3 / 3
3
久しぶりに一人で帰ったのは、冬休みが明けてすぐのことだった。祖父が倒れたと学校に連絡が入り、午前中に早退して病院に向かった。祖父は回復することなく、宙はそのまま数日学校を休むことになった。
「大変だったね」
担任に言われて頭を下げる。
「クラスのみんなには忌引だって伝えてあるから」
「……ありがとうございます」
礼を言うべき場面なのか分からなかったが、ひとまずそう言った。宙がどういう理由で休もうが誰も気にしないのだから、本当は事情を話してほしくなかった。
教室に行くと想像通りに同情的な視線を向けられたが、それだけだった。普段以上に重い空気を纏う宙にわざわざ話しかける人間なんていない。ただ一人を除いては。
「ソラちゃん、どうして学校休んでたの?」
机に鞄を置くと、早速隣の席から声をかけられた。作り物のように甘い声が呑気な明るさに聞こえて睨み下げる。きららは剣呑な態度を取られても、変わらぬ顔をしていた。
「忌引の意味知らないの?」
突き放すような言い方をしたが、きららは瞬きをするだけだった。棺に横たわる祖父を不思議そうに見つめる小さな従兄弟と同じ目をしていた。
周りから視線が突き刺さってくる。宙ときららのやり取りを聞いていたクラスメイトが固唾を飲んで見守っている。間に入るべきかと迷う素振りが見られた。この後何が起きるのかと全員が待っている。これ以上注目を集めたくなかった。宙は大股で教室を出ていく。廊下にいた生徒はホームルームに備えて教室に戻っていくが、逆らうようにして進んでいった。
階段を上りきり、屋上扉の前にある踊り場にしゃがみ込む。屋上は入学当時から鍵がかかっていて生徒が入れないようになっていた。ホームルームの鐘が鳴る。この場所にはどの教室の声も聞こえてこなかった。床の冷たさが足元から染みてきた。階段を駆け上がったせいで息が切れていた。
「ソラちゃん」
突然声をかけられて顔を上げた。いつの間に上がってきたのか、目の前にはきららが立っていた。
「ホームルーム始まっちゃったよ」
宙は泣き出しそうな顔をしていただろうに、きららはそう言うだけだった。宙は動くつもりはないと示すように膝を抱えて小さくなる。きららがただ隣に立っているのが気配で分かった。
「……おじいちゃんが」
話そうとすると、胸に空いたままの穴に冷たい風が吹いていくのを感じた。体中が重たくなって、沈んでしまいそうになる。辛い言葉をとても口に出せなかった。震えた声が出る。
「おじいちゃんが、宇宙に行っちゃった」
祖父はあれからますます宇宙人になっていった。言葉が通じなくなり、ついに遠い場所へと行ってしまった。
膝を掴む手に力を込めて、喉がぐっとせり上がるのを堪える。息を止めると目だけでなく顔全体が熱くなった。
「ソラちゃんも宇宙に行きたい?」
きららが予想外なことを言ったので、驚いて出かけていた涙が引いていった。さすがに何があったのか分からないわけではないだろう。従兄弟と違って死が理解できない子供ではないのだから。
顔を上げると、きららは微笑んでいた。人形のように綺麗な笑顔だった。足元の冷えが一気に肩まで上ってくる。目の前に立っている美しい少女が何か得体の知れない生き物のような気がしていた。理解できないものを前にした時の恐怖に襲われて体が竦む。上手く声を出すことができない。瞬きすらできずに瞳を見開いて固まっていた。
不意に鐘が鳴る。ホームルームが終わる時間だった。鐘の音が宙の硬直を解いた。慌てて立ち上がり、宙はきららの横を走り抜けると階段を降りていった。足を踏み外さないよう、必死で段を踏んでいく。教室に駆け込むと、あれほど居心地が悪いと思っていた空間なのに安堵でやっと呼吸ができた。
その日はきららと一言も話すことなく下校を迎えた。
校門を通り、坂道を下る。そのまま真っ直ぐ行けば家に帰れるのに気付けば横の道に逸れていた。足が通い慣れた祖父の家に向かっていた。もう祖父はいないのに、骨董品を見ていればいつものように声をかけられる気がしてしまう。馴染んだ埃とカビの匂いも薄暗くて狭い空間もなんだか恋しくなって、足を早めた。
ガラス戸は開いていた。まさかと胸が逸る。そんなわけがないと思いながらもゆっくりと入っていった。
「おじいちゃん?」
声をかけると、ガチャンと荒い音がした。続け様に物がぶつかるような音がして、奥から話し声が聞こえてくる。知らない誰かがいるのかと身構えたが、すぐにそれが両親の声だと気がついた。
