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「…何で騎士団長が。」
流石にハリーの声がこわばる。
「アリーナ嬢、大丈夫か?」
ハリーがアリーナを押さえつけていた手は、あっさりと離された。シェスとハリーの力の差など歴然だ。
「大丈夫です。…助けてくださってありがとうございました」
アリーナがほっと力を抜くと、視界の端に見えたリリアーヌも力を抜いたのが分かった。
「おい、ライを呼べ。」
シェスの言葉にぎくりとするが、シェスは当たり前のような表情でそう一緒にいた部下の一人に伝えると、部下が走り出す。
まだ表面上はアリーナがライの婚約者となっているんだろうと、アリーナは思う。でも、そうでもなければ騎士団長が助けに入ってくれるようなこともなかったのかもしれないと、まだ白紙になってなかったことに感謝する。
ハリーはシェスによって壁際の住人になった後、シェスの視線で身動きが取れなくなっている。
「リリアーヌ嬢は、大丈夫かな?」
「ええ。私は通りかかっただけですから」
ニコッと笑うその笑顔は、令嬢としてふさわしい態度だろう。
「ニコル、リリアーヌ嬢を送って差し上げろ。」
だがシェスはリリアーヌのわずかな震えを見逃さなかったようで、もう一人残っていた部下にリリアーヌを会場に送り届けるように言いつける。
「リリアーヌさん、ありがとう。」
アリーナに背を向けたリリアーヌに、アリーナは声をかける。
振り向いたリリアーヌは、振り向くとアリーナに笑顔を向けてくれる。
「いえ。アリーナお姉さまが無事で良かったですわ。今度ゆっくりお茶でもいかがですか」
リリアーヌの問いかけにアリーナは驚きつつ、アリーナは頷いた。
「ええ。今度是非。」
今回のお礼を兼ねて、嫌だとは言っていられないだろう。それに、なぜこの間と態度が180度違うのか、アリーナは聞いてみたい気がしていた。
「では、また」
リリアーヌは優雅に礼をとると、ニコルと呼ばれた騎士と共に会場に戻っていった。
3人が残った場に、シェスの盛大なため息が落ちる。
「そこのハリー坊ちゃんは、自分がやったことは理解してるんだろうな?」
ハリーに向かって“坊ちゃん”呼びをするシェスに、アリーナは驚く。
「坊ちゃん呼びなんてされる年齢じゃないがな。」
投げやりにそう言うハリーは、どうやらシェスと顔見知りではあるようだ。
「30も超えるのに若い頃と同じようなことを繰り返すやつを“坊ちゃん”と呼んで何が悪いかね」
どうやらハリーのこれは、初めてではなさそうだとアリーナにもわかる。しかも、それはアリーナ以外にも被害者がいたと言うことだ。
…悪趣味だ、としか思えない。
「アリーナには同意されてなかったが、他のはすべて同意の上だ。」
ハリーが首を横に振る。
「他のも悪趣味だが、今回のは人生後悔するレベルだぞ。わかってるのか。」
シェスの忠告に、一瞬あっけにとられたハリーが、面白そうに笑いだす。
「人生を後悔する? そんな権力が騎士団副団長にはあるのか?」
信じられない、と言いたそうにまだハリーは笑っている。
アリーナも、1週間前であれば信じられなかっただろうが、今なら権力とは違うがその実力があるのだと信じられる。ただ、今となっては、ハリーが人生を後悔するほどの何かが起こることはないだろうと思える。数日前であったら、その可能性もあったかもしれないが。
「笑ってられるのも今のうちだ。」
シェスは首を横に振る。
「俺だって無事に済むかどうか。」
ん? とアリーナは思う。シェスがその災いが他人事じゃないと言ったように聞こえたからだ。
「騎士団長様ともあろうものが、副団長を恐れるとはね」
肩をすくめるハリーは、信じられるわけがないと、半ばシェスを馬鹿にしている態度だ。
