ラヴェンナ・ヴァラディ ~語れる司書の物語~

ほか

文字の大きさ
38 / 94
第2話 宅配司書と劇作家

16

しおりを挟む
 盛りの季節に成長を遂げたレモンが収穫期を迎える。



 ヴェネチアの夏ももう終わる。



 鮮烈なオレンジのグアバジュースを手にグリッサンドーニの私室に入ってくる女がいた。



 依然としてラヴェンナは彼の元に健康的なジュースを届け続けている。







「業務は終わったのだろうが。とっとと出ていけ」



「はい。ブックトークは済みました。ですが、会社に残業許可もいただいたので」



 崩さぬ笑みでそんなことを言うのだからやはり、案外したたかな精神の持ち主かもしれない。



「まだお客様のご意見ご感想を伺っておりません」



「……あの、勝手な本の紹介を聴いて、思い立ったことがある」



 改まるように、ラヴェンナはその場に立膝をつく。



「拝聴します」



「現実世界で、わたしが喋りたかったこと」



 ふいにグリッサンドーニはペンを止めた。



 その下にあるのは譜面でも、プロット用紙でもなく。







「今わたしが書きたいのは曲でなく、手紙……なのかもしれん」



 そこに書かれていたのは、一片の詩であった。



 ありふれた不器用な夫から、去っていった妻に宛てたもの。



 まだ仕事が軌道に乗っている時、これが片付いたらどこかへいこうと、気まぐれにそう呟いたことがあった。



 それを大事に拾った妻はずっと計画していた。



 なのに、この身体は病気になった。









 本当は、優しくしたかった。







 目がしらに熱いものが込み上げてきて、柄にもなく、グリッサンドーニは雇った宅配司書から顔を背ける。



 だが目を背けるほどに、心の声は溢れ出した。



 一番大切なきみが、僕を恐怖の目で見て。



 それでもわかろうとして、何度も躓いて。



 その度僕はきみを怒鳴り散らして。



 怒鳴りながらずっと泣いていた。



 とても、辛かった。



 そのうちきみも疲れ果てて。



 豪邸には僕の抑えられない暴言だけが、響くようになって。



 きみはとうとう、いなくなった。







 どうして。どうして。



 人はなぜ、優しくなれないの。



 神様。



 人を作ったのがあなたなら。



 優しい顔をさせてよ。



 大事な人の前でくらい。



 優しい顔をさせてよ。



 ただ怖がりで悲しいだけの生き物なのに。



 誰も優しくさせては、くれない。







「伝えられていなかったっ、ことが、ある」



「はい」



「だからっ、妻に、手紙を書こうかと、思うんだが」



 ぐしゃぐしゃになり、栄光ある作曲家の体面など形無しの顔で、彼はそれでも、言葉にした。



 五十を超えた男の情けないみじめな姿にも。



「素晴らしいと思います」



 宅配司書は満開の笑みで応える。それどころか。



「少し、拝見してもいいですか?」



 身体を傾けそんなリクエストまでしてくる。



 盛大に鼻をかんで、グリッサンドーニは頭を掻いた。



「いや、からきしだ。オペラの戯曲となればどんな情熱的な台詞だって書けるのに。



 情けないものだ」



 あら、と解せないように彼女は首を傾げる。



「こんなに饒舌に書いてらっしゃるのに?」



「え」







 そのしなやかな右手が指示したのは、グリッサンドーニの手元。



 大作曲家は、狼狽えた。



「ちょ、ちょっと待て貴様! 深夜に酒に酔って書いた、こんなたわごとみたいな詩を?



 自分の世界に浸りまくって、最後なんか幼子の口調になっているのだぞ。どこの世界の女性が、夫からこんな情けないものをもらって歓ぶっ⁉ 阿呆かお前は!」



 またとない天才で、それでいてどこにでもいる年を重ねた幼子に、黙ったまま宅配司書は微笑む。



「ずっと言いたくて。でも言えなくて。よどみのように、あなた様を蝕むほど、強い言葉、なんですよね」



「……」



 そんな司書を前には、屈強な男も、黙り込んでしまう。



「今こそ奥様に、伝えるべきです」



「……」



 かつての、そしてもしかしたらこれからの。



 偉大な作曲家は母親に諭された従順な幼子のようにこっくりと、頷いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

三年の想いは小瓶の中に

月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」

歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。 「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは 泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析 能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り 続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。 婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」

処理中です...