深海の星空

柴野日向

文字の大きさ
16 / 54
1章 邂逅

それぞれの物語2

しおりを挟む
「あんたは、こうしてていいの? 今日帰らなくて、怒られたりしないの」
 二人で潜る毛布の中、少女は少年に問いかけた。
「友だちの家に行くって言ったら、何も聞かれなかった」彼は少し困ったような、苦笑いを浮かべる。「友だちなんて、いないのに」そう付け足す不器用な彼は、普段隠している目元で、上手に笑えていなかった。そこには既に一つ諦めきった鬱屈した暗さがあった。
「そんなんで、いいの」
「弟が生まれて、まだ三歳で。両親はつきっきりだから。ぼくはもう十五になるし、気にしてなんて言えないよ」
「まだ十五でしょ」
「もうだよ」
「まだ」
 そうして彼は少しだけ、自分のことを彼女に教えた。
 自分が生まれた後に母が出合い、四つの年に結婚した相手が、今現在ともに暮らしている父親。その後十一の時に生まれた両親の唯一の息子が、今の幼い弟。
 彼が可愛がっている弟は、父親の異なる兄弟だった。
 短く伝える少年の口調に、悲しみや孤独といったマイナスの空気はなく、事実だけを淡々と述べていた。
「これから、卒業したらどうするの。高校は?」
「行かないよ。行きたくない。学校が、好きじゃないんだ」
 卒業後は好きにしろと、両親は彼に言った。まだ幼い弟には今後もさらに金がかかるから、以降の学費は出せないということだった。それなら行きたくもない高校に苦労して働きながら通うよりも、家を離れてどこか遠くへ行ってしまいたい。それが彼の望みであり、そのためにも新聞配達をして少しでも金を貯めているのだと説明した。
 裕福ではないという以前の彼の台詞に納得し、少女はくすりと笑った。
「あんたも恵まれないね。一ノ瀬広樹くん」
 少女が初めて口にする名前がさらりと流れたことに、少年は驚いて目を見開く。
「どうして……。ぼく、名前教えましたっけ」
「さあ、なんでだろね」
「まさか、学校の誰かとか……」
「違うよ。あんたの同級生なんて一人も知らない」
 いたずらっぽい彼女の顔に、少年はどこかほっとした表情を見せた。
「それなら……専売所で聞いたんですか」
「そこまでするわけないじゃん。ストーカーかよ」
 自分と彼女の繋がり、名前を知る可能性を片っ端から探っている少年に、少女は少し意地悪く笑った。
「律儀よね、いちいち手帳にまで名前書いてるなんて」
 その言葉に、少年は、あっと小さく声を上げた。勝手に彼から手帳を取り上げた際、裏表紙に書かれていた彼の名前を、彼女は目にしていた。表紙の右下には極めて小さく丁寧な文字で、持ち主の名前が記載されていた。
「だって、もし落としたときに名前があれば、戻ってくるかもしれないから」
「そんなに大切なの、あの手帳」
 その通りだと彼は頷いた。二年以上使い続けている手帳は、彼にとって決して失くしたくない大事なものだった。
「それに、あなたが勝手に見たんじゃないですか」
「名前まで書いてるなんて思わないもん」
 珍しく口を尖らせる少年に、少女はふふんと笑ってみせると、どこか不満げな彼を宥めるように言った。「いい名前じゃん。親の愛があって」
 突然の誉め言葉に、少年はシーツを頬でこすって小さく首をひねった。
「そうですか」
「うん。私はそう思う」
 深いくせに、単純なやつ。たちまち文句を引っ込め、むしろ嬉しそうな気配さえ見せる彼の様子が、少女にとっては微笑ましい。
「桜庭さん」やがて、彼はほんの一歩だけ彼女の領域に踏み込んだ。「あなたの名前は、何ですか」
「苗字は知ってるんだ」
「毎朝表札見てますから」
「桜庭菜々。菜っ葉の菜が二つね。簡単でしょ」
 おどけた彼女の口調に、ようやく彼女の名前を知った彼は、優しく笑う。
「いい名前ですね。言いやすくて、可愛らしくて」
 そんな率直な言葉に、彼女の方が照れくさくなってしまう。だが不思議と、彼の口にする「可愛らしい」という言葉には嫌気どころか嬉しささえ感じてしまう。
「言いやすいなら、覚えた? 二文字しかないよ」
「覚えました。忘れません」
 今になってやっと知ることになった名前を、彼ははっきり忘れないと言った。
「ぼくの名前は、広樹です。広いの広に、樹木の樹です」
「見たから知ってるよ」
「よかったら、覚えていてください」
「珍しくもないし。覚えといてあげる」
 クラスの連中の名前など、どれだけ聞いても目にしても記憶にとどめる必要性さえ感じずに忘れてしまう。だがこの名前だけは、決して消さないで覚えていよう。
 わざと恩着せがましい台詞を被せた少女が可笑しくなって笑うと、随分と表情を見せるようになった彼も、静かな声とともに笑った。

