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3章 ノンフィクション
彼の真実
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「叔父さんて、どんな人」
それぞれ鞄の中の水筒やペットボトルで水分補給をする。落ち着いたころ、立ち上がって伸びをする彼女に少年が言った。
「見たことなかったっけ」
「ぼくは隠れてたから、はっきりとは見たことない」
一度目はヘッドライトが眩しすぎたし、二度目は自動販売機の陰に隠れっぱなしだった。だから彼は、彼女がしょっちゅう愚痴を吐く叔父の顔を知らないと言った。
「そっか。顔分かんないと駄目だよね。もし手違いでもあったら、笑い事じゃすまないし」
ちょっと待ってと、鞄から取り出したスマートフォンに文字を打ち込む。
「ほんっとにクズだよ。前科持ちなんだ」
「前科って。捕まったの」
「そう」
「どうして」
「性犯罪」
彼がため息をついた。再犯に対する呆れが詰め込まれた吐息だった。
当時の事件について検索をかけ、一度流れた犯罪者としての顔写真を引っぱり出す。ほんの数分後には、彼女は彼に画面を向けた。
「ちょっと画質悪いし、だいぶ前だけど。間違いないよ」
十六年も前の写真だが、間違えようのない顔かたちはしっかりと残っている。ただ粗さの目立つ顔写真に、立ち上がった彼も彼女に向かい合うと、スマートフォンに片手を添えて顔を確認する。
「悪そうでしょ」
これで人違いの目には逢わないだろう。ふざけた口調で言い放った彼女は、彼の様子に首を傾げた。もういい時分なのに、片手から手を抜かないまま、目を見開いて画面を凝視している。前髪に隠れる瞳が揺れている。いつの間にか、血の気の引いた真っ青な顔をしている。
ようやく手を離して彼女に機器を返した彼は、大きく瞼を開いたまま、震える唇を喘ぐように動かした。
「この人、なんて名前……」
まさか、見覚えでもあったのだろうか。少女が記憶に留めてしまった大嫌いな人間の名前を教えると、彼は絶望に顔を歪めた。頬を引きつらせ、乾いた変な声を漏らす様子は、すっかり憔悴してしまっている。掠れた呼吸音でさえ聞こえてしまいそうなほど、空気を吸うことさえ苦しげに見える。
そうして彼が振り絞る言葉は、彼女自身も絶望を覚える、信じられないものだった。
「この人、ぼくの、父親だ……」
理解が少しも追いつかない。言葉など何一つ口にできない。
「ぼくの母親、レイプされたんだ……。それで、生まれてしまったのが、ぼくなんだよ」
わなわなと震える唇で、彼が小さくごめんなさいと呻いた理由が、彼女には全く分からなかった。彼の真っ青な顔では、深海の瞳まで波立って揺れている。
「なに、言ってんの、いきなり……」彼女はやっとの思いで唇を動かす。「そんな、そんなの、叔父さんが、犯人だっていうの」
失望にがっくりと肩を落とす少年は、彼女の期待を裏切り、力なく頷いた。
「うそ、嘘でしょ、そんなの、冗談、でしょ。そんな……そんな偶然、あるわけない……」
これが漫画なら、事実無根の小説、まるきりのフィクションならば、どんなにいいだろう。今すぐにでも彼に嘘だと言って欲しいと、動転する気持ちで彼女は願った。酷過ぎる冗談だと笑って欲しい。それならば、彼を一度殴って、笑って許して終わることのできる話なのに。
「人違いよ、そんなの、流石に。名前なんて、珍しくもないし、そんなこと……。大体、レイプってなに、そんなの、聞いてない」
「言ってないから、当たり前だよ……」
彼の声は潰れ収束し、消え入ってしまう。彼女と関わるにあたって、それほどまでにむごたらしい事件を持ち出す必要など、あるはずがなかったのだ。
彼は震える指先をズボンのポケットに伸ばし、いつもの黒い手帳を取り出した。決して失くさないようにと名前まで書いて大切にしているそれを両手で開き、革のカバーをめくる。育ての父親から貰った大事な手帳がばさりと音を立てて床に落ちてしまったが、それに構う様子もなく、カバーとの隙間に入れていた一枚の紙を引き出した。ぶるぶると震える指先に挟んでいるのは、新聞のスクラップ。そこに写っているのは、先ほど少女が見せたのと全く同じ男の顔写真。
