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終 節  月影の詩(うた)5

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 あの日、降り始めた土砂降りの雨の中、美しいその少女は、ゆっくりと伸ばした暖かな両腕で、何をも語らぬまま、悲哀にうなだれている冷え切った少年の体を、静かに抱きしめたのだった・・・・
 紅の鮮血が滴り落ちる金色の妖剣を利き手に握ったまま、身動(みじろ)ぎもせずに、激しいの雨粒の中に佇む少年の姿。
 それは、身を引き裂くような悲しみと孤独にひたすら耐えているかのように、少女の茶色の瞳には映っていた・・・・

 見事な栗毛の長い髪が雨の雫を滴らせながら、青ざめた彼の頬に張り付いている。
 その時初めて、少年は、押し殺した声で、呟くように言ったのである。

「バースが・・・・死んだ・・・・・」

「・・・・え?」

 僅かに驚愕した彼女の顔を見ることもなく、彼は、奥歯を噛みしめながら、言葉を続けた。

「俺が・・・・・殺した・・・・・・・・」

「・・・アランデューク・・・・・!?」

「・・・・その名で俺を呼ぶな・・・・・・・呼ばないでくれ・・・・イリーネ」

 その言葉に、小さく肩を振わせると、少女は、切なそうに茶色の瞳を潤ませて、しなやかな指先で、彼の頬に張り付いたままの栗毛の髪を払いのけたのである。
 差し伸ばした両手で、うつむいたままでいる少年の頬を優しく包み込むと、彼女は、冷たいその唇にそっと接吻(くちづけ)した。

 閃いた紫色の雷光が、暗い天空を切り裂くように駆け抜けていく。

 招き入れた小さな家の粗末な暖炉に火をくべて、その傍らで寄り添いながら、彼女は、濡れた栗色の前髪から覗く、深く傷ついたままの鮮やかな緑玉の瞳を見つめすえた。
 何も語らず、悲しみと悔しさに翳る呆然としたその表情に、ひどく心が痛んだ。
 まるで、凍りついた心と体を暖めるかのように、初めて重ね合わせた素肌。

 天空に轟く雷鳴に似た鼓動の音を、今でもはっきりと覚えている。
 真っ直ぐに自分を見つめる、燃え盛る炎のような緑玉の瞳。
 その瞳に捕らえられると、まるで、波に浚われてしまうような不思議な感覚に襲われる。

 しかし、それに抗(あらが)うこともせず、ただ、その体の重さと体温だけを静かに胸に刻みこんでいた。

 忘れられるはずも無い・・・・
 幼い心で精一杯愛した事も・・・
 接吻した唇の感触も・・・・

 深い悲しみに満ち溢れ、傷ついたまま自分を見つめていた、あの鮮やかな緑玉の眼差しも・・・
 だが・・・彼は、その日を境に、彼女の前から姿を消した。
 そこにどんな理由があったのか、彼女には、知る術もなかった。

 あれから、どのぐらいの月日が流れたのだろう。
 もう、七年近くになるであろうか・・・・

 憂いを含んだ茶色の眼差しが見つめる先には、あの時よりもたくましくなった、彼の広い背中がある。
 月明かりを散らす夜風に浚われる、長い琥珀の髪を片手で押さえて、彼女、ローディ一家の花形である美しい踊り子、イリーネ・アデルは、紅の塗られた綺麗な唇で彼の真実の名を呼んだのだった。

「アランデューク・・・・」

「その名で俺を呼ぶな・・・・あの時も、そう言ったはずだ・・・・その名は、棄てた・・・・・」

 低めた声でそう言うと、彼、妖剣アクトレイドスを携える魔法剣士ジェスター・ディグは、その燃えるような鮮やかな緑玉の瞳を鋭利に細めて、静まりかえる森の木々と夜空の薄い月を背景にゆっくりと、背後に佇むイリーネを振り返った。
 長身に纏われた朱の衣の長い裾が、音も無く夜風に翻っている。
 薄い月影が照らし出す、若獅子の鬣(たてがみ)のような見事な栗毛の髪が、その光の断片を纏い金色に輝いていた。
 イリーネは、蛾美な眉を切なそうに眉間に寄せると、うつむき加減になって、消え入りそうなか細い声で言うのである。

「ごめんなさい・・・・そうだったわね・・・・」

「・・・・・・・」

「ずっと・・・探していたのよ・・・・・・どうして、何も言わずに、居なくなったりしたの?」

 あの日より、ずっと大人びて凛々しい顔つきになった遠い日の想い人を、少し遠慮がちな眼差しで見つめながら、イリーネは、両手で自分の体を抱きしめた。
 そんな彼女を、冷静で真っ直ぐな視線で顧みて、夜風に揺られ精悍な頬にかかる髪を気にすることも無く、ジェスターは、低めた声で言うのである。

「お前には関係ない・・・・・・・・聞きたいことは、それだけか?イリーネ?」

「・・・・え?」

「それだけなら、話すことは何も無い・・・・もう行くぞ」

 朱の衣の長い裾が、イリーネの眼前でゆるやかに翻る。
 ブーツの底が地面の草を踏みしめる音と共に、傍らを、通り過ぎようとする彼の腕を、彼女は、咄嗟に掴んだ。

「待って・・・・!」

 ふと、足を止めたジェスターが、揺るがぬ冷静さをその端正な顔に湛え、燃え盛る炎のような緑玉の瞳で、再び、悲しそうなイリーネの綺麗な顔を見る。
 高峰カルダタスから吹き付けてくる、ひんやりとした夜の風が、彼女の艶やかな琥珀の髪を虚空へと浚って森の奥へと消えていった。

 頼りない薄い月が照らし出す彼女の姿は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど儚く切な気で、そして、女神のように美しい。

 冷静を装う鮮やかな緑の眼差しの奥に、僅かに浮かび上がってくる、あの日感じたままの愛しさの欠片。

 彼とて、全て、忘れた訳ではない・・・・。
 彼女がくれた暖かなぬくもりも、幼かった心で精一杯、彼に注いでくれた深い愛情も・・・・
 胸の奥で微かに疼く、確かな愛しさも・・・・

 だが・・・・

 此処で、彼女に触れたところで、彼の行くべき道が変わる訳ではない。
 これから、なさねばならぬ重大な事柄が消え失せる訳でもない。
 既に、彼女のとの道筋は分かれている。

 心を残したところで、どうする事も出来ぬことを、彼自身が一番良く知っていた。
 ジェスターは、自分の腕を掴むイリーネの細い手首を静かに掴むと、ゆっくりとその手を解くのだった。

「お前と俺とじゃ、歩む道筋が違う、もう忘れろ・・・・」
そう言って再び背中を向けた彼に、茶色の瞳に涙をにじませたイリーネが、呟くように聞くのだった。

「ならば・・・・・・・あの方は・・・貴方が連れている、あのリタ・メタリカの姫君は、貴方と・・・・同じ道を行く人だと・・・・・そう言うことなの?」

「・・・・・・ああ」

 短くそう答え、こちらに振り返る事も無く、朱の衣を纏うジェスターの広い背中が、夜の闇へと静かに遠ざかっていく。
 月明かりの下で翻る、戦旗のような長い裾。

 そんな彼の後ろ姿を見つめたイリーネの茶色の瞳に、涙がとめどなく溢れ出し、それが夜風に舞い飛ぶと、月の光を受けてきらきらと輝きながら零れ落ちていったのだった。

 切なさと悲しみに震える細い肩を、ただ、黒絹の夜空に浮かぶ頼りない月が照らし出すばかりである・・・・
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