30 / 35
3章 百万回目の大好き
19-1
しおりを挟む
「雪が、降ってるね」
電話の向こうで、麻斗が「うん」と呻くのが聞こえた。
「息も白いよ」
そう、と消え入りそうな声が聞こえた。
もう三日も麻斗が学校に来ていないと知ったとき、夏実はいてもたってもいられなくなった。だが、彼を裏切った自分がのらくらと会いに行けるわけがない。学校に行けだなんて、上から目線の口を効けるはずがない。二度と会話をしてくれなくたって、仕方のないことをしたのだ。
だから、出てくれるとは正直思わなかった。朝の、ほんのちょっとの時間。星降川の川原を歩きながら電話をかけると、彼は返事をした。
もう、夏実は無作法に彼に触れる真似はしなかった。そっと、そうっと、手のひらを添えるように言葉を選び、抱きつくのをやめて指先で触れた。少しでも力を入れれば壊れてしまいそうに、今の彼には力がなかった。
「お父さんとは、大丈夫」
少し時間をおいて、彼はうんと頷いた。一応、と小声で付け足した。よかったとは、夏実は口に出さなかった。そんな偉そうな台詞は吐けなかった。
本当は学校なんか放り出して、今すぐに、冷え切った彼の心ごと抱きしめたい。
「早く、春になってほしいね」
「そうだね」
声を聞くたび、泣きそうになる。胸が詰まって、窒息しそうになってしまう。
「冬の空気は、綺麗だね」
「うん」
幾日も、朝のちょっとした時間だけ、夏実は麻斗に電話をかけた。夏実の脳裏には、あの部屋でひとりっきり、膝を抱えて蹲る冷たい彼の姿があった。想像するだけで苦しくなって、だから話を続けた。彼はもはや相槌しか打たなかったが、声を聞かせてくれるだけで良かった。
ある日の放課後、曇り空の下を歩いて帰っていると、夏実は声をかけられた。
「寒いっすね」
そう言って笑う五樹を見ていると、自然と笑顔がこぼれてくる。彼と茜には、全てを話していた。あの手紙のことも、未だに好きでたまらないことも、毎朝の電話のことも。
「あれ、いっくん今日こっち?」
「ああ、あいつんとこにプリント届けに行くんっすよ。迷惑っすよね、こんな寒い日に人のことパシリにするんだから」
鞄からプリントの入ったファイルを覗かせて、彼は苦笑する。どうやら五樹は、学校に行かなくなってしまった彼の元を、既に何度か訪れているようだった。
「別に普通……ってわけには流石にいかないっすけど。なんかしょぼんってして。学校サボって、何してるんすかね。夏実さんは、家にはいかないんすか」
「行けないよ。だって、私のせいなんだから」
「ふうん。そうなんっすかねえ」
五樹はそう、麻斗のことを説明する。
雪は止んでいるが、いつ降り出してもおかしくはない。冷えた手を互いにこすり、マフラーに顔をうずめ、星降川を横断する大きな橋を渡る。
「でも、電話はしてるんでしょ」
「うん……。だけど、殆ど返事してくれない」
「薄情なやつ」
「声が聞けるだけ、私は嬉しいんだけどね」
「へえ」
感心を口にする五樹は、呆れたふうに笑う。
「本当に、夏実さんはあいつのこと好きなんすね」
幸せもんだなあ。そうも付け足す。
「ま、大丈夫っすよ」
「大丈夫って、何が?」
「心配なんでしょ、またあいつが自殺しようとしないか。一人でそんなこと考えてるんじゃないかって」
単刀直入な言葉に、夏実は思わず言葉をなくす。そしてその通りだと思い知る。何が一番不安なのかと問われれば、そうだ、彼が再度悪いことを考えて、実行してしまわないかということだ。
「夏実さん、麻斗は強い奴じゃないけど、多分俺らが思ってるよりも弱くはないっすよ。あの時も、滅茶苦茶反省してたじゃないっすか。もう絶対、二度としないって」
「でも、万が一ってことがあるかもしれないよ」
「そりゃ、百パーセントとはいえないっすけど。でも、現にこうして、俺が会いに行ったり夏実さんが電話したりしてるじゃないっすか。そんなら、あとはあいつの戦いっすよ。俺らは麻斗を信じるしかない」
五樹の台詞は、言葉だけ見て取れば随分と投げやりだ。だが、その声には相手を決して見限らない芯があった。
「信じるって、それなら私も信じてるよ。また、学校に来て、みんなと笑ってくれるって。元気になってくれるって」
「じゃあ、もし麻斗が学校を辞めたら……まあ、中学辞めるなんておかしいっすけど。そしたら夏実さんは、期待はずれだって言うんすか」
言ってから、五樹は軽く手を振った。
「あ、責めてるつもりじゃないっすよ。ただそれは、あいつを信じるってのとはちょっと違うなと思って」
「違うって、どういうこと」
「俺は別に、あいつがこのまま引きこもりになっても、二度と笑わなくなっても、それが結果なら仕方ないと思うんすよ。多分どこかで後悔はするだろうけど、頑張った結果がそれなら、受け入れるしかない。だから俺は、あいつの友達は辞めないっすよ」
何があっても友達でいるという、五樹の力強い言葉だった。
「元通りになってほしいっていうのは、俺たちの勝手な望みじゃないっすか。それを信じるなんてのは、都合が良すぎると思うんすよね。最後にはなるようにしかならないんだから、麻斗自身を信じてやって、傍にいるしかないんすよ。いつか助けてって言われた時に、いつでも助けられるように。……まああいつ、中々いわないっすけどね」
そう言って彼は笑った。
余計な口を挟まず、それでもすぐに助けられる距離でただ見守っている。それが彼のやり方であり、だからこそ仲の良い友達でいられるに違いない。
団地で少し立ち話をして、それぞれ手を振って別れた。いつの間にか降り出した雪のせいか、身体はすっかり冷え切り、息を吸えば肺が凍るようだった。夏実は三階へ、五樹は隣の棟の五階へ向かっていく。
「……本当に、幸せ者だなあ」
白い息と共に小さな声を吐き出し、夏実は振り返り彼の背中を見送った。
電話の向こうで、麻斗が「うん」と呻くのが聞こえた。
「息も白いよ」
そう、と消え入りそうな声が聞こえた。
もう三日も麻斗が学校に来ていないと知ったとき、夏実はいてもたってもいられなくなった。だが、彼を裏切った自分がのらくらと会いに行けるわけがない。学校に行けだなんて、上から目線の口を効けるはずがない。二度と会話をしてくれなくたって、仕方のないことをしたのだ。
だから、出てくれるとは正直思わなかった。朝の、ほんのちょっとの時間。星降川の川原を歩きながら電話をかけると、彼は返事をした。
もう、夏実は無作法に彼に触れる真似はしなかった。そっと、そうっと、手のひらを添えるように言葉を選び、抱きつくのをやめて指先で触れた。少しでも力を入れれば壊れてしまいそうに、今の彼には力がなかった。
「お父さんとは、大丈夫」
少し時間をおいて、彼はうんと頷いた。一応、と小声で付け足した。よかったとは、夏実は口に出さなかった。そんな偉そうな台詞は吐けなかった。
本当は学校なんか放り出して、今すぐに、冷え切った彼の心ごと抱きしめたい。
「早く、春になってほしいね」
「そうだね」
声を聞くたび、泣きそうになる。胸が詰まって、窒息しそうになってしまう。
「冬の空気は、綺麗だね」
「うん」
幾日も、朝のちょっとした時間だけ、夏実は麻斗に電話をかけた。夏実の脳裏には、あの部屋でひとりっきり、膝を抱えて蹲る冷たい彼の姿があった。想像するだけで苦しくなって、だから話を続けた。彼はもはや相槌しか打たなかったが、声を聞かせてくれるだけで良かった。
ある日の放課後、曇り空の下を歩いて帰っていると、夏実は声をかけられた。
「寒いっすね」
そう言って笑う五樹を見ていると、自然と笑顔がこぼれてくる。彼と茜には、全てを話していた。あの手紙のことも、未だに好きでたまらないことも、毎朝の電話のことも。
「あれ、いっくん今日こっち?」
