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9章 航
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いつの間にか、亜希は床に転がって眠ってしまっていた。ゆっくりと視線を向けた窓の外は暗く、まだ夜は続いているらしい。大きな雨粒が窓ガラスをぱしぱしと叩いている。
のろのろと身を起こしたが、ベッドはもぬけの殻だった。反対側の引き戸は開きっぱなしで、水音が遠く聞こえてくる。目を覚ました彼はシャワーを浴びているようだ。
目を擦ってスマートフォンを探り、スイッチを入れて時間を確かめる。午前三時。普段はすっかり熟睡している時刻。
やがて、長袖のシャツとジャージのズボンに着替えた航が戻ってきた。乾かしていない髪は湿っていて、片手にはビールの缶を下げている。おもむろに電気のスイッチを入れた。暗い部屋がたちまち明るくなり、亜希は思わず目を瞑る。
彼はベッドに背を向け、片膝を立てて床に座ると、缶のプルトップを開けた。炭酸飲料特有の、プシュ、という音がする。その中身をあおる度に細い喉が動くのを、亜希はただ眺めていた。今はもう、彼の飲酒を責める気にはなれなかった。
やっと一息ついた航が、缶を床に置く。
その目は暗く沈み、ただじっと床を見つめている。止まない雨音の中、沈鬱な静けさが浮き彫りになる。彼の呟きは、その静寂にも紛れそうな一言だった。
「……知ってたんだな」
春乃が結婚することは、彼よりも先に知っていた。
亜希は何も言わずに俯く。彼の心を和らげる言葉が、何一つ思いつかない。
他人であるはずの亜希が、自分の最も愛する人の重大な決断を知っていた。そして自分にそれを教えなかった。しかし、それは春乃の口止めによるものだとは、彼も気づいただろう。
それでも、どうしようもない虚しさとやるせなさ。これまでの努力が徒労に終わってしまった悲しみ。愛する人が離れてしまう不安もあるかもしれない。そうした感情に押しつぶされて、彼は無気力に視線を伏せている。
と、その喉からふふっと微かな声が漏れた。項垂れている彼の肩が、小さく震える。
あはは、と航は笑い声をあげた。
するともう止まらなくなったのか、顔を上げて彼は大声で笑いだす。いつもの人を小ばかにする時とは違う、満面の笑み。腹の底から声を出して、彼は笑う。
初めて見るその姿に呆然としていた亜希は、はっとする。彼は確かに笑っている。確実に笑っているはずなのに、その表情は涙を流しているようにも見えた。決して涙は流れていない。しかしこの笑い声は、泣き声にも聞こえる。子どもではいられない彼は、せめて笑う声と顔で泣いている。感情の津波にのまれ、堪えきれずに涙を流す。
その声も、やがて収束し始めた。大きな呼吸と共に、笑いつかれたため息を吐く。
「来栖くん……」
思わず、亜希は声をかけた。
「なんで知ってるんだよ。ストーカーか?」
頬を引きつらせる彼は、こちらを見ない。
「違う……。この前、偶然春乃さんに会って、その時に教えてもらって」
「どうして黙ってた」
「内緒にしてって言われて。来栖くんには、直接言いたいからって」
唐突だった。
瞬間、身を乗り出す彼に左の手首を掴まれる。その手には恐ろしいほど力がこもっている。
覇気に押されて思わず後ずさる背が、どんと壁にぶつかった。こちらを見る彼の顔は、先ほどの笑顔が嘘のように怒りに満ちていた。眉間に皺をよせ、歯を食いしばり、息を切らしている。
「俺を嗤ってたのか」
唇の隙間から、低い声が漏れる。
「何も知らない俺を見て、馬鹿にしてたのか」
「そんな……」
「勝手に調べて俺の弱みに付け込んで、何がしたいんだよ!」
燃えるような怒りを目の当たりにして、亜希の喉はからからに乾く。春乃のことだけではない。彼があの女に身を売っていた事実も不可抗力で知らされたとはいえ、彼にとっては勝手に調べられたも同然だ。凛香への協力も航が不快感を露わにしなかっただけで、その感情を探って弄ぶ行為だったかもしれない。
「……ごめんなさい」自然と謝罪が口をついていた。
「認めるんだな。俺が必死に働いてるのを見て、さぞ楽しかっただろうな!」
「そんなつもりじゃ、なかったんです」
「ふざけんな!」
「来栖くんを馬鹿にしたことなんて、ありません」
「白々しいんだよ! どこまでもとぼけやがって!」
初めて目にする、彼の燃えるような真っ直ぐな感情。握られる手首は折れてしまいそうに痛みを訴えている。
亜希はこみ上げるものをぐっとこらえ、航をまっすぐ見上げた。見つめるだけで、彼の熱が伝わりそうな距離だった。その距離だから、いつも彼が隠してしまう感情が、全て伝わった。浮彫の孤独、大切な人への愛情、幸せを願う気持ちと、それが及ばなかった落胆。誰のことも憎めないまま、やり場のない感情を持て余す。本当の、本物の来栖航。
「傷つけてしまって、ごめんなさい」
自然と、正直な言葉たちが亜希の口から言葉になる。
「私はただ、あなたが大事なんです」
誤解されても仕方がない。ただこれだけは知っていてほしい。
あなたは、私の大切な人なのだと。
「私は来栖くんの、そばにいたいだけなんです」