鞄を前に抱えようとしてやめる。通路が狭くなくなっている。入り口の近くもすっきりとしていて広く感じられた。所狭しと並んでいた物が全てなくなっていた。
「こんなガラクタどうするつもりだったのかしら」
うんざりしたような母の声が聞こえてくる。母は葬儀の準備をしている時も店を早くどうにかしたいと言っていた。あの物音は片付けを進めているのだろう。母が今いる場所は奥の一角。フランス人形。宙は鞄を投げ出し、店の中に飛び込んだ。
「お母さん!」
「制服汚れるよ」
母はマスクと軍手をして、大きなビニール袋を持っていた。袋の中にはあらゆる物が無造作に詰め込まれている。
宙は棚の前に呆然と立ち尽くした。壁一面に並んでいた人形はひとつも残っていなかった。散乱しているビニール袋に飛びついて口を開けたが、人形らしきものはどこにも見当たらない。
「どうした」
宙の剣幕に怯んだように父が声をかける。開いたビニール袋からぼろぼろと物が転げ落ちて床に散らばっていった。
「ちょっと、せっかくまとめたのに!」
母が驚いて声を上げる。宙は三つ目のビニール袋を引きちぎったところで顔を上げ、母に詰め寄った。
「人形は? フランス人形、あったでしょ!」
何年も夢中でフランス人形を見つめる宙に、祖父が言ってくれたのだ。いつか宙に贈ってくれると。宙は嬉しくて仕方がなかったが、フランス人形を持ち帰ろうとはしなかった。祖父の店でたくさんの人形に囲まれているフランス人形が一番魅力的だったから。
「人形? ああ、気味悪いからこの辺のやつは最初に捨てたわよ。昨日ゴミに出しちゃった」
母は散らばった物をかき集めてうんざりと言った。信じられない思いで立ち尽くす。あの綺麗な人形はもうどこにもない。数日前までここにいたあの人形は祖父と一緒に遠くへ行ってしまった。
叫び声を上げたのかもしれない。頭が真っ白になるほどの怒りと悲しみで、自分がどうなっているのか分からなかった。空っぽの棚に肩をぶつけながら外に飛び出した。無我夢中で走り出す。後から後から涙が流れ出し視界が滲む。息が上がって喉から血の味がしていた。嗚咽のせいで余計に息苦しくて、いつの間にか歩くのと変わらない速度になっていた。
「ソラちゃん」
気付けば隣にきららがいた。何も考えずに走り出したから家の方角とは違うはずなのに、帰り道に必ず会うようにそこにいる。涙を拭って見つめた彼女は、もう一度見たかったあの人形にそっくりだった。
「……行きたい」
宙は濡れた目元を擦る。目の奥が熱くてたまらない。また溢れ出した涙を袖で擦り落とす。
「宇宙に行きたい」
揺れる涙声で伝えると、顔を覆ってしゃくり上げた。どこでもいいからこんなところから逃げ出してしまいたかった。
「本当?」
きららが興奮した声を出した。俯いたまま何度も頷く。もう手の平で濡れていないところはなかった。
「今夜部屋の窓を開けておいて。迎えに行くから」
甘いお菓子の声が言う。宙はもう一度頷く。ようやく呼吸を落ち着けて顔を上げると、きららはいなくなっていた。宙は知らない景色の中で一人ぽつんと立っていた。
家まで帰る間に、涙はすっかり止まっていた。まだ誰も帰ってきていない。二階の自室に上がると制服のままベッドに横たわる。失った物を思うと辛く胸が締め付けられたが、怒る体力はもう残っていなかった。感情を剥き出しにしてくたびれていた。悲しさに潰されそうになって体を丸める。胸の内側に黒いもやが広がって気持ちを落ち込ませた。
ずっと眺めていたフランス人形は頭の中で思い描ける。もう見ることのできない人形をできるだけ細かく思い出そうとする。金色の巻毛、青い瞳。長いまつ毛。お姫様のような服。やがてフランス人形はガラスケースを飛び出してきた。金の髪が揺れる。柔らかな白い頬を薔薇色に染めて微笑む。いつしかフランス人形はきららになっていた。制服姿で寄ってきて絵画のように美しく笑った。
「ソラちゃん」
呼ばれた気がしてハッと意識を覚醒させる。いつの間にか眠ってしまったようだ。時計を見るともう日付が変わろうとしていた。
夢で見たきららは目が覚めても記憶に残っていた。迎えに行くと言われたことを思い出す。どんな顔をしていたのか見ていなかったが、きららなりに励ましてくれたのかもしれない。ベッドの上で伸び上がって、窓の鍵を開けた。夜風が吹き込めば冷えることは分かっていたが、きららに言われた通りにしようとしていた。本当に迎えに来るなんて思ってはいない。外の空気を吸えば少しでも気分が晴れるかもしれない。そんな気持ちで窓を開けた。