十六年前の事件の詳細と、犯人の男の写真と名前が載せられた、手のひらに収まるほどの記事だった。地方に住む当時十九歳の女子大学生を、二十七歳の見知らぬ男が強姦したという、痛ましい事件だった。犯人の男は刃物で被害者を脅し、最後には財布から金まで奪って逃げたという。
「ぼくは、覚えてるんだ。忘れられないんだ。忘れちゃ駄目なんだ……!」
彼は喉の奥から悲鳴のような声を上げた。
十一年前のこと。まだ幼かった少年に、母は言った。タンスの引き出しの奥から取り出した、一枚の新聞の切り抜きを見せた。四つだった幼い彼がその難しい文章を理解できるはずがなかったが、文字の脇にある写真でだけ、怖そうな人だと思った。時折訪れては、母と長い時間話をして、よく自分とも遊んでくれる男の人とは、全然違う人だと思った。
顔を上げると、母は目に涙を浮かべていたが、その理由さえ分からなかった。尋ねる言葉を考えている内に、母はみるみる嗚咽を漏らして涙を零し始めた。強く抱きしめてくれる腕は、細かく震えていた。
「広樹だけは、お母さんの気持ち、わかるよね。あなただけは、絶対に忘れないでね……。お母さんは、忘れられないから。お願いだから、一緒に……」
母の涙の理由は分からなかったが、母を苦しめる元凶がこの紙の中の人物だと少年は理解した。
その翌日、母親は現在の夫と籍を入れた。そうして苗字が変わり、一部屋だけ多い離れた団地に引っ越した。
母は、堪えられなかったのだ。あの時、その瞬間、誰よりも傍にいて味方になり得たのは、少年だけだった。だから母の傷をともに背負うことが出来るのは、この世でただ一人、自分だけだと心に決めた。「一緒に」に続く言葉も悟った。母親は、一緒に地獄にいて欲しかったのだ。たった一人では耐えられなかったのだ。
だから決して忘れなかった。しまわれた新聞のスクラップをこっそり取り出して、その顔写真と名前の文字の形を覚えこむことを繰り返した。やがて数年が経ち、ひとりで向かった図書館で当時の新聞を探し当て、自分の存在理由を切り取った。母の苦しみをいつだって分かち合えるよう、肌身離さず持ち歩いていたのだ。
だから間違いない。この男は、自分の父親だ。
叫ぶように訴える彼の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。
「ぼくの半分は、この人なんだ。あなたを傷つけて汚した犯人は、半分がぼくなんだ……!」
彼女の前で泣きそうな顔はすれど、彼はこれまで一滴たりとも涙を流したことはなかった。濡れた瞳を見せても、そこから零れる雫の姿を彼女の目に映したことは、出会ってから一度もなかったのだ。
そんな少年は、今となっては止まらない大粒の涙を両目から流し、それを拭う仕草さえ出来ないままでいる。雨のように流れる涙は頬を伝い、制服を濡らし、無機質な床に注がれていく。
「ぼくが、あなたを……あなたを、汚したんだ。何も知らないままで、ぼくはあなたに、好きだなんて言った。同じだよ、ぼくも、この人と同じなんだ。犯人は、ぼくだったんだ……」
「そんなわけない……あんたが、叔父さんと同じなわけない!」彼の悲痛な叫びに、彼女も声を大きくして必死に否定する。それでも彼は「だけど!」と絶叫した。
「だけど、忘れたりなんてできない、この人は、ぼくの父親だ! ぼくを作った人間なんだ! 同じ血が流れてるんだ! ぼくは……ぼくが……!」
遂に立っていられなくなった彼は、力なく膝をつき泣き崩れてしまった。跪き、懸命に泣き声を殺し、それでも背を震わせながらしゃくり上げる。その隙間で、彼は幾度も謝った。絶えない涙を流し続け、罪のない少年は、ごめんなさい、ごめんなさいと懺悔する。
彼は、決して望まれて生まれた子どもではなかった。堕ろさなかった母親の情けによって、この世に生かされていた。そんな生まれもって孤独な少年は、今はひたすら、涙を流して謝り続けている。
せめて謝罪という名の自傷行為を止めさせようと、深く項垂れる彼の前に彼女も膝をつき、彼の摩耗したぼろぼろの心に届くよう、懸命に言葉を振り絞った。
「あんたが言ってくれたんだよ、私は私だって。何があっても変わらないって。あんたが言ったんじゃない。私は、その言葉が、嬉しかったんだよ。本当に、泣きたいぐらい嬉しくって……だから私も、何があったって……」
