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 フラッシュバックというのだろうか。一瞬目の前が大きく揺れて、俺は強く目を瞑った。息を吐きながらゆっくり目を開けても、目の前には三ツ木さんがほほ笑んだまま座っていた。

「……な、なんで、ここに三ツ木さんが」
「酒を飲みに来たんですよ。ちょうどハナビ様もいらっしゃったのでご一緒することになって」
「須原くん大丈夫?顔色悪いよ。どうせ三ツ木に酷いことされてトラウマになってるんだろ」
「人聞きの悪いことを仰らないでください。私と須原くんは健全な仕事仲間だったんですよ」

 言いながら『注げ』と手で指し示した三ツ木さんを見て、俺は固まっていた身体を動かしグラスにウィスキーを注いだ。ふたりの前にグラスを置くと、ハナビが鼻にシワを作って「白々しいねえ」と俺の肩を引き寄せる。

「本当は三ツ木とどういう関係なんだい」
「現在は債権者と債務者です。須原くんは私に多額の借金があります。それをチャラにできる愛人契約の話があったのですが、彼はそれを嫌がり結果ここで働くことを選びました」

 俺が答える前に三ツ木さんが答え、酒に口をつける。

「私は須原くんをお客様に売ろうとしただけで、実際には何もしていません。私ではなくノウリくんに痛い思いをさせられたんです。私を見て恐怖するのは心外ですよ」

 俺の爪と足にアイスピックを突き刺したことを、もう忘れているらしい。大体がノウリに拷問をさせたのは三ツ木さんだ。ようやっと塞がってきた傷が痛むのを感じて、俺はテーブルに視線を落とした。「売ろうとしてた時点で十分恐怖案件では」と肩をすくめたハナビが酒を飲み、彼はやはりまともな感覚を多少持っているようで安心する。

(人をあっさり殺せること以外、いい人そうなんだけどな……)

 ハナビを信頼したい気持ちと信頼できない気持ちがせめぎ合っていると、三ツ木さんがスマホを取り出した。

「さて、須原くんが頑張って生き残っているうちに聞いておきたいのですが、借金返済はできそうですか?無償労働で無理、という言い訳は聞けません」
「少し……ならあります。数万なら月末に渡せます」

 キョウコから100万円をもらった、と正直に答えるのは避けた。それだけ稼げると思われたら、三ツ木さんに何をさせられるかわからない。

「おや、売りでも始めたんですか」

 面白そうに三ツ木さんに目が細められる。このボロ雑巾に価値があるなら利用したいと書いてある。

「いえ、ピアノ演奏のチップをいただきました。VIPに来るお客様相手に弾いていて」

 実際VIPに来たのはいまだキョウコだけだったが、ウソではない。

「ピアノがこんなところで役に立つなんて、さすがしぶといですね須原くんは。それなら返済は毎月25日ということにしましょう。また来ます」
「あ、そうだ。須原くんはレッスンがあるから私たちはVIP行くね。ボトル、飲みたければ飲んでいいよ」

 ピアノの件で裏社会レッスンのことを思い出したらしいハナビが俺の肩を抱いたまま立ち上がり、俺もつられて立った。わざわざVIPで講習とは豪勢だと思っていると、「もうお別れとは寂しいですね」と全然寂しくない声で三ツ木さんが言った。

「これから店に来るときは、須原くんのことイジメないでくれ」
「酒はいただきます」

 かみ合っていない会話を三ツ木さんとして、ハナビは歩き始める。カウンターを通り過ぎるときに彼はイズキに手を挙げて「須原くん借りる。VIP40分で」と言った。シェイカーを振るうイズキはハナビと一瞬目を合わせただけだったが、ハナビは構わずVIPへ進み黒い扉を開けた。掃除で何度も入っているがいまだにVIPに慣れない俺を横目に、ハナビは迷いなく奥まった壁を触ってホワイトボードを取り出した。

(ホワイトボードなんかここにあったんだ……)

「さて、早速だけど裏社会レッスンを始めようか。40分しかないからね」
「ありがとうございます。あの、ハナビさんはVIPによく来るんですか」

 手慣れた様子に聞いてみると、「営業時間中はほとんど使わないよ。イズキと時間外で会いたい時は入る」とホワイトボードに何やら書きながら答えた。イズキと時間外で会いたい時ってなんだ、と思ったが40分しかないレッスン時間を無駄にするのは悪いので言及はやめた。しかし、一方ハナビはVIPルームの話を広げた。