「…ハリー坊ちゃん、まあ、信じられないなら信じなくてもいいさ。ただ平民の騎士団を侮るのはいいけどな、パレ家を侮るのは辞めたほうがいいぞ。」
「…侮ったわけではない。アリーナが婚約破棄されるのならば、誰が結婚相手になっても感謝はされるだろう?」
婚約破棄は、やはり外聞が悪い。特に婚約破棄された場合、女性側に非があったとみなされることが多いため、今回のライとの結婚の話がなくなったら、確かにアリーナは傷物となることだろう。だから付け込むすきがあるとハリーは考えたらしい。つまり、今回のことは本当に突発的なことだったのだとわかる。
「…婚約破棄が、どこにあるんだ?」
シェスが困惑したようにハリーを見る。
もしかしたら、シェスはさっきの場面を見ていないのかもしれないとアリーナは思う。
「誰もハリーには感謝なんてしないわ。私がそもそも結婚しないと言っているのも家族はわかっているし、今回もし何かがあったら、ハリーの逆恨みに違いないとダニエル兄様が断定するだけの話よ。ダニエル兄様がそう思ってるんだから、うちの家族がハリーに感謝することなんてありえないわ」
「おいおい、アリーナ嬢まで、何言ってるんだ?」
「アリーナ!」
戸惑うシェスの声を遮るように、ライの声が廊下に響く。
アリーナが声がした方を見ると、焦った様子のライが走りこんでくる。
ライは少しでも自分が関わった相手が困ったことになったと知って、心配はしてくれたのだろうとアリーナは思う。
気持ちを自覚してしまったから、その優しさがアリーナには逆につらい。
「アリーナ! 大丈夫ですか? 顔色が悪い。」
当然のように腰に手を回してくるライに、アリーナは言いたいことがないわけではない。だが、その温かさに、つい体を預けてしまった。離れる時に辛いのだと思うが、今だけでもそのぬくもりを感じたいという気持ちも、アリーナの本音だ。
「…アリーナ、一体何があったんです」
アリーナはライの言葉に、いやいやと言うように首を横に振った。ライに婚約破棄されるからハリーがその立場を狙っているなどと口にしたくもない。
「よくもまあ、そんなこと言えるな。」
ハリーがライをあざけるように吐き捨てる。
「貴方には聞いていませんよ、ハリー・マルロッタ。それにあなたにそんなことを言われる筋合いはないと思いますが。」
そう言われただけなのに黙り込むハリーは、ライの迫力に負けたと言っていい。
そのライの声は、まるでアリーナを本気で心配していてハリーの存在に怒っている、そういう風にしかアリーナには聞こえなかった。
だけど、アリーナの希望がそう聞こえるようにしているのかもしれなかった。
****
「よく頑張りましたね」
ニコルに声を掛けられて見上げたリリアーヌの顔は青ざめていた。先ほどまではまだ気を張っていたために平気な顔をしていられたが、ホッとしたとたん、先ほどの恐怖がよみがえってきていたのだ。
「だって…他に人がいなかったから、仕方ありませんわ。私が声を掛けなければ、アリーナお姉さまは…。」
リリアーヌが言葉を飲みこんで首を力なく振る。ニコルはリリアーヌの頭を撫でてあげたい衝動にかられたが、持ち前の理性でそれを留める。
「リリアーヌ嬢は、どうしてあそこに?」
「あの男に、一言言ってやりたかったのよ。それで一人離れたのを追ってきたら、アリーナお姉さまがあの男に捉えられていて…。」
予想外の内容に、ニコルも戸惑う。あのハリーという文官は確かに貴族の一人だったはずだが、もう何年も辺境にいて、貴族としても女官として働くリリアーヌとしても関りがあるようには思えなかったためだ。
「それは、どうして」
「ダリアがあの男に付きまとわれてほとほと困っていたからよ」
「…ダリア?」
