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1章 邂逅
リュウグウノツカイ2
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遠くで、玄関のドアが開く音。車のエンジン音。それが遠ざかり、再びドアが開いて閉まる音を、鼓膜が拾う。母はどうやら、わざわざ見送りにまで出ていたらしい。
ため息とともにペンを教科書の上に投げ捨て、彼女は欠伸と共に大きく伸びをした。一気に力を抜き、背もたれに身を預け、暗い天井を眺める。母が食器を洗う音、風呂に入る音、二階に上がり寝室に入るスリッパの音がやがて消えていく。
全ての気配が消えてから、少女はようやく立ち上がった。
既に空腹は感じなかったが、静かに階下に下り、キッチンの棚から子袋を取り出して味噌汁椀に開けた。沸かした湯をかけて軽く混ぜると、長方形に固まっていた細い麺が、ゆっくりとほぐれていく。
それを頭上の最低限の明かりの下で、静まり返った真夜中に隠れて食べていると、忘れかけていた胸のもやもやが静かに何かを囁きだした。それが自らの惨めさを嘆き始める前に、少し塩辛い一滴を飲み干すと、椀を軽くすすいで手早く風呂場に向かった。自宅で風呂に入ったパジャマ姿のまま、あの男と同じ空間で呼吸をすることなど、天地がひっくり返っても許したくない。
シャワーを浴び、着替え、髪を乾かして再び自室に戻った頃には、時刻は二時をとうに過ぎていた。
点けっぱなしだったスタンドの明かりを消してベッドに潜り込んだが、予想通り眠気など襲ってはこなかった。冴えた頭はすっかり不眠モードに陥っている。
それでも階下に睡眠薬を飲みに戻るのは億劫だった。例えそれが効果を発揮しても今更狂った生活リズムは治せない。
――なにやってんだろ、ほんとに。
ため息をついて、少女は毛布を口元まで引き上げた。
うつらうつらと、眠ったのかどうなのか分からない時間を過ごしても、いつも通り朝の気配は訪れる。上手く眠れてしまえるなら、一生夜にいてもいいのにな。それは非常に幸せな世界に思えた。朝を嫌うあまり、様々な事柄を終わらせる方法さえ考えてしまう。
例えば、学校の職員室に爆弾を仕掛けたりだとか。体育倉庫から金属バットを盗んで、校門の前を三番目に通る誰かを殴ってみるだとか。身体を張って電車を止める方法とか。
そんな実行には遠く及ばない野蛮な妄想を、ひどく落ち着いた思考で少女は毎朝繰り返した。それは憂鬱な時間を超えるための、一つの生存戦略でもあった。
ふいに目が覚め、時計を見る。五時十五分。
そうだ。喉が乾いた。
彼女は頭の中で両手を打った。いいことを思いついた。飲み物を買いに行こう。
折角微かな眠気を帯びた目を擦り、簡素なTシャツとハーフパンツに着替え、カーディガンを羽織る。
家の麦茶では味気ない。あれがいい、あの安い自販機、八十円のやつ。外の空気を吸いたいと思っていたとこなんだ、丁度いい。なにより安くて、経済的だ。自分に声なく語りかけ、彼女は机の引き出しから小銭入れを手に取り、部屋を出た。
軽く顔を洗って口をゆすぎ、静かに外に出る。夜の漆黒には訪れる朝焼けの白がゆったりと混ざり始めているが、強固な夜のとばりは未だカーテンのように世界を覆っていた。
家の門を出て二軒分ほど進んだ先の自動販売機で、いつも通りコーヒーを購入する。以前、気まぐれにジュースを買って飲んだことはあるが、過度な人工甘味料の甘ったるさに辟易してしまった。コーヒーが、この激安自販機の安牌なのだ。
ただ喉が渇いただけ。目が覚めて眠れなくなって、朝の空気を吸いたくなっただけ。
自分自身にそう語りながら、門の外でちびちびとコーヒーを胃に流していると、夜の残像の中から聞き覚えのある軋んだ音が響いてきた。
タイヤのから回る音に、軽いブレーキ。
「おはよ」
決して朝に強くない彼女の覇気のない声に、それ以上に元気のない声で、少年は「おはようございます」と返事をする。
そんな彼が新聞受けに一部をつっ込む前に、少女は腕を伸ばした。伏せった目を少し迷わせながらも、「……どうも」と彼は呟き、新聞を手渡した。
更に一口中身を減らした缶を塀の上に置き、想像よりも重みのある新聞を彼女は両手で持ち直す。四つ折りのそれを軽く振り、文字に目を落とした。
街灯の薄明かりに浮かび上がるのは、近年増加傾向にある、小中学校におけるいじめの実態。ちっとも面白くない。
