147 / 345
ルイセンコ 解説回
しおりを挟む
ルイセンコ 解説回
トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(ウクライナ語: Трохи́м Дени́сович Ли́сенко、露: Трофим Денисович Лысенко、1898年9月29日 - 1976年11月20日)は、ウクライナ出身のソビエト連邦の生物学者で農学者。 ロシアの園芸家で生物学者であったミチューリンの交配理論を支持し、メンデル遺伝学を排斥した。またそれらを疑似科学運動に適用し、ルイセンコ学説と名付けた。 ミチューリン主義農法の創立および主要な指導者で、ソ連科学アカデミー(1939年)、ウクライナ国立アカデミー(1934年)、全ソ連農業アカデミー(1935年)を歴任した共産党員であった
ウクライナのポルタヴァ地方カルロフカ・コンスタンチノグラートで中農の子として生まれ、義務教育をおえたのち、キエフ園芸専門学校にはいり1925年に卒業するとキロババードの育種試験場に赴任した。ここで植物の発生の研究をおこない、1929年にはオデッサの選択遺伝研究所に転じた。ここでの活動で主張した独自の遺伝学説は、スターリンに支持され急激に勢力を獲得していく。1936年からは所長を務め正統派の遺伝学者との間には激しい論争を戦わせるが1939年にソ連科学アカデミー会員となり、同年の討論会で決定的な勝利を得た。1940年からソ連科学アカデミー遺伝学研究所所長を1965年まで勤め、敗れた正統派遺伝学者たちは、逮捕、追放されるか転向を余儀なくされた。こうして彼が提唱し実践された農法は、ソ連農業を荒廃させたが、その実情は隠蔽された。
ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)は、スターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコは巻き返しを図り、フルシチョフを取り込むことに成功する。フルシチョフの解任後、1965年にルイセンコは科学アカデミーの遺伝学研究所所長のポストを失う。 にも関わらず、遺伝学研究所で研究室を率いることを許されており、彼の言葉と手法、アイデアを理解していたソ連の集団農場において、彼の人気は不動のものだった(その業績を否定すればそれまで擁護してきた国家権力の威信を傷つけるから)。 ルイセンコは1976年、モスクワにて死去、クンツェボ墓地に埋葬された。
その生涯で社会主義労働者英雄勲章、レーニン勲章を8回受賞(1935年、1945年に2度、1948年、1949年、1953年、1958年、1961年)、スターリン賞を3度受賞(1941年、1943年、1949年)した。
農学者としてルイセンコは、幾つかの農法(ヤロビ農法、綿の芽掻き、夏にジャガイモを植える) を提唱および奨励した。ルイセンコのほとんどの農法は、ソ連で広く導入されている最中でさえ、コンスタンティノフ(ロシア語版)、リュビシェフ(ロシア語版)、リシツィン(ロシア語版)、その他に批判された。
ヤロビザーツィヤ(春化)処理自体は、一定の品種について有効な場合があることが認められ、「バーナリゼーション」として一般化され、園芸用語のひとつとなっている。また、ミチューリンの育種法のなかで推進された、混合花粉受粉法、栄養接木雑種法は、積極的な意味をもつものとしてとらえられ、現在でも無視出来ない農業技術として知られている。
ルイセンコに異を唱える科学者たちは、農学技術上の理論的欠点を指摘し、彼が科学の一般的な手法に従っていないと批判した。幾つかの手法(たとえばハンガリーの昆虫学者ヤブロノフスキーによって提案されたゾウムシを克服する方法)は、ルイセンコよりずっと前に知られていたが、期待した成果を挙げられずに廃れたものだった。
植物相の発展の理論では、ルイセンコの名前は遺伝学の学者やミチューリン遺伝学を認めない者達に対する迫害と関係付けられた。
オリガ・レペシンスカヤ(ロシア語版)(1871年-1963年)の、新しい細胞は細胞の構造を持たない「生きる物質」(«живого вещества»)からも形成されるという理論を支持したが、それは後に生物学的に非科学的であると見なされるようになった。
「中華人民共和国大飢饉」
イギリス、アメリカでは、その学説、農法は批判され他国でも同様だったが、第二次世界大戦後の中国、北朝鮮では農業に採用され多大な被害を出した。日本では、戦後紹介され賛成派と反対派の間でルイセンコ論争を引き起こしたが、農業技術の発展による作物の増収によって成果が不確実なヤロビ農法は相手にされなくなったこと、高度経済成長による離農者の増加で1954年を境にして忘れ去られていった。
