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14 オスカーのせい

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「どうしたの、その格好⁉︎」

 アレンの上半身は、はだかだった。ズボンは履いているけれど、膝のところに大きな穴が空いて、生地はハンカチみたいに薄っぺらい。

「シャツは? どこにあるの?」
「そんなのないよ、全部ぼろぼろになっちゃった」
「ないって、そんな……」

 この部屋を見て、アレンの境遇をそれなりに理解していたつもりだった。けれど彼は、想像以上に厳しい環境で暮らしているらしい。
 絶句する私を、アレンはうっとり見つめた。

「アリスの服はあったかそうだね。それに……とっても綺麗だ」

 言われて見下ろすと、私はベッドに入った時の格好だった。

 母の遺品のうち、色あせずに残っていたフリルのネグリジェ。
 オスカーから受け取った結納金の一部を、私の持参金に当てたけれど、さらに節約したくて、嫁入り道具として持ってきたものだ。
 風が吹くたび、幾重ものフリルがふわりふわりと揺れる。

 そうやって自分の姿を眺めていたら、あるはずのないものが、首から下がっていることに気付いた。

 エドワード兄様にもらった懐中時計。手に取ってみると、いつも磨いているおかげで新品のようにぴかぴかだ。傷もほとんどない。

(……いえ、待って。おかしいわ)

 最後に見た時は、もっと汚れていた。鎖は切れていたし、ぜんまいも取れていたはず。
 一体、どういうことなんだろう。裏返したり傾けたり、じっくり観察していると。

「へっくしゅん!」

 くしゃみの音で、私は我に返った。慌ててアレンに視線を移すと、小さな手で両肩を懸命に抱いて、ガタガタ震えている。

 早く暖めてあげないと。オスカーの話は後回しだ。
 だけど、ここには上着も暖炉もない。火はあると言えばあるけれど、床のお皿に置かれた小さなろうそくの、頼りない灯りだけ。
 どうしよう──考えた末、私は床に膝をついた。そして、懐中時計を胸元にしまい込み、両腕を大きく広げた。

「アレン、おいで」
「え……何するの?」

 アレンは困ったように眉を寄せた。

「ぎゅーってしたら暖かくなるでしょ。だから、おいで」

 そう言うと、アレンは目をまん丸にした。

「そんなことしたら、アリスが汚れちゃうよ」
「大丈夫、大丈夫」

 さっきは、「ここは過去の世界かも……」と思ったけれど、懐中時計がすっかり綺麗になったくらいだ。やっぱり、これは夢なのかもしれない。
 だとしたら、目が覚めればすべて元通り。そうでなくても……アレンを放っておけない。

 腕を広げて待っていると、アレンは私の前でちょこんと座った。そして、少し恥ずかしそうに、胸元へ頬を寄せてきた。
 
(細い……)

 毛布の上からでさえ、骨の凹凸が手のひらに当たる。私は背中を丸めて、包み込むようにアレンを抱きしめた。
 あまりに不憫で、そうせずにはいられなかった。

 ──が、毛布にくっついたほこりが舞い上がって、鼻がむずむずしてくる。くしゃみが出ないようにと、高くあごを上げた。

 そこで、初めて天井を見た。緑のカビが、着々と陣地を広げている。そのうち、壁や床まで侵食されるだろう。

(カビだけじゃなくて、雨漏りの跡もあるわ。壁にもひびが入っているし、家具は少ないのに、床は散らかり放題……)

 アレンを腕に収めると、今度は荒れた部屋が気になってきた。
 
「ねえ、アレン。この部屋、おうちの人が片付けたりしないの?」

 すると、アレンはビクッと肩を震わせた。

「アレン?」

 再び問いかけるも、返事はない。どうしたのだろう。聞かれたくなかったのだろうか。
 無理に答えなくていいよ、と言おうとした時、腕の中からアレンの声がした。

「しょうがないじゃないか。おれには、タンスは動かせないし。オ、オスカーが悪いんだ。ぜんぶ、あいつのせいで……」

 少しどもった彼の声色は……どういえばいいのだろう。
 恐れ。動揺。ためらい。さまざまな感情が、複雑に入り混じっていた。
 
 ただ、その時はアレンの発言に驚いてしまって、彼の心を推し量る余裕がなかった。これは夢なのかも、と考えたことまで、頭から飛んでしまった。

(まさか、オスカーがこの部屋を荒らしたっていうの?)

 周りには、木っ端とガラスの破片に混じって、小物が散乱している。倒れたタンスからこぼれてしまったのだろう。
 私のすぐ傍にも、手のひらに乗るくらいの、天使の木彫り人形が転がっていた。

 冷淡に見えることはあっても、ほとんど声を荒げることのないオスカーが、こんなに暴力的な振る舞いをしたなんて。

(信じられない……)

 アレンの肩から右手を離し、労わるように天使の人形を拾い上げる。特に目の部分が黒く汚れて、そこだけ抜け落ちたようになってしまっている。
 
 木のうろみたいな黒い目を見ていると、すうっと意識が吸い込まれて、体が真っ暗闇に包まれて──。

 気が付くと、私は仰向けになって、寝室の天井を見上げていた。
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