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虚脱感に包まれながら、僕はスマホを手に取る。
三月二十五日。
それは見間違いではなかった。
慌てて起き上がって、一階のリビングに下りる。出かける準備をしていた両親に、血相を変えて問いかけた。
「今日って、何日?」
僕の勢いに目を丸くしながらも、冷蔵庫の扉に貼られたカレンダーを見ながら、「二十五だろ」と父が言う。
「あんたなに寝ぼけてんの。今日、葉月ちゃんと出かけるんでしょ」母が呆れ顔をする。
「だって、昨日が二十五日だったのに」
そう訴えると、両親は顔を見合わせて同時に吹き出した。
「何変なこと言ってるのよ。寝ぐせまで作って。ほら、ちゃんと直さないと嫌われちゃうわよ」
僕らが別れる予定であることを、両親は知らないからそんなことを言う。
だけど今の問題は全然違うところにある。
「いやだって、昨日が二十五日で、葉月と一緒に駅から出かけて……」
「パンがあるから、ちゃんと食べていくのよ」
お父さん、と母が父に呼びかけ、二人は僕に構わずさっさと部屋を出て行ってしまった。
ぽつんと残された僕は、握りしめていたスマホをもう一度確認する。確かに日付は二十五日だ。リモコンでテレビのスイッチを入れつつソファーにへたり込む。日曜日には放送されない朝のニュース番組が流れている。
「なんだこれ……」
僕だけが、三月二十五日を繰り返している。そんな思考に辿り着いて、自分の頬を右手でつねった。きっとまだ夢を見ているんだ。いや、昨日までが夢だったのか。
わからないけど、どんなに指に力を入れても目は覚めなかった。じんじんと痛む頬をさすりながら、とりあえず洗面所に向かって顔を洗って寝ぐせを直す。食パンをキッチンのトースターで焼きながら、葉月に連絡をする。約束、今日だったよね。
何言ってんの。遅刻しないでよ。
パンが焼けた頃、当然のように彼女からの返事があった。「どうなってんだ……」ぼやきながら、パンにジャムを塗りたくった。
これは覚めない夢なのか。それにしてはあまりにも感触がリアルだ。昨日食べたクレープの甘みも、握りしめた葉月の手の柔らかさも、到底夢だとは思えない。別れの苦しさも、頬を伝う涙の熱も、何もかもが現実味に溢れている。
僕だけが、三月二十五日を繰り返している……。
恐ろしい想像に身震いする僕は、今日も葉月と駅前で落ち合う。彼女が羽織っているのは当然、薄桃色のダウンジャケット。
「佑二、約束忘れてなかったよね」
軽く僕を睨む彼女に、まさかと返した。じゃあ、いこ。そう言って僕の手を引く彼女は、まるでこのループを知らないみたいだった。
今日はCDショップをぶらぶらしてから、昨日とは異なる喫茶店に入る。
「ねえ、何考えてるの」
ボックス席で向かい合って、注文したシーフードドリアをスプーンですくって食べながら、葉月は怪訝な顔をした。
「なんか今日の佑二、変だよ」
フォークにナポリタンを絡める手を止めて、僕は目を伏せる。やっぱり葉月は気づいていない。
「あのさ……」
ごくりと唾を呑みこんで、僕は切り出した。
「今日が繰り返されてたら、どうする」
僕に合わせて神妙な面持ちをしていた彼女は、沈黙した。
「……どういう意味?」
やがて至極当たり前の言葉を口にした。「よくわかんないんだけど」付け足して、ドリアの乗ったスプーンを咥える。
「だから、その……今日をさ、僕は昨日も体験してるんだよ。一昨日も」ますます眉根を寄せる葉月に、「信じられないかもだけど」と言って続ける。
「昨日も三月二十五日の土曜日だったんだ。そしてその前の日も。僕は葉月と出かけて、最後のデートをした。さよならって言って、別れたんだよ。それなのに、次の朝になっても二十六日が来ないんだ。また二十五日に戻って……つまり、繰り返し今日がやってくるんだ」
僕の下手くそな説明に、葉月はドリアを食べるのも忘れて聞き入る。その表情を見て、僕は少し期待をする。この現象を信じてもらえたかもしれない、と。
「……それ、なんかの漫画のネタ?」
だけど彼女は、小さく笑って首を傾げた。
「佑二がそんなこと言うの、珍しいね」
「違うんだよ、漫画なんかじゃないんだ」