どんな罪があろうとも、その人がその人である限り、自分の心は変わらない。彼は、一ノ瀬広樹という人間を表す優しい言葉を、かつて彼女に伝えた。その言葉は、彼女の心を決して傷つけないよう優しく触れ、滲む涙を拭っていったのだ。
だから自分も変わらないと喉を震わせる彼女の頬を、涙が伝った。
顔を突き合わせ、ふたりの少年少女は、互いに跪いて泣きじゃくる。若すぎる年にそぐわない深すぎる傷から血を流し、致死量に達するそれを必死に塞ぎ合っては、止まらない血流を嘆き続ける。
「でも、それでも……だから、ぼくは、殺せないよ……。ぼくの身体の、半分だから、できないよ……」彼は、ぶるぶると震える声で訴える。「憎いのに……。あなたを傷つけて苦しませる人間が、こんなにも憎いのに……!」
肩を震わせ、涙声を振り絞る優しい彼にとって、ここまで誰かを憎むのは初めてのことだった。それ程までに憎らしい相手であっても、刃を向けられないことが、彼の心を抉り傷を深めた。歪めた顔に止まらない涙を流しながら、彼女の顔を仰ぎ、彼は悲しいと言った。自分の命以上に大切な彼女が、自分と同じ血を持つ人間に目の前で汚され苦しめられるのに、堪えられないと言っては泣いた。
「ぼくは、あなたが好きなのに」
少女は、少年を抱きしめた。縋るように彼は彼女に抱きつき、彼女は彼に縋って抱きしめる。温かで愛しくて、何があっても離れたくない相手を確かに両腕に感じながら、決して離さないようにと手を繋ぎ合う。
それでも、少年は選ばなければならない。
「ごめんね」
細い涙を頬に伝わらせる彼があげた顔に、同じように雫の流れる顔を見せ、彼女は優しく笑う。
「ごめん、変なこと言って。私は大丈夫。ちょっと魔が差しただけなんだ。こんなの、きっと最初っから決まってたのよ。いつかはこうなるって、私だって気づいてたんだから。覚悟ぐらい、出来てるよ」
それでも、そんな言葉を信じて甘える無責任さなど、彼は持ち合わせてはいない。
少年は、少女の言葉に涙を止め、唇を噛み締め、決意を固めた。
「一緒に、逃げよう」
それぞれ鞄の中の水筒やペットボトルで水分補給をする。落ち着いたころ、立ち上がって伸びをする彼女に少年が言った。
「見たことなかったっけ」
「ぼくは隠れてたから、はっきりとは見たことない」
一度目はヘッドライトが眩しすぎたし、二度目は自動販売機の陰に隠れっぱなしだった。だから彼は、彼女がしょっちゅう愚痴を吐く叔父の顔を知らないと言った。
「そっか。顔分かんないと駄目だよね。もし手違いでもあったら、笑い事じゃすまないし」
ちょっと待ってと、鞄から取り出したスマートフォンに文字を打ち込む。
「ほんっとにクズだよ。前科持ちなんだ」
「前科って。捕まったの」
「そう」
「どうして」
「性犯罪」
彼がため息をついた。再犯に対する呆れが詰め込まれた吐息だった。
当時の事件について検索をかけ、一度流れた犯罪者としての顔写真を引っぱり出す。ほんの数分後には、彼女は彼に画面を向けた。
「ちょっと画質悪いし、だいぶ前だけど。間違いないよ」
十六年も前の写真だが、間違えようのない顔かたちはしっかりと残っている。ただ粗さの目立つ顔写真に、立ち上がった彼も彼女に向かい合うと、スマートフォンに片手を添えて顔を確認する。
「悪そうでしょ」
これで人違いの目には逢わないだろう。ふざけた口調で言い放った彼女は、彼の様子に首を傾げた。もういい時分なのに、片手から手を抜かないまま、目を見開いて画面を凝視している。前髪に隠れる瞳が揺れている。いつの間にか、血の気の引いた真っ青な顔をしている。
ようやく手を離して彼女に機器を返した彼は、大きく瞼を開いたまま、震える唇を喘ぐように動かした。
「この人、なんて名前……」
まさか、見覚えでもあったのだろうか。少女が記憶に留めてしまった大嫌いな人間の名前を教えると、彼は絶望に顔を歪めた。頬を引きつらせ、乾いた変な声を漏らす様子は、すっかり憔悴してしまっている。掠れた呼吸音でさえ聞こえてしまいそうなほど、空気を吸うことさえ苦しげに見える。
そうして彼が振り絞る言葉は、彼女自身も絶望を覚える、信じられないものだった。
