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第五章
30 運命なんてありえない
悪夢のドライブは、それから一時間ほど続いた。
長時間、四方八方に身体を振り回され続けたせいで、車が停車したときには、保はぶるぶると震えが止まらなくなっていた。両手が完全に硬直していて、アシストグリップを握った状態のまま動かせない。
保が動けずにいると、先に回復したらしき藍人がシートベルトを外して、保に手を伸ばしてきた。藍人の手助けによって、指を一本ずつアシストグリップから剥がしていく。
「保さん、深呼吸して」
胸元に手を当てられて促される。藍人に合わせてゆっくりと深呼吸していくと、ようやく震えが収まっていった。同時に、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
「ヴッ……」
とっさに口元を掌で押さえると、藍人が顔を覗き込んできた。
「吐きそう? 外の空気を吸う?」
問い掛けに弱々しくうなずくと、すぐに後部座席のドアが開かれて、長い腕に身体を引き寄せられた。怪我人みたいに肩を貸されたまま、車外に連れ出される。ぐらぐらと眩暈にも似た吐き気に襲われながらも、辺りを見渡す。
どうやら、ここは高台にある小さな公園のようだった。遊具が置かれているわけでもなく、特に綺麗な夜景が見えるわけでもないので、園内に人気(ひとけ)はなく静まり返っている。街灯ですら園内の端っこにポツンとひとつ置かれているだけで、辺りはひどく薄暗かった。
そして、肩越しに緩く振り返ると、運転席で額の汗を拭っている猿渡の姿が見えた。まだ運転の興奮を残しているのか、頬は紅潮しており、どこか満足げな表情を浮かべている。
「ごめんね。猿渡さんはハンドルを持つと、ちょっと人が変わるタイプで……」
保が猿渡を見ていることに気付いたのか、藍人が申し訳なさそうな声で呟く。
だが、果たしてあれを『ちょっと』と言っていいものなのか。もしも言葉にするなら『豹変』だとか『悪霊憑依』と称した方がいい気がする。
朦朧(もうろう)としつつそんなことを考えていると、公園の茂った木々の中に連れて行かれた。暗がりの中で立ち止まって、藍人が保の背中を撫でてくる。
「ここなら周りから見えないから、気持ち悪かったら吐いていいよ」
そう促す声に、うぷ、と酸っぱい胃液が込み上げてくる。今までどれだけ酒を飲んでも一度も吐いたことがなかったのに、まさかこんなところでゲボチャンスが訪れるとは思ってもいなかった。
せり上がってくる胃液を必死に飲み下して、保は首を左右に振った。
「は……吐きたく、ない……」
「我慢せずに吐いた方がいいと思うよ?」
保の返答に、藍人が怪訝そうな声を返してくる。だが、保は頑なに首を左右に振った。
「いやだ……吐かない……」
「なんで吐きたくないのさ?」
訊ねてくる声に、保は涙目のまま藍人を振り返った。
数ヶ月前、実家に帰省したときに、同じようなやり取りをしたことを思い出す。あのときは吐きそうになっている藍人を保が介抱して、どうして吐かないのかと訊ねたのだ。そして、藍人はそのときこう答えた。
『保さんに、格好悪いとこ、見せたくない……』
今なら藍人の気持ちが分かる。好きだから、格好悪いところなんか見せたくない。好きな人には、いつだって一番良い自分を見ていて欲しい。それなのに、今の自分は最悪にボロボロだった。
「とにかく……今は、吐きたくないんです……」
うめき声混じりに答えて、片手を木の幹に押し当てる。そのまま、込み上げてくる胃液を必死に堪えていると、ようやく吐き気が少しずつ引いていった。は、と短く息を吐き出して、口元を押さえていた掌を外す。
「少しは気分良くなった?」
「はい……たぶん……」
か細い声で答えると、藍人は保の背から手を離した。そのまま、ぐるりと辺りを見渡す。
「ちゃんと記者は撒(ま)けたみたいだね。しつこい奴だったけど、流石に猿渡さんの運転は追ってこれなかったみたいだ」
それはそうだろう。完全覚醒した猿渡の運転に着いてこられるのなんて、現役のレーサーぐらいしか想像がつかない。それか相当の命知らずのどっちかだ。『デッド・オア・ドライブ』という馬鹿げた台詞が脳裏をよぎって、更にげっそりとした気持ちになる。
「いつも、あんなのに追いかけられてるんですか……?」