 結局目を閉じてしまうことはなく、しばらく取り留めのない言葉を行き交わし、夜の明けないうちに二人は帰ることにした。
 しかし、いざ部屋を出ようと鞄を肩にかけた少女が顔を向けると、元の制服姿に着替えた少年はドアの前で足を止めてどこか顔を俯かせていた。気まずく逸らしかける目線を何とか彼女に移し、言いにくそうに小さく口を開いた。
「あの、本当に、今更なんだけど……。あなたは、大丈夫って、言ってくれたけど……もしも……」
 年上の少女が泣いてしまうような台詞を口にするくせに、年齢の割にどこか子どもじみていて恥ずかしがりやな彼は、先を続けられない。もしもに繋がる言葉を口に出せない。
 しかし、彼の言いたいことを理解した彼女は、何をいまさらと笑った。
「万が一ってことでしょ」
 ばつが悪く、俯いてしまった少年はこくりと頷いた。事の重大さを今になって思い返し、叱られる子どものようにすっかり項垂れてしまっている。
「終わってから言うこと? 馬鹿じゃない」
 大丈夫じゃなければ、すでに手遅れだ。今まで気づかなかった自身を責めるように、肩を落とす彼は何も言えなくなってしまった。
 先ほどまで幾度も自分を慰めて笑ってくれた表情がまるで嘘のようで、少女は少し言い過ぎたかなと、彼の様子が次第に可哀想に思えてくる。
「大丈夫よ。言ったじゃん、私。ほら、これ」
 彼女は肩に下げている鞄のチャックを開いた。水色のポーチを取り出すと、底板の裏に新品のナイフを隠しているそれを床に置く。
「なにかわかる?」
「……くすり?」
 少女がポーチから取り出し指の間に挟んでいる銀色のシートを見て、彼は眉をひそめた。シートからは既に二錠分が姿を消している。
「ピルってさ、あんたでも聞いたことぐらいあるでしょ。その叔父さんが飲めってくれんのよ。生理周期遅らせる薬なんだけど、便利だよね、保険になるなんて」
 だから平気なのだと、少女はけらけらと笑った。あの勇気のない非道徳野郎はいつだってこれを渡して念押ししてくる。この錠剤のおかげで最悪の事態を免れられるのだが、これがなければ最初からこの屈辱は存在しなかったのかもしれない。そんな堂々巡りな思考すら今では馬鹿馬鹿しく感じられ、それも踏まえて彼女は軽い笑い声をあげた。
 なのに、彼は彼女の声に露とも誘われず、眉根を寄せて難しい表情を見せた。
「ずっと、使ってるんですか」
「そうよ。じゃないと、大変じゃない」
 少女の肯定に、少年は安堵や同意といったプラスの感情を見せない。彼女を見据える真剣な眼差しは、少女には理解しがたい、どこか怒りに似た空気を秘めていた。
「それは、その叔父さんのために」
「別にあの人の為なんかじゃないし。でも、しょーがないでしょ」
「そんなの、よくない。薬まで使って、こんなこと」
「違法ドラッグだとか言ってるわけじゃないじゃんか」
「そうじゃなくって」
 これしか方法がないというのに、彼は一体何を嫌がり、初めての反抗を見せるのか。真意をくみ取れない少女は、次第に募る彼への苛立ちに声を荒げた。
「なに、あんた、飲むなってこと? 私が妊娠でもすればいいって言ってんの。誰の子どもよ、叔父さん、それともあんた? わかんないの、私の人生壊したいつもり?」
 身を乗り出す少女に、少年も強く首を横に振り、これまで聞かせたことのない大声を上げた。
「違う! そういう意味じゃない!」
「どういう意味よ! 飲まないと大変なことになるってのに、何が嫌なのよ!」
「だって……!」
「めんどくさいな、はっきり言いなよ!」
 春の訪れのように穏やかだった空気は、一変して音を立てて固まってしまった。その中で響く少女の悲鳴のような言葉に、少年は否定の声を詰まらせる。情けなく口角を下げ、辛そうに顔をゆがませ、伸びた前髪の内側で目を伏せる。
「だって、それを飲んでる間は、あなたはずっと、こんなことを、させられる……。自分の体まで傷つけて、好きでもない人と、こんなことを……。それを飲むっていうのは、そういうことだから」
 悲しげな視線で、少年は少女の手の中にある錠剤を見つめた。
 彼には、彼女の境遇が辛かった。自らの身体とたった一つの心を犠牲にし、指先ほどの錠剤で救われたと感じてしまうほどに傷つけられた彼女のこれまでが。そしてこれからも傷つき続ける場所に置かれている現実が、悲しかったのだ。
「それは、あなたがずっと、傷ついて……望まないことを、させられるってことだから……」
 だが彼にも彼女の言い分は十二分にわかっていた。残酷な現状で、その薬が辛うじて彼女自身を守る手段であることぐらい、承知している。だからこそ、彼は反対しながらも言葉尻をすぼめ、無力な不甲斐なさに潰れるように下を向いてしまった。
 そんな少年の想いを知り、少女の胸の奥に苦しさが生まれる。さっき散々涙を流したはずなのに、また同じように心が熱くなる。
「後付けで文句なんか言わないでよ。それならどうすりゃいいのよ、馬鹿」
 潰れる喉で振り絞ると、彼は「ごめんなさい」とこれまで幾度も彼女に聞かせた台詞を呟いた。
 咄嗟の小さな痛みに、彼が思わず瞑った瞼を再び開いたころ、顔を見せる前に少女は伸ばした両腕で少年を抱きしめた。
「ありがと」
 そう言って肩に頭を乗せると、未だに彼女に触れていいのかと戸惑っていた少年も、やがて腕を回して抱き返した。
 少年は、少女に初めての言葉をたくさん与える。想像など微塵もせず、期待さえしなった台詞を幾度もかける。
 今だって、嬉しくてたまらない。少女は彼の頬に頬を当て、幸福を噛み締めた。こうして怒ってくれる誰かがいるなんて。いつも大人しく穏やかで、からかわれても反発さえしない少年が、やっとみせた怒りの表情が、今この時だなんて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。 かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。 44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。 小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。 一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。 ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...