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ふたりでひとつ
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翠には片付けなければならない事がいくつかあった。
ひとつは学校のことだ。
学校では文字通り腫物扱いを受けている翠だったがそれも勿論原因があり、自身の行動が招いた出来事であると翠自身も自覚している。
以前は周囲のせいにしていたが今の翠はそうは考えなかった。
「厚木くん」
放課後。部活の為に体育館へ向かおうとする厚木を翠は呼び止めた。厚木は黙って振り返ったが特に返事もせず翠の事を見下ろしている。
「この前はごめんなさい」
翠は頭を下げて素直に謝った。以前の翠では考えられない事だった。
頭上から反応がなかった。ざわざわと周囲が自分を訝しむような気配を感じる。廊下でこんな事をしていたら悪目立ちするのも当然だった。
「いや、いいって、もう」
その体躯には似合わない小さな声がそう呟いた。翠が頭をあげると随分高い位置にあるふたつの目が翠を真っすぐに見下ろしていた。
「俺も悪かったし。殴り合いの喧嘩だって兄貴たちとよくするから気にしてねぇって」
それだけ言い残すと厚木は踵を返して行ってしまう。それは厚木なりの優しさなのだろうと翠は解釈した。素行が悪いとはいえ厚木がバスケットボール部で活躍し顧問の先生や先輩たちに一目置かれているという事は教室で周囲の声に聴き耳を立てていて翠も知る事だった。そしてあの時、抵抗こそすれど翠に一切反撃してこなかった事も。体格差を考えれば返り討ちにされてもおかしくなかったのだ。
何か言葉を掛けなければと思い悩む。
「ね、ねぇ! ありがとう!」
少しだけ廊下に響くような声でそう告げると厚木は片手をあげて返事を返してくれた。
階段から突き落とした教師にも謝らなくてはいけない。そう思ったが職員室へ行ってもその教師の姿はどこにも見当たらなかった。結局、謝罪する事は叶わなかった。風の噂でその教師は学校を辞めたと聞いた。心残りではあったがどうする事も出来ずに、罪悪感だけがしばらくの間尾を引いていた。
その日の夜。今まではパパが帰宅すると自室へ逃げていた翠だが、パパが夕食を食べ終えたタイミングで翠はリビングへ出る。そうしてパパへと声をかけた。
「パパ。話があるの」
雰囲気から以前の『翠』であると察したのかパパの動きが止まる。
「……どうした?」
「座って」
以前にもそうしたように、親子は向かいあって座った。
「わたし、治したいの。攻撃的なところも、衝動的なところも」
その発言でようやく以前の翠ではないと気が付いたパパは目を丸くした。しかし今までのように喧嘩腰ではない娘の姿に思うところがあったのか落ち着いた様子で続ける。
「何かあったのか」
「……ずっと、自分がいちばん正しいって思ってた。わたしが何をしてもわたしが何より正しくて、周りが悪いんだって。口喧嘩しても暴力を振るってもそれが正しくて、相手を負かす事に夢中になってた。でも気が付いたの。それは良くない事だって。相手を、周りの人を、自分を傷つけちゃう」
話しながら今までの行いが脳裏に浮かぶ。翠は後悔していた。ただ流されるだけの人生も、誰かを攻撃して快感を得る人生も間違っていると。
「でも衝動的に行動してその結果誰かを行動するのは自分の意志では抑えられないと思う。それで、パパは心のお医者さんでしょう? だから……」
パパに頼めば自分自身を変えられる。そう思った。昔のように、幼い翠を大学に連れて行ってくれた時のように。パパなら解決方法を示してくれると。
憎いとさえ思っていた父親。でもそれは違った。誰かを憎まずにはいられなかった頃とは違う。閉じ込められていた頃、紅と名乗っていた頃は憎くて仕方がなかった。けれど人格がとけあった今、知ることが出来た。
父親も悩んでいたのだと。娘をどうして良いのかわからなかったのだろう。妻を亡くし、混乱していた。その矛先が娘に向いてしまった。
すぐに許す事はできないかもしれない。けれど時間をかけてゆっくりと親子になれば良い。
「知り合いの医者に掛け合ってみよう」
「パパ……」
「治したいと思うのなら協力はする。月子が生きていれば月子も同じことを言っただろうから」
親子は僅かながら、初めて歩み寄る事ができた。お互いの悪い面が作用してしまった結果が今までの事で、それを乗り越えたのだ。
「ありがとう。今までごめんなさい」
喜びか後悔か。
翠の目からは涙が一筋流れ落ちた。
「謝らなければいけないのは私の方だ。娘相手にきつく当たりすぎた。到底許される事では無いと思うが……すまなかった」
長年続いた不可思議な親子関係にも幕が下りた。
もう父親を畏怖することは無い。家族として、この先何年も関わり合っていく事となる。
翠は空想した。パパと一緒に出掛ける事。自宅にある映画のディスクを並んで観る事。勉強を教えてもらう事。
それから、ママのお墓参りに連れて行ってもらう事。
