意に、その炎の紋章がカッと眩く煌いたのである。
 大きく見開かれた茶色の瞳に、一瞬だけ、憑たる異国の女剣士の強い表情が戻ってくる。
 その眼差しが闇に曇る虚空を仰ぎ、妖艶な唇がまるで悲鳴のような叫びを上げたのだった。

「風が吹いているなら・・・・おぬしには届くはずだ!!
何をのんびりしているのだ!!早く来い!!
蒼き狼(ロータス)の者よ!!
スターレット――――――――っ!!」

 差し伸ばされた大きな掌かラレンシェイの綺麗な額にかかり、黒き炎を上げた炎の紋章が、一度、どくんと脈打った。
 それに弾かれるように見事な赤い髪が闇の虚空に乱舞して、見開かれた茶色の瞳が、再び、レイノーラの表情へと戻っていく。
 性悪に歪んだ美麗なその顔が、どこか冷めた光を宿す魔王の鮮やかな眼差しを嬉々として顧みる。

『今度は、封じずにいてくれましたのね?嬉しい・・・・ねぇ?ラグナ?
やはり【息吹】は、私が貰い受けますわ・・・・その時は、私が、あのロータスの者の首を取りましょう』

『好きにするがいい・・・・』

 長い指先が白い素肌を辿る。
 その甘美な感覚にその身を委ねて、女妖の妖艶な唇がニヤリと邪に笑った。

 このままでは、この性根の悪い魔物に本当に取り込まれてしまう!
 早く来い!ロータスの者よ!!
 スターレット!!

 女妖レイノーラの中で、必死に抗う異国の女剣士の意識は、邪で禍々しい魔性のに押し潰されるかのように、深き眠りの縁へと流されていった・・・

 暗黒の闇が支配するの朽ち果てた箱庭に、揺らめくような二つの影が揺れ、深き漆黒の色に閉ざされた天空には、虚空を引き裂く紫の雷が走っていた。

 時は、あと少しで訪れる。

 漆黒の闇が起こす鳴動の彼方にあるものが、全てを焼き尽くす地獄の業火であるのか、それとも、高く青く晴れ渡る美しい空であるのか、誰一人として、知る者はない・・・・



   

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