「そうは言っても……私にとって、今日は初めての今日だよ」
彼女がコップを手にして、釣られるように僕もコップから水を飲む。考える顔つきをして、「それならさ」と彼女は提案する。
「履歴って残ってないの。私とのチャットとか、通話記録とか」
僕にアプリ内の履歴を操作する技術はない。だからとてもいい案かもしれなかったけど、残念ながら僕はかぶりを振った。
「それが、残ってないんだ。葉月から受信したり、僕から電話したりもしたんだけど、綺麗に消えてるんだ」
ふーん、と納得しきらない声を漏らして、彼女はすっかり冷めたドリアを口に運ぶ。僕も浮かない気分で、フォークをくるくると回転させた。
答えをなあなあにしたまま店を出て、僕たちはデートを続けた。葉月も、僕の言ったことをどう受け止めていいかわからないようで、いつもより更に明るい笑顔で僕を励ましてくれた。言わなきゃよかったと僕は後悔しながら、申し訳ない気持ちを抱えて彼女について歩いた。
「じゃあ、佑二にとっては三回目ってこと?」
午後六時、駅前の広場で突然葉月が言う。
「もう何度も私と別れてるってことだよね」
僕は返事ができなかった。実際、僕は葉月に二回さよならをした。そして今日で三回目。明日は四回目を迎えるのかもしれない。
「三度目の正直っていうでしょ。もしそんなことがあっても、きっとこれで最後だよ」
駅から漏れる光で、彼女の瞳がきらきらと輝いている。それを見て、最後まで彼女に気を遣わせる自分が情けなくて堪らなくなる。
「少なくとも、私は初めてだから」
にっこり笑う彼女の名前を、僕は呼んだ。そうなんだろうか。彼女の言う通り、これが本当の別れなんだろうか。
既に三度目の別れなのに、僕の胸は苦しさでいっぱいになる。彼女の頬を涙が伝う様子を目にするだけで、息ができないほど辛くなる。
「元気でね」
僕は言った。
「大好きだよ」
その言葉に頷いて、彼女も「元気でね」と僕に言う。僕も頷いて、彼女をしっかり抱きしめた。もこもこのダウンジャケットの中には、確かに葉月がいた。
「さよなら」
二人で同じ言葉を口にする。
だけど、僕の目から涙は零れなかった。
三月二十五日。
それは見間違いではなかった。
慌てて起き上がって、一階のリビングに下りる。出かける準備をしていた両親に、血相を変えて問いかけた。
「今日って、何日?」
僕の勢いに目を丸くしながらも、冷蔵庫の扉に貼られたカレンダーを見ながら、「二十五だろ」と父が言う。
「あんたなに寝ぼけてんの。今日、葉月ちゃんと出かけるんでしょ」母が呆れ顔をする。
「だって、昨日が二十五日だったのに」
そう訴えると、両親は顔を見合わせて同時に吹き出した。
「何変なこと言ってるのよ。寝ぐせまで作って。ほら、ちゃんと直さないと嫌われちゃうわよ」
僕らが別れる予定であることを、両親は知らないからそんなことを言う。
だけど今の問題は全然違うところにある。
「いやだって、昨日が二十五日で、葉月と一緒に駅から出かけて……」
「パンがあるから、ちゃんと食べていくのよ」
お父さん、と母が父に呼びかけ、二人は僕に構わずさっさと部屋を出て行ってしまった。
ぽつんと残された僕は、握りしめていたスマホをもう一度確認する。確かに日付は二十五日だ。リモコンでテレビのスイッチを入れつつソファーにへたり込む。日曜日には放送されない朝のニュース番組が流れている。
「なんだこれ……」
僕だけが、三月二十五日を繰り返している。そんな思考に辿り着いて、自分の頬を右手でつねった。きっとまだ夢を見ているんだ。いや、昨日までが夢だったのか。
わからないけど、どんなに指に力を入れても目は覚めなかった。じんじんと痛む頬をさすりながら、とりあえず洗面所に向かって顔を洗って寝ぐせを直す。食パンをキッチンのトースターで焼きながら、葉月に連絡をする。約束、今日だったよね。
何言ってんの。遅刻しないでよ。
パンが焼けた頃、当然のように彼女からの返事があった。「どうなってんだ……」ぼやきながら、パンにジャムを塗りたくった。
これは覚めない夢なのか。それにしてはあまりにも感触がリアルだ。昨日食べたクレープの甘みも、握りしめた葉月の手の柔らかさも、到底夢だとは思えない。別れの苦しさも、頬を伝う涙の熱も、何もかもが現実味に溢れている。