「この人、ぼくの、父親だ……」
理解が少しも追いつかない。言葉など何一つ口にできない。
「ぼくの母親、レイプされたんだ……。それで、生まれてしまったのが、ぼくなんだよ」
わなわなと震える唇で、彼が小さくごめんなさいと呻いた理由が、彼女には全く分からなかった。彼の真っ青な顔では、深海の瞳まで波立って揺れている。
「なに、言ってんの、いきなり……」彼女はやっとの思いで唇を動かす。「そんな、そんなの、叔父さんが、犯人だっていうの」
失望にがっくりと肩を落とす少年は、彼女の期待を裏切り、力なく頷いた。
「うそ、嘘でしょ、そんなの、冗談、でしょ。そんな……そんな偶然、あるわけない……」
これが漫画なら、事実無根の小説、まるきりのフィクションならば、どんなにいいだろう。今すぐにでも彼に嘘だと言って欲しいと、動転する気持ちで彼女は願った。酷過ぎる冗談だと笑って欲しい。それならば、彼を一度殴って、笑って許して終わることのできる話なのに。
「人違いよ、そんなの、流石に。名前なんて、珍しくもないし、そんなこと……。大体、レイプってなに、そんなの、聞いてない」
「言ってないから、当たり前だよ……」
彼の声は潰れ収束し、消え入ってしまう。彼女と関わるにあたって、それほどまでにむごたらしい事件を持ち出す必要など、あるはずがなかったのだ。
彼は震える指先をズボンのポケットに伸ばし、いつもの黒い手帳を取り出した。決して失くさないようにと名前まで書いて大切にしているそれを両手で開き、革のカバーをめくる。育ての父親から貰った大事な手帳がばさりと音を立てて床に落ちてしまったが、それに構う様子もなく、カバーとの隙間に入れていた一枚の紙を引き出した。ぶるぶると震える指先に挟んでいるのは、新聞のスクラップ。そこに写っているのは、先ほど少女が見せたのと全く同じ男の顔写真。
十六年前の事件の詳細と、犯人の男の写真と名前が載せられた、手のひらに収まるほどの記事だった。地方に住む当時十九歳の女子大学生を、二十七歳の見知らぬ男が強姦したという、痛ましい事件だった。犯人の男は刃物で被害者を脅し、最後には財布から金まで奪って逃げたという。
「ぼくは、覚えてるんだ。忘れられないんだ。忘れちゃ駄目なんだ……!」
彼は喉の奥から悲鳴のような声を上げた。
十一年前のこと。まだ幼かった少年に、母は言った。タンスの引き出しの奥から取り出した、一枚の新聞の切り抜きを見せた。四つだった幼い彼がその難しい文章を理解できるはずがなかったが、文字の脇にある写真でだけ、怖そうな人だと思った。時折訪れては、母と長い時間話をして、よく自分とも遊んでくれる男の人とは、全然違う人だと思った。
顔を上げると、母は目に涙を浮かべていたが、その理由さえ分からなかった。尋ねる言葉を考えている内に、母はみるみる嗚咽を漏らして涙を零し始めた。強く抱きしめてくれる腕は、細かく震えていた。
「広樹だけは、お母さんの気持ち、わかるよね。あなただけは、絶対に忘れないでね……。お母さんは、忘れられないから。お願いだから、一緒に……」
母の涙の理由は分からなかったが、母を苦しめる元凶がこの紙の中の人物だと少年は理解した。
その翌日、母親は現在の夫と籍を入れた。そうして苗字が変わり、一部屋だけ多い離れた団地に引っ越した。
母は、堪えられなかったのだ。あの時、その瞬間、誰よりも傍にいて味方になり得たのは、少年だけだった。だから母の傷をともに背負うことが出来るのは、この世でただ一人、自分だけだと心に決めた。「一緒に」に続く言葉も悟った。母親は、一緒に地獄にいて欲しかったのだ。たった一人では耐えられなかったのだ。
だから決して忘れなかった。しまわれた新聞のスクラップをこっそり取り出して、その顔写真と名前の文字の形を覚えこむことを繰り返した。やがて数年が経ち、ひとりで向かった図書館で当時の新聞を探し当て、自分の存在理由を切り取った。母の苦しみをいつだって分かち合えるよう、肌身離さず持ち歩いていたのだ。
だから間違いない。この男は、自分の父親だ。
叫ぶように訴える彼の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。
