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1巻
1-1
プロローグ
「ルイス! 危ないぞ! 早く降りてこい!」
焦ったような兄の声が響く。木の下では長兄のジェシーだけではなく、使用人が何人もおろおろと見上げている。
(みんな心配性なんだから。たかが木登りぐらい好きにさせてほしいよ)
呆れたようにため息を吐いた後、ルイスは笑顔で大きく両手を振ってみせた。脚はまたがっている幹にしっかり巻き付けているし、この木に登るのは初めてではない。安全に決まっている。
「ジェシー兄様! それにみんなも大丈夫だから心配しないで!! 僕、木登りは得意――」
そのはずだったのに。
「え?」
またがっていた幹が突然、ボキッと嫌な音を立てて折れた。
瞬間的に手を伸ばすが、掴んだ小枝も簡単に折れてしまう。
(やばい、落ちちゃう!)
この高さで背中から落ちたら、相当なケガを負うか、下手したら即死だ。
(今日のティータイム、僕の大好きなフィナンシェが出るって聞いてたのに。食べたかったな)
そう思ったのを最後にルイスは意識を手放した。
◇◇◇
「ねえ貴人、今ちょっといい?」
「呼び捨てすんなよ、お兄ちゃんだろ」
莉奈は俺の小言をスルーするとテーブルにゲームソフトらしきものを置いた。
「なんだこれ。ゲームか」
「そう。うちの会社から次に出す予定の新作なんだけど、社外の人の意見が聞きたくて。貴人なら話しても大丈夫ってボスからも了解とってきたし。またやってみてくれない?」
趣味ゲーム、特技ゲームの俺はたまに妹の会社が制作しているゲームの試しプレイに協力していた。
「見返りは?」
「向こう一週間、家事は私がやる」
「短い」
「じゃあ……二週間」
「のった」
「ありがと、めっちゃ助かる! できれば二週間くらいでクリアしてほしいの。来月、会議があるから、それに間に合わせたくて。こっちは設定資料ね……あ、やだもうこんな時間! 行ってきます!」
妹はバッグを引っ掴むと慌ただしく家を出ていく。
俺はその背中を見送りながら、いつも以上に丁寧にコーヒーを淹れた。
部屋中に広がるゲイシャ特有の花のような香りを肺いっぱいに吸い込みながら、ゲームの設定資料を手に取る。
今日は休日だが外出の予定はない。
というか休日も自主的にオンコール待機をしているので、外に出ることはめったにない。
リビングから見える広い道路の向こう側には、医大を卒業してからずっと勤務している大学病院がある。
入院患者にはいつ何が起きるかわからない。
いつでも駆けつけることができるように、自宅は勤務先から徒歩五分のタワマンを購入した。
ちなみに、この生活に不満を感じたことはない。
もともとアルコールが得意でない俺にとっては、うまいコーヒーを飲みながら家でゲームをしているだけでも十分なストレス発散になるのである。
「BLゲームねえ……ま、やってみるか」
コーヒーと資料を手に、さっそくプレイする。
ゲームのタイトルは『シークレット・ラバー』。
プレイヤーはさまざまなキャラクターから主人公を選び、「レイ・ヴァイオレット」という公爵令息を攻略するというBLゲームだ。
攻略対象が一人だけというのは斬新な設定である。
