上 下
7 / 43

第一節 開戦の調べ6

しおりを挟む
 紅蓮の爆炎が結界の一部を覆い尽くし、その透明な盾を激しく軋ませる。

 燃え盛る深紅の焔が紺碧色の空を焦がし、まるで落日の太陽の如き茜色の閃光が、降りしきる雨の如く辺りに迸る。
 点々と落ち行く火炎の球体が、大地の草を焦がしながら、強固な結界を打ち砕かんと灼熱の波動を巻き起こす。

 しかし・・・・

 その次の瞬間、鈍く発光した銀色の結界は、ゆらゆらと揺れながら拡張し、触手のように伸びた光の帯が、巨大な竜の体を一瞬にして飲み込んでしまったのである。

 目も眩むほどの激しい光が渦を巻き、あれほどまでに猛けていた炎竜が、ほんの僅かな間に無数の火蜥蜴に変化して、そのまま、弾かれるように地面の中へと吸い込まれて行った。

 それは、クスティリン族の守りの術が、ジェスターの放った術を打ち消した明白な証拠である。
 だが、さして驚いた様子もなく、ジェスターは、その凛々しい唇で、何ゆえか実に不敵に微笑するのである。
 金色の大剣の鋭利な切っ先を静かに地面に下ろしながら、彼は、ひどく愉快そうな顔つきをして、ふと、意図して低めた声で呟くのだった。

「なるほど、クスティリンの結界は、炎の剣(ケルヴ)すら打ち消すのか・・・・・・・
本当に、おまえは非の打ち所の無い佳い女だ・・・マイレイ」

 すらりとした長身が纏う鮮やかな朱の衣が、流れるように虚空に揺らぐ。
 鋭く細められたままの鮮やかで美しいその緑玉の瞳。
 天空から降り注ぐ太陽の断片に反射して、利き手に握られた金色の大剣が、閃光の如き鋭い輝きを放った。

 ジェスターは、ゆっくりとした歩調で、張り巡らされた銀色の結界に向けてその足を踏み出していく。
 どうやら、ロータスの大魔法使いの言葉通り、此処は荒業に出るしかなさそうだ・・・・

 冷酷で凶悪な光を宿して爛々と輝く、鮮やかで美しい緑玉の瞳。
 若獅子の鬣の如き見事な栗色の髪が、吹き付ける海風に乱舞する。
 そのしなやかで柔軟な肢体に絡み付いたままの紅蓮の爆炎。

 生き残った僅かな兵士達が、魔物以上に魔物じみたジェスターの姿に、殊更激しく戦慄して、がちがちと歯を鳴らしながら地面の上に座り込んだ。

『炎の・・・・・魔物だ・・・・・・・・』

 うめくようにそう呟かれた異国の言葉は、その傍らを行き過ぎようとしたジェスターの鋭敏な聴覚にも届いていた。
 凛々しい唇の隅で不敵に笑うと、彼は、静かに足を止め、禍々しいほど美しく輝く緑玉の瞳で、名も知らぬ異国の兵をゆっくりと顧みたのである。
 言い知れぬ威圧感を醸し出す、その鋭利な視線に捕らえられた兵士は、沸きあがる戦慄に身を強張らせた。
 意図して低められたジェスターの声が、流暢なサングダ―ル語で静かに言う。

『帰ってデルファノ二世に伝えろ・・・・・「おまえの行き先は、地獄だ」・・・・とな』

『・・・・ぎゃ、ぎゃぁぁぁぁ―――――っ!!』

 とたん、弾かれたようにその場で立ち上がると、まるで化け物にでも出会ったかのような悲鳴を上げて、敵国の兵士達は、地面につまづきながらも、命からがら一目散に、国王の天幕に向けて走り出したのである。
 そんな間抜けな後姿を、実に底意地の悪い表情で見送りながら、ジェスターは、再び不敵に微笑したのだった。
 揺れる見事な栗色の髪の下で、爛々と煌く鮮やかな緑玉の両眼が、再度、張り巡らされた強固な結界へと向けられる。
 
 ゆっくりと歩み出すその視界の中で、優美な銀色の髪を揺らした美しい女魔法使いの姿が、次第に大きくなっていく。
 
 紅蓮の焔がざわめくように揺れ、虚空にたゆたう見事な栗色を煌くような朱色に染め上げている。
 利き手に握った金色の大剣が、洗練された物腰で静かに構え直された。
 地面を踏みしめるその足が、今、緩やかに緑の丘を登り始めていた。
 キラキラと輝く銀色の結界の中で、クスティリン族の美麗な女魔法使いが、その妖艶な唇で艶やかに微笑している。

 優美に揺れる銀糸の髪と、真っ直ぐにこちらを見つめている、澄み渡る銀水晶の如き綺麗な瞳。

 その微笑は、あの時・・・・
 虚空を舞う白い花弁のよう雪の中で出会った、あの時のまま・・・・

 結界ごしに絡み合う視線の先で、クスティリン族の術者の長、マイレイ・カーラ・デルーソフは、実に穏やかな声色で彼の名を呼ぶのだった「ジェスター・・・・」と・・・・

 燃え盛る炎の如き鮮やかな緑玉の瞳が、どこか愉快そうに細められる。

「久しいな・・・・マイレイ・・・・」

「そなたが、この私を覚えていてくれて・・・・よかった・・・・」

 しなやかで細い手首に、銅の手械を填められた姿のまま、マイレイは、美麗で秀麗な顔を嬉々としてほころばせた。

 その白い頬に、特殊な緑銀の塗料で描かれた竜の羽のモチーフ。
 たゆたうように揺れる優美な銀糸の髪が、小柄な肩で音も無く跳ね上がる。
 そんな彼女の傍らに立つ少女ディーテルが、ジェスターに向かって恭しく頭を垂れた。

 凛々しい唇で、小さく鋭く微笑すると、ジェスターは、妖剣と呼ばれる金色の大剣をゆっくりと前に構え、実に落ち着いた口調でマイレイに言うのだった。

「この結界を解けと言っても、今のおまえは、解く訳には行かないのだろうな・・・?」

「私が自らこの術を解けば、船上の弟子達が皆海に投げ落とされてしまうのだ・・・もちろん、誰かにこの術を打ち破られてもな・・・・」

 蛾美な眉を小さく眉間に寄せ、マイレイは、どこか苦々しくそう答えて言った。

「・・・・・相変わらず、サングダ―ルの王はやることが姑息だ・・・・」

 実に不愉快そうに端正な顔を歪めながら、ジェスターは、ふと、海風の渡る天空を仰いだのである。
 そして、虚空を渡る風の精霊に向かって言うのだった。

『ロータスの大魔法使いに伝えろ、この結界が解けたら、愚かな王はマイレイの弟子達を海に投げ落とす、その前に、その者たちを救え・・・・と』

 その声に呼応するように、甲高い風の音が周囲に響き渡った。
しおりを挟む

処理中です...