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第四節 息吹(アビ・リクォト)5

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 波打つように大地に広がる波紋が、青い花びらのような光を虚空に乱舞させながら、悲壮な顔ですすり泣く嘆きの精霊を次々と飲み込んでいった。
 清らかな水音を立て、波のように宙に立ち上がった青き輝きは、一度激しく発光すると、ひしめきうごめく嘆きの精霊ごと、まるで海原の波が寄せてかえすように、そのまま、地面の中へと消えて行ったのである。

 それは、正に一瞬の出来事であった。

 あれ程まで、嘆き悲しみ悲壮な顔をしてその地を覆い尽くしていた嘆きの精霊が、忽然とその姿を消し、すすり泣きすら聞こえなくなった。
 白い闇に覆われた空間から、やがて、天空からの太陽の輝きが差し込んでくる。

 それを見計らうように、シルバは、見事な竜の彫り物が施されたジェン・ドラグナの柄を握り直し、その白銀の刃を前で構え直すと、何を思ったか、突然、己の身を守っていた銀色の結界を解いたのだった。

 結界を解くということが、即、死に直結するだろうことは、彼自身が一番良く知っているはずだ。

 その光景を目の当たりにしたレダが、驚愕して鮮やかな紅の両眼を大きく見開いた。
 藍に輝く艶やかな黒髪を揺らしながら、彼女は、思わず、彼に向かって鋭い叫びを上げたのである。

「何を考えている!?死ぬつもりか!!?」

 彼女の視界の中で、彼の長い黒髪と純白のマントが吹き付ける風に翻る。
 精悍で端正な顔を鋭い表情で満たし、シルバの爪先がレダの手によって鎮められた清らかなる大地を蹴った。
 その眼前には、滅破の光を掌に満たした竜である青年の優美な姿がある。

 白銀の刃が閃光の帯を引いて空を薙ぎ、鋭利で美しい切っ先がアノストラールの胸元を狙い迅速で翻った。

 空を二分する鋭い音が虚空にこだまし、一瞬、見開かれたアノストラールの黒い瞳に、竜の体とて貫くだろう白銀の刃が映り込む。
 閃く刃を退くように僅か後方に瞬間移動した彼の眼前に、今度は、とっさに差し伸ばされたシルバの左手が迫った。

 その指先が彼の襟元を掴み上げ、凄い力で彼の体を手前に引き寄せると、鋭利な剣の切っ先がアノストラールの鼻先ぎりぎりに突きつけられる。

 そんなシルバに向かって、アノストラールが、掌に浮かんだ滅破の光球を今正に放たんとした。

 咄嗟にレダは、アノストラールの掌に向け素早く矢先を合わせると、険しくもどこか複雑な顔つきをしながら、ぎりりと弓弦を引き絞る。

 刹那、端正な顔を厳(いかめ)しい表情で満たしたシルバが、澄んだ紫色の右目を細めながら、同朋たる者の名を呼んだのだった。

『アノストラール!いつまで耳を塞いでいる!?
おまえ!天敵が怖くて正気に戻れなかったなどと抜かしたら、本気で斬るぞ!!』

 その緊迫した空気にそぐわぬ奇妙な彼の物言いに、レダは、一瞬、何が起こったか解ずに、どこか戸惑ったような表情をしながら、思わず、構えていた弓を下ろしてしまった。

 だが、どういうことだろう・・・アノストラールの掌からみるみるあの銀色の光が消え失せていく。

 カルダタスの峰から吹き付ける冷たい風に、長く優美な銀の髪が棚引いた時、あれほどの激しさに歪んでいた彼の美貌の顔が、何故か、拍子抜けするほどくったくなく笑ったのである。

『・・・・・シルバ?これは何の真似だ・・・・?
我が父王の角で突き貫かれたら、私とてただでは済むまいな?』

『・・・・・・・・』

 実にのんびりとしたアノストラールのその言いように、シルバは、厳(いかめ)しかった表情をどこか呆れたような表情に変え、純白のマントを羽織る広い肩をすくめたのだった。
 大きく息を吐きながら、ゆっくりと白銀の剣を下ろし、突き飛ばすようにアノストラールの衿元から手を離すと、僅かばかり怒ったような顔つきをして、シルバは、地中に眠る紫水晶のような右眼で彼の美貌の顔を睨みつけたのだった。

『おまえ・・・・まさか、本当に、耳を塞いでたんじゃなかろうな?』

『何を言う、そのような事・・・あるはずなかろう?』

『だったら何故、嘆きの精霊が居なくなったとたんに正気に戻った?』

『・・・・ただの偶然だ、疑り深い男だな、おぬし?』

 何やら、はぐらかすようにそう言った竜である青年の黒い瞳が、ふと、先程から、後方で、実に訳が解ないと言った表情をしているレダの美しい顔を見たのである。
 綺麗な額に刻まれた、青い華の紋章。

 アノストラールは、ハッと肩を揺らすと、ゆっくりとした歩調で、呆然としているレダの元へと足音も立てずに歩み寄ったのだった。

 先程まで、仇である魔法剣士と鬼気迫る攻防を繰り広げていた、竜である青年の優美な銀色の長い髪が、吹き付ける風に揺れている。

『そなた、青珠(せいじゅ)の守り手だな?随分と驚かせてしまったようだな?許せ』

 そう言った彼の美貌の顔立ちをまじまじと見やりながら、レダは、未だに事の顛末を理解できぬ様子で、蛾美な眉を眉間に寄せ、その綺麗な裸唇をゆっくりと開くのだった。

『一体・・・何が・・・・?』

『何のことはない、体が目覚めても、頭が目覚めなかっただけの話だ・・・・
流石に、この私も随分と苦戦した故(ゆえ)・・・危うく力を使いきってしまうところであった』

 類まれな美貌にそぐわぬ実に人懐こい笑顔で、アノストラールがそうレダに言う。
 しかし、その背中に、訝(いぶか)しそうなシルバの視線が突き刺さっていることを、あえて気付かぬふりをしているのも、事実であった。
 シルバは、再び肩で大きく息を吐くと、利き手に白銀の剣を持ったまま、空いた左手を腰にあてて、訝し気な表情のまま、優美な銀色の髪が揺れるアノストラールの背中を見つめ据えた。

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