【書籍化決定/完結】カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子

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第四章

24 夜道を二人で歩きたい

 
 一瞬、心臓を錐(きり)で突かれたような痛みが走る。藍人への恋しさを浮かべた桐山の横顔は、息を呑むほど美しかった。それが苦しかった。自分と彼女との違いを見せつけられるようで。

 無意識に片足が後ずさろうとする。だが、その前に、桐山の手が保の腕をキツく掴んだ。綺麗に伸ばされた爪が服越しに腕に食い込んで、鈍い痛みが走る。


「ねぇ、なんであんたなの? 私は、あんたの何倍も何百倍も努力してきた。藍人さんの傍に行くために、必死に綺麗になって、必死に演技の勉強もして、臭いオッサンにもぺこぺこ頭を下げて、やりたくもないことだってたくさんやってきた! それなのに、ただオメガって理由だけで、あの人に選ばれるなんて卑怯じゃないッ!」


 そう非難するということは、きっと桐山はオメガではないのだろう。

 桐山に握り締められた腕から、ぞわぞわと細波のように鳥肌が広がっていく。桐山の藍人への妄執が恐ろしくて、悲しかった。だが、だからといって、自分にはどうしようもないことで責められ、我慢する理由もない。

 唇を引き結ぶと、保は落ち着いた声で言った。


「確かに俺はオメガとして生まれましたが、それを卑怯と言われる筋合いはないです。そもそも、貴女が今向かい合うべきなのは俺じゃない。藍人さんが好きなら、本人にそう伝えればいいだけです」


 そう言い聞かせるみたいに伝えるが、桐山は一笑に付すように片方の口角を吊り上げた。


「調子に乗ってるのね? 私じゃなくて、自分が藍人さんに選ばれると思ってるんでしょう?」


 ほとんど難癖になってきた桐山の台詞に、保は眉を顰めた。


「ただオメガだからって理由で、アルファに選ばれるのが当然だと思ってる」
「そんなことは思っていません」
「嘘よ。だったら、恥ずかしくて藍人さんの隣に並べるわけがないじゃない」


 せせら笑うような桐山の言葉に、不意に息が止まるような衝撃が走った。言葉を失った保を見て、桐山が嘲りの口調で続ける。


「もしもあんたが普通の感性を持ってたら、あんな綺麗な人の隣にいることが恥ずかしくて堪らなくなるはずだもの。ねぇ、ちゃんと鏡見たことある? その見た目で、藍人さんと結ばれると本気で思ってるの?」


 ナイフのような言葉が、次々と身体に突き刺さってくる。全身の血が一瞬で凍りついたみたいに体温が下がって、吐き出す息が震えるのが分かった。


「藍人さんだって、今はあんたのフェロモンに惑わされてるかもしれないけど、いつか気付くはずよ。自分に、こんな平凡なオメガは『相応(ふさわ)しくない』って」


 それは何度も見た、保の悪夢そのものだった。その恐れがどうしても拭えなくて、差し出される恋しい手を握り返すことができないのだ。

 ぐらぐらとした眩暈の中、それでも自分の口が勝手に動くのを感じた。


「藍人さんは、そんなことは思わない」


 零れた言葉に、自分自身で驚いた。とっさに目を丸くして、目の前の桐山を見やる。桐山は呆気に取られた表情をしていたが、すぐさま憎らしげに顔を歪めた。


「はぁ? どうして、そんなことが分かるのよ」
「あの人は、そんな人ではないです」


 頭で考えるよりも先に、唇が動く。そのことに保はひどく混乱した。まるで、もう一人の自分に操られているような感覚だ。理性ではなく、本能が身体を突き動かしている。

 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、桐山が首を左右に振る。


「だから、なんでそんなことが分かるのかって聞いてんのよ」


 その問い掛けに、だって、とまた口が自動的に動く。


「だって、藍人さんは俺のことが――」


 本能が紡ぎかけた言葉を、理性が必死に食い止める。だが、自分が何を言おうとしたのかは分かっていた。


 ――だって、藍人さんは俺のことが好きだから。


 頭の中で流れた言葉に、冷え切っていた身体が見る見るうちに熱くなっていく。

 藍人が捧げてくれている愛情を、自分が無意識のうちに信じて、甘え切っていたことが分かって、それが恥ずかしくて堪らなかった。口ではイヤイヤと拒否しているくせに、身体は藍人にぎゅうっと抱き着いていたようなものだ。