僕だけが、三月二十五日を繰り返している……。
恐ろしい想像に身震いする僕は、今日も葉月と駅前で落ち合う。彼女が羽織っているのは当然、薄桃色のダウンジャケット。
「佑二、約束忘れてなかったよね」
軽く僕を睨む彼女に、まさかと返した。じゃあ、いこ。そう言って僕の手を引く彼女は、まるでこのループを知らないみたいだった。
今日はCDショップをぶらぶらしてから、昨日とは異なる喫茶店に入る。
「ねえ、何考えてるの」
ボックス席で向かい合って、注文したシーフードドリアをスプーンですくって食べながら、葉月は怪訝な顔をした。
「なんか今日の佑二、変だよ」
フォークにナポリタンを絡める手を止めて、僕は目を伏せる。やっぱり葉月は気づいていない。
「あのさ……」
ごくりと唾を呑みこんで、僕は切り出した。
「今日が繰り返されてたら、どうする」
僕に合わせて神妙な面持ちをしていた彼女は、沈黙した。
「……どういう意味?」
やがて至極当たり前の言葉を口にした。「よくわかんないんだけど」付け足して、ドリアの乗ったスプーンを咥える。
「だから、その……今日をさ、僕は昨日も体験してるんだよ。一昨日も」ますます眉根を寄せる葉月に、「信じられないかもだけど」と言って続ける。
「昨日も三月二十五日の土曜日だったんだ。そしてその前の日も。僕は葉月と出かけて、最後のデートをした。さよならって言って、別れたんだよ。それなのに、次の朝になっても二十六日が来ないんだ。また二十五日に戻って……つまり、繰り返し今日がやってくるんだ」
僕の下手くそな説明に、葉月はドリアを食べるのも忘れて聞き入る。その表情を見て、僕は少し期待をする。この現象を信じてもらえたかもしれない、と。
「……それ、なんかの漫画のネタ?」
だけど彼女は、小さく笑って首を傾げた。
「佑二がそんなこと言うの、珍しいね」
「違うんだよ、漫画なんかじゃないんだ」
「そうは言っても……私にとって、今日は初めての今日だよ」
彼女がコップを手にして、釣られるように僕もコップから水を飲む。考える顔つきをして、「それならさ」と彼女は提案する。
「履歴って残ってないの。私とのチャットとか、通話記録とか」
僕にアプリ内の履歴を操作する技術はない。だからとてもいい案かもしれなかったけど、残念ながら僕はかぶりを振った。
「それが、残ってないんだ。葉月から受信したり、僕から電話したりもしたんだけど、綺麗に消えてるんだ」
ふーん、と納得しきらない声を漏らして、彼女はすっかり冷めたドリアを口に運ぶ。僕も浮かない気分で、フォークをくるくると回転させた。
答えをなあなあにしたまま店を出て、僕たちはデートを続けた。葉月も、僕の言ったことをどう受け止めていいかわからないようで、いつもより更に明るい笑顔で僕を励ましてくれた。言わなきゃよかったと僕は後悔しながら、申し訳ない気持ちを抱えて彼女について歩いた。
「じゃあ、佑二にとっては三回目ってこと?」
午後六時、駅前の広場で突然葉月が言う。
「もう何度も私と別れてるってことだよね」
僕は返事ができなかった。実際、僕は葉月に二回さよならをした。そして今日で三回目。明日は四回目を迎えるのかもしれない。
「三度目の正直っていうでしょ。もしそんなことがあっても、きっとこれで最後だよ」
駅から漏れる光で、彼女の瞳がきらきらと輝いている。それを見て、最後まで彼女に気を遣わせる自分が情けなくて堪らなくなる。
「少なくとも、私は初めてだから」
にっこり笑う彼女の名前を、僕は呼んだ。そうなんだろうか。彼女の言う通り、これが本当の別れなんだろうか。
既に三度目の別れなのに、僕の胸は苦しさでいっぱいになる。彼女の頬を涙が伝う様子を目にするだけで、息ができないほど辛くなる。
「元気でね」
僕は言った。
「大好きだよ」
その言葉に頷いて、彼女も「元気でね」と僕に言う。僕も頷いて、彼女をしっかり抱きしめた。もこもこのダウンジャケットの中には、確かに葉月がいた。
「さよなら」
二人で同じ言葉を口にする。
だけど、僕の目から涙は零れなかった。
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