ラヴェンナ・ヴァラディ ~語れる司書の物語~

ほか

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第1話 宅配司書と作家志望

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 五月を過ぎたその日も、ラヴェンナはカカオ・スプリッツァーを差し入れにプルメリアの書斎の戸を叩いた。



 ラヴェンナにあてがわれている部屋の続きの一部屋――一月と少し前、ワットが大量の書物を棚に敷き詰めていったあの部屋である。



 贅沢に三つもあるテーブルの棚に一番近い奥に陣取り行儀悪く肘をつき、隈のできた目でプルメリアは書物を抑え、右手にはペンを持っていた。



 一月前、きらめくほど艶やかだった黒髪は乱れ、傷んでいる。



 まだ元気がない。



 じっとりと書物に落とした隈の上の瞳がかすかに赤らんでいるのは、泣きはらした証だろうか。







「プルメリア様」







 ぽんと、難解な書物の上にペーパーバックの読み物を置く。



 とうとうラヴェンナは、ある特定の本をプルメリアに差し出した。



「恋は現実世界でなくても楽しめます」



 ペーパーバックを手に取り日にかざしうろんげに見上げると、プルメリアは呟いた。恋愛物? と。



「あたしに、本の中の男に走れって?」



 ラヴェンナが息を呑んだ。



 しばし止めた呼吸。



 空気の代わりのようにウィスタリアのその目が祝福の光に満ち満ちる。



 端正な女は思いきり破顔した。



「盲点でした。それも一策かと!」







 目にも止まらぬ速さで本をプルメリアからはぎとり、ぐっと眼前に近付ける。



「ルーシー・モード・モンゴメリ作『青い城』。この本のヒロインの恋の相手である彼は、ヒロインが何時に起床するかということに頓着せず、家の掃除もできればしないでほしいという人です。プルメリア様には理想的な相手かと‼」



「……どういう意味よ」



 むすりと目を眇めたものの、プルメリアはテーブルの上についた肘で顎を支え一考する。



「でも悪くないわね、そういう人」



 その一言を聞き漏らしては司書の名が廃るとばかりに、ラヴェンナはたたみかける。



「しかもです。世の多くの女性が好む傾向にある、危険な香りというのも兼ね添えています。街では前科者だとか噂されていますし」



「……いくらなんでも、それは危険すぎ」



 苦言を呈すれば、そうですか……としゅんと肩をすぼめるその姿に、くすりと零れそうになる笑みを手の甲で隠す。







「……ありがと」



「え?」



 顔を上げたラヴェンナに、プルメリアは文句でも言うように告げた。



「ありがとって言ってんのよ。励ましてくれたんでしょ?」



「プルメリア様」



プルメリアはがっと長い髪を両手で挟み込む。こそばゆいのは苦手だ。



「そうね。あんたの言いたいことはわかる。失恋の傷は新しい恋で癒すしかないもの」



 あっさりした返礼として流してほしかったのだが、ラヴェンナは食い入るようにプルメリアの目を追ってくる。







「プルメリア様。新たに、恋をされているのですか。冗談ではなく」



「……」







 きらりと光る、ブラックカラントの目。



 疲労でぱさぱさに乾いていてもなお、妖艶に吊り上がる唇。 



 問いには答えなかった。



 代わりにプルメリアは、会話に新たな一石を投じる。



「ねぇ、恋バナしない?」





 あんた、恋人は?