BLゲームは特に好きではなかったはずが、自分でも驚くほど夢中になってしまった。その結果、一週間もしないうちにほぼ完全攻略した。
「終わったぞ」
「え!? 早くない!? 仕事ちゃんとしてんの?」
莉奈が目を丸くして叫ぶ。
「俺はおまえと違って時間の使い方がうまいの」
「あっそ。で、どうだった? おもしろかった?」
「ああ。攻略対象が一人で主人公がたくさんいて選べるのが新しくてよかった。ストーリーもキャラごとによく練られてるし、主人公によって引き出されるレイの表情とか感情が違うのも見ごたえあるし」
「その感想、めっちゃ嬉しい! 推し、できた? ちなみに今のところ社内の一番人気はルークなんだよね」
「王道の主人公キャラだもんな、わかる。けど俺はアシュリーが一番好きだわ」
「え!? 悪役じゃん、なんで!?」
「バカおまえ、アシュリーのことを簡単に悪役なんて言うな」
俺の推しであるアシュリー・クロフォードはレイの婚約者で、主人公キャラの一人ではなく、このゲーム随一の悪役令息だ。
銀髪にすみれ色の瞳、切れ長の目が印象的なビスクドールのような美貌の持ち主だが、常に顔を顰めている様子がいかにも悪役っぽい。
ゲームではどのルートでも主人公とレイの邪魔をして、隙あらば主人公をいじめる徹底的に嫌な奴として描かれているのだが。
「シンプルにビジュアルがかなり好みってのもあるけど、設定資料を読んだら印象が変わった。この裏設定、かわいそうすぎる」
ゲームでは明かされていないが、アシュリーは体が弱い。
さらに顔と手足を除く体のあちこちに激しいかゆみを伴う原因不明の湿疹ができていて、常に体調が悪かった。
だがごく親しい周囲の人間以外には病気を隠していたため、レイの目にはいつも不機嫌でわがままな婚約者としか映らなかったのだ。
「もし俺がアシュリーの近くにいられたら、絶対こんな結末にさせずに守ってやるのに」
設定資料には兄と弟がいると記されていたが、アシュリーのあの様子じゃ兄弟仲はよくないのだろう。
ちなみにクロフォード家はアシュリーが断罪された際に一緒に処分を受け、王都から離れた辺境の地に領地替えされてしまう。
「なるほどねー。悪役令嬢とか令息ものって流行ってるし、スピンオフでアシュリーが主役もありか……って無理だね、どのルートでも死んじゃうもん」
「だったらアシュリーも主人公キャラにしてくれよな。また今度ゆっくり話そうぜ。そろそろ行くわ」
徹夜明けの妹に見送られて家を出る。
今日は早い時間からオペが入っている。歩きながらゲーム脳を仕事の脳に切り替えつつ、病院の前に立つ。
「っしゃ、今日も一日頑張るか」
だが一歩踏み出した視界が突然、大型のトラックでいっぱいになる。
(マジかよ。この距離でぶつかったら即死だぞ! 俺の人生、終わるの早くね!?)
もうだめだと思った瞬間、俺は反射的に目を閉じた。
◇◇◇
瞼の裏に強い光を感じて目を開けると、心配そうないくつもの顔が俺を覗き込んでいた。
(この人たち、誰……どう見ても日本人じゃないよな)
そう思った瞬間、頭の中に俺――三枝貴人のものではない、外国人らしき子どもの記憶が一気に広がる。
(誰だこれ……いや、これも俺……!?)