信じられないと驚愕を表情に見せる彼の手から、ゆっくりと力が抜けていく。乗り出していた身体を引き、彼は静かに項垂れた。亜希も視線を伏せる。彼が望んでいたのは、こんな台詞ではなかっただろうに。
のろのろと身を起こしたが、ベッドはもぬけの殻だった。反対側の引き戸は開きっぱなしで、水音が遠く聞こえてくる。目を覚ました彼はシャワーを浴びているようだ。
目を擦ってスマートフォンを探り、スイッチを入れて時間を確かめる。午前三時。普段はすっかり熟睡している時刻。
やがて、長袖のシャツとジャージのズボンに着替えた航が戻ってきた。乾かしていない髪は湿っていて、片手にはビールの缶を下げている。おもむろに電気のスイッチを入れた。暗い部屋がたちまち明るくなり、亜希は思わず目を瞑る。
彼はベッドに背を向け、片膝を立てて床に座ると、缶のプルトップを開けた。炭酸飲料特有の、プシュ、という音がする。その中身をあおる度に細い喉が動くのを、亜希はただ眺めていた。今はもう、彼の飲酒を責める気にはなれなかった。
やっと一息ついた航が、缶を床に置く。
その目は暗く沈み、ただじっと床を見つめている。止まない雨音の中、沈鬱な静けさが浮き彫りになる。彼の呟きは、その静寂にも紛れそうな一言だった。
「……知ってたんだな」
春乃が結婚することは、彼よりも先に知っていた。
亜希は何も言わずに俯く。彼の心を和らげる言葉が、何一つ思いつかない。
他人であるはずの亜希が、自分の最も愛する人の重大な決断を知っていた。そして自分にそれを教えなかった。しかし、それは春乃の口止めによるものだとは、彼も気づいただろう。
それでも、どうしようもない虚しさとやるせなさ。これまでの努力が徒労に終わってしまった悲しみ。愛する人が離れてしまう不安もあるかもしれない。そうした感情に押しつぶされて、彼は無気力に視線を伏せている。
と、その喉からふふっと微かな声が漏れた。項垂れている彼の肩が、小さく震える。
あはは、と航は笑い声をあげた。
するともう止まらなくなったのか、顔を上げて彼は大声で笑いだす。いつもの人を小ばかにする時とは違う、満面の笑み。腹の底から声を出して、彼は笑う。
初めて見るその姿に呆然としていた亜希は、はっとする。彼は確かに笑っている。確実に笑っているはずなのに、その表情は涙を流しているようにも見えた。決して涙は流れていない。しかしこの笑い声は、泣き声にも聞こえる。子どもではいられない彼は、せめて笑う声と顔で泣いている。感情の津波にのまれ、堪えきれずに涙を流す。
その声も、やがて収束し始めた。大きな呼吸と共に、笑いつかれたため息を吐く。
「来栖くん……」
思わず、亜希は声をかけた。
「なんで知ってるんだよ。ストーカーか?」
頬を引きつらせる彼は、こちらを見ない。
「違う……。この前、偶然春乃さんに会って、その時に教えてもらって」
「どうして黙ってた」
「内緒にしてって言われて。来栖くんには、直接言いたいからって」
唐突だった。
瞬間、身を乗り出す彼に左の手首を掴まれる。その手には恐ろしいほど力がこもっている。
覇気に押されて思わず後ずさる背が、どんと壁にぶつかった。こちらを見る彼の顔は、先ほどの笑顔が嘘のように怒りに満ちていた。眉間に皺をよせ、歯を食いしばり、息を切らしている。
「俺を嗤ってたのか」
唇の隙間から、低い声が漏れる。
「何も知らない俺を見て、馬鹿にしてたのか」
「そんな……」
「勝手に調べて俺の弱みに付け込んで、何がしたいんだよ!」
燃えるような怒りを目の当たりにして、亜希の喉はからからに乾く。春乃のことだけではない。彼があの女に身を売っていた事実も不可抗力で知らされたとはいえ、彼にとっては勝手に調べられたも同然だ。凛香への協力も航が不快感を露わにしなかっただけで、その感情を探って弄ぶ行為だったかもしれない。
「……ごめんなさい」自然と謝罪が口をついていた。
「認めるんだな。俺が必死に働いてるのを見て、さぞ楽しかっただろうな!」
「そんなつもりじゃ、なかったんです」
「ふざけんな!」
「来栖くんを馬鹿にしたことなんて、ありません」
「白々しいんだよ! どこまでもとぼけやがって!」
初めて目にする、彼の燃えるような真っ直ぐな感情。握られる手首は折れてしまいそうに痛みを訴えている。
亜希はこみ上げるものをぐっとこらえ、航をまっすぐ見上げた。見つめるだけで、彼の熱が伝わりそうな距離だった。その距離だから、いつも彼が隠してしまう感情が、全て伝わった。浮彫の孤独、大切な人への愛情、幸せを願う気持ちと、それが及ばなかった落胆。誰のことも憎めないまま、やり場のない感情を持て余す。本当の、本物の来栖航。
「傷つけてしまって、ごめんなさい」
自然と、正直な言葉たちが亜希の口から言葉になる。
「私はただ、あなたが大事なんです」
誤解されても仕方がない。ただこれだけは知っていてほしい。
あなたは、私の大切な人なのだと。
「私は来栖くんの、そばにいたいだけなんです」
信じられないと驚愕を表情に見せる彼の手から、ゆっくりと力が抜けていく。乗り出していた身体を引き、彼は静かに項垂れた。亜希も視線を伏せる。彼が望んでいたのは、こんな台詞ではなかっただろうに。
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