ダリアと言う名前の令嬢は何人かいるが、ニコルもリリアーヌとかかわりのあるダリアがすぐには思い出せなかった。
「ガラ辺境伯のダリア。ダリアは私のはとこになるの」
なるほど親戚だったのか、とニコルも納得して頷く。
「ダリア嬢も、大変でしたね」
あの感じから、あの男につきまとわれたら、嫌な気分になるほかはないだろうと思える。
「あ、ライ様。」
リリアーヌの声に、ニコルもその場に立ち止まり礼をとる。
だがライはわき目もふらずに奥に向かって走っていく。ニコルの知っているライとは全く違っていて、そのことに驚く。
「ライ様は…アリーナお姉さまのことが本当に大切なのね」
寂しそうなリリアーヌの声に、ニコルはハッと思い出す。リリアーヌがライの元カノだったということを。
「…リリアーヌ嬢は、副団長のことがお好きなんですね」
思わずニコルの口をついた言葉に、リリアーヌが睨みつけてくる。
「わかっていても言わないでいるのが紳士ってものでしょう? 騎士ってデリカシーはないものなの」
「…でも、副団長を振ったのはリリアーヌ嬢だと聞いていますが。」
自分で振ったんだろうと塩を塗り込んでくるニコルに、リリアーヌはますますイライラする。
「だって! ライ様はあなたと違ってとても紳士的でしたわ。本当に最初から最後まで。私をエスコートする時以外は指一本触れないくらいの…。女性から触れて欲しいと思うのははしたないのだとは思うわ。だけど、やんわりとでもずっと拒絶されるのに耐えられる人がどれくらいいると思うの…。」
明らかにライが手を出していない様子の内容に、ニコルも面食らう。
「…そんなに副団長は紳士的…だったんですか」
ニコルの知っている副団長はガツガツした肉食系というイメージだ。だから歴代彼女が何人もいるという事実は、騎士団では当たり前のことで、ライがふられて結婚が決まらなかったのは、きっとガツガツしすぎて相手がついていけなくなったせいだろうと、誰彼となく言っていた。
「ええ。私が傷つくほどに。」
「えーっと…でも…。」
ニコルが最近入って来たライの噂は、それとはまったく真逆の行動をしているライの姿だった。
久々に婚活パーティーに出たら、アリーナを担いで持ち帰るわ、休憩時間にキスしてるわ、数日しか経っていないのに同棲の許しまで得たという、何とも、ザ・肉食な行動の数々だった。それまでの歴代彼女とはそんな表立った行動はしていなかったため、騎士団でもライが本気になるとここまでくるのか、と言う話が持ち切りだったわけだが。
「アリーナお姉さまに対する態度は違っているのよ。そう。私には勝ち目はないの」
ニコルがその噂を知っているように、リリアーヌもその噂は知っている。だから、わずかに残っていた恋心を諦めようと決めたのだ。それに、リリアーヌにとってアリーナは尊敬すべき人間になっている。リリアーヌのわずかな恋心などでアリーナを困らせたくはもうなかった。
「…リリアーヌ嬢は、今は誰とも付き合っていませんか?」
ぶしつけなニコルの質問に、リリアーヌはムッとする。
「ライ様以上の人がいないから、今は無理よ」
ライを振ってしまった後でも、リリアーヌはライを忘れることができないでいたのだ。
「…私では、力不足なんでしょうけど…。私ではだめですか」
リリアーヌはぎょっとする。ニコルとはすれ違ったことはあるかもしれないが、初対面だ。なぜ今の話からそういう話になるのか、リリアーヌには想像もできない。
「…考えられないって今言ったばかりでしょ」
「確かに、哀しいくらい今の私は副団長に及ぶところは全くないと思います。…いえ、副団長よりも私に勝るところが一つだけ。」
訝しい気持ちで、リリアーヌはニコルを見る。
「何よ」
「リリアーヌ嬢を、誰よりも愛する自信があります」
立ち止まってリリアーヌに手を差し伸べるニコルに、リリアーヌは呆れた視線を落とすと、そのまま先に歩いていく。
