百万回目の大好き

柴野日向

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1章 夏実と麻斗

3-1

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 六月は、不思議な季節だ。ようやく冬を超えて春のぬくもりに慣れてきたというのに、一年が始まって既に半分が経過してしまったという事実は人々に焦りを与える。だが、そんな人たちを押さえつけるような長雨は、しとしととこの街にもひたすらに降り続けていた。
「こんちわーっす!」
「声がでかい……」
 そんな鬱屈を跳ね除ける夏の名をもった少女の声が、とある団地の502号室の玄関先でこだまする。雨だれに濡れる日曜日、控える中間考査に向けての勉強会という名目で、夏実は麻斗の住む部屋に突撃してきたのだった。
「久しぶりだなあ、君のうち来るの。何年ぶり? 小学校の時以来?」
「そんぐらいじゃないですかね」
 きょろきょろと薄暗い玄関先を見わたす彼女に、彼は気のない返事をする。
 一条麻斗と橘夏実は、中学校で出会ったのではない。元々同じ団地で生まれ育ち、小学生時代から顔を合わせていた。ただ家まで遊びに来ることは数える程しかなく、彼女の猛アタックが始まったのはここ数ヶ月のことだった。
「ではでは。おじゃまします」
「畏まらなくても。今日父さんいないから」
「知ってるよ」
「え?」
 麻斗は訝しげな顔を見せる。靴を脱いで一歩廊下に踏み込んだ夏実は、持ってきた通学鞄から取り出したスマートフォンを操作すると、彼の目の前に突き出した。
「じゃーん!」
 見せたのは、メッセージアプリの友だち一覧。ずらりと、彼女がやりとりできる相手の名前が並んでいる。
「人の親と友達になるな……」
 そこに父親の名前を見つけた麻斗は脱力してしまう。それを見る夏実は、ふふんと胸を張ってみせた。
「いーじゃんいーじゃん。あっ、中身はクリーンだから、見たくなったらいつでも言ってね」
「興味ないし。……あ、ぼくのこととか喋ってないですよね」
「そんな意地悪な事してないよー」笑いながら機器をしまう夏実はぼそりと呟く。「ちょっとだけ」
「今、ちょっととか言ったな」
「ほらほらほら、男の子が細かいこと気にしないの!」
「勝手なことを……」
 早く奥に行こうと小さく飛び跳ねる夏実に、麻斗はため息をつく。玄関先でこの騒ぎだ。まともに勉強ができる気がしない。
 団地の一室には年季が入っていて、決して広くはない。昼間といえど、外がすっかり曇り雨が降っていれば、部屋の中も薄暗い。
 玄関から左手に小さな部屋。右手側に風呂場や洗面所。短い廊下の突き当たりには、小柄なダイニングテーブルを置いたキッチンがあり、その向こうに二部屋が並んでいる。自分の住む部屋と部屋数を同じくして、間取りの若干違う502号室を見渡していた彼女は、一室の襖を開ける麻斗に、ぽんと手を打った。
「ちょっと挨拶してきていい? 久しぶりだし」
「ああ。どうぞ」
 麻斗が隣の部屋を示す通り、夏実は襖を開けて畳を踏みしめる。一歩中に入ると、右手の壁際に黒い仏壇が扉を開いて鎮座していた。黙ってしまえば静かな雨音に支配される部屋の中、夏実は正面に敷かれた座布団に膝をつく。落ち着いてひとつ呼吸をし、右手で鈴を鳴らすと両手を合わせて目を閉じた。

 話したいことはたくさんある。知らせたいことも、聞いてみたい話も。

 だが、それらは溢れ出せばとめどなく、だいいち返事がないことも知っている。だから、しばらくして顔を上げると、飾られている写真に笑いかけた。
 よく見知った少女のはちきれそうな笑顔と、会ったことのない女性の微笑み。二人はともに相手の面影を表情に宿している。それも当然だ、彼らは母娘なのだから。
「また来るね、千華ちかちゃん」
 麻斗のひとつ下の妹、一条千華は、十二歳でこの世を去った。夏実は、麻斗よりもむしろ二歳年下の千華と仲が良く、この家に遊びに来た数回も彼女の部屋で他愛のないお喋りをするのが目的だった。歌の上手い彼女は小学生でありながら、中学生の自分たちと一緒に演奏をしても全く引けを取らず、むしろ彼女のレベルに舌を巻いたのはこちらの方だった。飛び抜けた才覚を持つ彼女は、あちこちのストリートライブにも呼ばれ、大人たちの中に居ながらいつも立派に歌い上げていた。天才小学生として地元の新聞に名前が載った回数も少なくはない。それでも千華が才能を鼻にかけることなど一度としてなく、いつだって歌うことを心の底から楽しんでいた。
 そんな彼女が最も笑顔を見せる場が、ピアノやキーボードを弾く麻斗の隣。唯一の兄の傍だった。

 また、演奏しようね。

 麻斗がまだ軽音楽部に在籍していた頃、見学にきた彼女を特別枠として迎え入れ、部室で小さなセッションをした。それはまるで昨日のことのように思い出せる。
 夏実は小さく手を振って腰を上げた。
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