言語学においても、ニコライ・マルのヤフェト理論が大きな影響を与えるようなスターリン時代のソビエトの風潮の中で、メンデル遺伝学を否定し、ネオ・ラマルキズム論の立場をとるミチューリンの理論を発展させ、独自の進化論を述べたルイセンコに真っ向から反対したニコライ・ヴァヴィロフは、1940年に「ブルジョア的エセ科学者」として解職、逮捕され、1943年に栄養失調のため獄死した。
1962年、ノーベル財団がジェームス・ワトソン及び、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスの共同論文「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」に対し生理学・医学賞を授与。DNAの構造や機能が解明されていくにつれ、ルイセンコ学説の支持者はいなくなっていった。
1964年、物理学者アンドレイ・サハロフは科学アカデミーの総会でルイセンコを声高に非難した。
彼には、ソビエト連邦の生物学、中でも特に遺伝学の恥ずべき後進性、疑似科学的な見解の普及、冒険主義、多くの純粋な科学者たちに対する中傷、解雇、拘束、さらにはその死までについての責任がある。
作家ソルジェニーツィンは、1973年からフランスで出版したルポルタージュ『収容所群島』でこのように告発している。
一九三四年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子を播いた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、かびが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間空地のままにおかれた。ルイセンコは、雪が富農だといって非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにいかなかった。彼は、農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった。
トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(ウクライナ語: Трохи́м Дени́сович Ли́сенко、露: Трофим Денисович Лысенко、1898年9月29日 - 1976年11月20日)は、ウクライナ出身のソビエト連邦の生物学者で農学者。 ロシアの園芸家で生物学者であったミチューリンの交配理論を支持し、メンデル遺伝学を排斥した。またそれらを疑似科学運動に適用し、ルイセンコ学説と名付けた。 ミチューリン主義農法の創立および主要な指導者で、ソ連科学アカデミー(1939年)、ウクライナ国立アカデミー(1934年)、全ソ連農業アカデミー(1935年)を歴任した共産党員であった
ウクライナのポルタヴァ地方カルロフカ・コンスタンチノグラートで中農の子として生まれ、義務教育をおえたのち、キエフ園芸専門学校にはいり1925年に卒業するとキロババードの育種試験場に赴任した。ここで植物の発生の研究をおこない、1929年にはオデッサの選択遺伝研究所に転じた。ここでの活動で主張した独自の遺伝学説は、スターリンに支持され急激に勢力を獲得していく。1936年からは所長を務め正統派の遺伝学者との間には激しい論争を戦わせるが1939年にソ連科学アカデミー会員となり、同年の討論会で決定的な勝利を得た。1940年からソ連科学アカデミー遺伝学研究所所長を1965年まで勤め、敗れた正統派遺伝学者たちは、逮捕、追放されるか転向を余儀なくされた。こうして彼が提唱し実践された農法は、ソ連農業を荒廃させたが、その実情は隠蔽された。
ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)は、スターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコは巻き返しを図り、フルシチョフを取り込むことに成功する。フルシチョフの解任後、1965年にルイセンコは科学アカデミーの遺伝学研究所所長のポストを失う。 にも関わらず、遺伝学研究所で研究室を率いることを許されており、彼の言葉と手法、アイデアを理解していたソ連の集団農場において、彼の人気は不動のものだった(その業績を否定すればそれまで擁護してきた国家権力の威信を傷つけるから)。 ルイセンコは1976年、モスクワにて死去、クンツェボ墓地に埋葬された。