知らないはずの人生の情報が脳内に溢れていく。そのせいか頭が割れるように痛みだす。
「う……ああっ!!」
頭を抱えてうずくまる俺に、誰かが声をかけてくる。
「ルイス! どうしたの!? しっかりして!」
「誰か早く医者を呼ぶんだ! ああルイス、すぐにお医者様が来るからね。大丈夫だ」
(ルイスって俺のことだよな……そうだ、俺はルイス……ルイス・クロフォード……)
頭の中のもう一つの記憶がどんどんクリアになっていく。
その結果、俺は高熱を出して一週間近く寝込んでしまったのだった。
第一章
熱が下がった頃には記憶が落ち着き、自分の状況を理解できるようになっていた。
今の俺の名はルイス・クロフォード。
クロフォード公爵家の三男で、金髪に水色の目を持つ天真爛漫な九歳の少年である。
三男といっても、俺はクロフォード公爵の後妻である母上の連れ子だ。
愛嬌のある性格と母上によく似た可愛らしい容姿のおかげで、両親はもちろん長兄のジェシーからも溺愛といっても過言ではないほど可愛がられている。
「ルイス、他に食べたいものはないか? それともなにかお話でも読んであげようか」
その証拠に、今もベッド脇の椅子に座ったジェシーがあれこれと世話を焼いてくれている。
今日は両親が朝から用事で出かけているため、ジェシーが一日中、俺の側にいてくれることになったのだ。
ダークブラウンの髪にガーネットの瞳を持つ整った顔立ちの好青年だが、大好きな鍛錬のしすぎでガタイがいい。こんがり焼けた肌とあいまって、とても名門公爵家の令息には見えない。
ジェシーは現在二十歳で、もうすぐ王立騎士団の入団試験を受けることが決まっている。
本人の強い希望のもとに実現したのだが、試験に向けていつも以上に鍛錬しているらしい。いくら服を新調しても、すぐにサイズが合わなくなると母上が嘆いてる。
「大丈夫です。ありがとうございます」
ベッドテーブルには所せましと美しい飾り切りを施したフルーツが並んでいるし、正直言って本は自分でも読めるし、そのほうがラクである。
それにジェシーや使用人の注意を無視して高い木に登って落下したなんて、どう考えても俺の自業自得だ。
だがジェシーは自分が止めきれなかったせいだとひどく後悔しているらしい。
「わかった。だがなんでも言ってくれよ。ルイスがケガしたのは俺のせいなんだから」
ジェシーはそう言うと俺の頭を優しく撫でる。
熱を出したのは二人分の人生の情報を脳が処理するためで、落下によるケガとは無関係だろう。
だがそんなことは俺以外、知る由もない。
そんなわけでケガによる高熱だと勘違いされているのだ。
とはいえ「落下の衝撃で前世の記憶が戻ったから熱が出た」なんて言えるわけがない。
(ジェシーには悪いけど仕方ないよな)
心の中で謝りながらジェシーに微笑みかけた。
俺が転生したのはグラスミア王国という中世ヨーロッパ風の生活様式を持つ異世界の国で、クロフォード公爵家はグラスミアの貴族の中で十大名家と称される大貴族の一つである。
前世の記憶を取り戻した今、俺はおそらくジェシーよりもこの国や貴族、そしてクロフォード家についての知識が豊富だと思う。
それはなぜか。
驚くことにこの世界は、俺が死ぬ直前までプレイしていた例のBLゲーム『シークレット・ラバー』の世界だったから。
ジェシーもルイスも設定資料に名前だけ記載があったのを覚えている。
そう、俺はなんと推しキャラの弟――母上の連れ子なので血は繋がっていないが――に転生してしまったのである。
しかし推しである次男のアシュリーは、一人だけ本邸ではなく庭園の隅に建てられた離れで生活しているため、まだ会えていない。
数年前、アシュリーは顔と手足を除く体中に激しいかゆみを伴う湿疹が出る病気にかかってしまった。
高名な医師に見せても原因を特定できない。命に別状はなく、他人にうつらないであろうことはわかったものの、それ以上のことは今に至るまで解明されていないのだ。
原因不明の病にかかってしまったアシュリーは、最初は本邸で静養していた。
だが彼は次第に心を閉ざし、心配する両親や俺たち兄弟との接触を避けるようになってしまう。
そうしてついに両親に、自分だけ離れに部屋を移すことを自ら提案したのだ。
もちろん両親は猛反対した。
だが、アシュリーには一度言い出したら絶対に引かない頑固なところがある。
「言うことを聞いてくれるまで食事をとらない」と言い出し、三日目に両親が折れた。
医者からは「伝染性のある病気の可能性は低い」と言われたのだが、万が一家族にうつってしまったらと恐れていたのだ。
これも裏設定として資料に書かれていたことで、それを読んだときにはアシュリーの不器用すぎる優しさに涙が出そうになった。
回復したら絶対に推しに会いにいくと決めていたのだが、正直、待ちきれない。
「ジェシー兄様、本当に僕のお願いをなんでも聞いてくれるのですか……?」
ジェシーは読んでいた本をサイドテーブルに放ると、ベッドに身を乗り出してくる。
「もちろんだ! なんでも言ってくれ」
「僕、アシュリー兄様にお会いしたいんです」
「ア、アシュリーに!?」
予想もしていなかったのだろう、ジェシーは目と口を大きく開けて椅子からずり落ちそうになっている。
「そ……れは難しいんじゃないか? アイツはほとんど離れの部屋から出てこないし。俺もしばらく顔を見てないしなあ」
「ジェシー兄様、どうしてもダメなのですか?」
目を潤ませて上目遣いで長兄の顔を覗き込む。
ジェシーはウッと小さく呻いて右手で口元を覆った。兄は俺の悲しそうな顔に弱い。
とどめとばかりに今度は肩を落として俯くと、ぎゅっと抱き寄せられた。
「わかったわかった! このジェシー兄様に任せなさい! すぐにアシュリーを連れてきてやるからな!」
「ありがとうございます! 兄様大好きです!」
これでやっと推しと対面できる!
心からの笑顔を向けると、ジェシーは俺の弟が可愛すぎると大声で叫んだ。
(うわぁ……これが本物のアシュリー……)
今、俺の目の前には前世の推しにして現世の義兄であるアシュリー・クロフォードが座っている。画面越しでしか会うことのなかった推しが実在することに感動して、言葉が出てこない。
ルイスよりも三つ上だったから、誕生日前であれば十一歳のはず。
白く透き通るような肌に、銀糸のような髪。同じ色の長いまつげに覆われたすみれ色の瞳は、まるで宝石をはめこんだようにキラキラと輝いている。
まだ十一歳なのに完成された美貌に目を奪われてしまう。
俺が黙ったままじっと見続けているので、推しはチラチラと困ったような目で俺を見てはすぐ目を逸らすというのを繰り返している。
「ルイス? どうした、黙り込んで。話があるんじゃないのか? アシュリーはあまり長くはここにいられないぞ」
ジェシーの言葉でハッと我に返る。
「ごめんなさい、僕……久しぶりにお会いしたアシュリー兄様があまりにお綺麗で……見惚れてしまいました」
素直な気持ちを口にすると、アシュリーがすみれ色の目を見開いて俺を見る。
真っ白だった頬がじわじわと赤くなっていく。
「バ、バカなことを言わないでくれ。僕をからかっているんだろう」
わあ。推しが照れてる。可愛い。自分の顔が気持ち悪く緩むのを抑えることができない。
「からかってなんかないです! アシュリー兄様にお会いできて本当に嬉しいのです。これからはもっとお会いしたいです!」
だがアシュリーは美しい顔を曇らせた。
「それは無理だ。僕は病気なんだから」
小さいがきっぱりとした声には拒絶が表れていて少し悲しい。
でも俺は、彼が心の奥底では一人で暮らすことを寂しく感じていることを知っている。
「兄様の病気は人にうつるものではないと聞きました」
「そう言われてはいるけどね。本当のところはまだわからない」
アシュリーはそう言って悲しそうに目を伏せた。
設定資料には確かに「アシュリーの病に伝染性はない」と書いてあったし、元医者として、なんとなく彼の病気には心当たりがある。
治る可能性がある病気のせいで、推しが誤解されまくった挙句に性格が歪んだまま死んでしまうなんて絶対に嫌だ!
憂いを含んだ表情もたまらないけれど、やっぱり推しにはいつも幸せでいてほしいと思うのがオタク心というもの。
ゲームではアシュリーの笑顔なんて一度も見たことがなかったけれど、きっと天使のように可愛いに違いない。
俺はベッド脇の椅子に座るアシュリーの両手をぎゅっと握った。
「アシュリー兄様! 僕が絶対に、兄様のことを幸せにしますから!!」
アシュリーはぽかんとした表情を浮かべて俺を見た。推しに正面から近距離で見つめられて昇天しそうになる。
だがアシュリーは素早く俺の手から自分の手を抜くと立ち上がった。
「バカげたことを言わないでくれ。きみはまだ熱があるんじゃないのか。もう少し休みなさい。兄上、僕は戻ります」
「わかった。確かに今日のルイスは妙なことばかり口走っているな。それに、その……アシュリーだけじゃなくて、俺のことももう少し褒めてくれてもいいと思うんだが」
アシュリーは冷めた目でジェシーを一瞥すると、扉に向かって歩いていく。
「アシュリー兄様! 来てくださってありがとうございました。今度は僕が兄様のところに遊びに行きますね!」
背中に声をかけるが、推しは振り返らずに出ていった。
つれない態度がちょっと寂しいが、どんな形であれ、二次元の推しとリアルに対面して会話できたなんて夢みたいだ。
一人喜びを噛みしめていると、大きな手が優しく頭を撫でてくれた。
「アシュリーは気難しいところがあるんだ。兄の俺ですらアイツが何を考えているのか、よくわからないことが多いし。ただ、悪い奴じゃないんだ。許してやってくれないか」
見当違いも甚だしいが、ここは大人しく頷いておく。それに推しと対面して興奮したせいか、少し体温が上がった気がする。
「兄様、僕、少し休みますね。また熱が上がってきたかもしれません」
「本当か!?」
ジェシーは慌てて俺の額に手を当てる。
「確かに少し熱いな。冷やすものを用意してくるから、横になって待っておいで」
「はい」
ジェシーが部屋を出ていった後、俺は目を閉じてシーツに体を沈めた。
目を閉じると瞼の裏にキラキラのエフェクトがかかった推しの姿が鮮明に浮かんでくる。
「リアルアシュリー……綺麗すぎ、天使すぎ。子ども時代があんなに可愛いなんて聞いてない。はぁ……破壊力ハンパなかったな。手、あったかかったし……」
推しに会えた喜びを存分に噛みしめた後、気になったことを思い返してみる。
初夏だというのに、アシュリーは真っ黒な長袖のシャツをきっちり着込み、顔や手以外の皮膚はほとんど見えないようにしていた。
俺の見立てが正しければ、アシュリーが医者から指導されている生活は間違いだらけで悪化する可能性しかない。
体は子どもになってしまったが、頭の中には前世の医学知識がしっかり残っている。まるでどこかの高校生探偵だ。これを活用しない手はない。
突然、もしかすると俺はアシュリーの人生を変えるために、この世界に転生したのではないかという考えが浮かんだ。
そうだ、きっとそうに違いない。
これから絶対にアシュリーの病気を治して、人生をバラ色にしてやる!!
そのためにも、まず今は自分の体調を整えなければ。
近い将来、病気を治して元気になったアシュリーに、クッキーを「あーん」してもらうという、前世の自分の年齢を考えたら非常に気色悪い妄想をしながら俺は眠りについたのだった。
早くまた推しに会いたい一心の俺は、気合いで四日後には体調を回復させた。今やすっかり元気になり、今日も朝から屋敷の内外を走り回っている。
「……また来たのか。困った子だ」
アシュリーは警戒心と困惑の混ざった目で俺を見下ろす。
体調が回復した日からもう一週間以上も離れに通い詰めているので、この目にももう慣れっこだ。俺は気にせず微笑みかける。
「えへへ。だって今日も兄様に会いたかったんです」
「僕に? ……なぜ」
「そんなの、決まってます! 兄様のことが大好きだからですっ!!」
アシュリーは小さくため息を吐いて片手でこめかみを揉んだ。
「つまらない冗談はやめなさい。ここはきみが来るべき場所じゃない。父上や母上、それに兄上が心配する」
「いえ! みんな僕からアシュリー兄様の様子を聞いて、とても喜んでいらっしゃいますよ」
ほんの一瞬、すみれ色の瞳に動揺が走った。
だが表情管理が完璧なアシュリーはすぐにいつもの厳しい顔に戻る。
「そうか、それはよかった。だが僕はこの通り特に変わったところはない。何かあれば執事長からすぐに連絡がいくはずだから、きみが毎日来てくれる必要はない」
「でも僕が毎日、兄様のお顔を見たいのです」
アシュリーはうんざりしたように息を吐いた。
「……ルイス。さっきも言ったばかりだろう。つまらない冗談は――」
「わあ! 兄様が僕の名前を呼んでくださった! 昔みたいに!! 兄様、もう一回お願いします!」
なんという僥倖。初めて推しに名前を呼ばれた。嬉しすぎて体中の血が沸騰するように体が熱い。
アシュリーはしまったという顔をした後、下唇を噛んだ。
そうして、「もう一度名前を呼んでほしい」としつこくねだる俺を無視し、生徒指導の教師のような口調でぴしゃりと言い放つ。
「とにかくもう戻りなさい。それから、もうここには来ないように。わかったね」
「うーーん」
「なんだいその返事は。わかったね?」
「うーーーん」
「いい加減にしなさい」
言葉は厳しいけれど、アシュリーの眉毛は八の字になっている。
本当は怒っているのではない、ただ困っているだけなのだろう。
聞き分けのない義弟を前に、アシュリーは次第に途方に暮れた表情になっていく。
「兄様は僕がお嫌いですか?」
俺の言葉に、すみれ色の目が揺れた。
「そういうことじゃないんだよ。僕の病気のことは知っているだろう。もしきみにうつりでもしたら――」
「大丈夫です。絶対にうつりませんから」
思わず被せるようにそう言うと、アシュリーは眉を顰める。
「どうして断定できるんだ。お医者様は確率が低いと診断しただけで、うつる可能性がゼロだとは言っていない」
「いえ。絶対に大丈夫ですから!」
「どうして……」
自信たっぷりに胸を張る俺に、アシュリーは戸惑いの表情を浮かべる。
「それにもし兄様がここには来てはいけないとおっしゃるのでしたら、僕はもう食事をとりませんから!」
「そ、そんなことは絶対にだめだ! ルイスが体を壊してしまうじゃないか」
「兄様、今日は二回も僕の名前を呼んでくれましたね。嬉しいです!」
満面の笑みで下から顔を覗き込む。アシュリーは少しの間ぽかんとした表情をしていたが、やがて小さくため息を吐いて、天井を仰いだ。
「……もういい、わかった。僕の負けだ、好きにしなさい」
「わあ! 本当ですか!! 嬉しいです!! 兄様ありがとう!!」
抱きつこうとジャンプすると、アシュリーは素早くかわした。
「来てもいいけれど、言いつけは守ってもらうよ。第一に、僕に触れてはいけない」
「えー。この前僕のお見舞いに来てくださったときは、手を握ったのに」
「きみが勝手に触れたんだろう。僕は許していない」
不満げに口をとがらせる俺を、アシュリーは軽く睨む。
「さっきも言っただろう。僕の病気はわからないことが多いんだ。触れてうつることがあるかもしれない」
そんなことは百パーセントないのだが、ここで反論したら出禁になりかねない。
しぶしぶ頷くと、アシュリーはほんの少しだけ表情を緩めた。
それだけで嬉しすぎてニヤついてしまう。
「ほら、そろそろ夕食の時間だろう。明日も来ていいから、早く帰りなさい」
「わかりました。兄様、また明日来ますね!!」
俺はメイドに手を引かれながら、名残惜しくて何度も振り返っては勢いよく手を振る。
何度目かに振り返ったとき、アシュリーはやれやれといった体で手を振り返してくれた。
(手の振り方、控えめで可愛いすぎるんですけど!!)
俺は心の中で喜びを噛みしめながら階段を下りた。玄関広間に降り立ったとき、食べ物のいい匂いが漂ってきた。
「そうか、兄様もこれから夕食なんだ」
独り言のつもりだったのだが、側に控えていたメイドが教えてくれる。
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