「ぼくの半分は、この人なんだ。あなたを傷つけて汚した犯人は、半分がぼくなんだ……!」
彼女の前で泣きそうな顔はすれど、彼はこれまで一滴たりとも涙を流したことはなかった。濡れた瞳を見せても、そこから零れる雫の姿を彼女の目に映したことは、出会ってから一度もなかったのだ。
そんな少年は、今となっては止まらない大粒の涙を両目から流し、それを拭う仕草さえ出来ないままでいる。雨のように流れる涙は頬を伝い、制服を濡らし、無機質な床に注がれていく。
「ぼくが、あなたを……あなたを、汚したんだ。何も知らないままで、ぼくはあなたに、好きだなんて言った。同じだよ、ぼくも、この人と同じなんだ。犯人は、ぼくだったんだ……」
「そんなわけない……あんたが、叔父さんと同じなわけない!」彼の悲痛な叫びに、彼女も声を大きくして必死に否定する。それでも彼は「だけど!」と絶叫した。
「だけど、忘れたりなんてできない、この人は、ぼくの父親だ! ぼくを作った人間なんだ! 同じ血が流れてるんだ! ぼくは……ぼくが……!」
遂に立っていられなくなった彼は、力なく膝をつき泣き崩れてしまった。跪き、懸命に泣き声を殺し、それでも背を震わせながらしゃくり上げる。その隙間で、彼は幾度も謝った。絶えない涙を流し続け、罪のない少年は、ごめんなさい、ごめんなさいと懺悔する。
彼は、決して望まれて生まれた子どもではなかった。堕ろさなかった母親の情けによって、この世に生かされていた。そんな生まれもって孤独な少年は、今はひたすら、涙を流して謝り続けている。
せめて謝罪という名の自傷行為を止めさせようと、深く項垂れる彼の前に彼女も膝をつき、彼の摩耗したぼろぼろの心に届くよう、懸命に言葉を振り絞った。
「あんたが言ってくれたんだよ、私は私だって。何があっても変わらないって。あんたが言ったんじゃない。私は、その言葉が、嬉しかったんだよ。本当に、泣きたいぐらい嬉しくって……だから私も、何があったって……」
どんな罪があろうとも、その人がその人である限り、自分の心は変わらない。彼は、一ノ瀬広樹という人間を表す優しい言葉を、かつて彼女に伝えた。その言葉は、彼女の心を決して傷つけないよう優しく触れ、滲む涙を拭っていったのだ。
だから自分も変わらないと喉を震わせる彼女の頬を、涙が伝った。
顔を突き合わせ、ふたりの少年少女は、互いに跪いて泣きじゃくる。若すぎる年にそぐわない深すぎる傷から血を流し、致死量に達するそれを必死に塞ぎ合っては、止まらない血流を嘆き続ける。
「でも、それでも……だから、ぼくは、殺せないよ……。ぼくの身体の、半分だから、できないよ……」彼は、ぶるぶると震える声で訴える。「憎いのに……。あなたを傷つけて苦しませる人間が、こんなにも憎いのに……!」
肩を震わせ、涙声を振り絞る優しい彼にとって、ここまで誰かを憎むのは初めてのことだった。それ程までに憎らしい相手であっても、刃を向けられないことが、彼の心を抉り傷を深めた。歪めた顔に止まらない涙を流しながら、彼女の顔を仰ぎ、彼は悲しいと言った。自分の命以上に大切な彼女が、自分と同じ血を持つ人間に目の前で汚され苦しめられるのに、堪えられないと言っては泣いた。
「ぼくは、あなたが好きなのに」
少女は、少年を抱きしめた。縋るように彼は彼女に抱きつき、彼女は彼に縋って抱きしめる。温かで愛しくて、何があっても離れたくない相手を確かに両腕に感じながら、決して離さないようにと手を繋ぎ合う。
それでも、少年は選ばなければならない。
「ごめんね」
細い涙を頬に伝わらせる彼があげた顔に、同じように雫の流れる顔を見せ、彼女は優しく笑う。
「ごめん、変なこと言って。私は大丈夫。ちょっと魔が差しただけなんだ。こんなの、きっと最初っから決まってたのよ。いつかはこうなるって、私だって気づいてたんだから。覚悟ぐらい、出来てるよ」
それでも、そんな言葉を信じて甘える無責任さなど、彼は持ち合わせてはいない。
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「一緒に、逃げよう」
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