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5章 苦境
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四月の半ば、気候は肌にちょうどよく、春の心地よい風が開け放した窓からそよぐ。土曜日の昼間、自室で宿題に取り組んでいた翔太は鍵の開く音を聞いた。
勝也だ。入ってくる足音が美沙子のものより重いから、すぐに分かった。すでに合鍵を手にしている彼は、いつでもこの部屋を行き来するようになっていた。それは翔太にとって嫌でたまらない現実だが、反発すれば本当に追い出されかねない。ため息をつく度に自分の無力さを思い知る。
「おい、翔太、おるか」
無遠慮に襖が開かれる。飯でも作れと言われるのかと翔太は身構える。
「美沙子さん、出かけてるよ」
「知っとるわ。なんやおまえ、せっかくの休みやっちゅうのに、真面目くさりおって」机に広げているノートと教科書を見ると、鼻で笑う。
「飯でも食いに行こうや」
唐突な台詞に、理解が及ばない。
「今、俺しかいないけど」
「わしはおまえに言うとんや」
翔太の頭には疑問だけが浮かぶ。勝也が他人を食事に誘うことなど滅多にない上に、翔太一人に対して、なんて初めてだったからだ。何か裏に意味があるのではと勘ぐってしまう。
「けったいな顔すんなや。行くぞ」
「でも、宿題多いし」
「んなもん知らんわ。とろくさいのお。はよこいや」
ため息をこらえ、ノートを閉じた。
「お金、ないけど」
「ガキにたかるか。馬鹿にしとんか」
カップ麺は作らせるくせに。そう言いたかったが、翔太は黙って勝也に続いて部屋を出た。
連れられたのは、近所の回転寿司屋だった。ただ土曜の昼日中というだけあり、中は家族連れで随分混み合っていた。勝也は面倒がったので、順番待ちの名簿には翔太が名前を書いた。
こうしていれば、自分たちも身内のように見えるのだろうか。待っている人数を数えて悪態をつく勝也を横目に見て、気分が悪くなる。勘弁してほしい。
壁際の椅子に座って、備え付けのマンガ雑誌を読み始めた勝也の横に、翔太も所在なく腰掛ける。見るもなく視線をやった先では、モニターでローカルニュースが放送されていた。そういえば、窃盗犯はまだ捕まらないらしい。ぼんやり考えていると、眠たげな鈴木の顔を思い出す。「俺、許せねえよ」。そう言った彼は、犯人が捕まれば少しぐらい楽になれるだろうか。そんなことを思う。
しばらくして、カウンター席に呼ばれた。二つ分だけ空いた席の左側に勝也が座ったので、その右側に翔太も並んだ。
「おまえ、こんなとこ久しぶりやろ」お手拭きで手を拭きながら言うのに、素直に「うん」と頷く。「八年ぶりぐらい」
「あいつはケチやからな」可笑しそうに勝也が笑う。
それを聞きながら、湯飲みに緑茶の粉とお湯を入れた。固まった粉が、湯飲みの中央でくるくると回る。顔を上げると、レーンをプラスチック製の皿が右から左へ流れていくのが見える。
タイ。いくらの軍艦。よく知らない白身魚。たまご。えび。ソーセージの乗った寿司。連なって、店中をぐるぐると回っている。懐かしい。この流れる皿を取るのが好きで、両親のリクエストを聞いてはその分も取っていた。あれからもう八年か。
「おまえはよう頑張っとるのう」
背中を叩かれ、浸りかけた懐旧から慌てて翔太は戻ってきた。頑張っただなんて、もしかして勝也が言ったのか?
「好きなん食えや。入学祝いやからな」
「入学祝い?」思わず繰り返す。「なんで、いきなり」
「あかんのか」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
勝也は構わず、イカの乗った皿を手に取る。促され、翔太も迷いながらえびの皿を取った。それでも食べるのを躊躇ってしまう。
これが悦子や元さんといった人が相手なら、恐縮しながらも喜んで受け入れた。だが相手が勝也となると、途端にひるんでしまう。この男が見せる厚意だなんて気味が悪くて仕方ない。一緒に暮らす子どもに食事をさせる父親代わりの人間だなどとアピールしているのだろうか。この寿司を口にすれば、彼の家族になることを認めてしまう気がする。
だが、考えすぎだと、翔太はその思いを振りはらった。この男は、これから同じ場所で暮らすだけの真っ赤な他人。こんなものでなにが変わるわけでもない。
それでも禁じ得ない苛立ちを見せないよう、弾力のあるえびの身を噛みしめる。
「どうや、高校は」
「うん……」寿司飯を飲み込む。「まあまあ」
「行った方がよかったやろ」
間違いなく、高校に進学したのは良い選択だった。
だがここで頷けば、すべては美沙子を説得した勝也のおかげ、ということになる気がする。それをまるきり否定できないのが、翔太は悔しかった。誘ってくれた凛や、応援してくれた担任や食堂の人たち、励まし合った同級生の思いやりを全てないがしろにしてしまう気がした。それなのに、勝也が出てきたおかげで保護者である美沙子の同意を得られた現実が、情けない。
「なんとか言えや」
睨まれ、ようやく翔太は頷く。
