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第三章 ブロンテとルノワール

第二十六話

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「ッ! ゲホッ! ブハァッ!」

 やばい。興奮しすぎて息をし忘れていた。

 俺はシアンさんに、その絵画について詳しく聞いてみることにした。

《これはね、ルノワールの『ブロンドの浴女』っていう絵だよ! 綺麗だよねー!》
《うん。綺麗。最高。やばい。え、やばいマジでどうしよう》
《え! そんなにお気に召しました?》

 俺の興奮度合いに、さすがのシアンさんも驚いているようだった。続けて彼女からメッセージが届く。

《これ、巷ではちょっとデブすぎでは? って言われてるんだけど》

 これのどこがデブなんだ!? これはぽっちゃりだろうが! 最高級のぽっちゃりだろうが!
 内心憤りながら、俺は返す内容にしばらく悩んだ。

 どうする? 言ってみるか? ぽっちゃり好きだと言っても、シアンさんはきっと受け入れてくれる。頭では分かっているが、いざ打ち明けるとなると不安がよぎる。

 それでも、聞いてもらいたい。そして受け入れてもらいたい。
 その思いに抗えず、俺はメッセージを送る。

《俺、こういう体型の女性が好きなんだよね》

 すぐにシアンさんから返事が来た。

《つまりデブ専?》
《違います。ぽっちゃり好きです》
《ほー》

 これはどういう反応なんだ。判断できない。

《ユウくんの中では、これがぽっちゃりなんだ》

 あれ、ちょっと不安になってきた。もしかしてシアンさん、引いている?

《ユウくんは、こういう体型の人が好きなの?》
《うん》
《リアルでも?》
《うん》
《デブでもバカにしないんだ?》
《デブじゃない、ぽっちゃり。バカにしない》
《そっか》

 未だにシアンさんが何を感じているのか分からない。
 少し焦り出した俺は、微妙に話を逸らすことにした。

《この絵が来るんだ。俺も観に行きたいな》
《うんうん! やっぱり絵画は、生で観るに限るよー!》
《でも、一人で美術館って緊張するな。俺、そもそも美術館行ったことないんだよね。なんかマナーとかある?》
《えっとね、館内ではお喋りは極力しない方がいいかな! コソコソ話とかだったらギリセーフ? あと、ガイド聞きながら回るなら、人がつっかえないように絵画からちょっと離れたところで立った方が良いかも。これは私のこだわりってだけだけど》
《おー、助かる。ありがとう》

 それから俺は、展覧会が開催される美術館と、開催期間を教えてもらった。
 マジで行ってみたいな。『勉強会』メンバーを誘うのもありだけど、行く理由が不純だから一人で行った方がいいかも。
 そう考えていると、シアンさんからメッセージが返ってくる。

《もしよかったら、一緒に行く?》

 え? 一緒に? 俺とシアンさんが?

《え?》

 思わず「え?」だけで返事をしてしまった。だって俺たち、本当の名前どころか、未だにSNSのDMでやり取りしているくらいだぞ。
 俺は、彼女からそんなことを提案してきたことに驚きを隠せなかった。
 慌てた様子で、シアンさんからメッセージが来る。

《あ! 嫌だったら断ってね!》
《嫌じゃないよ。ちょっとびっくりしただけ。シアンさんこそいいの? 俺、男だけど。怖くない?》
《ユウくんなら大丈夫だと思ったの。実は私、すっごくデブで……。あんまり人と会うの好きじゃないんだけど、ユウくん、デブ大丈夫っぽいから……》
《デブじゃない。ぽっちゃりね》
《そう。だから、ユウくんだったら、私の体型見ても引かないかなって思って。それに、単純に一緒に美術館巡りしたら楽しそうだったから!》

 俺は深呼吸をして、天井を仰いだ。
 今俺の身に何が起こっているんだ?
 俺の性癖を受け入れてくれる人がぽっちゃり系で、今その女性に美術館に行こうと誘われている、だと?

 正直に言えば、めちゃくちゃ会いたい。
 シアンさんとは一度だけ通話をしたことがあるが、それも『クラセル』プレイヤー大勢が参加しているボイスチャットの中でだけだ。俺はほとんど発言していなかったし、シアンさんは他のプレイヤーに質問攻めされていたので、正確に言えば、話したことはないがどんな声かは知っているという程度だった。

 だが、毎日していたDMのやり取りでお互い性癖を暴露し合ったためか、包み隠すことはもうないのではないかと思うくらい、本心で話していたと思う。少なくとも、俺はそうだった。
 そのやり取りの中で感じたのは、シアンさんは優しくて、面白くて、少しメンタルが弱いところもあるけど、話していて楽しいということだ。

 俺は顔も知らない彼女に、経験したことがないほどの好意を寄せていた。
 趣味が合うし、人として元々好きだったのに、その上ぽっちゃりだなんて聞いてしまったら、そんなの会いたくなるに決まっている。

 ちょっと待てよ。でもこんなの都合が良すぎないか? 今まで一度だって、俺は性癖を明かすこともできなかったし、ぽっちゃりさんと仲良くなれたこともなかった。出来すぎている。
 これは夢かもしれない。俺の欲望が見せている夢だ。惑わされるな。

 それに、女性が言う「デブ」はたいがい、ぽっちゃりにも及ばないことが多い。
 しかし、それでも、冷静に考えて会いたい。

《シアンさんが良いのなら、一緒に美術館行きたい》
《あ! 良かったー! 急に出会い厨みたいなこと言っちゃったから引かれたかと思った》
《引いてないよ。でも、俺って本当に美術館初心者だけど大丈夫? 迷惑かけるかも》
《それは大丈夫!》

 シアンさんはテキパキと、会う日時を決めてくれた。来週の日曜日、朝十時に駅に集合だ。

《ユウくん。今さらだけど、ほんとにあのルノワールの絵みたいな体型でも大丈夫なんだよね?》
《うん。理想》
《よかったぁ……。私、本気であのレベルだからね。男の人の言うぽっちゃりとは程遠いよ》
《大丈夫。俺のぽっちゃりと、世間のぽっちゃりではかなり差があるから》
《それを聞いて安心した。じゃ、楽しみにしてるね!》
《俺も》

 こうしてシアンさんとのやり取りは終わった。
 俺はベッドに飛び込み、足をばたつかせる。
 その日はシアンさんのことを考えすぎて、あまり眠ることができなかった。

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