 挑戦的に、どこかいたずらっぽく。



 そう差し向けられたラヴェンナはかすかにたじろいだ。



 この手の質問を同世代の同性から受けるのは初めてではない。



「ありません」



 そしてその度、説明を試みて。



「じゃ好きな人は?」



 その難易度に窮してきた。



 決まって特定の人物を思い浮かべその度罪悪感が募る。



『ラヴェンナさん』



 ウィスタリア図書館でいつでも迎えてくれる人物。



「いえっ、そんな、おそれおおい」



 ぶんぶんと手を振っていると、ははあとプルメリアが意味深な笑いを零した。



「わかりやすいわね。年上? もしかして上司? どんなとこが好き?」



 矢継ぎ早の質問にたどたどしくもどうにか答える。



「はい。……同じ、職場の方です」







 ふぅんとプルメリアが手の甲の上の顎を低く沈める。



 その目は如才なく光り、まるでまだすべての質問には答えていないとたたみかけるようだ。



「……その人が、何か語られると、同じものが、わたしの中にもあったことを気付かされるんです。真新しい情報のはずなのに。不思議な、感覚になります」



 瞳のウィスタリアの中にかすかなローザが踊る。



 それを確認したプルメリアの表情からは、けだるさがそぎ落とされていた。



「ひょっとして似てるかも。あんたとあたしのタイプ」



「はい?」



「っていうか、好きになるポイントっていうのかな、ストライクゾーンとか、言うでしょ」



 こつこつと、長い指で頬を叩きながら、目を細め、プルメリアは語る。







「あの人はあたしが出会った中で、世間一般の通念と、自分自身の思考を区別する唯一の人だったの」







「はっ」



 閃光が、ラヴェンナの全身を貫く。



 プルメリアの言葉に刺激され、ラヴェンナの古い記憶に命が吹き込まれる。







『ラヴェンナ。――ラヴェンナ・ヴァラディ』







『この名をあなたに授けます』



『ヨーロッパのとある小さな町の名です。岩壁で形作られた堅牢な街並みからは想像だにつかない、紺碧に彩られたきらびやかな内装のモスクが数多く点在する』



『静かな外観に相反する豊かな実りを内包する。あなたはそういう女性になります』



『優しくされたければ、あなたがあなたに優しくありなさい』







 幼い頃に刻まれた言葉。



 世界から、自分自身の輪郭を切り取って、抱きしめられる感触を知らしめてくれた、言葉。



 継ぐ依頼人の言葉が、静かに彼女を現実へと揺り戻す。



「自分でもあばずれに半歩踏み出しかけてる自覚はあるけどさ。親には従うものだとか、女はみな結婚するものだとか。文字とか学問に触れるなとか。そういうこと言われた途端なえちゃうのよね」



「はい」



 短いラヴェンナの返答は、熱を持って響く。







 何度か想像した。



『ラヴェンナさん、図書館司書になる気はありませんか』



 もしもあの時――あの人に見出されていなかったら。



 自分は今頃どうなっていたのかと。







「あの人だけは違ったの。物語を解するのも才能だと。好きなら続けていくべきと言ってくれた」



『きみの世界の切り取り方が好きだ』



『みんなが思っていて、それでいて素通りしてしまうものを鋭く拾い上げる』



『きみの言葉には力があるよ』



 色褪せない記憶のそのままに、彼の言葉を紡ぐプルメリア。



 見上げれば、いつしかお人形はまた、微笑んでいる。



「同意です」



「……好きだった」



 伏せたプルメリアの瞼は小刻みに震えている。







「好きだったの、ずっと」



「――好きです、わたし。プルメリ様の紡ぐ、物語が」







 瞼で覆った瞳がふいにぴんと緊張する。



「な」



 動揺の中に一縷の恐怖すら見せて。



 プルメリアは顔を上げた。



「何で」



 そこに映るのは、華やかな薔薇というより、東洋のどこかの薄紅の小花を思わせるような、繊細な笑み。







「お掃除を仰せつかりましたから。没になった原稿が捨てられていました。どのように処理してもよいとのことだったので、読みました」



「……」



ぱしっとプルメリアは顔に手をあてる。



 腕に飾ったエメラルドストーンと銀の玉のブレスレットが揺れた。



「西洋のものであればなんでも、というご注文は、西洋の文化も思想もなにもかも吸収したかったからなのですね」







 物語の題材として、舞台として。



「今現在の、世界に受け入れやすい設定下地を整えたかった。そうですね」



 指の隙間から、どこか決まり悪そうな瞳がじとりと覗く。



「そのぼんやりしてるのって演技? なんでそう察しがいいのよ」



 ほんの少しだけいたずらっぽく、ウィスタリアの瞳が弧を描いた。



「よく言われます」



 頭痛でもこらえるようにまた目を閉じて、再び開いた時、プルメリアはその顔を覆う手を薙ぎ払っていた。



「そうよ」



 そう。それこそがプルメリアが司書宅配サービスを利用した真の目的。



 結婚前、最後にかかる大作の取材のため。



 ペンの尻軸と視線をまっすぐに膨大な書物に向けながら、プルメリアの言葉はその内部で続いていく。



 文章を書くようになったのは。



 今書かずにいられないのはたぶん。



 こう見えて、思ってることを言い現わすのが下手だからなんだと思う。







 いつも、言えなかった。



 学校で先住民の子といじめられた時も。



 機嫌の悪い両親に産まなければよかったと言われた時も。



 言い返せばもっと傷つくことを言われる。そう思って。



 ――カイ、好きだったのよ。あなたが。



 一番言いたかった言葉をもプルメリアは飲み込んで死んでいく。



 いや。――死にきれないから、書く。







「物語には、伝えたいことや核となるものがあるのが大前提だけど、もう一つ。魅せ方という側面があるわ」



「はい」



 この子の返答はいつも短くとも、不思議な中身を伴っていると思う。



 その証拠に、プルメリアの一人語りを十二分に促進した。



「読者に心地よく受け入れられる、導入剤がなくては。でもそれはあくまでディテール。であればこの際柔軟に、手段を択ばないことにしたの」



「――英断です」



「ほんの今の時代、先端を行く国の人々が受け取りやすい舞台設定で書くことを、迎合という人は必ずいるでしょうけど」







 先ほどの花咲いたような笑みが幻であるかのように、神妙な表情で頷いたラヴェンナに、プルメリアは、告げた。



「あたしにとってはあくまで文壇に入り込むための装備に過ぎない」



 書面にではなく初めて生の音に切り取る。



「いつかそこをあたしの独壇場に染め上げる」



 わざと鉄錆びでおおい、古びていくことを促していると思っていた。



 だがまだ依然として鈍い光を放ち、自身を捕らえ放さない、未来からの閃光を。

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