その生涯で社会主義労働者英雄勲章、レーニン勲章を8回受賞(1935年、1945年に2度、1948年、1949年、1953年、1958年、1961年)、スターリン賞を3度受賞(1941年、1943年、1949年)した。
農学者としてルイセンコは、幾つかの農法(ヤロビ農法、綿の芽掻き、夏にジャガイモを植える) を提唱および奨励した。ルイセンコのほとんどの農法は、ソ連で広く導入されている最中でさえ、コンスタンティノフ(ロシア語版)、リュビシェフ(ロシア語版)、リシツィン(ロシア語版)、その他に批判された。
ヤロビザーツィヤ(春化)処理自体は、一定の品種について有効な場合があることが認められ、「バーナリゼーション」として一般化され、園芸用語のひとつとなっている。また、ミチューリンの育種法のなかで推進された、混合花粉受粉法、栄養接木雑種法は、積極的な意味をもつものとしてとらえられ、現在でも無視出来ない農業技術として知られている。
ルイセンコに異を唱える科学者たちは、農学技術上の理論的欠点を指摘し、彼が科学の一般的な手法に従っていないと批判した。幾つかの手法(たとえばハンガリーの昆虫学者ヤブロノフスキーによって提案されたゾウムシを克服する方法)は、ルイセンコよりずっと前に知られていたが、期待した成果を挙げられずに廃れたものだった。
植物相の発展の理論では、ルイセンコの名前は遺伝学の学者やミチューリン遺伝学を認めない者達に対する迫害と関係付けられた。
オリガ・レペシンスカヤ(ロシア語版)(1871年-1963年)の、新しい細胞は細胞の構造を持たない「生きる物質」(«живого вещества»)からも形成されるという理論を支持したが、それは後に生物学的に非科学的であると見なされるようになった。
「中華人民共和国大飢饉」
イギリス、アメリカでは、その学説、農法は批判され他国でも同様だったが、第二次世界大戦後の中国、北朝鮮では農業に採用され多大な被害を出した。日本では、戦後紹介され賛成派と反対派の間でルイセンコ論争を引き起こしたが、農業技術の発展による作物の増収によって成果が不確実なヤロビ農法は相手にされなくなったこと、高度経済成長による離農者の増加で1954年を境にして忘れ去られていった。
言語学においても、ニコライ・マルのヤフェト理論が大きな影響を与えるようなスターリン時代のソビエトの風潮の中で、メンデル遺伝学を否定し、ネオ・ラマルキズム論の立場をとるミチューリンの理論を発展させ、独自の進化論を述べたルイセンコに真っ向から反対したニコライ・ヴァヴィロフは、1940年に「ブルジョア的エセ科学者」として解職、逮捕され、1943年に栄養失調のため獄死した。
1962年、ノーベル財団がジェームス・ワトソン及び、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスの共同論文「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」に対し生理学・医学賞を授与。DNAの構造や機能が解明されていくにつれ、ルイセンコ学説の支持者はいなくなっていった。
1964年、物理学者アンドレイ・サハロフは科学アカデミーの総会でルイセンコを声高に非難した。
彼には、ソビエト連邦の生物学、中でも特に遺伝学の恥ずべき後進性、疑似科学的な見解の普及、冒険主義、多くの純粋な科学者たちに対する中傷、解雇、拘束、さらにはその死までについての責任がある。
作家ソルジェニーツィンは、1973年からフランスで出版したルポルタージュ『収容所群島』でこのように告発している。
一九三四年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子を播いた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、かびが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間空地のままにおかれた。ルイセンコは、雪が富農だといって非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにいかなかった。彼は、農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…そして終戦工作 分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦
そしてそこから繋がる新たな近代史へ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる