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プロローグ:異世界転移

第2話 教え子が見つけた魔法陣

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 ◇◇◇

 墨を含ませた筆先が半紙に足を下ろす。そのまま迷いがない運びで線が引かれ、終筆まで力が抜けることなく書き上げられた。
 息をするのも忘れて筆を動かす生徒たちを、朝陽は少し離れた場所で見ていた。

 大学を卒業して三年目、朝陽は、私立の高校で書道の先生をしながら、休日に小学生と中学生向けの習字教室を開いている。といっても、無名書道家の習字教室にそう簡単に生徒が集まるわけがなく、教室に通っているのは、知人に頼んで無理に通ってもらっているたった三人の小学生だけだった。

 そのうちの一人、三年生の湊が朝陽を手招きする。

「アサヒ! できた! 見て!」
「朝陽先生な。おおー、トメも綺麗にできたな!」

 褒められた湊は、得意げに鼻をこする。

「だろだろ!? オレもそこ、お気に入りだ!」
「じゃあさ、次は払いの部分を一回しっかり止めて、ゆっくり筆を離してみ? そしたらもっとかっこよくなると思うから」
「おう! やってみる!」

 湊はやんちゃくれで大雑把なところがあるが、勢いのある線を書くのが得意だ。集中力は長続きしないものの、集中している間は人の声が聞こえないほど入りこむこともできる。

 朝陽が湊に手本を書いていると、隣に座っていた朱莉が泣きそうな声を出した。

「せんせぇー。上手く書けないよぉー」

 完璧主義者の四年生、朱莉は、傑作を生みださないと気が済まない。朝陽が見る限りかなりよく書けているのだが、それでも朱莉にとっては納得できないのだろう。

 朱莉の隣では、二年生の美香が黙々と字を書いている。熱心なのはいいことだと、朝陽は笑顔で彼女の半紙を覗き込んだ。
 そこには、見本とは違う文字――好きな男の子の名前がびっしりと書かれていた。

(ひ、ひええ……)

 美香は好きになったものに没頭しやすく、すぐに周りが見えなくなる。好きな習字で好きな人の名前を書いている時の彼女は集中力を極限まで引き出しているのか、朝陽が話しかけても全く反応しなかった。

 朝陽はそっと彼女の傍を離れ、ものすごいものを見てしまい激しく波打っている鼓動を沈めるべく、練習がてら半紙に円を繰り返し書いた。

「はい、じゃあ今日はここまで。みんなどんどん上手く書けるようになっているから、きっと習字コンクールでも良い結果を残せるよ。残りの時間も頑張ろうな。じゃあ、おつかれさま」

 子どもたちがいなくなると、とたんに教室が静まり返る。
 朝陽はテーブルに生徒たちの作品を広げ、ふんわりと頬を緩めた。

 湊の作品は「ひだまり」。力強い筆の運びで書き上げられたこの作品は、今まで書いたものの中でも群を抜いてよく仕上がっていた。湊らしさが詰まったこの作品は、まるで彼の魂そのもののようだ。

 朱莉は「なかよし」という作品を提出していた。端正でほんの少し気の弱そうな彼女の字は、引っ込み思案でクラスになかなか馴染めない彼女の、「なかよし」に対する羨望が切ないほどに表現されている。

 美香は、「あきらくん」の文字で埋め尽くした半紙を、今日一番の力作だと自信満々に言い張って教室に置いて帰った。彼女の近い未来が少しばかり心配だが、自分を信じ、自分を貫き通す彼女の強さは、朝陽も見習わなければならないと思う部分もある。そして悔しいことに、彼女の執念がびっしり詰まっている「あきらくん」の文字群は、創作作品としてかなり良い仕上がりになっていた。

 朝陽は生徒たちの作品を鞄にしまい、帰路についた。
 帰り道の途中、先ほどまで教室にいた子ども三人を公園で見かけた。何もない地面を指さし、あれやこれやと話している。

「みんな、どうしたの?」

 朝陽が声をかけると、子どもたちが顔を上げた。
 湊が地面を指さし、朝陽に尋ねる。

「アサヒ! これなに?」
「朝陽先生な。これって? 何もないけど」
「えー!? あるよ、ちゃんと見ろよ!」

 どれほど目を凝らしても、朝陽の目にはただの地面が映るだけだ。しかし湊だけでなく、朱莉にも美香にも何かが見えているようだった。

 首を傾げる朝陽の前で、三人は木の枝で地面に何か書き始めた。大きな円の中に、記号や不可解な文字を書き込んでいく。
 完成されたものに朝陽は息を呑んだ。

「これは……」

 小学生が書いたとは思えない複雑で繊細な模様。まるで魔法陣のようだ、と朝陽は思った。
 湊がその模様を枝でつつきながら言った。

「これが光ってる」

 光っているのはもちろん不思議だが、それよりも気になることがあった。

「……バランスが微妙に気に入らないな……。もっとこう……ここをこうして……この点はもう少し右上の方が……」

 生徒が書いた線や点を消し、よりバランスが取れるよう添削をしていく朝陽を、子どもたちは興味津々で見ていた。

「よしっ、これなら良い感じだ!」

 納得のいく出来にまで仕上げられた頃には日が暮れかけていた。添削見学に飽きた生徒たちは、模様の周りで追いかけっこをしている。
 落書きの添削に夢中になっていた自分が少し恥ずかしくなり、朝陽は苦笑しながら鞄を持った。

 朝陽が帰ろうとしたそのとき、目が眩むほどの光に包まれた。

「なっ……、なんだぁ!?」

 眩しすぎて目が開けられない。地面が揺らぎ、空気がひんやり冷たくなる。異変に気付かず追いかけっこをしている子どもたちの笑い声が、朝陽が最後に聞いたこの世界の音だった。
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