「ああ、あいつんとこにプリント届けに行くんっすよ。迷惑っすよね、こんな寒い日に人のことパシリにするんだから」
鞄からプリントの入ったファイルを覗かせて、彼は苦笑する。どうやら五樹は、学校に行かなくなってしまった彼の元を、既に何度か訪れているようだった。
「別に普通……ってわけには流石にいかないっすけど。なんかしょぼんってして。学校サボって、何してるんすかね。夏実さんは、家にはいかないんすか」
「行けないよ。だって、私のせいなんだから」
「ふうん。そうなんっすかねえ」
五樹はそう、麻斗のことを説明する。
雪は止んでいるが、いつ降り出してもおかしくはない。冷えた手を互いにこすり、マフラーに顔をうずめ、星降川を横断する大きな橋を渡る。
「でも、電話はしてるんでしょ」
「うん……。だけど、殆ど返事してくれない」
「薄情なやつ」
「声が聞けるだけ、私は嬉しいんだけどね」
「へえ」
感心を口にする五樹は、呆れたふうに笑う。
「本当に、夏実さんはあいつのこと好きなんすね」
幸せもんだなあ。そうも付け足す。
「ま、大丈夫っすよ」
「大丈夫って、何が?」
「心配なんでしょ、またあいつが自殺しようとしないか。一人でそんなこと考えてるんじゃないかって」
単刀直入な言葉に、夏実は思わず言葉をなくす。そしてその通りだと思い知る。何が一番不安なのかと問われれば、そうだ、彼が再度悪いことを考えて、実行してしまわないかということだ。
「夏実さん、麻斗は強い奴じゃないけど、多分俺らが思ってるよりも弱くはないっすよ。あの時も、滅茶苦茶反省してたじゃないっすか。もう絶対、二度としないって」
「でも、万が一ってことがあるかもしれないよ」
「そりゃ、百パーセントとはいえないっすけど。でも、現にこうして、俺が会いに行ったり夏実さんが電話したりしてるじゃないっすか。そんなら、あとはあいつの戦いっすよ。俺らは麻斗を信じるしかない」
五樹の台詞は、言葉だけ見て取れば随分と投げやりだ。だが、その声には相手を決して見限らない芯があった。
「信じるって、それなら私も信じてるよ。また、学校に来て、みんなと笑ってくれるって。元気になってくれるって」
「じゃあ、もし麻斗が学校を辞めたら……まあ、中学辞めるなんておかしいっすけど。そしたら夏実さんは、期待はずれだって言うんすか」
言ってから、五樹は軽く手を振った。
「あ、責めてるつもりじゃないっすよ。ただそれは、あいつを信じるってのとはちょっと違うなと思って」
「違うって、どういうこと」
「俺は別に、あいつがこのまま引きこもりになっても、二度と笑わなくなっても、それが結果なら仕方ないと思うんすよ。多分どこかで後悔はするだろうけど、頑張った結果がそれなら、受け入れるしかない。だから俺は、あいつの友達は辞めないっすよ」
何があっても友達でいるという、五樹の力強い言葉だった。
「元通りになってほしいっていうのは、俺たちの勝手な望みじゃないっすか。それを信じるなんてのは、都合が良すぎると思うんすよね。最後にはなるようにしかならないんだから、麻斗自身を信じてやって、傍にいるしかないんすよ。いつか助けてって言われた時に、いつでも助けられるように。……まああいつ、中々いわないっすけどね」
そう言って彼は笑った。
余計な口を挟まず、それでもすぐに助けられる距離でただ見守っている。それが彼のやり方であり、だからこそ仲の良い友達でいられるに違いない。
団地で少し立ち話をして、それぞれ手を振って別れた。いつの間にか降り出した雪のせいか、身体はすっかり冷え切り、息を吸えば肺が凍るようだった。夏実は三階へ、五樹は隣の棟の五階へ向かっていく。
「……本当に、幸せ者だなあ」
白い息と共に小さな声を吐き出し、夏実は振り返り彼の背中を見送った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる