流星の徒花

柴野日向

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3章 冬を越えて

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 二学期末のテスト結果は、良好だった。
 これまで良くて九十番台だった翔太は、六十二位まで順位を上げた。担任は感心し、同じように十人抜いた凛も「いけるよ!」と喜んだ。喜んだ後に彼女は不安そうに「無理しないでね」と言った。
 実際、終業式を迎えた日の翔太の顔色は悪かった。
 暖房器具は効きの悪い小さな電気ストーブだけの部屋で深夜まで勉強し、早朝に学校に行く生活は、あまり身体に良いとは言えなかった。普段の栄養不足に寒さと睡眠不足が加わり、冬休みを迎えて三日が経つ頃、身体は立派に不調を訴えていた。
 寝ている場合じゃない。そう思っても熱は勝手に上がり、咳は止まらない。それでも寝ずに単語帳を睨んでいたのが余計に悪かったらしい。身体は悪寒に震え、文字を追うことも出来ない頭痛が襲ってきた。
 明後日には来年の日付に変わる日も、翔太は布団の中で震えていた。それでも体温は三十八度から一向に下がらない。下手をしたら三十九度まで上がる。昨日からまともにものを食べていない。
 だが、美沙子は誰かを心配し看病する人間ではなかった。少なくとも、翔太に対してはそうだった。いつ買ったのかも不明な市販の風邪薬を部屋に投げ入れると、当然のごとく勝也の元へと出かけて行った。
 腹はとっくに鳴らなくなった。咳で体力を奪われ、熱のせいで全身が筋肉痛だ。
 あまりの心細さと苦しさに、死ぬのかな、とも翔太は思った。それはあながち間違いではない気もした。三百円が浮いたなどと美沙子は喜ぶのだ。病院に行く金をくれるはずがない。このまま彼女が帰ってこなければ、もう起きるのも辛い自分は、誰にも見つけられずに弱って死ぬのかもしれない。
 身体を縮め、ぶるぶると震えながらぼんやりと目を向ける。その先で壁にかかっているのは、いつもの制服とマフラー。あれを着て、学校に行きたい。勉強して受験をして、合格して高校に行きたい。やっとそんな夢が見られたのに、こんな終わり、あんまりじゃないか。
 次第に夢うつつをさ迷いだした世界で、遠くチャイムの音がした。誰かが呼んでいる。

 熱に浮かされた身体を引きずってなんとか開けた扉の先には、悦子がいた。いつものエプロンはかけていない。右腕にトートバッグを下げている。
「何日も来んから、どうしても心配になって。凛ちゃんが、顔色が悪かったって言うやない。どうしたん、風邪? 病院は行った? あらあらあら、えらい熱やないの」
 ドアにもたれてようやく立つ翔太の額に手を当て、悦子は悲しそうな顔をした。
「行ってない……」翔太は掠れた声で返事をする。「……たぶん、風邪」
「今、翔ちゃん一人? お邪魔してもかまへんかな」
 頷くと、悦子は玄関に入ってドアを閉めた。彼女は、美沙子のことやその外出先については一切問いかけなかった。
「ご飯は? 何か食べた?」
「おととい、それ、たべた」
 キッチンのテーブルにはカップ麺の容器が放置され、中には脂が白く浮いている。数日間誰も片付けなかったシンクにまで、食べさしの容器が転がっている。他人様に見せるには、恥ずかしいほど汚れた部屋だ。
「おとといって、それからは?」
 首を横に振った。それでカップ麺のストックは切れてしまった。美沙子は自分の分しか買ってこず、翔太が部屋にこもっていれば食事について問いかけることもなかった。
「何も食べさせてもらってないん」
 トートバッグを椅子に置いて悦子が尋ねる。翔太が頷くと、眉間に皺を寄せた。
「かわいそうに。そんなん、ひどすぎるわ。こんなに翔ちゃんが弱っとんのに……。ご飯持ってきたから、それ食べなさい。台所貸してね。温めるから」
「お店は……」不安げな翔太に「ええんよ」と悦子は言う。
「今日の八時で今年の営業は、おしまい。だから、何も遠慮せんでええんよ。準備出来たら呼ぶから、それまで寝てなさい」
「だけど、今、金がなくて」
 口を手で覆い咳き込む翔太の背中を、悦子は優しくさする。
「翔ちゃん、あんたはね、そんなこと心配せんでええの。私が勝手に来て勝手に上がり込んどんやから、お金払えなんて言うわけないやない」
 ぼんやりしている内に、悦子は肩に手をやり踵を返させた。
 促されるまま部屋に戻り、翔太は布団に潜り込んでじっとしていた。なんだかひどく懐かしい気がした。ガスコンロに火がつく音、水道から水の流れる音、忙しなくキッチンを移動する足音。遠い昔、熱を出してうとうとしている時、母が料理をする音をこうして聞いていた。
 しばらくして音が止んだ頃、翔太は起き上がって部屋を出た。テーブルに皿を置く悦子が「あら」と顔を上げた。キッチンは綺麗に片付けられていた。カップ麺の容器はきちんと洗ってシンクに重ねられている。
「今呼ぼうと思ったんやけど。寝られんかった?」
「身体が、痛くて……」
 折りたたんだ毛布を身体に巻きつけ呟く翔太に、悦子は椅子を引いて座らせる。
 用意してくれたのは、サツマイモの入ったおかゆだった。
「本当に、食べてもいいの」
「駄目やなんて言うわけないやない。翔ちゃんの為のおかゆなんやから。ただでさえ痩せとんやから、食べれるなら食べて」笑いかけ、悦子は向かいの席に腰掛けた。
 いただきますと呟いて、翔太はスプーンで一口、口にする。ほんのりとした塩味。サツマイモの甘味。
「味、濃くないやろか」
 うんと頷く。「おいしい」と言うと、悦子は安心した顔を見せた。実際に、それは随分と美味しかった。味付けは濃すぎず薄すぎず、温かな米がゆっくりと胃に落ち着くのを感じる。
「食べれるなら、よかったわ。何も食べへんのって、余計に身体に悪いからね」
 温かい緑茶を注いでくれる。それを飲むだけで、いくらか頭の靄が晴れる気がする。
「あの、悦子さん」湯呑を手にしたまま、翔太は気になっていたことを口にした。
「どうして、うちの住所知ってたの」
「元さんが教えてくれたんよ。昔、送ってもらったことあったやろ」
 ああ、と納得した。小学生の頃、一度だけ元さんに負ぶわれて帰ったことがあった。
「みんな心配してるんよ。元さんも凛ちゃんも、みんな。アルバイトの子もね、翔太くん最近来ないけど、大丈夫かなって。おかゆも、うちの旦那が翔ちゃんにって作りはったんを持ってきたんよ」
 驚いて翔太は食べる手を止めた。「そんなに」と思わず呟いた。
「仕方ないわ。翔ちゃんはええ子やから。みんな大好きなんよ」
 考えて、しかしかぶりを振る。
「それは、みんながいい人なんだよ。……俺、そんなにいいやつじゃないし」心に巣食う卑屈は、自分でも嫌になる。「さっきだって、もう死ぬかもって思ってたし……」
 彼女が言うほどに「いい子」なら、きっと美沙子や勝也といった人間にも心配してもらえるに違いない。
「翔ちゃんはな、ええ子やけど、「都合のええ子」じゃないんよ」しかし悦子はそう言った。「そんなんなる必要ないんやから。大きゅうなって大人になっても、今のままでおってな」
 立ち上がった彼女は、鍋に残ったおかゆを別の皿に移し始める。翔太も手を動かし、少しずつ残りを口に運んだ。