 突然、顔面を真っ赤にして黙り込んだ保を見て、桐山が怪訝に片目を眇(すが)める。


「バッカじゃないの。藍人さんだって、毎日あんたの顔を見てたら、きっとすぐに嫌になるわよ。あんたみたいなスタンプで押したみたいに、どこにでもいるような面のオメガ――」
「黙れ」


 ぺらぺらと悪態をついていた桐山の声が、不意に鈍くうなるような声で遮られた。ビクッと肩を跳ねさせた桐山が、保の背後を凝視している。

 だが、保は後ろを振り返れなかった。すぐ背後から、冷凍庫から流れ出てくる冷気のような凍えたオーラを感じる。ピリピリとうなじが痺れるような感覚に、息が詰まって吐き出せなくなった。

 視線を地面へと向けたまま動けずにいると、するりと肩に長い腕が回ってきた。まるで蛇が巻き付くみたいに、肩を強く抱き寄せられる。

 ぎこちない仕草で隣を見上げると、藍人が怒りに満ちた眼差しで桐山を睨み付けていた。


「勝手なことをほざきやがって。お前は、一体僕の何になったつもりだ」


 藍人らしくない攻撃的な物言いだ。ありありと苛立ちを滲ませた藍人の口調に、桐山が狼狽したように一歩後ずさる。


「わ、私は、ただ……藍人さんのために……」
「僕のため? 自分のためだろうが」


 薄笑いを浮かべながら、藍人が吐き捨てる。


「身勝手な奴らは『貴方のため』って言いながら、いつだってクソみたいなことをしやがる。僕の大切なものを傷付けて、奪おうとしてくる」


 肩を抱いた腕に力が篭もるのを感じた。逃がさないと言うように肩に食い込む指先の感触に、じわりとその部分から熱が広がっていく。怒りで気が高ぶっているせいでアルファのフェロモンが多く放出されているのか、藍人の香りを深く感じた。

 桐山が両手で口元を押さえながら、涙声で言う。


「だって……だって、おかしいじゃないですか。藍人さんがこんなつまらないオメガと一緒にいるなんて」
「つまらない? つまらないのはお前の方だろうが。保さんのことを何も知らずに、ふざけたことを抜かすな。彼は、とても素晴らしい人だ。努力家で、親切で、いつだって真剣に人と向き合っている」


 過大すぎる自分の評価に、ますます体温が上がっていく。

 そんなことはない、自分はそんな良い人間じゃない、と言い返したいのに、どうしてだか咽喉が腫れたみたいに言葉が出てこなかった。じわりと湧いてきた汗で、肌着がかすかに湿っていく。

 藍人の言葉に、桐山が甲高い声で叫ぶ。


「そんな人、他にもたくさんいるじゃない! 私の方が、貴方に価値を与えられる!」
「価値? 何の価値だよ」


 馬鹿にするように藍人が訊ねると、桐山は自身の胸に手を当てて訴えかけるような声をあげた。


「私と付き合えば、芸能界で一番の美男美女カップルだって周りから祝福される。ファンのみんなだって、相手が私だったら納得してくれるわ。それにきっとカップルでの仕事だって増えるはずだし、それから――」
「僕は、そんなものに価値を感じない」


 藍人がぽつりと呟く。それから、ふっと視線を保に向けてきた。尖っていた眼差しが柔らかく緩んで、穏やかな声が聞こえてくる。


「僕は保さんとずっと手を繋いで、誰もいない夜道を二人で歩いていたい」


 その言葉に、実家に帰省したときの思い出が脳裏をよぎった。辺りに田んぼか星しか見えないような田舎道を、二人で手を繋いで歩いたことを。

 あんな他愛もないことに、藍人が価値を、幸福を見出しているのかと思うと、皮膚の下でぐつぐつと血が煮立つような感覚を覚えた。

 桐山がわなわなと唇を震わせながら、掠れた声を吐き出す。


「そんなの……馬鹿げてる」
「馬鹿げてるって思うのならそれでいい。お前には、一生分からない。分からなくていい」


 切り捨てるような口調で言うと、藍人は小さく肩をすくめた。


「ただ、これだけは理解して欲しい。僕は、吐き気がするほどお前が嫌いだ」


 あまりにも残酷な藍人から拒絶に、桐山は愕然とした表情を浮かべた。その瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。だが、藍人は哀れみのひとつも浮かべず、短く吐き捨てた。


「二度と保さんに近付くな」


 藍人がそう言った瞬間、桐山は耐えられなくなったように走り出した。両手で顔を押さえながら去っていく。
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