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本編

第十一話

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 四月十日(月)18:50

 日曜日に発生した学校の小火騒ぎの影響で、図書室の全面立入禁止取り壊しが生徒たちに伝わり、図書室に現在進行形で地縛霊となっている花子さんを助けるべく、学校の校舎に隠れて最終下校時刻をやり過ごした。
 母親へは友人のところに行っていることになっている。利用したのは日比谷裕一である。
 もし母親から連絡があっても大丈夫なように、裕一には口裏を合わせてもらうように頼んである。

 でもそんなに時間がかかるとさすがに怪しまれるよな。出来ることなら一時間以内に何とか出来れば良いんだけど……。

 そう思って自分のスマホで時間を確認すると、花子さんと約束した時間まで残り十分となっていた。
 十分ぐらい大丈夫だろ。それに早めに行動を起こしておいた方が良いかも知れない。でもそれだと花子さんに会いたがってるみたいだしな……。あぁどうしよう。
 自分の中で葛藤していたが、そうしている時間ほど過ぎ去るのは早いものであり、あっという間に約束していた時間になってしまった。

「あっやべ! もう時間か……悩んでる場合じゃなかったな」

 ――約束の時間まで残り五秒、四、三、二、一……。

 心の中でカウントダウンがゼロを迎えた瞬間、ずいぶん久しぶりに思える、図書室の本棚を三回ノックする乾いた音が校舎に響き、溶けて消える。
 あまりの音量に誰かに見つからないかと、ビクビクしながら後ろを振り返るが、どうやら誰にも気づかれていなかったようで、ホッと胸を撫でおろす。

「花子さん、遊びましょ」

 誰もいないことは既に確認しているが、それでも悪いことをしているという自覚があるのか、ボリュームを最小限に控え、花子さんを呼び出す。その声は殆ど囁き声で、近くにいても聞こえるかどうか、という音量だったのだが、

『はーい! 今行くね!』

 誰もいない静かな校舎という事が幸いしていたのか、それとも余程待ちわびていたのか、俺の呼び出しの言葉とほぼ同時に花子さんの返事が返ってくる。

「……花子さん」

 二日前に会って話したばかりなのだが随分長いこと会ってなかった感覚が訪れ、目の前に現れた少女の姿を見てから、最初の言葉を発するのに数秒の時間を要した。

『隼人……』

 目の前に現れた花子さんも一日と言う時間が余程長く感じたのか、俺の姿を見てから名前を呼び、しばらく視線を合わせて硬直している。

「会いたかった」

 俺の声を聞き、余程嬉しかったのか花子さんが近寄ってきてから俺を抱きしめる。

『私も……会いたかった』

 いや、お願いだからそういう行動はやめてもらえませんかね。本当に勘違いしちゃいますから。それにあなたは全然気づいてないかもしれないけど、顔面偏差値はかなり高いですから! 何なら日本美少女コンテストに出場して優勝候補になるまであるぐらいなんですよ。だからその柔らかくて破壊力のある双丘に、俺の顔を埋めるのはマジでやめてもらえませんか。

「離れて離れて!」
『んもう! 恥ずかしがり屋さんなんだから!』

 恥ずかしがり屋って言うか、余程の恋愛脳の持ち主じゃなければこの状況をうまく回避出来ないはずだ。俺みたいに恋愛に対して後ろ向きな奴には、難易度が高い。非常に高い。これは早いところ話を変えたほうが無難だな。

「はぁ……さて、感傷に浸りたいところだけど、今は先にやることを済ませちゃおう!」
『あ、うん! そうだね』
「本の場所はどこ?」

 俺の質問に返事をしながら花子さんが図書室内を案内する。
 既に陽が落ち暗い図書室であったが、月明かりが窓から差し込み、足元にさえ注意すれば危険という事はない。
 図書室の隅々とまではいかないが、目を凝らして見れば先日の小火騒動の残骸がそこかしこに残っているのが分かる。 

『こっち』

 その月明かりの図書室の中を舞うように移動する花子さんは、まるで妖精の様でファンタジー小説にある挿絵をそのまま体現したようにも見える。
 空中を移動するのはやはり幽霊だからだろうが、それでもこのまま時が止まれば良いと、そう思わせるほどに幻想的な光景だった。