「リリアーヌ嬢!」
慌てた様子のニコルがリリアーヌを追いかける。
「おかげさまで、先ほどまでの恐怖の気分もすっかり晴れたから、もうここでいいわ」
完全にニコルはリリアーヌに邪険にされている。
「確かに私の家は平民で、貴族ではありませんが、一応豪商の一つとして力はあるつもりです。貴族になることは叶わないと思いますが、あなたに不自由はさせませんから」
「ないわ、ない」
「どうしてですか」
理由がわからないと言いたそうなニコルをリリアーヌはぎろりとねめつける。
「人が恐ろしい目に遭ってショック受けてるようなときにデリカシーのないようなこと言ってくる相手と結婚なんて考えられるわけないでしょ」
だがニコルはクスリと笑う。
「何よ」
勿論その馬鹿にしたような態度にリリアーヌは怒る。
「いえ。すっかり顔色も良くなって良かったな、と思って」
そのニコルの言葉に、ますますリリアーヌは怒る。
「からかっただけなんてもっとひどいわ! 最低!」
「からかったつもりはありませんが、怒らせれば嫌な気分は霧散するかと思ってはいたんです」
ニコニコと笑うニコルにリリアーヌは毒気を抜かれて、確かにハリーたちから離れた時の嫌な気分は霧散していたことに気付く。
だが、勿論そんなことでリリアーヌはニコルを好きになるわけがない。
「…知らないわ。もう結構よ」
ふい、と顔を逸らしたリリアーヌの耳が赤いのは、怒りのためか、照れのためか。
いいと言われても、ニコルはリリアーヌが両親のもとに戻るまで付き添った。
ニコルは今20歳。まだ若くはあるがライの参謀として嘱望されているとは、騎士団以外には知られてはいない。
流石にハリーの声がこわばる。
「アリーナ嬢、大丈夫か?」
ハリーがアリーナを押さえつけていた手は、あっさりと離された。シェスとハリーの力の差など歴然だ。
「大丈夫です。…助けてくださってありがとうございました」
アリーナがほっと力を抜くと、視界の端に見えたリリアーヌも力を抜いたのが分かった。
「おい、ライを呼べ。」
シェスの言葉にぎくりとするが、シェスは当たり前のような表情でそう一緒にいた部下の一人に伝えると、部下が走り出す。
まだ表面上はアリーナがライの婚約者となっているんだろうと、アリーナは思う。でも、そうでもなければ騎士団長が助けに入ってくれるようなこともなかったのかもしれないと、まだ白紙になってなかったことに感謝する。
ハリーはシェスによって壁際の住人になった後、シェスの視線で身動きが取れなくなっている。
「リリアーヌ嬢は、大丈夫かな?」
「ええ。私は通りかかっただけですから」
ニコッと笑うその笑顔は、令嬢としてふさわしい態度だろう。
「ニコル、リリアーヌ嬢を送って差し上げろ。」
だがシェスはリリアーヌのわずかな震えを見逃さなかったようで、もう一人残っていた部下にリリアーヌを会場に送り届けるように言いつける。
「リリアーヌさん、ありがとう。」
アリーナに背を向けたリリアーヌに、アリーナは声をかける。
振り向いたリリアーヌは、振り向くとアリーナに笑顔を向けてくれる。
「いえ。アリーナお姉さまが無事で良かったですわ。今度ゆっくりお茶でもいかがですか」
リリアーヌの問いかけにアリーナは驚きつつ、アリーナは頷いた。
「ええ。今度是非。」
今回のお礼を兼ねて、嫌だとは言っていられないだろう。それに、なぜこの間と態度が180度違うのか、アリーナは聞いてみたい気がしていた。
「では、また」
リリアーヌは優雅に礼をとると、ニコルと呼ばれた騎士と共に会場に戻っていった。
3人が残った場に、シェスの盛大なため息が落ちる。
「そこのハリー坊ちゃんは、自分がやったことは理解してるんだろうな?」