光が差し込んでくる。時計を読み間違えて昼間になっていたのかと思った。しかし太陽の明るさではない。街灯の光とも違う。目を開けていられないほどの眩い光が目を焼いた。
咄嗟に閉じた瞼を恐る恐る開いていく。眩しさに慣れてきても完全に開き切ることはできない。窓の外は光り輝く銀色で埋まっていた。何か巨大な物体があるようだ。宙の部屋からは向かいの家しか見えないはずだった。
「ソラちゃん!」
今度は夢ではなく本物のきららの声だった。光から飛び出すようにしてきららが現れる。銀の輝きを纏った彼女の金髪はあまりに美しかった。青色の瞳が銀河のように輝いている。きららも宙と同じく制服のままだった。夜風がスカートを靡かせる。きららはどこに立っているのか、二階の窓を覗き込んでいた。
「迎えに来たよ」
手が差し出される。その時やっときららの言葉が嘘ではなかったのだと分かった。
「私、初めて会った時からソラちゃんに来て欲しいと思ってたの」
きららは瞳を細めて顔いっぱいに屈託のない笑顔を浮かべた。形のいい白い歯が見える。子供のように無邪気で心の底から嬉しそうな笑顔は、あのフランス人形とは少しも似ていなかった。
宙はそっと手を伸ばした。遠慮がちにきららの手に触れる。肌は氷のように冷たく、体温が感じられなかった。きららの指はためらうように動き、そっと宙の手を包む。ようやく手を繋いだ形になるとぎゅっと力が込められた。
「ずっと一緒に行こうね」
きららはそう言って宙を窓の外へと連れて行った。カーテンが夜風に揺れる。辺り一面を照らしていた銀の光は静かに消えた。ガラスケースから出ていったお姫様はもう戻って来ない。
「大変だったね」
担任に言われて頭を下げる。
「クラスのみんなには忌引だって伝えてあるから」
「……ありがとうございます」
礼を言うべき場面なのか分からなかったが、ひとまずそう言った。宙がどういう理由で休もうが誰も気にしないのだから、本当は事情を話してほしくなかった。
教室に行くと想像通りに同情的な視線を向けられたが、それだけだった。普段以上に重い空気を纏う宙にわざわざ話しかける人間なんていない。ただ一人を除いては。
「ソラちゃん、どうして学校休んでたの?」
机に鞄を置くと、早速隣の席から声をかけられた。作り物のように甘い声が呑気な明るさに聞こえて睨み下げる。きららは剣呑な態度を取られても、変わらぬ顔をしていた。
「忌引の意味知らないの?」
突き放すような言い方をしたが、きららは瞬きをするだけだった。棺に横たわる祖父を不思議そうに見つめる小さな従兄弟と同じ目をしていた。
周りから視線が突き刺さってくる。宙ときららのやり取りを聞いていたクラスメイトが固唾を飲んで見守っている。間に入るべきかと迷う素振りが見られた。この後何が起きるのかと全員が待っている。これ以上注目を集めたくなかった。宙は大股で教室を出ていく。廊下にいた生徒はホームルームに備えて教室に戻っていくが、逆らうようにして進んでいった。
階段を上りきり、屋上扉の前にある踊り場にしゃがみ込む。屋上は入学当時から鍵がかかっていて生徒が入れないようになっていた。ホームルームの鐘が鳴る。この場所にはどの教室の声も聞こえてこなかった。床の冷たさが足元から染みてきた。階段を駆け上がったせいで息が切れていた。
「ソラちゃん」
突然声をかけられて顔を上げた。いつの間に上がってきたのか、目の前にはきららが立っていた。
「ホームルーム始まっちゃったよ」
宙は泣き出しそうな顔をしていただろうに、きららはそう言うだけだった。宙は動くつもりはないと示すように膝を抱えて小さくなる。きららがただ隣に立っているのが気配で分かった。
「……おじいちゃんが」
話そうとすると、胸に空いたままの穴に冷たい風が吹いていくのを感じた。体中が重たくなって、沈んでしまいそうになる。辛い言葉をとても口に出せなかった。震えた声が出る。
「おじいちゃんが、宇宙に行っちゃった」
祖父はあれからますます宇宙人になっていった。言葉が通じなくなり、ついに遠い場所へと行ってしまった。
膝を掴む手に力を込めて、喉がぐっとせり上がるのを堪える。息を止めると目だけでなく顔全体が熱くなった。
「ソラちゃんも宇宙に行きたい?」
きららが予想外なことを言ったので、驚いて出かけていた涙が引いていった。さすがに何があったのか分からないわけではないだろう。従兄弟と違って死が理解できない子供ではないのだから。