「VIPルームは完全防音だから、売りとか薬とか殺しとかやりたい放題。別にやってもいいんだけど、最低限のルールを守れないやつが入ると収集がつかなくなる。それを避けるために、金払いが良くて店相手に問題を起こしたことがない優良顧客だけ使用が許可されてるんだ」
「なるほど。あれ、でも完全防音なら……ピアノの演奏聴こえないんじゃないですか?ハナビさんはカウンターで俺の演奏が聞こえたと言ってましたけど」
「へえ、須原くんって意外と記憶力いいんだね。そう、普通は何も聴こえないけど、私は耳が異常に良くて聴こえちゃうんだ」

 ハナビは自分の耳を指で弄った。そこには複数のピアスがついている。パッと見は清潔感のある俳優のようなハナビだが、耳を見ると堅気ではないのが伝わってくる。

「私はこの耳の良さを活かして、情報屋をやってる。遠くの話がなんでも聞こえてくるからね。天職ってやつだ」

 ハナビは大袈裟にドヤ顔をしてから、ホワイトボードをペンで叩いた。

「今ちょうど仕事の話が出たから授業に入ろう。裏社会には『互助三家』に所属するものとそれ以外がいる。私はそれ以外、つまりフリーランスだ。三ツ木やノウリ、ジウちゃんのパトロンやってるキョウコなんかもフリーランスだね」

 『互助三家』と書かれたエリアには『双岩』『美好』『志倉』とあり、フリーランスのエリアには三ツ木、ノウリ、キョウコとハナビが追加した。

「三ツ木はこっちじゃ人身売買の最大手で、ノウリは何でも屋だけど拷問がメイン。キョウコは掃除屋。あ、掃除屋は殺し屋の意味ではなくて、殺しの痕跡を完全に消すプロのことね。この3人はフリーランスとはいえ部下も多いし稼ぎもある。そしてフリーランスは互助三家のどことも取引を請け負う中立の立場だ」

 ハナビはフリーランスの横に『中立』と書き足す。

「次に互助三家。これは裏社会を牛耳っている最大組織で、元々双岩、美好、志倉という三つの組織が長年争っていたんだけど、あまりに凄惨な殺しが横行したので先々代の当主たちが和解を提案してひとつの組織になった。それが互助三家というわけだ。学校の中にA組B組C組があるようなもので、大きな組織としては同じところに属しているけど、運営はその家ごとにかなり裁量が任されている。互助は『抗争の再発防止』が1番の目的だから、家同士かなりドライな関係で仲がいいとはお世辞にも言えない」

 三つ巴の互助三家に相互の矢印がつけ足され『キライ』と記載が増えた。そして志倉だけ強調されるように丸で囲まれる。

「そもそも三家の中で最も人が多く組織力があるのは志倉で、ここがかなり幅を利かせているから他二家は不満を抱いている。エルムンドは互助もフリーランスも自由に来ていい唯一の中立施設となっているけど、実質店を支配しているのは志倉の当主・吉春だしね。そういう権力格差が随所にあって、特に美好はいつでも寝首をかこうとしていて志倉とものすごく不仲だ」

 以前吉春が店に来た時、イズキと美好の関係を妙に勘ぐっていたのは、美好が元敵対勢力で現不仲な均衡勢力だからということか。少しずつ状況がわかってきて、書き留めるノートが欲しくなる。

「仲間という仮面の下で常に火種はくすぶっていて、いつ抗争が起きてもおかしくない状況で何年もやって来てるんだ。ここまでで何か質問ある?」
「あ、はい、あります。イズキさんは志倉の人ですか?当主の吉春さんが前に来店した時に上司と部下のようだったんですが、上下関係以上に仲が良くに見えました。次期当主の飛龍という人よりも、イズキさんの方が気に入られていそうというか」
「お、目ざとい。いい質問ですよ、須原くん」

 ハナビが拍手をして俺を指差す。授業で先生に褒められた経験などない俺は、場違いにもなんだか嬉しくなってしまった。

「イズキは一応フリーランスだけどちょっと境遇が複雑でね。彼は元々志倉一家の次期当主だ。飛龍はイズキが退いたからその後釜についている」
「え、次期当主……って相当出世してますよね?なんで今はバーテンに……」
「そう、次期当主なんてよっぽどのやつじゃなきゃなれない。次期当主まで上り詰めた男が今じゃバーテンやらされてるなんて究極の左遷だよ。プライド高いやつなら自殺してもおかしくないレベルの屈辱だ。でもイズキは殺されなかっただけマシなほどやらかして、今バーテンの地位にいる」

 何だと思う?と言いたげにハナビの目が細められる。何も思い浮かばずに見つめ返すとハナビはほほ笑んだ。

「吉春を殺そうとしたんだ」
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