ハリーに向かって“坊ちゃん”呼びをするシェスに、アリーナは驚く。
「坊ちゃん呼びなんてされる年齢じゃないがな。」
投げやりにそう言うハリーは、どうやらシェスと顔見知りではあるようだ。
「30も超えるのに若い頃と同じようなことを繰り返すやつを“坊ちゃん”と呼んで何が悪いかね」
どうやらハリーのこれは、初めてではなさそうだとアリーナにもわかる。しかも、それはアリーナ以外にも被害者がいたと言うことだ。
…悪趣味だ、としか思えない。
「アリーナには同意されてなかったが、他のはすべて同意の上だ。」
ハリーが首を横に振る。
「他のも悪趣味だが、今回のは人生後悔するレベルだぞ。わかってるのか。」
シェスの忠告に、一瞬あっけにとられたハリーが、面白そうに笑いだす。
「人生を後悔する? そんな権力が騎士団副団長にはあるのか?」
信じられない、と言いたそうにまだハリーは笑っている。
アリーナも、1週間前であれば信じられなかっただろうが、今なら権力とは違うがその実力があるのだと信じられる。ただ、今となっては、ハリーが人生を後悔するほどの何かが起こることはないだろうと思える。数日前であったら、その可能性もあったかもしれないが。
「笑ってられるのも今のうちだ。」
シェスは首を横に振る。
「俺だって無事に済むかどうか。」
ん? とアリーナは思う。シェスがその災いが他人事じゃないと言ったように聞こえたからだ。
「騎士団長様ともあろうものが、副団長を恐れるとはね」
肩をすくめるハリーは、信じられるわけがないと、半ばシェスを馬鹿にしている態度だ。
「…ハリー坊ちゃん、まあ、信じられないなら信じなくてもいいさ。ただ平民の騎士団を侮るのはいいけどな、パレ家を侮るのは辞めたほうがいいぞ。」
「…侮ったわけではない。アリーナが婚約破棄されるのならば、誰が結婚相手になっても感謝はされるだろう?」
婚約破棄は、やはり外聞が悪い。特に婚約破棄された場合、女性側に非があったとみなされることが多いため、今回のライとの結婚の話がなくなったら、確かにアリーナは傷物となることだろう。だから付け込むすきがあるとハリーは考えたらしい。つまり、今回のことは本当に突発的なことだったのだとわかる。
「…婚約破棄が、どこにあるんだ?」
シェスが困惑したようにハリーを見る。
もしかしたら、シェスはさっきの場面を見ていないのかもしれないとアリーナは思う。
「誰もハリーには感謝なんてしないわ。私がそもそも結婚しないと言っているのも家族はわかっているし、今回もし何かがあったら、ハリーの逆恨みに違いないとダニエル兄様が断定するだけの話よ。ダニエル兄様がそう思ってるんだから、うちの家族がハリーに感謝することなんてありえないわ」
「おいおい、アリーナ嬢まで、何言ってるんだ?」
「アリーナ!」
戸惑うシェスの声を遮るように、ライの声が廊下に響く。
アリーナが声がした方を見ると、焦った様子のライが走りこんでくる。
ライは少しでも自分が関わった相手が困ったことになったと知って、心配はしてくれたのだろうとアリーナは思う。
気持ちを自覚してしまったから、その優しさがアリーナには逆につらい。
「アリーナ! 大丈夫ですか? 顔色が悪い。」
当然のように腰に手を回してくるライに、アリーナは言いたいことがないわけではない。だが、その温かさに、つい体を預けてしまった。離れる時に辛いのだと思うが、今だけでもそのぬくもりを感じたいという気持ちも、アリーナの本音だ。
「…アリーナ、一体何があったんです」
アリーナはライの言葉に、いやいやと言うように首を横に振った。ライに婚約破棄されるからハリーがその立場を狙っているなどと口にしたくもない。
「よくもまあ、そんなこと言えるな。」
ハリーがライをあざけるように吐き捨てる。