「やから、行け言うたんや。わしは」
「ねえ……」翔太はやっと自分から口を開いた。「本当に、美沙子さんと一緒になるの」
近くの店員に赤だしを注文しながら、勝也は「せやな」と言った。
勝也だ。入ってくる足音が美沙子のものより重いから、すぐに分かった。すでに合鍵を手にしている彼は、いつでもこの部屋を行き来するようになっていた。それは翔太にとって嫌でたまらない現実だが、反発すれば本当に追い出されかねない。ため息をつく度に自分の無力さを思い知る。
「おい、翔太、おるか」
無遠慮に襖が開かれる。飯でも作れと言われるのかと翔太は身構える。
「美沙子さん、出かけてるよ」
「知っとるわ。なんやおまえ、せっかくの休みやっちゅうのに、真面目くさりおって」机に広げているノートと教科書を見ると、鼻で笑う。
「飯でも食いに行こうや」
唐突な台詞に、理解が及ばない。
「今、俺しかいないけど」
「わしはおまえに言うとんや」
翔太の頭には疑問だけが浮かぶ。勝也が他人を食事に誘うことなど滅多にない上に、翔太一人に対して、なんて初めてだったからだ。何か裏に意味があるのではと勘ぐってしまう。
「けったいな顔すんなや。行くぞ」
「でも、宿題多いし」
「んなもん知らんわ。とろくさいのお。はよこいや」
ため息をこらえ、ノートを閉じた。
「お金、ないけど」
「ガキにたかるか。馬鹿にしとんか」
カップ麺は作らせるくせに。そう言いたかったが、翔太は黙って勝也に続いて部屋を出た。
連れられたのは、近所の回転寿司屋だった。ただ土曜の昼日中というだけあり、中は家族連れで随分混み合っていた。勝也は面倒がったので、順番待ちの名簿には翔太が名前を書いた。
こうしていれば、自分たちも身内のように見えるのだろうか。待っている人数を数えて悪態をつく勝也を横目に見て、気分が悪くなる。勘弁してほしい。
壁際の椅子に座って、備え付けのマンガ雑誌を読み始めた勝也の横に、翔太も所在なく腰掛ける。見るもなく視線をやった先では、モニターでローカルニュースが放送されていた。そういえば、窃盗犯はまだ捕まらないらしい。ぼんやり考えていると、眠たげな鈴木の顔を思い出す。「俺、許せねえよ」。そう言った彼は、犯人が捕まれば少しぐらい楽になれるだろうか。そんなことを思う。
しばらくして、カウンター席に呼ばれた。二つ分だけ空いた席の左側に勝也が座ったので、その右側に翔太も並んだ。
「おまえ、こんなとこ久しぶりやろ」お手拭きで手を拭きながら言うのに、素直に「うん」と頷く。「八年ぶりぐらい」
「あいつはケチやからな」可笑しそうに勝也が笑う。
それを聞きながら、湯飲みに緑茶の粉とお湯を入れた。固まった粉が、湯飲みの中央でくるくると回る。顔を上げると、レーンをプラスチック製の皿が右から左へ流れていくのが見える。
タイ。いくらの軍艦。よく知らない白身魚。たまご。えび。ソーセージの乗った寿司。連なって、店中をぐるぐると回っている。懐かしい。この流れる皿を取るのが好きで、両親のリクエストを聞いてはその分も取っていた。あれからもう八年か。
「おまえはよう頑張っとるのう」
背中を叩かれ、浸りかけた懐旧から慌てて翔太は戻ってきた。頑張っただなんて、もしかして勝也が言ったのか?
「好きなん食えや。入学祝いやからな」
「入学祝い?」思わず繰り返す。「なんで、いきなり」
「あかんのか」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
勝也は構わず、イカの乗った皿を手に取る。促され、翔太も迷いながらえびの皿を取った。それでも食べるのを躊躇ってしまう。
これが悦子や元さんといった人が相手なら、恐縮しながらも喜んで受け入れた。だが相手が勝也となると、途端にひるんでしまう。この男が見せる厚意だなんて気味が悪くて仕方ない。一緒に暮らす子どもに食事をさせる父親代わりの人間だなどとアピールしているのだろうか。この寿司を口にすれば、彼の家族になることを認めてしまう気がする。
だが、考えすぎだと、翔太はその思いを振りはらった。この男は、これから同じ場所で暮らすだけの真っ赤な他人。こんなものでなにが変わるわけでもない。
それでも禁じ得ない苛立ちを見せないよう、弾力のあるえびの身を噛みしめる。
「どうや、高校は」
「うん……」寿司飯を飲み込む。「まあまあ」
「行った方がよかったやろ」
間違いなく、高校に進学したのは良い選択だった。
だがここで頷けば、すべては美沙子を説得した勝也のおかげ、ということになる気がする。それをまるきり否定できないのが、翔太は悔しかった。誘ってくれた凛や、応援してくれた担任や食堂の人たち、励まし合った同級生の思いやりを全てないがしろにしてしまう気がした。それなのに、勝也が出てきたおかげで保護者である美沙子の同意を得られた現実が、情けない。
「なんとか言えや」
睨まれ、ようやく翔太は頷く。
「やから、行け言うたんや。わしは」
「ねえ……」翔太はやっと自分から口を開いた。「本当に、美沙子さんと一緒になるの」
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