顔を上げると、きららは微笑んでいた。人形のように綺麗な笑顔だった。足元の冷えが一気に肩まで上ってくる。目の前に立っている美しい少女が何か得体の知れない生き物のような気がしていた。理解できないものを前にした時の恐怖に襲われて体が竦む。上手く声を出すことができない。瞬きすらできずに瞳を見開いて固まっていた。
不意に鐘が鳴る。ホームルームが終わる時間だった。鐘の音が宙の硬直を解いた。慌てて立ち上がり、宙はきららの横を走り抜けると階段を降りていった。足を踏み外さないよう、必死で段を踏んでいく。教室に駆け込むと、あれほど居心地が悪いと思っていた空間なのに安堵でやっと呼吸ができた。
その日はきららと一言も話すことなく下校を迎えた。
校門を通り、坂道を下る。そのまま真っ直ぐ行けば家に帰れるのに気付けば横の道に逸れていた。足が通い慣れた祖父の家に向かっていた。もう祖父はいないのに、骨董品を見ていればいつものように声をかけられる気がしてしまう。馴染んだ埃とカビの匂いも薄暗くて狭い空間もなんだか恋しくなって、足を早めた。
ガラス戸は開いていた。まさかと胸が逸る。そんなわけがないと思いながらもゆっくりと入っていった。
「おじいちゃん?」
声をかけると、ガチャンと荒い音がした。続け様に物がぶつかるような音がして、奥から話し声が聞こえてくる。知らない誰かがいるのかと身構えたが、すぐにそれが両親の声だと気がついた。
鞄を前に抱えようとしてやめる。通路が狭くなくなっている。入り口の近くもすっきりとしていて広く感じられた。所狭しと並んでいた物が全てなくなっていた。
「こんなガラクタどうするつもりだったのかしら」
うんざりしたような母の声が聞こえてくる。母は葬儀の準備をしている時も店を早くどうにかしたいと言っていた。あの物音は片付けを進めているのだろう。母が今いる場所は奥の一角。フランス人形。宙は鞄を投げ出し、店の中に飛び込んだ。
「お母さん!」
「制服汚れるよ」
母はマスクと軍手をして、大きなビニール袋を持っていた。袋の中にはあらゆる物が無造作に詰め込まれている。
宙は棚の前に呆然と立ち尽くした。壁一面に並んでいた人形はひとつも残っていなかった。散乱しているビニール袋に飛びついて口を開けたが、人形らしきものはどこにも見当たらない。
「どうした」
宙の剣幕に怯んだように父が声をかける。開いたビニール袋からぼろぼろと物が転げ落ちて床に散らばっていった。
「ちょっと、せっかくまとめたのに!」
母が驚いて声を上げる。宙は三つ目のビニール袋を引きちぎったところで顔を上げ、母に詰め寄った。
「人形は? フランス人形、あったでしょ!」
何年も夢中でフランス人形を見つめる宙に、祖父が言ってくれたのだ。いつか宙に贈ってくれると。宙は嬉しくて仕方がなかったが、フランス人形を持ち帰ろうとはしなかった。祖父の店でたくさんの人形に囲まれているフランス人形が一番魅力的だったから。
「人形? ああ、気味悪いからこの辺のやつは最初に捨てたわよ。昨日ゴミに出しちゃった」
母は散らばった物をかき集めてうんざりと言った。信じられない思いで立ち尽くす。あの綺麗な人形はもうどこにもない。数日前までここにいたあの人形は祖父と一緒に遠くへ行ってしまった。
叫び声を上げたのかもしれない。頭が真っ白になるほどの怒りと悲しみで、自分がどうなっているのか分からなかった。空っぽの棚に肩をぶつけながら外に飛び出した。無我夢中で走り出す。後から後から涙が流れ出し視界が滲む。息が上がって喉から血の味がしていた。嗚咽のせいで余計に息苦しくて、いつの間にか歩くのと変わらない速度になっていた。
「ソラちゃん」
気付けば隣にきららがいた。何も考えずに走り出したから家の方角とは違うはずなのに、帰り道に必ず会うようにそこにいる。涙を拭って見つめた彼女は、もう一度見たかったあの人形にそっくりだった。
「……行きたい」
宙は濡れた目元を擦る。目の奥が熱くてたまらない。また溢れ出した涙を袖で擦り落とす。
「宇宙に行きたい」
揺れる涙声で伝えると、顔を覆ってしゃくり上げた。どこでもいいからこんなところから逃げ出してしまいたかった。
「本当?」
きららが興奮した声を出した。俯いたまま何度も頷く。もう手の平で濡れていないところはなかった。
「今夜部屋の窓を開けておいて。迎えに行くから」
甘いお菓子の声が言う。宙はもう一度頷く。ようやく呼吸を落ち着けて顔を上げると、きららはいなくなっていた。宙は知らない景色の中で一人ぽつんと立っていた。
