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序章 神への進化

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―我々人間は神になれる―

そのことを地上に住んでいた頃からずっと信じてきた。だが、待てど暮らせどいつまで経っても「彼」から応答の返事はない。実に千年もの歳月を経過してなお、我々人類に恩恵を授けないというのであれば、残る選択肢はもう一つしかない。

それは………。

「いよいよ反乱を起こすぞ」

大きな槍を片手に、仲間たちに低い声で語りかけたレイヴォスは、ここからさほど遠くない丘の頂上にある石碑で構成されたストーンサークルを見上げた。無言で首肯した同志たちのやつれた顔もその地点を見上げる。その表情には何が何でも神としての証明を成すある「力」を根こそぎ奪い取ってやるというよこしまな邪念が表れていた。この歳月で生み出されたものは、いつの時代も争いと動乱が蹂躙する、権力者たちの興亡の歴史、ただそれだけだった。その千年という途轍もなく長い歳月を経過してなお、思いとどまることができたのはひとえにたった一人の王妃が持つやすらぎの源となる石が存在してくれたからだった。だが、それももう破壊と怒りの感情に呑まれた人々の邪念が壊してしまった今は、その回想すらも無意味なこと。最も、神の力を独占した一時的な権力者さえも更なる強大な力の恩恵を受けようとしたことが、人々の不満と激昂を招いた結果としての消滅だが。
………とにかく、そんな過去のことはもう、どうでもいいのだ。俺たちはあの彼らを滅ぼし、永遠の富と地位を手に入れる、ただ、それだけのことだ。

「殺めを、始める」

レイヴォスの背後には、あらゆる武器を構えた武装集団が険しい表情で号令出されるのを今か今かと首を長くして待っている。
もういい頃合いだろう。そろそろ彼が、来る。
………再三にわたって我々の世界を苦しめてきた奴らに、とっておきの苦しみと無知からくる絶望感を味わい尽くさせてやる。そのために俺は、俺たちは、今日というこの日を待ちわびてきた。
不意に、どんよりと曇りがかった灰色の天空から一筋の光が地上に零れ落ち、丘に降り注いだ。その光は段々と強さを増して同心円状に広がっていく。そして、雲の隙間からとりわけ大きな光の塊がうっすらと瞬いた。
………ついに来た。もう、今までに何度となく目にしてきたこの光景に、いちいち救いだの贖罪だの感じる余地すらもない。彼はそれだけのことをしたのだから。
手にした槍をぐっと強く握り締め、待ちに待った号令を発する。

「野郎ども………行くぞ!!!」

「ウオオオ!!!」

どこまでも轟く野蛮な怒号が雄叫びとなって空気を震わす。丘に突進していくその反乱者たちの様は、世界の歴史が書き換えられる時に表れる、迷走と悲しみの底から変容した、ヒトという存在の荒れ狂った狂気そのものだった。

一方、現れた光は極度にその輝きを増した後、再び瞬いた。その次の瞬間にはヒトの姿をした存在が姿を現した。大きな四つの翼を持っている。全身をローブのような絹で覆い、袖から露わになった腕もまた光を発していた。その両手からはまるで太陽のような光が放たれている。そして、長髪の間から見えるのは穏やかな表情をした高貴な顔であり、目を瞑りながら地上に降り立つのを期待しているかのような面持ちの、年半ばの男性だった。
レイヴォスはその神々しいと感じていたはずの光景の中で、どこか一つ、違うことに気がつかなかった。
………普段なら一つしかない、片手にある光がもう片方の手にも握られていることを。
その存在が丘に降り立った時には、彼らはもう丘の中腹以上にまで上り詰めていた。
絶えず怒号を鳴り響かせるこの集団が目指すところは、彼の存在そのものではなく、彼の手の中にある光だった。
地上に到着しても相変わらず目を瞑ったままで、まるで両手にある光に慈しみを込めて愛念を送り続けているようにも思えた。
ついに、頂上にまで上り詰めたレイヴォスは、何の罪もないこの男性に罵倒を浴びせて襲いかかった。

「今まで俺たちに与えてきた《愛の印》なぞは全て嘘だった!!!ならば貴様を殺すまでだ!!!」

そう叫ぶと槍の後部を大きく振り回して、彼の腹部に直撃させて体ごとなぎ倒した。
男性の髪が無様に大地に投げ出され、両手にあった光がころころと転がる。
完全に無抵抗な彼が未だに目を瞑っていることが若干不可思議に思えたが、それでも今まで決断してきたその意志を貫徹するべく、槍を大きく振りかざした。
一瞬の沈黙があった。
そして、勢いよく突いた。
その瞬間、突如として彼が目を開いた。
槍の矛先が彼の胸部に突き刺さる直前にレイヴォスと視線が合った。
瞳の奥に映る、恐怖すらも宿していない、ただただ一心に慈愛の眼差しを向けられた瞬間に、鈍い音と共にレイヴォスの手に生々しい感触がした。それと同時に、いくつもの赤い雫をその顔に受ける。
まるで彼の行動をすでに予見していたかのように、全てを見通したような表情で向けられたその碧色の瞳には、何の汚れた感情や負の面持ちを呈していない、実に純粋で生粋の慈愛が見て取れた。真っ向からその瞳の一番奥底までを直視したことで、それまでにあった憎しみやおぞましい感情が一気に消滅してしまった。
代わりに突如として凄まじいある感情が彼の心を一気に蹂躙していく。