「貴方には聞いていませんよ、ハリー・マルロッタ。それにあなたにそんなことを言われる筋合いはないと思いますが。」
そう言われただけなのに黙り込むハリーは、ライの迫力に負けたと言っていい。
そのライの声は、まるでアリーナを本気で心配していてハリーの存在に怒っている、そういう風にしかアリーナには聞こえなかった。
だけど、アリーナの希望がそう聞こえるようにしているのかもしれなかった。
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「よく頑張りましたね」
ニコルに声を掛けられて見上げたリリアーヌの顔は青ざめていた。先ほどまではまだ気を張っていたために平気な顔をしていられたが、ホッとしたとたん、先ほどの恐怖がよみがえってきていたのだ。
「だって…他に人がいなかったから、仕方ありませんわ。私が声を掛けなければ、アリーナお姉さまは…。」
リリアーヌが言葉を飲みこんで首を力なく振る。ニコルはリリアーヌの頭を撫でてあげたい衝動にかられたが、持ち前の理性でそれを留める。
「リリアーヌ嬢は、どうしてあそこに?」
「あの男に、一言言ってやりたかったのよ。それで一人離れたのを追ってきたら、アリーナお姉さまがあの男に捉えられていて…。」
予想外の内容に、ニコルも戸惑う。あのハリーという文官は確かに貴族の一人だったはずだが、もう何年も辺境にいて、貴族としても女官として働くリリアーヌとしても関りがあるようには思えなかったためだ。
「それは、どうして」
「ダリアがあの男に付きまとわれてほとほと困っていたからよ」
「…ダリア?」
ダリアと言う名前の令嬢は何人かいるが、ニコルもリリアーヌとかかわりのあるダリアがすぐには思い出せなかった。
「ガラ辺境伯のダリア。ダリアは私のはとこになるの」
なるほど親戚だったのか、とニコルも納得して頷く。
「ダリア嬢も、大変でしたね」
あの感じから、あの男につきまとわれたら、嫌な気分になるほかはないだろうと思える。
「あ、ライ様。」
リリアーヌの声に、ニコルもその場に立ち止まり礼をとる。
だがライはわき目もふらずに奥に向かって走っていく。ニコルの知っているライとは全く違っていて、そのことに驚く。
「ライ様は…アリーナお姉さまのことが本当に大切なのね」
寂しそうなリリアーヌの声に、ニコルはハッと思い出す。リリアーヌがライの元カノだったということを。
「…リリアーヌ嬢は、副団長のことがお好きなんですね」
思わずニコルの口をついた言葉に、リリアーヌが睨みつけてくる。
「わかっていても言わないでいるのが紳士ってものでしょう? 騎士ってデリカシーはないものなの」
「…でも、副団長を振ったのはリリアーヌ嬢だと聞いていますが。」
自分で振ったんだろうと塩を塗り込んでくるニコルに、リリアーヌはますますイライラする。
「だって! ライ様はあなたと違ってとても紳士的でしたわ。本当に最初から最後まで。私をエスコートする時以外は指一本触れないくらいの…。女性から触れて欲しいと思うのははしたないのだとは思うわ。だけど、やんわりとでもずっと拒絶されるのに耐えられる人がどれくらいいると思うの…。」
明らかにライが手を出していない様子の内容に、ニコルも面食らう。
「…そんなに副団長は紳士的…だったんですか」
ニコルの知っている副団長はガツガツした肉食系というイメージだ。だから歴代彼女が何人もいるという事実は、騎士団では当たり前のことで、ライがふられて結婚が決まらなかったのは、きっとガツガツしすぎて相手がついていけなくなったせいだろうと、誰彼となく言っていた。
「ええ。私が傷つくほどに。」
「えーっと…でも…。」
ニコルが最近入って来たライの噂は、それとはまったく真逆の行動をしているライの姿だった。