げんなりしつつ訊ねると、藍人は緩く肩をすくめた。
「今回のは、まだマシな方だよ。もっとろくでもない奴は、僕が出したゴミを漁って買い物一覧を記事にしたりしたし、それに行きつけのカフェの店員を買収して飲み物に自白剤的な薬を混ぜられたこともあったしね」
その物騒な話に、保は思わず目を剥いた。
「そんなの、もう犯罪じゃないですか」
「そうだね。だから、普段はできる限りの自衛はしてるよ。でも、今回は予想外だったかな」
はぁ、と藍人がため息を零す。片手でぐしゃりと前髪を乱しながら、藍人は腹立たしげな声で続けた。
「あそこは撮影現場だったし、教会の敷地内だったから、関係者以外は入れないはずだ。それなのに記者がいたってことは、共演者の中に手引きした奴がいるってことだ」
「わざわざ自分で記者を呼んだってことですか?」
保が驚いた声で訊ねると、藍人は苦々しい表情でうなずいた。
「おそらく手引きしたのは桐山蓮華だろうね。おおかた、保さんを怒らせて暴力を振るう姿でも撮らせるつもりだったのか。それか僕に抱き着く姿でも撮らせて、自分との熱愛記事でも書かせるつもりだったのか。どっちにしても巫山戯(ふざけ)た真似をしやがって」
忌々しそうに吐き捨てると、藍人は暗がりをじっと見据えた。どこか温度が失せた眼差しで宙を睨み付けたまま、低い声で呟く。
「映画が公開されるまでは見逃さざるを得ないけど、その後は存分に報いを受けさせる。あの記者も、あの女も、この世界でのうのうと生きていけると思うな」
まるで遠くにいる桐山に呪詛(じゅそ)を飛ばしているような、鈍く轟く声音だった。その寒々とした声に、背筋にわずかに悪寒が走る。
保が硬直したまま押し黙っていると、藍人はすぐさま申し訳なさそうに表情を崩した。
「保さんも、こんなことに巻き込んで本当にごめん。すぐにうちの会社からも抗議の声明を出すつもりだから」
「声明って……まさか、俺が運命の相手とでも出すつもりですか?」
自分でも驚くぐらい陰鬱(いんうつ)な声が漏れた。保の声を聞いて、藍人がピタリと動きを止める。戸惑ったような藍人の表情を見据えたまま、保はかすかに震える声で続けた。
「やめてください。絶対に、俺なんかを運命だなんて言わないでください」
「保さん」
「俺は、これ以上はもう、耐えられない」
自分と一緒にいたら、この人は地面に引き摺りおろされてしまう。自分のせいで、輝く星をこれ以上泥にまみれさせたくなかった。
保が両手で頭を抱えると、藍人の泣き出しそうな声が聞こえてきた。
「保さん、ごめん。僕のせいで、本当にごめんなさい」
何だか小さな子供みたいな謝り方だ。
不意に『この人、謝ってばかりだな』と思った。藍人に謝らせてばかりいる自分が嫌で仕方ない。俺のせいでこの人は惨めになっていくばかりだと思うと、遣る瀬なくて堪らなかった。
うつむいたまま、掠れた声を吐き出す。
「ごめん、って言わないでください。藍人さんのせいじゃない。貴方は何も悪くない」
藍人ではなく、自分が悪い。藍人の隣に並ぶだけの自信を持てなかった、弱くて臆病な自分が悪いんだ。
自己嫌悪に胸が締め付けられて、息ができなくなりそうだった。両手でぎゅっと自身の胸倉を掴んだまま、蚊の鳴くような声で呟く。
「ただ、俺が……俺が、駄目なんです」
自分自身を見限るような台詞を吐いた途端、左肘を強く掴まれた。視線を上げると、顔をくしゃくしゃに歪めた藍人が見えた。
「駄目だなんて言わないで」
「でも、駄目なんです」
「やめて。お願いだから、それ以上言わないで」
「俺は、貴方の運命として相応(ふさわ)しくない」
そう口に出した瞬間、胸の奥に大きな穴がポッカリと開いた気がした。とうとう言ってしまったという喪失感と、悲哀と裏腹なかすかな安堵が込み上げて、口元に無様な泣き笑いが滲む。
愕然とした表情を浮かべる藍人を見つめたまま、保は自分自身に最後通告するように言い放った。
「貴方みたいなイケメン俳優と、俺が運命なんてありえない」
そうだ、最初から分かっていた。こんな運命はありえないって。どれだけ手を伸ばしたって届かないから、星は星なんだ。
左肘を掴んでいた藍人の手が、力なく滑り落ちる。保はのろのろとした動きで、自身の首にかかったチェーンを頭から抜き取った。チェーンの先に贈られた指輪をつけたまま、藍人へと差し出す。
「お返しします」
静かにそう告げるも、藍人は指輪を受け取ろうとしなかった。ただ深くうつむいたまま、微動だにしない。
仕方なく保は藍人の手を掴むと、その掌の中に指輪を落とした。ぎゅっと掌に指輪を握らせながら、穏やかな声で告げる。
「藍人さん、今までありがとうございました。本当に、本当にごめんなさい」
掌をぎゅっと握り締めたまま、頭を垂れる。
「貴方とずっと一緒にいてくれる人が現れるように、祈っています」
馬鹿げた祈りだ。去る相手から、こんなこと言われたって大きなお世話だろう。そう分かりながらも、保は祈らずにはいられなかった。
本当は寂しがり屋なこの人に、温かく寄り添ってくれる人が現れて欲しい。こんな出来損ないな運命じゃなくて、もっと強くて、この人を包み込んでくれるような優しい人が現れますように、と。
藍人の手をそっと離して、保は一人で歩き出した。数歩歩いたところで、背後から子供みたいな声が聞こえてくる。
「置いていかないで……」
ぽつんと零された寂しい言葉に、保は振り返ることができなかった。小さな子を置き去りにするような罪悪感に襲われながらも、膝に力を込めて歩き続ける。
歩いている最中に、かすかに涙が滲むのを感じた。目尻に浮かんだ涙を、手の甲で雑に拭う。自分に泣く権利なんてないことは分かっていた。藍人が必死に伸ばしてくれた手を振り払ったのは保の方だ。
覚束ない足取りで茂った木々の間から出ると、猿渡が立っていた。何とも言えない表情を浮かべたまま、保を見やっている。
「お帰りになられますか?」
そう訊ねてきた声は、少し悲しげに聞こえた。保が一人で戻ってきたことで、保と藍人が決別したことが猿渡にも分かったのかもしれない。
「はい、帰ります」
「少し下った場所にタクシーを呼んでいます。お代はもう払っていますので、芦名さんはそちらでお帰りください」
「いえ、代金は自分で――」
「清水さんからの指示ですから」
遠慮しようとした言葉を、すぐさま遮られる。そう言われると、しつこく食い下がるわけにもいかず、保は結局ぺこりと頭を下げた。
「すいません、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそご迷惑おかけしました」
猿渡に頭を下げ返される。その深々としたお辞儀を眺めていると、頭を上げないまま猿渡が小さな声で呟いた。
「こんなことを言うのは心底馬鹿げていると分かっているのですが、どうか清水のことを恨まないでやってください」
まるで懺悔するような台詞に、保は目を見開いた。
「恨むなんて……むしろ、俺の方こそ藍人さんにひどいことをしてしまって、申し訳ないです」
散々気を持たせた挙句に、こんな風に突き放すなんて最低な行いだと思う。それなら最初からきちんと断るべきだったと、今更ながらにひどく後悔した。
保が気まずく謝罪を零すと、猿渡は顔を上げた。だが、まだ眉尻が下がったままだ。なぜだか、その眼差しは保を哀れんでいるようにも見える。
「清水のことは気にしていただかなくても大丈夫です。あの人はああ見えて、存外しぶといので」
「仕事の方も、大丈夫でしょうか」
保と出会った直後に、引退会見を開くとか言っていたくらいだ。今回のことで本当に俳優業を辞めてしまわないかと不安になる。
保の心配に反して、猿渡は大丈夫とばかりに片手をビシッと胸前で上げた。
「問題ありません。あの人は人間のフリをした怪物ですから、成果もなしに戦場から撤退するようなことはしません」
さっきから猿渡の藍人に対する言葉が、やたらキツい気がするのは気のせいだろうか。でも、きっとこれが猿渡なりの藍人へのエールなんだろう、と思うことにする。
「藍人さんが俳優を辞めないのなら、よかったです」
「よかったですか? 自分がフッた相手がテレビに映ってるのって、結構気まずくないですか?」
率直な質問をされて、思わず苦笑いが漏れる。
保は、ゆっくりと空を見上げた。高台にいるおかげか、普段よりもずっと空が近く見える。藍色の空に、無数の煌めく星が浮かんでいた。
「でも、空を見上げたときに星が見えなかったら、さみしいじゃないですか」
そう零すと、猿渡はきょとんと目を瞬かせた。不思議そうな表情に曖昧な笑みを返して、保はもう一度深くお辞儀をしてから、一人で歩き出した。
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