家まで帰る間に、涙はすっかり止まっていた。まだ誰も帰ってきていない。二階の自室に上がると制服のままベッドに横たわる。失った物を思うと辛く胸が締め付けられたが、怒る体力はもう残っていなかった。感情を剥き出しにしてくたびれていた。悲しさに潰されそうになって体を丸める。胸の内側に黒いもやが広がって気持ちを落ち込ませた。
ずっと眺めていたフランス人形は頭の中で思い描ける。もう見ることのできない人形をできるだけ細かく思い出そうとする。金色の巻毛、青い瞳。長いまつ毛。お姫様のような服。やがてフランス人形はガラスケースを飛び出してきた。金の髪が揺れる。柔らかな白い頬を薔薇色に染めて微笑む。いつしかフランス人形はきららになっていた。制服姿で寄ってきて絵画のように美しく笑った。
「ソラちゃん」
呼ばれた気がしてハッと意識を覚醒させる。いつの間にか眠ってしまったようだ。時計を見るともう日付が変わろうとしていた。
夢で見たきららは目が覚めても記憶に残っていた。迎えに行くと言われたことを思い出す。どんな顔をしていたのか見ていなかったが、きららなりに励ましてくれたのかもしれない。ベッドの上で伸び上がって、窓の鍵を開けた。夜風が吹き込めば冷えることは分かっていたが、きららに言われた通りにしようとしていた。本当に迎えに来るなんて思ってはいない。外の空気を吸えば少しでも気分が晴れるかもしれない。そんな気持ちで窓を開けた。
光が差し込んでくる。時計を読み間違えて昼間になっていたのかと思った。しかし太陽の明るさではない。街灯の光とも違う。目を開けていられないほどの眩い光が目を焼いた。
咄嗟に閉じた瞼を恐る恐る開いていく。眩しさに慣れてきても完全に開き切ることはできない。窓の外は光り輝く銀色で埋まっていた。何か巨大な物体があるようだ。宙の部屋からは向かいの家しか見えないはずだった。
「ソラちゃん!」
今度は夢ではなく本物のきららの声だった。光から飛び出すようにしてきららが現れる。銀の輝きを纏った彼女の金髪はあまりに美しかった。青色の瞳が銀河のように輝いている。きららも宙と同じく制服のままだった。夜風がスカートを靡かせる。きららはどこに立っているのか、二階の窓を覗き込んでいた。
「迎えに来たよ」
手が差し出される。その時やっときららの言葉が嘘ではなかったのだと分かった。
「私、初めて会った時からソラちゃんに来て欲しいと思ってたの」
きららは瞳を細めて顔いっぱいに屈託のない笑顔を浮かべた。形のいい白い歯が見える。子供のように無邪気で心の底から嬉しそうな笑顔は、あのフランス人形とは少しも似ていなかった。
宙はそっと手を伸ばした。遠慮がちにきららの手に触れる。肌は氷のように冷たく、体温が感じられなかった。きららの指はためらうように動き、そっと宙の手を包む。ようやく手を繋いだ形になるとぎゅっと力が込められた。
「ずっと一緒に行こうね」
きららはそう言って宙を窓の外へと連れて行った。カーテンが夜風に揺れる。辺り一面を照らしていた銀の光は静かに消えた。ガラスケースから出ていったお姫様はもう戻って来ない。
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】【ママ友百合】ラテアートにハートをのせて
千鶴田ルト
恋愛
専業主婦の優菜は、夫・拓馬と娘の結と共に平穏な暮らしを送っていた。
そんな彼女の前に現れた、カフェ店員の千春。
夫婦仲は良好。別れる理由なんてどこにもない。
それでも――千春との時間は、日常の中でそっと息を潜め、やがて大きな存在へと変わっていく。
ちょっと変わったママ友不倫百合ほのぼのガールズラブ物語です。
ハッピーエンドになるのでご安心ください。
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
清掃員と僕の密やかな情状
MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。
青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。
肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。
44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。