『ここ』

 そう言って案内されたのは図書室の一番奥であった。小火の影響で焦げた本棚とその奥に化学準備室が見える。
 本棚は半分近くが焼け焦げ、その前にある化学準備室の扉は小窓が割れているのが分かる。
 中はどういう状況なのかという興味で覗いてみると、棚から様々な薬品が地面に落ちて割れているのが見て取れる。
 薬品だけでなく魚やトカゲの標本までが焼かれており、その中で唯一無事な人体模型の目が不気味に輝いて俺と目を合う。
 人体模型と目が合い、一瞬ビクリと身震いしてから頭の中に不吉な予感が浮かぶ。
 それは学校の怪談によくある「動く人体模型」を思い浮かべたが、その人体模型が動くことは無く、ただその場で静観しているだけだった。
 深呼吸をしてから視線を後ろの本棚に戻すと、花子さんが自分を縛り付けていた本の真上に浮かび、その足元にある本を指さしているのが見える。
 白い装丁の本で総ページ数は大体四百ページといったところだろうか。
 本を拾い上げ、変わったところが無いか確認するが、特に変わった様子は見当たらない。
 念のためと思って開いて確認してみるが、最初のページにプロローグがあり、続けて目次と続く。
 数ページ目を通してみるが、特に変わったところは見当たらない。

「普通の本だよなぁ……『とある女生徒の幽霊日記』……花子さんってこういうの好きなの?」

 やや小さめのトーンで呟き、花子さんの目を見て質問するが、

『分からないけど……多分』

 どうやら花子さん自身でもその自覚は無いようだ。
 多分か……。まぁ生前の記憶がないって話だから、それはそれで仕方ないか。
 う~ん、花子さんが前に『趣味は読書』って言ってたから、それに関係してるのかもしれないけど、今はまだわからない……か。

「……まぁ考えるのは後回しにして、今はこれをトイレに戻して終了かな」

 複雑なことを考えるよりも、今はまず今日この場所に来た事を終わらせることに頭の中をシフトしたほうが良いな。

『そうだね! あっ隼人隠れて!』

 本を閉じて持ち出そうとした直後、花子さんが焦った様子で話しかける。その言葉は当然俺にしか聞こえないのだが、

「え?」

 声を掛けられた俺は、当然返事をしてしまった。
 不意に話しかけられたら誰でも返事しちゃうよね? 仕方ないよね?
 でも今回ばかりはちょっとまずかった。

「なんだ? 誰かいるのか?」

 返事をした直後、図書室内に一筋の光の道が出来るのが視界に映り込む。
 その光は、月明かりに照らされた幻想的な空間を切り裂くように動き、四方八方を照らし出す。
 多分……というか確実に先ほど返事をした俺の声を誰かが懐中電灯で中を観察しているのだろう。
 不意にしたその声にしゃがみ込み、息をひそめる。
 やべ! 思わず返事しちまったけど、今の俺って完全に泥棒とかになっちまうよ。このまま隠れておいた方が良いか? それとも移動したほうが良いのか?
 どうするべきか判断に迷って視線を右往左往させているところに、

『隼人、こっち!』

 花子さんが話しかけてきた。
 この声も当然俺にしか聞こえないのだが、緊張から花子さんの声も若干トーンが落とされているように感じられる。
 花子さんの言葉に無言で頷いて了解を示し、花子さんに続いて図書室の中を進む。
 ゆっくり、ゆっくりと物音を立てない様、慎重に歩を進める。
 まさか人がいるとは思わなかった。今の時間だと先生たちもいないはずだし、花子さんの話から警察でもないはずだ。だとしたら……もしかして警備員か?
 あまり出会ったことは無いけど、そう言えばうちの学校にも警備員っていたはずだ。
 どんな学校にも警備員はいるだろう。昔は教師が当番で宿直をしていたというのは聞いたことがある。
 今でこそその制度は殆ど無いが、それでも夕方以降に警備員を雇っている学校というのはいまだに多い。
 特に今は先日の小火騒ぎの所為で、図書室近辺を重点的に警備しているという可能性は非常に高いはずだ。
 その事を頭に入れて行動しなかったのは、俺の落ち度だった。
 まぁ、今更後悔しても遅い。今はこの状況をどう乗り切るかが一番重要だな。

「話し声が聞こえた気がするが……気のせいか?」

 警備員と思われる男性の声が、焦げた匂いの充満する図書室内に響く。
 低く、ゆっくりと、唸るように擦れた声は、さながら先日見た悪霊の声と勘違いしてしまえるような、そんな声である。
 その声の主が四方八方に懐中電灯の光を照らし、その光が図書室の空間を切り裂いては消えを繰り返しながら、ギシリギシリと図書室の床を踏み、徐々に俺との距離を詰めていくのが分かる。

『足元気をつけて。こっちだよ』

 俺にだけ聞こえる声で花子さんが囁き、警備員に見つからない様に道を示す。月明かりに照らされた図書室内を、足元に注意しながら花子さんの後を付いて行く。
 焦げた本棚の隣にある本棚の影に身を潜めながら壁に沿って移動していくと、警備員は事件現場の本棚まで直行しなかった。
 どうやら完全に誰かいると確信しているのか、ゆっくりと本棚の間を八の字を描くように移動しているようであった。
 本棚を隠れ蓑に、図書室を徘徊する警備員とは逆に移動して入り口を目指す。途中何度か頭上を光が照らすが、運良く警備員に発見されることは無かった。

『一旦ここに隠れて』

 花子さんに言われて隠れた場所は、図書室の貸出カウンターの中。上から見られれば一発で見つかってしまうところだが、近くに警備員はいない。
 更に本棚の影に上手く隠れているようで、事件現場に向かっている警備員からは死角になっているようだ。

「地元の悪ガキどもがイタズラでもしてるのか? いるなら出て来い! 今なら穏便に済ませてやる」
「マズイ……こっちに戻ってきたら見つかるのは時間の問題だ。花子さん、入口が開いてるか調べて!」

 貸出カウンターは入口のすぐ近くにある。扉が開いていれば逃げ出せる可能性が高い。
 万が一見つかっても全力で走れば逃げ切れるかもしれない。

『わかった』

 俺の意図を察したのか、花子さんが頭だけをカウンターから出し、図書室の入り口を確認する。
 こんなことをしなくても、花子さんは他の人からは見えないんだけどな。
 っていうか俺と違って隠れる必要など全くないんだけど。それなのにこうして俺の近くで息を潜めて隠れているのは、恐らく現在自分たちが置かれている状況を見ての事だろうな。
 いやもしかしたら、図書室の奥の方で聞こえる警備員の怒鳴り声が、より一層緊張感を高めている所為かもしれない。

「誰もいないか?」

 入り口を見つめる花子さんに囁きかける。

『開けっ放しみたい』

 図書室の扉は、廊下側に開く両開きの扉だが、片方は締切になっている。
 図書室から見て、向かって右側の扉が大きく開けっ放しになっているのを花子さんが確認し、俺の囁きに花子さんも囁き声で返事をする。

「警備員は今どのへんにいる?」

 とりあえずこれで外に逃げるのは可能だ。あとは警備員がどこにいるかで判断すべきだろう。
 一番奥にいるなら今のうちに逃げるのがベストだ。警備員が本棚の瓦礫をどかしている音が聞こえるから、たぶん事件現場のところだと思うけど。

『図書室の奥かな? 本棚に隠れてて私達の姿は見えないみたい』

 えっと、花子さんの姿は基本的に誰にも見えませんよね?
 だから今気にするとしたら、俺の姿が相手から見えるかどうかじゃないのかな?
 その辺は……突っ込まない方が良いかな。自覚無いみたいだし。とりあえず俺の予想は当たってたわけで、今のうちにここを出て逃げた方が良いってことだ。

「よし!」

 花子さんの答えに頷き、図書室から逃げ出すために立ち上がってから入口へと歩を進める。ゆっくりと慎重に。

『足元気をつけてね』

 図書室の床は木製だ。踏み込む場所によっては、木と木が擦れ合う嫌な音がするが、その音は警備員が立てる物音と声にかき消され、気にするほどではないだろう。

「あと少しで入口にたどり着く。花子さん、警備員は?」

 先ほどまで聞こえていた瓦礫をどかす音が消え、今は警備員の怒鳴り声と乱暴な足音が聞こえる。
 事件現場には誰もいないと判断したのだろう、今度は周囲を探しているのかもしれない。

『化学準備室のところにいるみたい』

 化学準備室の扉は既に壊れている為、中に入ることは出来ないのは既に確認済みだ。恐らく中を懐中電灯で照らしながら探しているのだろう。
 今なら注意が準備室だから逃げやすい。一気に図書室から抜け出そう。

「よし……」

 花子さんの答えを聞き、この隙に図書室から抜け出すことを決意する。
 早く逃げ出したいという気持ちとは裏腹に、足取りはゆっくりと慎重に、物音を立てない様入口へと向かう。
 自分の神経を最大まで集中し、物音ひとつ立てずに入り口近くまで足を進めることが出来た。
 この暗い空間の中、四方八方に注意を向けながら進んできた俺の集中力と胆力を誰か評価してくれ。
 しかしそんなことを思った瞬間、入口近くでその集中力は切れた。
 今までの集中力を維持することが出来れば見落とすはずのない物を踏んでしまったのだ。
 俺が踏んだそれは、今回の小火騒動よりずっと以前からあるものである。図書室の木製の床に、一ヶ所だけ床板が半分抜けている場所がある。
 その残っている床板のもう半分を俺が踏み、半分残っていた床板のもう半分を割ってしまい、図書室内に盛大な音を響かせてしまった。