久々に婚活パーティーに出たら、アリーナを担いで持ち帰るわ、休憩時間にキスしてるわ、数日しか経っていないのに同棲の許しまで得たという、何とも、ザ・肉食な行動の数々だった。それまでの歴代彼女とはそんな表立った行動はしていなかったため、騎士団でもライが本気になるとここまでくるのか、と言う話が持ち切りだったわけだが。
「アリーナお姉さまに対する態度は違っているのよ。そう。私には勝ち目はないの」
ニコルがその噂を知っているように、リリアーヌもその噂は知っている。だから、わずかに残っていた恋心を諦めようと決めたのだ。それに、リリアーヌにとってアリーナは尊敬すべき人間になっている。リリアーヌのわずかな恋心などでアリーナを困らせたくはもうなかった。
「…リリアーヌ嬢は、今は誰とも付き合っていませんか?」
ぶしつけなニコルの質問に、リリアーヌはムッとする。
「ライ様以上の人がいないから、今は無理よ」
ライを振ってしまった後でも、リリアーヌはライを忘れることができないでいたのだ。
「…私では、力不足なんでしょうけど…。私ではだめですか」
リリアーヌはぎょっとする。ニコルとはすれ違ったことはあるかもしれないが、初対面だ。なぜ今の話からそういう話になるのか、リリアーヌには想像もできない。
「…考えられないって今言ったばかりでしょ」
「確かに、哀しいくらい今の私は副団長に及ぶところは全くないと思います。…いえ、副団長よりも私に勝るところが一つだけ。」
訝しい気持ちで、リリアーヌはニコルを見る。
「何よ」
「リリアーヌ嬢を、誰よりも愛する自信があります」
立ち止まってリリアーヌに手を差し伸べるニコルに、リリアーヌは呆れた視線を落とすと、そのまま先に歩いていく。
「リリアーヌ嬢!」
慌てた様子のニコルがリリアーヌを追いかける。
「おかげさまで、先ほどまでの恐怖の気分もすっかり晴れたから、もうここでいいわ」
完全にニコルはリリアーヌに邪険にされている。
「確かに私の家は平民で、貴族ではありませんが、一応豪商の一つとして力はあるつもりです。貴族になることは叶わないと思いますが、あなたに不自由はさせませんから」
「ないわ、ない」
「どうしてですか」
理由がわからないと言いたそうなニコルをリリアーヌはぎろりとねめつける。
「人が恐ろしい目に遭ってショック受けてるようなときにデリカシーのないようなこと言ってくる相手と結婚なんて考えられるわけないでしょ」
だがニコルはクスリと笑う。
「何よ」
勿論その馬鹿にしたような態度にリリアーヌは怒る。
「いえ。すっかり顔色も良くなって良かったな、と思って」
そのニコルの言葉に、ますますリリアーヌは怒る。
「からかっただけなんてもっとひどいわ! 最低!」
「からかったつもりはありませんが、怒らせれば嫌な気分は霧散するかと思ってはいたんです」
ニコニコと笑うニコルにリリアーヌは毒気を抜かれて、確かにハリーたちから離れた時の嫌な気分は霧散していたことに気付く。
だが、勿論そんなことでリリアーヌはニコルを好きになるわけがない。
「…知らないわ。もう結構よ」
ふい、と顔を逸らしたリリアーヌの耳が赤いのは、怒りのためか、照れのためか。
いいと言われても、ニコルはリリアーヌが両親のもとに戻るまで付き添った。
ニコルは今20歳。まだ若くはあるがライの参謀として嘱望されているとは、騎士団以外には知られてはいない。
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哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
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