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終 節  月影の詩(うた)10

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『ラグナ!ラグナ!もう我慢できませんわ!!』

 幻の城の薄暗い宮殿に、実に不愉快そうなレイノーラの声が響き渡った。
 その声に、鮮やかで禍々しい緑玉の瞳を僅かに動かし、大きな椅子に腰を下ろし頬杖をついていた黒衣の青年が、憤慨する彼女をちらりと見やった。
 実に愉快そうにその凛々しい唇を歪め、彼は、低い声で言う。

『随分と機嫌が悪いようだな?せっかく、遊び相手をあてがってやったのに・・・レイノーラ?』

『遊び相手がいても、この女に邪魔などされたら楽しめませんわ!!』

 長い黒髪から覗く青玉の瞳が、苛立った様子で魔王と呼ばれる青年の端正な顔を見た。
 黒衣を纏う彼の広い肩で、深い藍色の髪が広がっている。

 魔王と呼ばれる魔法使いラグナ・ゼラキエルは、声を押し殺し、さも愉快でたまらないと言うように笑うと、美麗な顔を怒りに歪める女妖を真っ直ぐに見つめ据えたのだった。
 そんな彼に向かって、美しき魔性の女レイノーラは、苛立った口調のまま、言葉を続けたのである。

『貴方が【息吹(アビ・リクォト)】を要らないと言うのなら、このレイノーラがもらいうけますわ!この女、早く消してしまわなければ、うっとうしくて仕方ありません!』

『欲しいというなら、そなたにやろう・・・・だが、ツァルダムが持ち帰らなければ、おのずと行くことになるが?』

『行きますわ!ツァルダムなどに任せておけますか!!』

『そなたらしい言いようよ・・・・レイノーラ』

 魔王と呼ばれる青年の手が、怒れる彼女の腕を掴み、その体を自分の元へと引き寄せる。
 その腕に抗(あらが)うこともなく、深き青のドレスを纏うしなやかな身をまかせ、彼女は、彼の体を両手で抱いたのだった。

『あら・・・・どうなさったの?』

 レイノーラの青玉の瞳が、一瞬にして怒りを忘れ、嬉々として輝いた。
 深き藍の前髪から覗く、禍々しくも美しい緑玉の瞳が僅かに細められ、窓の向こうに閃いた紫色の雷光が、その端正な顔に性悪な影を落とす。

 妖艶な唇で笑うレイノーラの美麗な顔を見つめながら、ゼラキエルの凛々しい唇が、何故か、彼女のとは違う別の女性の名を呼んだ。

『ラレンシェイと言ったな?それほどまでに、ロータスの者の心を乱すそなたを、もう一度見たくなったわ・・・・
出て参れ』

 その声が暗い宮殿の中に響き渡ると、レイノーラの体が、禍々しい黒炎が包み込まれた。
 驚愕したように見開かれた彼女の青玉の瞳が、不意に、凛とした茶色の瞳へと変貌していく。

 黒く長いその髪が、根元からあの見事な赤毛の髪へと成り果てて、彼女を取り囲む黒い炎が全て消えた時、その場に現れたのは、魔性の女レイノーラではなく、美麗な顔を厳しく歪め、激しい眼差しで魔王と呼ばれる青年の端正な顔を真っ向から睨み据える、異国の勇ましい女剣士ラレンシェイだったのである。

「なんの真似だ!!貴様!何を考えている!?」

 強い口調でそう言って、ゼラキエルの腕を跳ね除けると、見事な赤毛を暗い虚空に弾ませながら、彼女は、素早く後方に飛び退いた。
 なだらかな額に未だ浮かび上がっている、紫色の炎の紋章。
 それは、あの女妖の魂がまだ彼女の内にあることを示している。
 凄む美麗な異国の女剣士を、愉快そうな眼差しで見やりながら、肘掛に頬杖をついたままゼラキエルは言う。

「確かに・・・そなたは良い眼差しをしている・・・・それが、あのロータスの者を捕らえた所以か?」

「何を言っている貴様!?」

「だが、所詮そなたも手駒・・・あの者を翻弄させる手立てに過ぎぬ・・・・
どんな事があっても、ロータスの大魔法使いはそなたを討てまい・・・
それが、あやつの命を奪うことになるのだ」

「戯言を・・・・っ!もし、あの者が・・・・スターレットが私を討てないのなら、私自ら命を絶つまでだ!
それに、そう簡単に魔物に落ちるほど、アストラは腑抜けではない!」

凛とした鋭い茶色の眼差しが、薄ら笑いを浮かべるゼラキエルの顔を睨みつけている。

「気丈な女よ・・・・誠、あの女性(にょしょう)に良く似ている・・・・・
流石、恐れもせずに、わが身を刃で貫いた者だけはあるな・・・・」

 さも愉快そうにそう言った魔物の姿が、不意に黒炎と共に彼女の眼前から姿を消した。

 次の瞬間、魔王と呼ばれる青年の姿は、ラレンシェイのすぐ後ろに音もなく現れてくる。
 驚愕して両眼を見開く彼女の腕を、彼は、一瞬の隙に強力で掴み上げたのだった。

「何をする!?離せ!魔物が!汚らわしい!!」

 そう言って激しく抗うラレンシェイを、無理やり自分の方へと振り向かせると、ゼラキエルは、実に愉快そうな顔つきをして、美麗なその顔を眺めやる。
 見事な赤毛の下で、怒りに歪んだ茶色の激しい眼差しが、臆すことなく、薄く笑うゼラキエルの端正な顔を睨み据えた。

「この私に軽々しく触れるでない!!」

 強い口調でそう言い放った彼女の妖艶な唇を、不意に、魔王と呼ばれる青年の冷たい唇が塞いだ。

「!?」

 大きく目を見開いた彼女は、両腕でその体を押し返しながら、思い切り、彼の唇の隅を噛み裂いたのである。
 暗闇に鮮血が弾け飛び、素早く身を翻した彼女の眼前で、ゼラキエルの禍々しくも美しい緑玉の瞳が、僅かに細められた。

「私に触れるなと言ったはずだ!!」

「なるほど・・・・大した女よそなたは」

 本来なら、魔物が持つはずのない赤い鮮血が、凛々しい唇からその顎へと滴り落ちている。
 それを片手で拭いながら、ゼラキエルは、端正なその顔に、思惑ありげな邪な笑を浮かべたのだった。
 強く気丈なラレンシェイの茶色の眼差しを、その緑玉の眼差しが真っ直ぐに見つめすえている。

『レイノーラ・・・・そなたは、しばらくその姿をしていろ・・・・面白いことを考えた』

 ゼラキエルのその言葉に、ラレンシェイのなだらかな額に刻まれた炎の烙印が、不意に眩く発光した。

「!?」

 とたん、一瞬にして意識を離したラレンシェイの体が、見事な赤毛の髪を虚空に乱舞させて、ゆるやかに前傾してしていく。

 そのしなやかな体を片腕で抱きとめて、ゼラキエルは、鮮血の滴り落ちる唇で、ニヤリと薄く笑ったのである。

~ ラグナ!これはなんの戯れですの!?

 直接頭の奥に響いてくる、レイノーラの憤慨した声に、彼は、薄く笑ったまま、答えて言うのだった。

『また、面白い遊びを与えてやる・・・・そう怒るな』

 暗黒の闇に、紫色の雷光が走り、瞬くその煌(きらめ)きが、魔王と呼ばれる青年の顔に、実に邪悪な影を落としていた・・・・

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