未来は明るかった。
翠はごく普通の、ありふれた幸福な人生を送る事ができるだろう。
ひとつは学校のことだ。
学校では文字通り腫物扱いを受けている翠だったがそれも勿論原因があり、自身の行動が招いた出来事であると翠自身も自覚している。
以前は周囲のせいにしていたが今の翠はそうは考えなかった。
「厚木くん」
放課後。部活の為に体育館へ向かおうとする厚木を翠は呼び止めた。厚木は黙って振り返ったが特に返事もせず翠の事を見下ろしている。
「この前はごめんなさい」
翠は頭を下げて素直に謝った。以前の翠では考えられない事だった。
頭上から反応がなかった。ざわざわと周囲が自分を訝しむような気配を感じる。廊下でこんな事をしていたら悪目立ちするのも当然だった。
「いや、いいって、もう」
その体躯には似合わない小さな声がそう呟いた。翠が頭をあげると随分高い位置にあるふたつの目が翠を真っすぐに見下ろしていた。
「俺も悪かったし。殴り合いの喧嘩だって兄貴たちとよくするから気にしてねぇって」
それだけ言い残すと厚木は踵を返して行ってしまう。それは厚木なりの優しさなのだろうと翠は解釈した。素行が悪いとはいえ厚木がバスケットボール部で活躍し顧問の先生や先輩たちに一目置かれているという事は教室で周囲の声に聴き耳を立てていて翠も知る事だった。そしてあの時、抵抗こそすれど翠に一切反撃してこなかった事も。体格差を考えれば返り討ちにされてもおかしくなかったのだ。
何か言葉を掛けなければと思い悩む。
「ね、ねぇ! ありがとう!」
少しだけ廊下に響くような声でそう告げると厚木は片手をあげて返事を返してくれた。
階段から突き落とした教師にも謝らなくてはいけない。そう思ったが職員室へ行ってもその教師の姿はどこにも見当たらなかった。結局、謝罪する事は叶わなかった。風の噂でその教師は学校を辞めたと聞いた。心残りではあったがどうする事も出来ずに、罪悪感だけがしばらくの間尾を引いていた。
その日の夜。今まではパパが帰宅すると自室へ逃げていた翠だが、パパが夕食を食べ終えたタイミングで翠はリビングへ出る。そうしてパパへと声をかけた。
「パパ。話があるの」
雰囲気から以前の『翠』であると察したのかパパの動きが止まる。
「……どうした?」
「座って」
以前にもそうしたように、親子は向かいあって座った。
「わたし、治したいの。攻撃的なところも、衝動的なところも」
その発言でようやく以前の翠ではないと気が付いたパパは目を丸くした。しかし今までのように喧嘩腰ではない娘の姿に思うところがあったのか落ち着いた様子で続ける。
「何かあったのか」
「……ずっと、自分がいちばん正しいって思ってた。わたしが何をしてもわたしが何より正しくて、周りが悪いんだって。口喧嘩しても暴力を振るってもそれが正しくて、相手を負かす事に夢中になってた。でも気が付いたの。それは良くない事だって。相手を、周りの人を、自分を傷つけちゃう」
話しながら今までの行いが脳裏に浮かぶ。翠は後悔していた。ただ流されるだけの人生も、誰かを攻撃して快感を得る人生も間違っていると。
「でも衝動的に行動してその結果誰かを行動するのは自分の意志では抑えられないと思う。それで、パパは心のお医者さんでしょう? だから……」
パパに頼めば自分自身を変えられる。そう思った。昔のように、幼い翠を大学に連れて行ってくれた時のように。パパなら解決方法を示してくれると。
憎いとさえ思っていた父親。でもそれは違った。誰かを憎まずにはいられなかった頃とは違う。閉じ込められていた頃、紅と名乗っていた頃は憎くて仕方がなかった。けれど人格がとけあった今、知ることが出来た。
父親も悩んでいたのだと。娘をどうして良いのかわからなかったのだろう。妻を亡くし、混乱していた。その矛先が娘に向いてしまった。
すぐに許す事はできないかもしれない。けれど時間をかけてゆっくりと親子になれば良い。
「知り合いの医者に掛け合ってみよう」
「パパ……」
「治したいと思うのなら協力はする。月子が生きていれば月子も同じことを言っただろうから」
親子は僅かながら、初めて歩み寄る事ができた。お互いの悪い面が作用してしまった結果が今までの事で、それを乗り越えたのだ。
「ありがとう。今までごめんなさい」
喜びか後悔か。
翠の目からは涙が一筋流れ落ちた。
「謝らなければいけないのは私の方だ。娘相手にきつく当たりすぎた。到底許される事では無いと思うが……すまなかった」
長年続いた不可思議な親子関係にも幕が下りた。
もう父親を畏怖することは無い。家族として、この先何年も関わり合っていく事となる。
翠は空想した。パパと一緒に出掛ける事。自宅にある映画のディスクを並んで観る事。勉強を教えてもらう事。
それから、ママのお墓参りに連れて行ってもらう事。
未来は明るかった。
翠はごく普通の、ありふれた幸福な人生を送る事ができるだろう。
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