「何か面白い記事ないの?」
普段通り軽く頭を下げて横顔を向けた少年は、目を落としたままの彼女の台詞に「え」と短い声を出して振り向いた。少女が視線を上げて見ると、いつも伏せられている彼の目が、少しだけ丸く見開かれていた。
「今日の新聞。面白いこととか、書いてないの」
「面白いこと……」
愉快な答えなど期待しないまま、気まぐれに問いかけた少女は適当な返事を待つ。彼にとっての面白いことが自分にとっても面白いとも思えないし、まずこの暗そうな少年が面白いと思うことなどあるのか。
そんな失礼なことを彼女が考えていると、意外にも時間をおいた彼は口を開いた。
「リュウグウノツカイ」
彼が発した聞きなれない言葉に、「なに、りゅう……?」と彼女はおうむ返しに口にする。
「深海魚です。リュウグウノ、ツカイ」聞き取りやすいよう、先ほどよりテンポを落として言葉を区切るのに、彼女は軽く首を傾けた。深海魚と返されることなど、これっぽちも想像していなかった。
「深海魚って、海の深いとこにいるやつ?」
「はい。二百メートルの深さから、深海です」
十七年の人生の中で、二百メートルもの深さの海に思いを馳せることなど、彼女には一度もなかった。だが彼にとって深海とは、もっと身近にあるものらしい。「最近、よく打ちあがってるって、話題になってて……」そう繋げる。
「そんな深いところにいるのに、そいつ、上がっちゃうんだ」
少女が返すと、少年は頷いた。
彼は普段のように目を伏せさせてはいなかった。見つめはしなくとも、きちんと相手に目を向けていた。
「だから、それで最近書かれた本の紹介があって……確か、三十七面の文化面。カラーで、海を泳いでる写真が載ってて。ラブカとか、ほかの魚の説明も……」
また知らない単語が出てきた。だが少女は口を挟まず、初めて自ら口を開く彼の言葉に耳を傾ける。今の彼は呟いてはいない。確かに、相手に考えを伝えるために声を出している。
しかし少女が初めて聞く単語を更に数個重ねると、彼は途端に口を閉じ、たちまち目を伏せてしまった。うっかり話し過ぎたのだと、一つ失敗を犯したのだと思ったらしい。
「ごめんなさい……」
少女が謝罪の意味を訊ねる間もなく、彼は小さく頭を下げると、右足でペダルを踏み込んだ。もう彼女の方を見ない横顔で、朝の訪れる夜を見つめながら、重たげな自転車をこぎ出した。
見たことのない深海へ彼がいつもと変わりなく消えていくのを、少女はいつもと少し異なる感情とともに見送った。
ため息とともにペンを教科書の上に投げ捨て、彼女は欠伸と共に大きく伸びをした。一気に力を抜き、背もたれに身を預け、暗い天井を眺める。母が食器を洗う音、風呂に入る音、二階に上がり寝室に入るスリッパの音がやがて消えていく。
全ての気配が消えてから、少女はようやく立ち上がった。
既に空腹は感じなかったが、静かに階下に下り、キッチンの棚から子袋を取り出して味噌汁椀に開けた。沸かした湯をかけて軽く混ぜると、長方形に固まっていた細い麺が、ゆっくりとほぐれていく。
それを頭上の最低限の明かりの下で、静まり返った真夜中に隠れて食べていると、忘れかけていた胸のもやもやが静かに何かを囁きだした。それが自らの惨めさを嘆き始める前に、少し塩辛い一滴を飲み干すと、椀を軽くすすいで手早く風呂場に向かった。自宅で風呂に入ったパジャマ姿のまま、あの男と同じ空間で呼吸をすることなど、天地がひっくり返っても許したくない。
シャワーを浴び、着替え、髪を乾かして再び自室に戻った頃には、時刻は二時をとうに過ぎていた。
点けっぱなしだったスタンドの明かりを消してベッドに潜り込んだが、予想通り眠気など襲ってはこなかった。冴えた頭はすっかり不眠モードに陥っている。
それでも階下に睡眠薬を飲みに戻るのは億劫だった。例えそれが効果を発揮しても今更狂った生活リズムは治せない。
――なにやってんだろ、ほんとに。
ため息をついて、少女は毛布を口元まで引き上げた。
うつらうつらと、眠ったのかどうなのか分からない時間を過ごしても、いつも通り朝の気配は訪れる。上手く眠れてしまえるなら、一生夜にいてもいいのにな。それは非常に幸せな世界に思えた。朝を嫌うあまり、様々な事柄を終わらせる方法さえ考えてしまう。
例えば、学校の職員室に爆弾を仕掛けたりだとか。体育倉庫から金属バットを盗んで、校門の前を三番目に通る誰かを殴ってみるだとか。身体を張って電車を止める方法とか。
