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一方向の運命

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 幼心に、印象に残っている人物がいる。小学生の時に何度か同じクラスになったことがある男の子だ。彼は女の子みたいな格好をしていたわけではないけれど、なぜかちゃんづけで呼びたくなるような雰囲気があった。大人になって思えば、中性的と表すのだろうと言葉も見つかるが、そんな様子でもなかった気がする。
 彼は独特な少年だった。彼は体が弱いのか、教室に登校する回数が少しずつ減っていった。卒業間際にはほとんど授業を受けていなかったと思う。
 低学年の時の記憶は曖昧だが、印象に残っているのは小学三年生の冬のことだ。彼は暗い性格には見えなかったが、なにぶん一緒に遊ぶことが少なかったのであまり友達がいなかった。自分は運動が得意な方ではなかったから、日陰でのんびりとしていた彼に話しかけたのだ。
 遊びに行かないの、と聞くと彼は少し笑って首を振った。彼は少しも日に焼けていなくて、海外の子みたいに真っ白だった。彼がちょっとお腹が痛いんだと言うから一緒に保健室に行ってあげた。保健の先生が彼を休ませると言って、結局彼は放課後まで保健室にいたようだった。
 きちんと話したのはその時くらいだったように思うが、なぜかずっと鮮烈に彼の存在が残り続けた。彼は時々授業に出て隣の子の教科書を見せてもらっていた。特別先生と話しているところは見たことがないのに、少し交わした言葉から特別仲がいいのが垣間見えた。泳げないのか、水泳の授業に出ているのを見たことがなかった。
 初恋、というのかもしれない。淡い憧れのようなものを彼に抱いていた。彼と仲良くなれたらどれだけいいだろうと思いながら、話しかけるのが怖くて遠くから見ていた。周りの友人も同じだったようで、遠巻きに彼に好奇の視線を送っていた。彼には相手にされないだろうというのが分かっていたのかもしれない。怖いもの知らずの女の子達しか彼に話しかけに行かなかった。彼は、同い年のはずなのに制服を着て学校に行っているお兄さん達や、もっと歳上に見える時があった。
 大人になっても彼の残像が焼き付いている。忘れた頃に夢のようにふと現れて、笑顔を向けてくる。それは彼が実際にしたはずもないような蠱惑的なもので、およそ子供とは言えないような顔をするのだ。自分の理想を塗り固めたような、欲望を押し付けられた彼が出来上がっていた。
 確か、名前をなんといったか。彼は、彼の名前は——






「──涼くん」

 不意に声をかけられたが、フルネームで呼ばれることなどほとんどないため咄嗟に反応できなかった。半信半疑で振り返ると、確かに相手と目があったので自分に声をかけているのだとようやく分かったくらいだ。
 涼は怪訝そうに振り返り、相手の男を確認した。歳はそう離れていなさそうだ。見覚えのない男は、一体どこで自分を知ったのだろう。この街で自分を知ったものには涼という名前で通っている。名字まで知っている相手に心当たりはない。

「知り合いか?」

 一緒に歩いていたヨウが尋ねてくる。ヨウも聞き慣れない名字まで知っている男が一体どんな関係なのかと訝っているのだろう。さあ、と涼は眉を曲げて見せる。

「悪いけど、誰?」

 昨日遊んだ相手の顔もろくに覚えていない性分なのだ。悪びれずに言えば、男は感極まった様子で涼を眺めた。まるで長年探し求めていた相手に再会でもしたかのように、瞳には感動が浮かんでいる。
 それが“涼”に向けられるものなら分からないでもないが、ステージに上がるわけでも一夜の相手をするでもない一人の男に向けられているのが妙だった。薄気味悪ささえ感じていると、男は弁明するように口早に話した。小学校のクラスメイトだったのだと言われ、涼は素直に驚嘆する。
 よくもまあ幼い頃の記憶から自分が分かったものだ。信用を得ようとするようにぽつぽつと語られる小学校時代の情報は確かに相違ないようだった。涼に大人の行為を教えた先生の名前、体の痕が消えなくて一度も入れなかったプール、授業をサボって一日中不健全な使い方をしていた保健室。

「へえ、懐かしい」

 涼は少し目を細めて笑う。まともに勉強もせずに子供らしからぬ遊びばかりしていた。我ながらどうしようもない子供だと思い出す。
 涼の遠くを見るような瞳と微笑に、相手はギクリとしたようだった。ヨウは哀れむような色でそれを見やる。涼に心臓を掴まれてしまった相手が見せる反応とまるで同じだった。視線の一つ、笑みの一つで涼に心を奪われる人間を何人も見てきた。涼も分かっているだろうに、奪うだけ奪って応えてやることも返してやることもしない。

「それじゃ、行こ」

 涼は懐かしさに浸ることもなくあっさりと背を向けて元より向かっていた方向に歩み出す。ヨウも無言でそれに倣った。
 ちらと見れば、男は夢見心地でいるような目で涼を見ていた。可哀想なことに、子供の時分に涼に惹きつけられたがために呪いにかけられてしまったのだろう。母親以外の女性の裸を知ってしまった時のように、初めて性に触れたのが涼であったことは不運だとしか言えない。
 砕くことさえできなかった初恋が毒されて蝕んでいく。記憶の中にあった彼は押し付けられた欲望を簡単に飲み込んでそれ以上に扇情的に大人の姿になっていた。淡い思い出だったものがネオンの煌めきに照らされて輪郭を露わにする。今夜夢に現れるのは子供の姿か大人の姿か、まだ分からない。
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