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第二章『泥に塗れた少女』
16 新たな住人(後)
しおりを挟む牢に入って来た僕に気付いて目を覚ましたカリスに、僕は口元に指を当てて静かにするように伝える。
と言っても魔法の眠りは深いので、少々喋った程度じゃ眠らせた見張りは起きない。
単に繋がれた鎖を早く外したいから黙ってて貰うだけだ。
指を鍵穴に突っ込んでガチリと開ける僕に、カリスの目が見開かれた。
うん、確かに普通の人間に出来る事じゃないね。
如何話を切り出すべきか少し悩むが、でも正直に行こうと決める。
「夜分遅くに失礼します。今晩は、カリスさん。僕はレプトと言う名の、そう、悪魔です。助ける心算で来たんですが、少しお話しませんか?」
僕は悪魔ではあるけれど、誤魔化しが得意なタイプでは決してないから。
小声での名乗りを聞いたカリスの瞳に、不信の色が強くなる。
まあ当然の反応だ。
僕だって、逆に此処で「悪魔ですか。助けてくれるんですね? やぁ助かりましたよ」なんて軽く言われたら、今更見捨てはしないけど拠点に連れて行くのはやめとこうって思う。
でも大声を出して暴れる訳でも無いのだから、話し合いを拒絶された訳じゃ無い。
少し考えながら次の言葉を探す僕を、カリスはサッと手を突き出て制した。
「待て、一つだけ聞かせて欲しい。悪魔よ、彼は殺してしまったのか?」
そう言ってカリスが指をさすのは、僕が眠らせた牢番だ。
その問いに僕は大きく首を横に振った。
「いえ、眠らせただけです。触って起こさないなら確かめて貰って良いですよ。人助けに来て人を殺すのって嫌ですし。友人を助ける為にどうしても必要なら、多分きっと躊躇いませんが、今回は違うので誰も手に掛けてません」
僕の言葉に、カリスは此方を警戒したまま鉄格子の傍に移動して、牢番の胸が呼吸で動くのを確かめる。
此方を振り返ったカリスの瞳は、少し不信の色が和らいでいた。
「悪魔よ、疑った失礼を許されたい。私の知る伝承では、悪魔とは狡猾で恐ろしい存在だったのだ」
未だ警戒をしながらも律儀に謝罪するカリスに、僕は笑みを浮かべて首を振る。
他の悪魔に出会った事は無いけれど、以前グラモンさんに教わった内容を思い出す限り、悪魔とはカリスの言う通りの存在だ。
疑うのは何も間違った事じゃ無い。
「いえ、大丈夫。でも多分僕が例外なだけで、他の悪魔はそんなだろうから、別に何も悪くないですよ」
まあ勿論疑われるのが嬉しい訳じゃ無いし、そんな風に謝って貰えると少し嬉しくなっちゃうけれども。
ほんの少し僕とカリスの間の空気は緩んだが、しかし此処は敵地である。
幾ら見張りを無力化したとは言え、ゆっくりと親交を深める時間は無い。
ずばりと本題に、僕と一緒に逃げてくれないかと問えば、矢張り想像通りにカリスは首を横に振った。
「悪魔よ、確かに君が助けてくれるなら逃げる事も容易いかも知れない。しかし逃げてしまえば私の言葉は嘘になる。そして教会の追求の手は、私の友人たちにも及ぶだろう」
カリスの身体に刻まれた拷問の後は、恐らく発言の撤回を拒否した為に付けられた物で、つまり覚悟は既に決まっているのだろう。
そして彼の言う通り、普通に逃げて行方を晦ませば追及の手は匿う可能性があるカリスの友人にも伸び、或いは其処でも拷問の類が行われるかも知れなかった。
しかしなら諦めますと言う位なら、僕は最初から此処には来ていない。
その問題を解決する為の手段なら、既にちゃんと用意してある。
「真実の言葉も、受け取り手が歪んで居れば嘘にしかなりません。命を懸けた言葉なら教会上層部の心に届くと信じる程、カリスが愚かなら仕方ないですが、彼等には本当にその価値があるんですか?」
僕の言葉にカリスは黙り、けれど強く僕を睨み付けた。
でも僕は言葉を止めない。
「或いはカリスの言葉が教会にでは無く、友や教え子に向けての物ならば、貴方はとても酷い人間だ。嘘の無い言葉を心に届かせ、自分の後に続いて教会に歯向かい死んでくれと言ってるのだから」
噛み締めた、カリスの唇から血の滴が垂れる。
僕もこんな言葉は吐きたくないが、其れでも此れは必要な言葉だった。
飴と鞭に例えるならば此れは鞭で、懐柔の為に必要な手法だ。
「でも其れでもカリスの言葉は正しいから、僕は貴方を助けに来た。大丈夫、貴方が死ぬより教会に自らを振り返らせて、貴方の友に追及の手が及ばない方法は、僕がちゃんと用意している」
そして最後に飴を投げる。
此れでダメならもうどうしようも無い。
カリスの救いは死にしかなかったと、所詮僕は駆け引きが下手な悪魔だからと諦めよう。
……でも、暫くの間僕の目を見つめ続けたカリスは、
「……その方法を聞かせてくれ」
絞り出すように飴に喰い付いた。
つまり今回の駆け引きは、無事に僕の勝利である。
「そんな事が本当に可能なのか?」
開いた門の魔法の前で、カリスは僕に問う。
其れはどちらに不安を抱いてるのだろう?
門魔法の移動が不安なのか、それとも教会への僕の工作か、あるいはその両方だろうか。
「大丈夫、可能ですよ。僕は悪魔ですからね。心から信じる必要は無いけれど、口から出る言葉に嘘はありません」
不安を抱いたのがどちらにせよ、問題は無い。
言い切った僕に、カリスは一つ頷いた。
「わかった、信じよう悪魔よ。君は私に誠実だった。後は頼む」
そう言い残してカリスの姿は門の向こうへと消える。
送った先はこの都市の外壁の向こうだ。
カリスも今から起きる事を遠目であろうとも見たいだろうし、何よりいきなり拠点に送ると、ベラにもぐもぐされかねない。
さあ、ではあまりカリスを待たせても悪いし、最後の仕上げに取り掛かろう。
僕が収納から取り出したのは、一枚の石板だ。
ただしこの世界の技術では不可能な程に磨かれて、更に正確な正方形をしている。
そして石板には、
『私の名を騙り、我が子が我が子を踏み躙る。私は我が子を愛するが故、我が子が己を顧みるよう、我が子が救われるよう、私は此処に怒りを落とす』
とこの世界の文字で刻まれていた。
いや、石板を用意したのは僕だけれども。
そう、僕が用意した手段とは、教会への天罰だ。
勿論それを下すのは神じゃなくて僕なので、……何罰になるんだろう?
まあ天罰の模倣である。
カリスの消失もその一環にしてしまえば、彼の友人への追求は教会の首を絞める事になるだろう。
その代わりカリスは二度と此処に戻って来れないが、其れは彼も納得済みだ。
此れは教会を試す試練でもあった。
もし彼等が信心を持っていて悔い改めたならば、一時的に教会の権威は低下するだろうが、奇跡を目の当たりにした民衆からの信仰は深まって結果的にはプラスに働く。
しかし悔い改めねば、意に反し続ける彼等への次の天罰はもっと大規模な物になるだろう。
そうなってしまえば、教会の権威は恐らく取り返しの付かない所まで失墜し、今の秩序は崩壊する。
牢を出、石板を聖堂の祭壇に置き、僕は手を天へと向けた。
結構大きな魔法の行使になるけれど、犠牲者が出ない位置は計算済みだ。
今回の件で犠牲者が出ればカリスが悔やむし、犠牲者が出ない方がより奇跡が演出されるだろう。
それに何より、僕がカリスに語った「人助けに来て人を殺すのが嫌」って言葉に嘘は無い。
その日、深夜に大聖堂に降り注いだ雷は、聖堂を破壊こそすれ唯一人の犠牲者も出さず、見付かった石板の内容と合わさって天の奇跡、神が教会の腐敗を正す為に行った天罰だと噂される。
けれども教会はその噂を否定、もみ消しに走り、その態度に己の行いを顧みる様子は見られなかった。
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