 食べ終わるまでに、彼女は蒸しタオルを作ってくれた。「お風呂は疲れるから、これで身体拭いて着替えとき」
 言われるままに、翔太は部屋に戻って身体を拭いて別のパジャマに着替える。その間に食器を洗う音が聞こえる。
「風邪やろかおもて、途中に薬局あるやろ、そこで買うてきたんよ。取り合えずこれだけ飲んどいてな」
 キッチンに戻り席につき、水の入ったコップと共に渡された解熱鎮痛剤を飲む。他にも頭痛やのどの痛みに効く薬を数種類テーブルに並べてくれる。更に額には、解熱用のシートを貼ってくれた。
「あまった分と、これ、タッパーに入れて持ってきた分、お腹空いたらあっためて食べてな。りんごすりおろしたんもあるから。少しはもつと思うけど、悪なったら捨てるんよ。無理して食べてお腹壊したら、元も子もないからね」
 冷蔵庫にしまわれた食料の説明を聞く。翔太は何度も頷いて、わかったと返事をした。
「さ、そしたらもう寝とき。ご飯食べて、お薬飲んで、ちゃんと寝てたらきっとすぐにようなるわ」向かいの席で彼女は言い、襖の開いた部屋の向こうを見た。窓の外の狭いベランダでは物干し竿でタオルが揺れている。「洗濯物、干しっぱなしの畳んどくから。家の鍵、あれでええんかな」
 冷蔵庫に張り付いている小さなフックのマグネットを振り返るのに、翔太は頷く。
「帰る時、鍵かけて郵便受け入れとくわ。最近、空き巣がどうのって物騒やからね。翔ちゃんも気いつけるんよ」
「ほんとに、よかったの。忙しいのに」
 壁掛け時計を振り返る。悦子がやって来たのは十時過ぎ。今はもう十一時だ。家事をする時間を考えると、帰るのは更に遅くなってしまう。
「俺、送っていこうか……」
「何言うてんの」悦子は笑った。「こんなえらい風邪引いてしもとんのに、そんなんしたら肺炎になってしまうわ。本末転倒やない。そんな気にせんでええんよ、旦那に迎え頼んでもええんやから」それより、と彼女は玄関の方を見やった。誰も帰ってくる気配はない。
「翔ちゃんの方が心配やわ。もし悪なるようやったら、救急車でもなんでも呼ぶんよ。うちの電話番号知っとるよね、いつでも助けてって言うてかまへんのやから」
 躊躇う翔太は、なんとか小さく頷いた。
「約束してや。翔ちゃんが、死ぬかもしれんなんて一人で苦しんでるって思ただけで、辛うてかなわんわ」悦子は真剣な表情で、じっと翔太を見つめる。だがその目には厳しさではなく、懐かしい優しさがある。まるで家族みたいだ。熱のせいか、翔太は頷きながらぼんやりと思う。
「本当に、今日は、ありがとうございました」深々と翔太は頭を下げた。
「そんな改まらんとってや」悦子は言うが、翔太は首を横に振る。
「来てくれなかったら、もっとひどいことになってたから……」
「ほんまにええ子やなあ」悦子が立ち上がり、つられて翔太も席を立つ。
「うちらはみんな、翔ちゃんのこと家族みたいに思っとるから。いつでも声かけはってかまんのよ。辛い時はもちろんやけど、楽しい時でも、なんもない時でも。ただいま言うてくれたら、おかえりて、いつでも迎えるからね」
「うん」
 そして悦子は、優しく背を撫でた。
「じゃあ、おやすみ。あとはなんも心配いらんからね」
 ありがとう、と翔太はもう一度言った。
「おやすみなさい」
 部屋に戻り、布団にもぐる。腹がくちたおかげか、薬が効いてきたのか、水に沈むような眠気に微睡む。
 家事をする足音が、ゆったりとした波のように意識を出たり入ったりする。
 夢うつつの中で、やがて小さな金属音を聞いた。ドアの郵便受けに鍵が落ちる音。それを境に、意識は途切れていった。
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