―人を殺した―

恐ろしい速度でそれをしたことへの恐怖が彼の全身を蝕む。
すると、頭の中ではっきりと声が聞こえた。

―大丈夫、どうか怖れないで―

驚愕のあまりに思わず、槍を握った両手を放してしまう。
それを見届けた男性は再びゆっくりと目を瞑った。
それには気づかない周りの同志たちは続けざまに次々と男性に鉈や鎌などの武器を振り下ろしていく。彼らにはレイヴォスに起きたことを知らないようだった。構わず、ズタズタに彼の胴体を傷つけていく。あたりの光景が恐ろしい色でいっぱいになった。
レイヴォスは目を瞑り、目の前で起きている出来事の方角から頭を激しく背けた。
さっきまで募りに募っていたあの憎しみが嘘のように完璧に消え去っていた。あるのは、ただただ自分がしたことに対する罪、そう、そこから来る現実を逃避したいほどの圧倒的な恐怖心だった。
仲間たちはそれにも気付かず、一方的に自分たちの憎しみを彼にぶつけている。
その音があまりにも恐ろしく感じられ、思わず口に出す。

「やめろ………」

恐怖がどんどん容赦なく襲いかかってくるのを振り払おうと、巨大な声をさらした。

「やめろおおおおおっっっ………!!!!!」

もはや手に負えない恐怖が自身の体を食い尽くそうとしていた。両手で側頭部を強く抑え、激しく頭を振り、魂が引き裂かれていく瞬間その一つ一つに邪悪な意志が自分の心を木端微塵に破壊しようとしているような、強大で暗い真っ黒な感情が悪魔のごとく彼を逆に殺そうとしているようで、もう意識が遠のきそうだった。
そこで初めて異変に気付いた部下たちは何事かと背後を振り返った。そこで体を著しく震わせながら怯えに怯えきったリーダーの様子を見た。

「………隊長?」

仲間の一人がかけた声に気づけないほどの錯乱状態に陥った彼は、膝をついた。もう、彼には精神を完膚なきまでに破壊しつくされ、気絶するのを待つだけだった。
実際に意識がもうろうとしており、己の身を自ら滅したい思いに全身が強く、激しく、焼き尽くされそうだった。
そんな時に、声がまた聞こえた。今度は非常に厳格な声音で、重みのある声だった。

「………汝の思いは、真に感じていることか?」

ずきずきと強い痛みを残すほどの大きな声が全身を貫いた。それだけははっきりと分かった。

「もう、やめてください………!!!!!俺を………俺を………殺してくれっっっ!!!!!………お願いだ………もう………俺は………」

「よかろう。………もし、そう望むのなら、私がそれを叶えてあげよう」

―………俺を殺してくれる?―

残り僅かな意識の中で聞こえたその声の意味をおぼろげながらに察し、一縷の望みが彼の胸の中に宿った。

「………いや、殺しはせぬ………それ以上の痛みを欲したいと望むのであれば、すでにその道は用意してある。今回の"彼"は、汝にその道を歩ませるべく送った者。また、汝らに千年もの悠久の時を過ごさせたのも、この理由あってのこと。今さら後悔などせぬ」

レイヴォスは全身の力を振り絞って心の中で望んだ。

―殺される以上に報われる痛みがあるのであれば、しかと引き受けます………だから、どうか………どうか………!!!!!―

「いいだろう………その望みとは、今まで汝が懇願してきたものだ………これからは、お前は………」

一拍置いて、答える。

「神だ………今日からお前に神の称号を与える………………ただし、邪神としての神だ………」

何を言われたのか理解できないような感覚ではあったが、頭の脳裏の一番奥深くでそれと理解できたような節があった。どんな恩恵を受けようと自分の存在意義が幸運にももう一度正されるのであれば、それこそが本当の望み。もう、何も望まない。望むのは、贖罪。ただ、それだけだ。

少しばかりほっとしたような安堵感が心の遥か奥底の底なし沼から湧き上がって来たような感覚を受け、彼は目を開けようとした。それと同時に"彼"が持っていた二つの光がひとりでに浮遊し、レイヴォスのもとへ飛来してくる。
そして、片方はレイヴォスの胸部に、もう片方はその額にすっと入り込んだ。
先ほどの声がもっと明瞭で、もっと大きな音響で脳内に響いた。

「ある文明がお前を滅ぼそうとするだろう。その時こそこの二つの光を使うのだ………いずれ二人の若者が汝のもとへ訪ねに来る。その時が来たら、この二つの光と、その名を彼らに与えよ………アダムとイブを」

怒りから恐怖、そして、慈愛へとそれまでの幾多の感情が一回転して元に戻るような感覚を受けたと同時に、彼の内部で著しい変化が起こっていた。背中に途轍もなく温かいものを感じ、翼が生えるのが手に取るように分かった。また、枢機卿が被るようなミトラが不意に舞い降りてきて、その白い色が彼に伝染するようにして、身の潔白を証明するような軽やかな感情が心に一気に広がっていく。だが、今まであった負の感情と上下に入れ替わるような形で、だ。闇の心と光の心を同時に持つ存在として新たに生まれ変わるのを、彼は思い知った。

「汝が"彼"の名を引き継ぐのだ………『ルシエル』としてではなく、悪魔を意味する別の名を」

そこまで声が言うと、レイヴォスの体は一気に真っ黒に包まれた。
突然、動揺する仲間たちの頭上で再び光が放たれた。だが、その光は優しい光ではなく、灼熱を思わせるような人の怒りを表現したものだった。
ゴゴオッと落雷音がしたかと思うと、一気に巨大な光の柱が丘に降り注いだ。
あり得ない轟音と地鳴りを轟かせたその柱はレイヴォス以外の全てを焼き尽くした。
声は言った。

「今日からは………お前こそが………」

届いた声が意味するものと同じ存在であることをしかと確認して、新たな「彼」は昇天した。

「ルシファーだ」
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