深海の星空

柴野日向

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4章 宣戦布告

約束と宝物2

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「そんなの、全部杞憂だったのに……」母親は目を伏せた。「あの子が、誰かを傷つけたり……まして、弟になる佑人に手を上げるだなんて、あり得なかったのに……」
 彼は両親が驚くほどに、弟の面倒をみて懸命に世話をした。自分が得られなかった幼い頃の愛情を目いっぱい注ぎ、弟の幸せを願い、四人家族での幸福を全うしようと毎日奔走していた。
 そんな優しい彼だから、両親の懸念にはきちんと勘付いていただろう。どうしても信頼を得られず、弟を抱き上げることさえ避けるように言われながら、涙を呑んだ日もあったに違いない。だがその涙を誰にも見せなかったおかげで、弟はここまで無邪気に育ち、兄がくれたぬいぐるみを宝物として今も抱きしめている。
「とてもいい、四人家族ですよ」
 少女の言葉に顔を見合わせた両親は、ありがとうと笑った。
「だから、あの子なんて言うの、やめてください」
 ここに来てから、弟の名前は何度も聞いたのに、彼の名前は一度たりとも呼ばれていない。あの子あの子と、まるで彼は遠くに行って、二度と戻らぬ他人となってしまったかのように、おかしな名称をつけられている。
 これが、彼の愛した家族の姿。無意識に逸れてしまった愛情の形。わざとのきらいさえあればまだマシだっただろうに、示し合わせたわけでもなく、本当の名前は誰にも呼ばれないまま。
 はっと目を見開いた二人に、少女は厳しい視線をやった。
「他人の私だって、とってもいい名前だと思うのに。家族がくれた、自分だけのものなのに。与えた人ぐらい、逃げないで、ちゃんと呼んであげてください」
 生まれた時に母親がくれた、生涯に渡る唯一無二の贈り物。誰かに呼ばれるからこそ深い意味を持つものを、愛する人が使ってくれなければ、孤独は一層つのるだろう。
「そう……そうよね……」母親はうすく唇を噛み、彼女の言葉に何度も頷いている。「……ごめんなさい」震える声は、少女に向けられた台詞ではなかった。
「ごめんね。ごめんね、広樹……」
 鼻をすすり目頭を押さえる母親は、小さくしゃくり上げた。頬を伝うのは、息子のために流れる涙だった。
「おかあさん、どうしたの?」
 きょとんとする幼い子の頭を、父親が撫でる。母が涙を流す理由などまだ理解しようのない男の子は、きょろきょろとあたりを見回すと、まるで答えを聞くようにくじらの口元に耳を寄せる。その無邪気な姿に思わず微笑んだ母親は「ありがとう」と彼女に向ける。
「広樹が、あなたと居たがった理由が、分かった気がします」
 思わぬ台詞に、少女はすぐに言葉を返せない。
 ほら、いきなりこんなことを言う。まるでそっくりだよ。

 だからこそ彼らは頼みたいと言った。
 苦しい約束を交わした頃には、三分の一ほど残ったコーヒーはすっかり冷めてしまった。お代わりを注文しようかという父親の台詞を丁寧に断ると、彼女は脇に置いたバッグからスマートフォンを取り出した。ボタンを押し、十一時を迎える時刻を確認した向かい側で、明るい声が上がる。
「おにいちゃんのと、おんなじ!」
 父親の膝から身を乗り出し、くじらのぬいぐるみを抱きしめた男の子が指さす先には、機器の端に下がる組紐と小さな銀色の鈴がある。嘗て彼が大切にしていたお守りを、一年以上たっても幼い弟はきちんと覚えていたのだ。
 きらきらと輝く瞳、その目元にはどこか見覚えがある。なんだ、似てるんじゃん。やっぱり兄弟だね。
「いいな、おにいちゃんとおそろい」
 出来る限りテーブルに顔を寄せ、じいっと鈴を見つめる弟に手を振って音を聞かせてやる。彼は、まさにこれだと明るい瞳をぱちぱちさせる。こんなに可愛い子が懐けば、それは懸命に可愛がるだろうと、少女はお守りに左手を添えた。
「あげるよ。大事にするんだよ」
 紐を指先で軽く引き、決して解けないよう固く結んでいた組紐を解く先で、ちりちりと名残惜しく鈴が鳴る。
 その音の寂しさに気が付いたのか、真剣なまなざしでそれを見つめていた弟は、首を横に振った。やっぱりいいと言い、あれほどねだっていた姿が嘘のように、あっさりと身体を引いてしまう。
「ぼく、これがあるもん!」
 父親の膝に座り直すと、くじらのぬいぐるみをぎゅっと抱き直した。両側から握られてしまい少し情けなく眉尻を下げるくじらは、持ち主が戻って来て、痛くても笑っている風。
「いいの? おにいちゃんとお揃いだよ」
「おねえちゃん、それ、だいじ?」
「大事だけど……」手のひらに収まる鈴を見つめ、少女は弟に問い直した。「でも、お揃い欲しいでしょ」
「おねえちゃんのだいじだもん!」
 柔らかなぬいぐるみに柔らかな頬を押し当てながら、弟は太陽のような眩しい笑顔と共に、笑い声をあげた。
「たからもの、いっぱいはいらない! もう、ぼくのたからものあるもん!」
 自分にとって、そして人にとっての宝物の大切さを、幼い男の子は既に十分知っていた。誰かがそれを手放してまで自分を喜ばせることなど、望んではいなかった。少女が隠す寂寞を知ってしまえば、彼女を犠牲にしてまで自分の幸せなど望まない。弟は、少年によく似た、優しい子どもだった。
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