「誰だ!」

 その音に警備員が反応しないはずはなかった。音を聞きつけた警備員が化学準備室から図書室へと意識を向け、入口まで足音を響かせながら向かってくるのが分かる。

「ヤベ!」

 こうなっては隠れている意味はない。出来るだけ速やかにその場を退散することが最良の選択だ。
 さっきまでなら図書室に響くであろう足音も気にせず、一目散に入口の扉を目指す。

「やっぱり悪ガキかぁ!」

 俺の背中を一瞬懐中電灯が撫で、続けて警備員の怒鳴り声が背中に襲い掛かる。
 警備員に見つかってから僅か数秒後、図書室の入り口から廊下に出ることに成功したはずなのに廊下を走りながら悩まされていた。
 まだ警備員との間に距離はある。でもどうすれば良い? どこの扉の鍵が開いてる?
 あぁ! こんな事ならどこから逃げるかも確認しておけば良かった。窓の鍵は内側から開けられるから飛び降りる?
 いやいや、ここは三階だぞ。骨を折るぐらいならまだしも、下手したら死ぬ。それなら昇降口まで走るか? って鍵開いてねぇよな。あぁ! もうどうすれば良いんだ?

『まだ大丈夫。私のトイレに隠れよ!』

 そんなパニックに陥っていた俺に花子さんが妙案を提示する。
 俺と花子さんが一番最初に出会った場所。三階のトイレ、奥から三番目に隠れることを提案する。
 既にそのトイレの前は通り過ぎている。学校の校舎の三階はロの字型になっており、一周すれば元の場所に戻ってくることが出来る。
 俺を追っていた警備員の足音から察すると、当然跡を追ってきているはずであり、そのトイレも通り過ぎているはずだ。

「え? でも……すぐに見つかるんじゃないか?」

 花子さんの提案に否定的な言葉で答える。

『私に任せて!』

 そんな不安な顔をしていた俺に片目を瞑ってから笑いかけ、自分にまかせろと花子さんが告げる。

「どうするの?」

 任せてと言われても、さすがにこの状況だと出来ることは限られるはずだよな。悪霊みたいに何か出来るならともかくとして、実体がないただの浮幽霊の花子さんに出来ることってないんじゃないか?
 首を傾げて花子さんに尋ねてそこまで思考が及んでから、何か特別なことを忘れていることに気が付く。
 その何かに俺が気付く前に、答えは隣から返ってきた。

『忘れてるかもしれないけど、私達幽霊には一日一回だけ、能力が使えるんだよ!』

 そういえば、花子さんを含めた悪霊になっていない浮遊霊は、人と一度だけ会話をしたり物体を動かしたり、人の前に姿を見せたりといったことが一日にたった一度に限ってだが出来る。
 それをどう使ってこの世の物に干渉するかはその幽霊次第だけど、その貴重な一回を今この時俺のために使うと言っている。
 確かに花子さんの能力を使えばこの危機を乗り越えられるかもしれない。
 でもそれは良いのか? ここでその能力を使って問題ないのか?
 それに不思議な力を使った場合、花子さんに何かしら副作用みたいなものがあるんじゃないか?
 もし花子さんに何かあったら、俺は……。

『多分隼人が今考えてるのって、私に何か不都合なことが起きないか考えてるんじゃない?』

 俺の考えを読んだように花子さんが話しかけてくる。

「……どうしてわかったの?」

 俺の考えを読まれ、花子さんと目を合わせて問いかける。

『えっとね……それはお姉ちゃんだから!』

 だから俺は姉貴って思ってないからね! それにそんな簡単なことじゃないでしょ?

『って言うのは嘘! 私の提案を聞いた後の隼人の顔を見れば分かるよ!』

 どうやら俺自身は気付いていなかったが、花子さんの提案を聞いた後の表情は、何かを不安に思っているように見えたらしい。
 感情を隠すのは得意だと思ったんだけどなぁ……。
 三階校舎の最後の曲がり角を曲がり、トイレまでの最後の直線を全力で走り抜ける。
 途中下階に通じる階段の前を通りがかり、一瞬走るスピードが落ちるがそのまま素通りしトイレまでのラストスパートをかける。
 トイレの前まで到着したあと肩で息をして花子さんと視線を合わせると

「……任せる」

 花子さんの提案に同意して呟く。
 今は花子さん以外に頼れない。

『オッケー! それじゃ、またあとでね』

 そう言い残すと後ろを振り返り、来た道を戻ろうとする。
 くそ、情けない。

「……すまない」

 力なく呟く。
 出来ることなら花子さんに負担は掛けたくない。

『そんな顔しないで!』

 悲痛な表情を浮かべる俺を慰める様に花子さんが笑いかけてきた。

『さ、隠れて!』

 最後にそう言い残すと、花子さんは元来た道を飛んで戻っていった。

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