そんな実行には遠く及ばない野蛮な妄想を、ひどく落ち着いた思考で少女は毎朝繰り返した。それは憂鬱な時間を超えるための、一つの生存戦略でもあった。
ふいに目が覚め、時計を見る。五時十五分。
そうだ。喉が乾いた。
彼女は頭の中で両手を打った。いいことを思いついた。飲み物を買いに行こう。
折角微かな眠気を帯びた目を擦り、簡素なTシャツとハーフパンツに着替え、カーディガンを羽織る。
家の麦茶では味気ない。あれがいい、あの安い自販機、八十円のやつ。外の空気を吸いたいと思っていたとこなんだ、丁度いい。なにより安くて、経済的だ。自分に声なく語りかけ、彼女は机の引き出しから小銭入れを手に取り、部屋を出た。
軽く顔を洗って口をゆすぎ、静かに外に出る。夜の漆黒には訪れる朝焼けの白がゆったりと混ざり始めているが、強固な夜のとばりは未だカーテンのように世界を覆っていた。
家の門を出て二軒分ほど進んだ先の自動販売機で、いつも通りコーヒーを購入する。以前、気まぐれにジュースを買って飲んだことはあるが、過度な人工甘味料の甘ったるさに辟易してしまった。コーヒーが、この激安自販機の安牌なのだ。
ただ喉が渇いただけ。目が覚めて眠れなくなって、朝の空気を吸いたくなっただけ。
自分自身にそう語りながら、門の外でちびちびとコーヒーを胃に流していると、夜の残像の中から聞き覚えのある軋んだ音が響いてきた。
タイヤのから回る音に、軽いブレーキ。
「おはよ」
決して朝に強くない彼女の覇気のない声に、それ以上に元気のない声で、少年は「おはようございます」と返事をする。
そんな彼が新聞受けに一部をつっ込む前に、少女は腕を伸ばした。伏せった目を少し迷わせながらも、「……どうも」と彼は呟き、新聞を手渡した。
更に一口中身を減らした缶を塀の上に置き、想像よりも重みのある新聞を彼女は両手で持ち直す。四つ折りのそれを軽く振り、文字に目を落とした。
街灯の薄明かりに浮かび上がるのは、近年増加傾向にある、小中学校におけるいじめの実態。ちっとも面白くない。
「何か面白い記事ないの?」
普段通り軽く頭を下げて横顔を向けた少年は、目を落としたままの彼女の台詞に「え」と短い声を出して振り向いた。少女が視線を上げて見ると、いつも伏せられている彼の目が、少しだけ丸く見開かれていた。
「今日の新聞。面白いこととか、書いてないの」
「面白いこと……」
愉快な答えなど期待しないまま、気まぐれに問いかけた少女は適当な返事を待つ。彼にとっての面白いことが自分にとっても面白いとも思えないし、まずこの暗そうな少年が面白いと思うことなどあるのか。
そんな失礼なことを彼女が考えていると、意外にも時間をおいた彼は口を開いた。
「リュウグウノツカイ」
彼が発した聞きなれない言葉に、「なに、りゅう……?」と彼女はおうむ返しに口にする。
「深海魚です。リュウグウノ、ツカイ」聞き取りやすいよう、先ほどよりテンポを落として言葉を区切るのに、彼女は軽く首を傾けた。深海魚と返されることなど、これっぽちも想像していなかった。
「深海魚って、海の深いとこにいるやつ?」
「はい。二百メートルの深さから、深海です」
十七年の人生の中で、二百メートルもの深さの海に思いを馳せることなど、彼女には一度もなかった。だが彼にとって深海とは、もっと身近にあるものらしい。「最近、よく打ちあがってるって、話題になってて……」そう繋げる。
「そんな深いところにいるのに、そいつ、上がっちゃうんだ」
少女が返すと、少年は頷いた。
彼は普段のように目を伏せさせてはいなかった。見つめはしなくとも、きちんと相手に目を向けていた。
「だから、それで最近書かれた本の紹介があって……確か、三十七面の文化面。カラーで、海を泳いでる写真が載ってて。ラブカとか、ほかの魚の説明も……」
また知らない単語が出てきた。だが少女は口を挟まず、初めて自ら口を開く彼の言葉に耳を傾ける。今の彼は呟いてはいない。確かに、相手に考えを伝えるために声を出している。
しかし少女が初めて聞く単語を更に数個重ねると、彼は途端に口を閉じ、たちまち目を伏せてしまった。うっかり話し過ぎたのだと、一つ失敗を犯したのだと思ったらしい。
「ごめんなさい……」
少女が謝罪の意味を訊ねる間もなく、彼は小さく頭を下げると、右足でペダルを踏み込んだ。もう彼女の方を見ない横顔で、朝の訪れる夜を見つめながら、重たげな自転車をこぎ出した。
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