うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

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現実、日常を見る

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 パパと一緒に家へ帰るとパジャマ姿のママが玄関まで出てきてパパを出迎える。その横を通り抜けてリビングへ行くとわたしのぶんの夕食がテーブルの上へ用意されていた。

「あっためて食べてな

「うん。ありがとう」
 荷物を足元に置いて言われた通りに電子レンジでごはんをあっためているとパパについていったはずのママがリビングへと戻ってきた。

「おかえり、うさぎ」
「ママ。ただいま」
「一志さんとのドライブはどうだった?」

 後ろから投げつけられたそんな言葉にピリピリしたものが体に走った。要するに、嫉妬。嫌味。そんなところだ。ママとパパが結婚してもう七年も経つのに、ママはわたしが必要以上にパパと過ごすことを疑う。もう嫌になっちゃう。

「わたし疲れてたからぐったりしちゃってた。せっかく迎えに来てくれたのに気の利いたお話も出来なくて……」
「そう。そうよね。ところでバイトはどうだったの?」

 わたしがわたしを悪者のように言えばママは納得する。単純。この人は一生ずっと、こうして生きていくのだろう。
 温め終わったおかずをテーブルに運ぶ。ママはわざわざわたしの真向かいに座ってわたしの返事を待っている。これじゃ、まるで面接だ。

「わたし、とろくさいから大変だったよ。頑張らなきゃ」
「そうよねぇ。ノロマなうさぎちゃんも可愛いけど。でもそれじゃ先生になったら大変だし今の内に練習しなきゃね」
「うん。そう思う。頑張って立派な先生になるよ」

 それだけ聞くと満足したのかママはリビングを出て行く。ほっと胸を撫でおろした。
 ノロマなうさぎ。とろくさい。
 それがわたしの本質であると長いこと勘違いしていた。幼少期からの刷り込みは恐ろしい。今でもわたしは自分をノロマなうさぎでとろくさいと、本気で思っている節がある。でもそれは間違いで、今のうさぎは騎士であり王子を目指す存在だから。

 志は高く、しっかりしなければならない。自分に自信を持つこと。そうじゃなきゃ未来をとーまお兄さんと過ごすことは夢のまた夢になってしまうから。

 ごはんを食べながらスマホを開く。短く『おつかれ』の四文字が送られてきていた。
 わたし、がんばるよ。とーまお兄さんの為に。
 ノロマなうさぎは働き者のうさぎにならなくちゃ。


 土曜日。いつものようにわたしはベッドに寝転んでとーまお兄さんとメッセージのやり取りをしていた。

『少しだけ電話してもいい?』

 そのメッセージを見てわたしはがばりと身を起こした。今まで、こうして離れ離れになってから声を聞いていなかった。それは主にわたしの都合。電話なんてしているのがバレたらママにもパパにも何を言われるかわからない。メッセージのやり取りも見られないようにパスワードをかけて、寝る時やシャワーを浴びる時は絶対に見つからない場所にスマホを隠している。そのくらい、わたしは徹底していた。そしてそれはとーまお兄さんも理解してくれていること。

『家出たらわたしからかけるね』
『待ってる』

 わたしは適当なワンピースに急いで着替えてからかばんにお財布をいれて、十分程で慌てて最低限のお化粧をした。
 一度、深呼吸。
 部屋を出てリビングを覗くとママとパパが肩を寄せ合って映画を観ている真っ最中だった。

「ちょっと本屋さんに行って来る」
「いってらっしゃい」

 パパだけが返事をしてくれた。
 わたしはリボンのついた靴をはいて家を出る。曲がり角を曲がってすぐ、スマホを取り出してとーまお兄さんに電話をかける。三コールぐらいですぐとーまお兄さんに繋がった。

『もしもし。みゃう?』
「うん。みゃうだよ」

 久しぶりに聞いたとーまお兄さんの声。ぶわぁっとあついものがこみ上げる。でもそれを悟られるのは恥ずかしくてわたしは必死に平静を装う。

「どうかしたの? 大丈夫?」
『大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば大丈夫ではないんだけど……でもみゃうの声を聞きたくて』

 わたしの声を聞きたい。そうやって頼ってくれること、そう言ってくれたことが何より嬉しい。

「何があったの?」

 大丈夫じゃない、というとーまお兄さんが心配で声をかけると電話の向こうはしんと静まり返る。言いにくいことなのかな、何があったのかな。
 ――泣いているのかな?

「とーまお兄さん?」

 名前を呼ぶ。

『みゃう』

 うわずったその声はとーまお兄さんが涙を流していると安易に想像できた。
 あぁ、今すぐにでも会いに行ってそのきれいな雫が流れ落ちる様子をじっと見つめていたい。気まぐれに涙を拭い取りたい。そう考えるだけでたまらなくどきどきした。
 特別だ。あれは特別な、わたしの宝石。

「どうしたの?」

 わたしはもう電話の向こう側に意識を向けることしかできなくて、どこへ行くでもなくただその場に立ち尽くしてとーまお兄さんの声に耳を傾けていた。

『だめ、だったよ』
「だめ?」
『バイト。つらくて、そんなこともまともに出来ない自分に呆れた』
「どうして? とーまお兄さんはみゃうの希望だよ。大好きなとーまお兄さん。みゃうがずっとずっと守ってあげる。だから、だから」

 そのままでいてください。きれいな涙をこぼす、とってもすてきな人。生きていて、それでクジラになる。うさぎとねこのわたしはその一部として。ずっと一緒に。

『優しいね、みゃうは』
「ううん。ちがうの、これはみゃうのわがまま」
『ははは、そうだったね』

 わたしは、優しくないよ。
 とーまお兄さんをみゃうの檻に閉じ込めておきたいだなんて考えてる。
 それは……恐ろしい。恐ろしい考えなのを理解している。だけど止められない。パパのことを非難できない程のわたしの支配欲。

 それに友達が出来たことを隠している。世界にひとり、とーまお兄さんがいればいいって思いながら初めて出来た友達と楽しい毎日を過ごしているうさぎがいる。

「ねぇ。だって、とーまお兄さんはまだ病気だって治ってない。それなのに今までバイトを続けられたこともバイトを始めようって思ってくれたことも、それだけで十分なの」


 それはみゃうの本心であって、隠しごとがバレない為の最大限の防御。もちろん前者の気持ちの方が大きいけど。

『……ありがとう。みゃう』
「うん」

 それだけ。わたしは周囲の景色なんか視界に入っていなくて、まるで自分は灰色に濁る雲の中にいるようだった。

 欲。嘘。未来。我儘。
 どろどろで穢れた、そんな感情。

 とーまお兄さんのことを想うと、考えると、明るい未来の他にそんな感情が沸き起こる。良い子のみゃうはそこにはいなくて、悪い子のみゃうが同時に顔を覗かせてしまう。
 このまま家に帰るとママやパパとぶつかってしまいそうだ。そう思ってわたしは本当に本屋さんへ行こうとして、灰色の雲の中を抜け出してただの普遍的な日常を歩き出した。
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