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55 ベリンダ・リースマン①

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 帰りの馬車に揺られながら、ナンシーはブンブンと首を横に振って叫んだ。

「おやめになられた方がよろしいですよ! あの方はとんでもない女性です!」

 家に着くまで、彼女は鼻息荒く語り続けた。私を脅したり、大げさに嘆いてみせたり……けれど、私の意志が微動だにしないのを知ると、

「ジェイク様なら、リースマン様のご住所を存じていらっしゃるかと」

 と、諦めのため息をついた。

 屋敷に戻った私は、オスカーの仕事部屋に向かった。

「奥様、お帰りなさいませ」

 ジェイクは、オスカー宛ての手紙の整理をやめて、私を見た。

「旦那様のご様子はいかがでしたか?」
「オスカーには会えなかったの」
「なんと……!」
「でもね」

 ショックを受けているジェイクの肩を叩き、私は続けた。

「その関係で、あなたに聞きたいことがあるのよ。リースマンさんがどちらにお住まいか、知ってる? 」

 想像通り、ジェイクも目を丸くして聞き返してきた。

「リースマン様、でございますか?」
「ええ、彼女に会いたくて。まずは手紙を出したいの」

 ジェイクは八の字に眉を下げて、黙り込んだ。私に教えていいものか、考えているらしい。

「オスカーとの離婚を阻止するために、必要なことなの」

 そう言うと、ジェイクは眉を寄せたままだったけれど、「かしこまりました」と答えた。
 そして──ベリンダ・リースマン氏が我が家へ押しかけてきたのは、手紙を出してから5日後の朝だった。

 客間のソファにかけていたベリンダさんは、私が姿を見せるなり、ぎょっとして腰を浮かせた。それから、すぐさま怒りに顔をゆがめた。

「あんた、誰? オスカーを出しなさいよ! ねえ、ちょっと聞いてるの⁉︎」
「あ……し、失礼しました。お越しくださり、ありがとうございます。アリス・バートレットと申します」

 私は慌てて頭を下げた。喚き散らす彼女の顔を、ついまじまじと見つめてしまったのだ。

 鮮血を塗りたくったような唇。石膏像みたいな白い顔。
 青く染まった目の周りは、誰かに殴られたのかと思ったけれど、きっちり左右対称なので、たぶん化粧だ。

「バートレットぉ?」

 ベリンダさんはソファの背にもたれかかって、私を視線で舐め回した。
 上から下からお腹の中まで、粘っこいものにまとわりつかれたような、とにかく早く離れたい、という気分だった。

 が、まだ目的を果たしていない。私はなんとかその場に留まり、微笑みを維持した。
 するとベリンダさんは、「フン」と馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「あんたがオスカーの妻? あの子が結婚したとは聞いてたけど……パッとしないわね。どうせ、女避けのために適当に選ばれたんでしょ」
「はあ……どうでしょうか」

 私は曖昧に首をかしげてみせた。
 昔なら、彼女の言葉に傷つき、押し黙っただろう。けれど、今は右から左へと聞き流すことができた。
 自分がパッとしなかろうと、大富豪の妻としてふさわしくなかろうと、どうでもいい。ただ、「オスカーに会いたい」の一心だった。

(ベリンダさんによく思われていなくても、今は問題じゃない。オスカーの故郷について、どうやって話してもらうか。今、大事なのはそれだけよ)

 覚悟を決めて、ベリンダさんの向かいのソファに座ると、けばけばしい顔が、ずいとこちらへ近付いた。

「で、オスカーはどこ?」
「夫は、本日は留守にしております。それに、手紙をお送りしたのは私です」
「はあ⁉︎」

 ベリンダさんは、床を蹴って立ち上がった。怒りのせいか、顔が赤黒く染まっている。
 
「あの子の名前で『会いたい』って手紙をよこしてきたから、出向いてやったのに!」

 ……そんなことは書いていない。いや、たしかに送り主の名は「バートレット」とだけ記した。知らない名前が書いてあれば、警戒されると思ったからだ。

 そして、手紙にしたためたのは、「お会いしたいので、そちらの都合を教えてほしい」という内容である。するといきなり、彼女の方からやって来たのだ。

 けれど、そのことを指摘する隙はなかった。

「そうやってオスカーも騙して、結婚にこぎつけたのね⁉︎ この女狐!」

 口の端から泡を飛ばしてまくし立てた彼女は、テーブルのお茶をぐいっと飲み干し、焼き菓子をバリバリと噛み砕いた──私の分まで。
 それからパッと立ち上がると、黒いドレスを大きく揺らして、脇にひかえるジェイクへ詰め寄った。

「もう帰るわ、馬車は出してくれるんでしょうね⁉︎」

 喚き散らすベリンダさんに、私も立ち上がり、声をかける。

「本当に、お帰りになるのですか? あなたをお呼びしたのは、お金の話をするためですのに」
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